Prius の燃費はどうやら今年は26.3キロで終わりそう。来年は、28を目指そうとさっき決心した。
時々思うのはどうしてこうすぐに限界点を超えようと挑戦するのか、ということ。
何もそんなことにそんなに一生懸命に、という他人の目に遭遇することが多々ある。
僕もそう思う。
でもなんでだろう、その臨界点に挑戦しないではいられない。
いや、挑戦ではない。その限界点を押し広げたい、と思っているし、拡げられると信じている。
人間はいくらでも進歩できる、と。
そうしたら「アメリカ文学史」という授業の教科書で「ロマン主義」を扱っているところがあって、そういう「人間の無限の可能性を信じる単純な傾向」という箇所を読み、人生で初めて、「オレって単純なヤツなのか」と愕然とした(それまでこれほど思慮深く複雑なヤツはいないと思っていた)。
そんな意味で数年前の気との出会いは大きかった。
今では自分の良心に誓って、またはゼウスや閻魔大王や神の前でさえも、人間は空を飛ぶことができる潜在能力はある、と断言できる。
今年始めた仕事に「気」の講座がある。
まだ数ヶ月だが、第1号の小周天達成者が出た。中国の拳法などをやっていたからか、飲み込みが早く、3ヶ月かからなかった。
一方気の存在にずっと懐疑的なひともいる。
僕の場合そういうひとにその存在を証明しようとは全く思わないが、そのための骨折りをしてもいいかなと思うのは、そのひとを哀れに思うからだ。そういうひとははじめから物理ほか既存のスキームにハマっているだけなのにそれに気づいてさえいないと考えるからだ。
ただ現実的にはそういうひとが多く、取り敢えずそういうひとにも、受講生なんだから(金をとるわけだから)、少なくとも1時間目は気の存在を体験させなければ始まらないということになり、しぶしぶやる。
よくやるのはそのひとの気を抜いてまた返すこと。
抜くときは、よくドライヤーの逆みたいといわれるが、掃除機を当てられた感じを、また返すときは、その抜けた部分に何かが戻ってくるのを感じてもらう。
もちろんこれがわかる・わからないで、その受講生にどのように教えていくべきかを測る目的もある。
更に懐疑的な人の場合は、ちょっと量を多く抜く。
抜きすぎると、気持ち悪くなったり頭痛になるひともいるので気をつける。
たまに何も感じないひとももちろんいる。
そんなときは「なんかスーっとしなかった?」と訊いてみる。「別に」といってちょっと考えて「でも風が吹いていたからわからなかったんですよ」と妙に気を使った答え方をしたひともいた。僕があまりに確信をもって喋っているから哀れにみえたのかもしれない。
しかしその風がその「スーっ」なんだと思うけどね、というと、「ええっ!」と叫んで「だって窓が開いているから・・・」といったりするので、仕方ないから窓を全部閉めてもう1回やってあげると、「ああっ!」と叫びつつ退く。
ここで「いやこれは何かの間違いか錯覚だ」とごね、そのまま何をしても「錯覚」で押し通して議論がずっと平行線をたどることになるひともいる。
更にあることがわかると、教えてもらいに来てるのに、喉が痛いんですよね、と治療を求める人もいる。
治療はまた別料金なんだけどなぁと思いながらも仕方なくその喉元にビー玉ほどの気をいれてその後どんどん膨らめてやる。
大きくなると当然呼吸がしにくくなり、「く、苦しい・・・、い、息が・・・」などといいはじめるが、「もう少し耐えて、死にはしない、風邪の症状をとるだけ」と冷酷にいってみせる。
もちろん心の中では「どうですか、未知なものに会った気分は?」と問いかけている。
1度「気」を知ってもらうと彼らの言語活動が活発になる。「気」は以前も書いたように従来の言葉では未知に属すものであり、それを従来の言葉で表そうとするからとてもクリエイティブに言語活動を行わざるをえない。僕にとってもそうした表現はとても興味深いことはいうまでもない。
例えば「重たい空気」とか、「気」を表わすための、例えば「フアンフアン」といった擬音を使って描写する試みは、このブログのタイトルの「雨をかわす踊り」同様、言葉で綱渡りする、言葉の限界に挑戦するスリルがある。
頼むから自分の周りに囲いをつくらないでほしい。
自分で限界を決めないでほしい。
自分や社会はこんなものとあきらめないでほしい。
可能性はもちろんよい方向だけでなく悪しき方向にも伸びる。
だから悪しきよりいつもよい方向に伸ばすことを頭の片隅にいつもおいてほしい。
