娘が断乳してから5日経ち、なんとか無事終わったらしい。
終わってみれば、それまでに聞いた経験談よりはるかに平穏に、というよりほとんど問題がなく終わった。
初日の夜半に禁断症状の如きひどい発作的泣き方をしたが、それだけで済んだ。
むしろスンナリ行き過ぎたことが不思議だった。
なぜ娘はこんなにも禁欲的に自らの意思で断乳を敢行したのか。
もちろんそれまでに忍耐や禁欲など教えたことはなかった。
もちろん妻は相変わらず「やっぱり私の教育の成果ね」と喜んでいるが、もとより娘がしたいことをできるだけ実現させるように心がけてきたのだから、わがままにはなっても禁欲的になるはずがない。
無理矢理理由を探せば、断乳によって妻の気質が乳を通して注入されなくなったために今まで抑制されてきた僕の遺伝子が働き始めたことになるだろうか(これを聞いた妻は怒ったり突っ込むどころか「なるほどね」と妙に感心していた(汗)。
さて本当のことをいえば、僕としては娘が生まれたときからずっと心がけていたことがあって、今回もそれが効いたと実は考えたいのである。
赤ん坊だからとか下にみずに、誠実に向き合う、その誠実さ加減では誰に劣ってもいけない、と。
ドナルド・キーンさんだったかが、幕末から世界と対決した頃の日本人が、日本が外国に誇れると思ったことはその誠実さだと述べていたが、僕もそうだったらしい。
禅ほか日本文化にみられる様式において、対象と向き合うことほど重きを置いているものはないと思っている。
ちなみにアメリカに留学したとき、アメリカ人の不誠実さに驚いた。
清沢の暗黒日記的側面より普段の生活はルーズそのものに感じ、我々の祖父たちがこんなひとたちに負けるはずがない、とマジメに思った。
もちろんそうした「誠実さ」は日本の専売特許ではない(Lionel Trilling の Sincerity and Authenticity をみよ!)が、僕が娘と対峙するうえで最も大切にしかつ伝えたかったことだった。
だから手前味噌だが今回もむしろ誠実に向き合ってきたから、娘も誠実に向き合ってくれたと思いたいわけだ。
娘がしたいことを思いっきりやらせたらワガママになるのではなく、「誠実さ」や「真摯さ」が伝わらなければおかしい、と思っていた。
ちなみに今日のカテゴリーが「文学」なのも、文学が自分自身に対して「誠実」であることを要求すると思うからだ。
司馬さんが「歴史家」より「小説家」であるのはまさにその1点に尽きると思う。
大江さんも『表現するもの』で書いていたが、自分のなかに深化して昇華することが文学だと思う。
そしてその誠実さを娘に伝えたいのは、その対峙する誠実ささえ失わなければ、いかなる問題であっても回答がみえてくると伝えたかったからだ。
追伸:これまでの「気のもちよう」1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13。
終わってみれば、それまでに聞いた経験談よりはるかに平穏に、というよりほとんど問題がなく終わった。
初日の夜半に禁断症状の如きひどい発作的泣き方をしたが、それだけで済んだ。
むしろスンナリ行き過ぎたことが不思議だった。
なぜ娘はこんなにも禁欲的に自らの意思で断乳を敢行したのか。
もちろんそれまでに忍耐や禁欲など教えたことはなかった。
もちろん妻は相変わらず「やっぱり私の教育の成果ね」と喜んでいるが、もとより娘がしたいことをできるだけ実現させるように心がけてきたのだから、わがままにはなっても禁欲的になるはずがない。
無理矢理理由を探せば、断乳によって妻の気質が乳を通して注入されなくなったために今まで抑制されてきた僕の遺伝子が働き始めたことになるだろうか(これを聞いた妻は怒ったり突っ込むどころか「なるほどね」と妙に感心していた(汗)。
さて本当のことをいえば、僕としては娘が生まれたときからずっと心がけていたことがあって、今回もそれが効いたと実は考えたいのである。
赤ん坊だからとか下にみずに、誠実に向き合う、その誠実さ加減では誰に劣ってもいけない、と。
ドナルド・キーンさんだったかが、幕末から世界と対決した頃の日本人が、日本が外国に誇れると思ったことはその誠実さだと述べていたが、僕もそうだったらしい。
禅ほか日本文化にみられる様式において、対象と向き合うことほど重きを置いているものはないと思っている。
ちなみにアメリカに留学したとき、アメリカ人の不誠実さに驚いた。
清沢の暗黒日記的側面より普段の生活はルーズそのものに感じ、我々の祖父たちがこんなひとたちに負けるはずがない、とマジメに思った。
もちろんそうした「誠実さ」は日本の専売特許ではない(Lionel Trilling の Sincerity and Authenticity をみよ!)が、僕が娘と対峙するうえで最も大切にしかつ伝えたかったことだった。
だから手前味噌だが今回もむしろ誠実に向き合ってきたから、娘も誠実に向き合ってくれたと思いたいわけだ。
娘がしたいことを思いっきりやらせたらワガママになるのではなく、「誠実さ」や「真摯さ」が伝わらなければおかしい、と思っていた。
ちなみに今日のカテゴリーが「文学」なのも、文学が自分自身に対して「誠実」であることを要求すると思うからだ。
司馬さんが「歴史家」より「小説家」であるのはまさにその1点に尽きると思う。
大江さんも『表現するもの』で書いていたが、自分のなかに深化して昇華することが文学だと思う。
そしてその誠実さを娘に伝えたいのは、その対峙する誠実ささえ失わなければ、いかなる問題であっても回答がみえてくると伝えたかったからだ。
追伸:これまでの「気のもちよう」1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13。