つい関心を持ってしまうのは、既存のカテゴリーや枠組みに収まらないもの。
そのホコロビが新しいものにつながる足がかりになるかも、と期待しているからだと思う。
その下敷きには、ハラウェイに博士論文を書かせた、トマス・クーンのメタファーとパラダイムを使った説明がある。
彼の説明によれば、我々の知覚は、あるイメージをもとにしている。
1969 年に James Livelock が地球を「有機生命体=Gaia」にみたてたことで、地下水を動脈、河川を静脈になぞらえたりするようになった。そうしていくことで、単なる名前である「地球」に連想が付着し、「地球」の理解が始まった。
この場合、「有機生命体=Gaia」が「メタファー」であり、連想の全体が「パラダイム」である。
そして「発見」は、連想の全体であるパラダイムが、実際の地球に関する事実に違うときから始まる。
したがって「メタファー」の進化が、我々の知覚の進化ということになる。
例えば、光とは何か。
18世紀のニュートンは、粒子の集合ととらえたが、「粒子」では説明がつかない事象に出くわし、19世紀初頭には、「横波」、更に20世紀初頭には、波と粒子両方の性格を示す「光子」というイメージに置き換わった。
この粒子から横波、横波から光子へというとらえ方の変化が、科学の進歩だということである。
そしてハラウェイが使った「社会主義者」は、上記考えを社会そのものの理解と改善に援用することだった。
だからHaraway びいきとしては、既存の Stereotype やLabel からこぼれ落ちる事実に興味が湧くわけである。
その点、Minorities にそうした例がみつかりやすいのは、「中心」に属する人間には、はじめから人生の選択肢があって多様で Stereotype がつけにくいが、Minorities はそうではないという事実に帰着しよう。Feminism でいえば、woman が women になる、ということだ(もちろん中心に属するひとの力が落ちるとステレオタイプがつく、アメリカ白人や東大生のように)。
さて先日、African Americans のそんな例が、NY Times に載っていた。
African Americans といえば、奴隷制度や人種差別によって恵まれないというイメージがある。実際にそうしたことを裏付ける教育上の統計もあるし、年収でも違いがあるらしい。といって以前と全く同じではないのは、「混交」に例示した通りである。
が、上記NY Times の記事によると、African Americans も自分以外の African Americans の劣等感を拭えないでいる。例えば Baby sitter を頼むにしても、金のある African Americans は、African Americans に Sitter を頼もうとしない。なぜなら彼らにきちんとした教育ができる英語力(第二外国語としてでなく母国語としてである)がないというイメージがあるからだという。
こうした発見は、別に目新しいものではなく、何度も指摘されてきたことである。白人のなかには、African Americans さえいなくなればアメリカの犯罪はなくなると述べるひともいるそうだし、African Americans も成功すれば、ビバリーヒルズに暮らしたりするなんて一昔前いわれていた。
クーンによる、革命なり進歩は、そうした事実が何かをするうえでどうしても支障になる場合に起きる。もちろん既知のものを超える新たな知覚イメージを伴ってである。
このブログは、そんな発見を求めたいと思って始めたわけだが、僕の場合は、たとえ理論上であれ、まず言葉上での統合を求めたい(ジジェクは理論こそ大事といってたね!)。
例えば人種差別をアメリカで決定的にした奴隷制度について再び考えてみたい。
アリストテレスの『政治学』に、奴隷の存在は致し方ない、と出てくる。国家を形成するのは、異なる人々だから、その間にはなんらかの指標なりによって支配関係が出来上がるから、というわけである。
ただしその支配者は、奴隷がいることによって、自らの幸福を追求するわけだから、その体制の維持を図るためのルール(=徳)が必要になる、という。
そして支配者には、支配者としての徳が、奴隷を含めたあらゆる階層にいるひとよりも多く必要とされることで、その体制維持への貢献がなされなければならない、と。
これが社会構成員全員に分け持たれている状態は、大同に近い。
しかし分け持たれない場合には、仕方ない二次策として「礼儀」を重んじることにするというのが『礼記』。「礼」は、僕流にいわせてもらうと、「貸し借り」をならすことであり、儒教にも繋がっていく。
それでうまく行かない場合は、次点の策として法治主義になる。そしてアメリカの奴隷制度は法制化かから始まっている。所詮三番煎じによる秩序だということである。
問題は、奴隷制度の是非ではなく、他者との関係のあり方であり、僕は言葉(メタファー)による統合を探したい。木田さんによるハイデガー理解では、これを一元論への回帰としているが、僕も同意見。
人種差別が「区別」ではなく「差別」であるのは、人種という区分けがすでに存在することだということ。
それではみなさんよいお年を。
追伸:今日のお供は、久保田千寿。先日亡くなった師が好きだったやつで、僕も実は学生の頃から久保田会入ってます。
