最近環境問題とかエコといった標語がいやに目に付く。
地球が汚れているから守るのだそうな。
こういうのをみるといつも笑ってしまう。
そういう自分は汚染されていないとでも思っているのだろうか。
人間の目は自分の内部ではなく外側に向いているから仕方ないかもしれないが、少なくとも地球の汚染と同等以上の危機感は必要だろう。
「ちゃんと健康診断受ければいいんだろ」ということではない。
「健康診断」はそもそも身体が自発的に行っている。
血圧や心電図は何も病院で測定しなくても本来身体に測定機能がついていて、その数値にしたがって身体が補う。
じゃあなぜ異常や病気になるかといえば、生身の肉体ではどうしようもない環境下にいるからだ。
おそらく東洋医学や中医学から西洋医学中心になったのが近代国家作りの過程の一部であるのは偶然ではない。
それ以前の「病気」すなわち単なる体内のバランスの悪さから起こる「病気」ではなく、個人の体内ではなくて個人ではどうしようもできない環境下で生じる問題になったからだ。
といって西洋医学も完全ではない。
例えば癌について、西洋医学では癌細胞は突然変異から始まるとする。
いわゆる細胞分裂のときに放射線や加齢などできちんとした複製がなされないために起こるとか、疲労、ストレス、過剰な栄養などがリンパ球やNK細胞の放出を妨げる、といった説明である。
僕も自分が医学論文の英訳の仕事をただこなしていたときにはその考え方にはそれなりに納得していた。
地球にとっての人間がそうであるようにひとつの生命体を壊すものがその内部につくられること自体が、ある生命体の宿命なのかもしれないと思った。
が、突然変異はもともと不可知と可知の間に線を引くためだけのものでしかないことは何百年も前から指摘されている。
そもそも西洋医学と東洋医学の差はなんだろうか。
枝をみて木全体をみない西洋医学、木全体をみる東洋医学としていいように思う。
この差はむしろ西洋医学の謙虚さからきている。
一体全体このような精巧につくられた身体をこのように動かしているのは何かがわからない。
例えばなぜ心臓は休みなく動きつづけることができるのか。
右胸にある細胞が発電し、心臓の筋肉を動かす。Matrix という映画で人間を一個の乾電池にしてしまおうという試みはおそらくその事実から来ているのだろう。
が結局そこまでしかわからないから、西洋医学は部分から攻めて、枝をみて木全体をみないということになる。
一方中医学では、精神の「神」がその中心あるという推測を元に全体像を構築し説明する。
したがってその「神」が整えられなければ健康はおろか精神活動自体が健全に働かなくなる、とする。
が現在の僕がこの推測を基盤にした東洋医学に惹かれるのは、まさに推測によるはずのその全体像理解の仕方による。
人間が本来どんな生活をし、体がどんなサイクルで成長し成熟し老いていくのかを説明しているところである。
地球の自転と公転のように人体も二重のサイクルを循環していて、人体の自転にあたる部分に問題があることがみえてきている。
一年を通しての進展の仕方が、人体の本来の構造とマッチしなくなってきているということである。
だから癌細胞自体は風邪同様人体の肯定反応で、その環境との不一致の矯正がまず第1の治療ということになる。
このパラダイム・シフトが本来の環境問題だと思う。
地球が汚れているから守るのだそうな。
こういうのをみるといつも笑ってしまう。
そういう自分は汚染されていないとでも思っているのだろうか。
人間の目は自分の内部ではなく外側に向いているから仕方ないかもしれないが、少なくとも地球の汚染と同等以上の危機感は必要だろう。
「ちゃんと健康診断受ければいいんだろ」ということではない。
「健康診断」はそもそも身体が自発的に行っている。
血圧や心電図は何も病院で測定しなくても本来身体に測定機能がついていて、その数値にしたがって身体が補う。
じゃあなぜ異常や病気になるかといえば、生身の肉体ではどうしようもない環境下にいるからだ。
おそらく東洋医学や中医学から西洋医学中心になったのが近代国家作りの過程の一部であるのは偶然ではない。
それ以前の「病気」すなわち単なる体内のバランスの悪さから起こる「病気」ではなく、個人の体内ではなくて個人ではどうしようもできない環境下で生じる問題になったからだ。
といって西洋医学も完全ではない。
例えば癌について、西洋医学では癌細胞は突然変異から始まるとする。
いわゆる細胞分裂のときに放射線や加齢などできちんとした複製がなされないために起こるとか、疲労、ストレス、過剰な栄養などがリンパ球やNK細胞の放出を妨げる、といった説明である。
僕も自分が医学論文の英訳の仕事をただこなしていたときにはその考え方にはそれなりに納得していた。
地球にとっての人間がそうであるようにひとつの生命体を壊すものがその内部につくられること自体が、ある生命体の宿命なのかもしれないと思った。
が、突然変異はもともと不可知と可知の間に線を引くためだけのものでしかないことは何百年も前から指摘されている。
そもそも西洋医学と東洋医学の差はなんだろうか。
枝をみて木全体をみない西洋医学、木全体をみる東洋医学としていいように思う。
この差はむしろ西洋医学の謙虚さからきている。
一体全体このような精巧につくられた身体をこのように動かしているのは何かがわからない。
例えばなぜ心臓は休みなく動きつづけることができるのか。
右胸にある細胞が発電し、心臓の筋肉を動かす。Matrix という映画で人間を一個の乾電池にしてしまおうという試みはおそらくその事実から来ているのだろう。
が結局そこまでしかわからないから、西洋医学は部分から攻めて、枝をみて木全体をみないということになる。
一方中医学では、精神の「神」がその中心あるという推測を元に全体像を構築し説明する。
したがってその「神」が整えられなければ健康はおろか精神活動自体が健全に働かなくなる、とする。
が現在の僕がこの推測を基盤にした東洋医学に惹かれるのは、まさに推測によるはずのその全体像理解の仕方による。
人間が本来どんな生活をし、体がどんなサイクルで成長し成熟し老いていくのかを説明しているところである。
地球の自転と公転のように人体も二重のサイクルを循環していて、人体の自転にあたる部分に問題があることがみえてきている。
一年を通しての進展の仕方が、人体の本来の構造とマッチしなくなってきているということである。
だから癌細胞自体は風邪同様人体の肯定反応で、その環境との不一致の矯正がまず第1の治療ということになる。
このパラダイム・シフトが本来の環境問題だと思う。