追伸:これまでの「気のもちよう」1、2、3、4、5、6、7、8、9。
時々思うのはどうしてこうすぐに限界点を超えようと挑戦するのか、ということ。
何もそんなことにそんなに一生懸命に、という他人の目に遭遇することが多々ある。
僕もそう思う。
でもなんでだろう、その臨界点に挑戦しないではいられない。
いや、挑戦ではない。その限界点を押し広げたい、と思っているし、拡げられると信じている。
人間はいくらでも進歩できる、と。
そうしたら「アメリカ文学史」という授業の教科書で「ロマン主義」を扱っているところがあって、そういう「人間の無限の可能性を信じる単純な傾向」という箇所を読み、人生で初めて、「オレって単純なヤツなのか」と愕然とした(それまでこれほど思慮深く複雑なヤツはいないと思っていた)。
そんな意味で数年前の気との出会いは大きかった。
今では自分の良心に誓って、またはゼウスや閻魔大王や神の前でさえも、人間は空を飛ぶことができる潜在能力はある、と断言できる。
今年始めた仕事に「気」の講座がある。
まだ数ヶ月だが、第1号の小周天達成者が出た。中国の拳法などをやっていたからか、飲み込みが早く、3ヶ月かからなかった。
一方気の存在にずっと懐疑的なひともいる。
僕の場合そういうひとにその存在を証明しようとは全く思わないが、そのための骨折りをしてもいいかなと思うのは、そのひとを哀れに思うからだ。そういうひとははじめから物理ほか既存のスキームにハマっているだけなのにそれに気づいてさえいないと考えるからだ。
ただ現実的にはそういうひとが多く、取り敢えずそういうひとにも、受講生なんだから(金をとるわけだから)、少なくとも1時間目は気の存在を体験させなければ始まらないということになり、しぶしぶやる。
よくやるのはそのひとの気を抜いてまた返すこと。
抜くときは、よくドライヤーの逆みたいといわれるが、掃除機を当てられた感じを、また返すときは、その抜けた部分に何かが戻ってくるのを感じてもらう。
もちろんこれがわかる・わからないで、その受講生にどのように教えていくべきかを測る目的もある。
更に懐疑的な人の場合は、ちょっと量を多く抜く。
抜きすぎると、気持ち悪くなったり頭痛になるひともいるので気をつける。
たまに何も感じないひとももちろんいる。
そんなときは「なんかスーっとしなかった?」と訊いてみる。「別に」といってちょっと考えて「でも風が吹いていたからわからなかったんですよ」と妙に気を使った答え方をしたひともいた。僕があまりに確信をもって喋っているから哀れにみえたのかもしれない。
しかしその風がその「スーっ」なんだと思うけどね、というと、「ええっ!」と叫んで「だって窓が開いているから・・・」といったりするので、仕方ないから窓を全部閉めてもう1回やってあげると、「ああっ!」と叫びつつ退く。
ここで「いやこれは何かの間違いか錯覚だ」とごね、そのまま何をしても「錯覚」で押し通して議論がずっと平行線をたどることになるひともいる。
更にあることがわかると、教えてもらいに来てるのに、喉が痛いんですよね、と治療を求める人もいる。
治療はまた別料金なんだけどなぁと思いながらも仕方なくその喉元にビー玉ほどの気をいれてその後どんどん膨らめてやる。
大きくなると当然呼吸がしにくくなり、「く、苦しい・・・、い、息が・・・」などといいはじめるが、「もう少し耐えて、死にはしない、風邪の症状をとるだけ」と冷酷にいってみせる。
もちろん心の中では「どうですか、未知なものに会った気分は?」と問いかけている。
1度「気」を知ってもらうと彼らの言語活動が活発になる。「気」は以前も書いたように従来の言葉では未知に属すものであり、それを従来の言葉で表そうとするからとてもクリエイティブに言語活動を行わざるをえない。僕にとってもそうした表現はとても興味深いことはいうまでもない。
例えば「重たい空気」とか、「気」を表わすための、例えば「フアンフアン」といった擬音を使って描写する試みは、このブログのタイトルの「雨をかわす踊り」同様、言葉で綱渡りする、言葉の限界に挑戦するスリルがある。
頼むから自分の周りに囲いをつくらないでほしい。
自分で限界を決めないでほしい。
自分や社会はこんなものとあきらめないでほしい。
可能性はもちろんよい方向だけでなく悪しき方向にも伸びる。
だから悪しきよりいつもよい方向に伸ばすことを頭の片隅にいつもおいてほしい。
追伸:これまでの「気のもちよう」1、2、3、4、5、6、7、8、9。