そのホコロビが新しいものにつながる足がかりになるかも、と期待しているからだと思う。
その下敷きには、ハラウェイに博士論文を書かせた、トマス・クーンのメタファーとパラダイムを使った説明がある。
彼の説明によれば、我々の知覚は、あるイメージをもとにしている。
1969 年に James Livelock が地球を「有機生命体=Gaia」にみたてたことで、地下水を動脈、河川を静脈になぞらえたりするようになった。そうしていくことで、単なる名前である「地球」に連想が付着し、「地球」の理解が始まった。
この場合、「有機生命体=Gaia」が「メタファー」であり、連想の全体が「パラダイム」である。
そして「発見」は、連想の全体であるパラダイムが、実際の地球に関する事実に違うときから始まる。
したがって「メタファー」の進化が、我々の知覚の進化ということになる。
例えば、光とは何か。
18世紀のニュートンは、粒子の集合ととらえたが、「粒子」では説明がつかない事象に出くわし、19世紀初頭には、「横波」、更に20世紀初頭には、波と粒子両方の性格を示す「光子」というイメージに置き換わった。
この粒子から横波、横波から光子へというとらえ方の変化が、科学の進歩だということである。
そしてハラウェイが使った「社会主義者」は、上記考えを社会そのものの理解と改善に援用することだった。
だからHaraway びいきとしては、既存の Stereotype やLabel からこぼれ落ちる事実に興味が湧くわけである。
その点、Minorities にそうした例がみつかりやすいのは、「中心」に属する人間には、はじめから人生の選択肢があって多様で Stereotype がつけにくいが、Minorities はそうではないという事実に帰着しよう。Feminism でいえば、woman が women になる、ということだ(もちろん中心に属するひとの力が落ちるとステレオタイプがつく、アメリカ白人や東大生のように)。
さて先日、African Americans のそんな例が、NY Times に載っていた。
African Americans といえば、奴隷制度や人種差別によって恵まれないというイメージがある。実際にそうしたことを裏付ける教育上の統計もあるし、年収でも違いがあるらしい。といって以前と全く同じではないのは、「混交」に例示した通りである。
が、上記NY Times の記事によると、African Americans も自分以外の African Americans の劣等感を拭えないでいる。例えば Baby sitter を頼むにしても、金のある African Americans は、African Americans に Sitter を頼もうとしない。なぜなら彼らにきちんとした教育ができる英語力(第二外国語としてでなく母国語としてである)がないというイメージがあるからだという。
こうした発見は、別に目新しいものではなく、何度も指摘されてきたことである。白人のなかには、African Americans さえいなくなればアメリカの犯罪はなくなると述べるひともいるそうだし、African Americans も成功すれば、ビバリーヒルズに暮らしたりするなんて一昔前いわれていた。
クーンによる、革命なり進歩は、そうした事実が何かをするうえでどうしても支障になる場合に起きる。もちろん既知のものを超える新たな知覚イメージを伴ってである。
このブログは、そんな発見を求めたいと思って始めたわけだが、僕の場合は、たとえ理論上であれ、まず言葉上での統合を求めたい(ジジェクは理論こそ大事といってたね!)。
例えば人種差別をアメリカで決定的にした奴隷制度について再び考えてみたい。
アリストテレスの『政治学』に、奴隷の存在は致し方ない、と出てくる。国家を形成するのは、異なる人々だから、その間にはなんらかの指標なりによって支配関係が出来上がるから、というわけである。
ただしその支配者は、奴隷がいることによって、自らの幸福を追求するわけだから、その体制の維持を図るためのルール(=徳)が必要になる、という。
そして支配者には、支配者としての徳が、奴隷を含めたあらゆる階層にいるひとよりも多く必要とされることで、その体制維持への貢献がなされなければならない、と。
これが社会構成員全員に分け持たれている状態は、大同に近い。
しかし分け持たれない場合には、仕方ない二次策として「礼儀」を重んじることにするというのが『礼記』。「礼」は、僕流にいわせてもらうと、「貸し借り」をならすことであり、儒教にも繋がっていく。
それでうまく行かない場合は、次点の策として法治主義になる。そしてアメリカの奴隷制度は法制化かから始まっている。所詮三番煎じによる秩序だということである。
問題は、奴隷制度の是非ではなく、他者との関係のあり方であり、僕は言葉(メタファー)による統合を探したい。木田さんによるハイデガー理解では、これを一元論への回帰としているが、僕も同意見。
人種差別が「区別」ではなく「差別」であるのは、人種という区分けがすでに存在することだということ。
それではみなさんよいお年を。
追伸:今日のお供は、久保田千寿。先日亡くなった師が好きだったやつで、僕も実は学生の頃から久保田会入ってます。