先週の日曜夕方、娘と散歩をかねて本屋に行った。
絵本を探すためだ。
娘のためとはいいながら、面白いものにはつい魅入ってしまう。
一週間前なので、タイトルが思い出せないが、クマとウサギの話がよかった。
クマとウサギは、クマの家でなぜか共に暮らしはじめるがとても楽しい生活を送っている。
しかし問題がひとつある。
ウサギは鳴かないから(=話せないから)、いつも笑顔だけでクマさんだけが一方的に喋っていることだ。
クマはそれが不満で、ニコニコしかしてくれないウサギにある日激昂する。
「なんでなにもいってくれないんだっ!」
それをみたウサギは、クマの家を出て行ってしまう。
クマはひどく後悔する、一緒に暮らした楽しかった日々を思い出しながら、その激昂を悔やむ。
読後素晴らしい話だと思った。
が、主題がわからなかった。
そこでいつかのように自発動功に切り替えて、この話のテーマを教えてくれる言葉を待ちつつ、本屋の中を歩いた。
するとクンデラの『存在の耐えられない軽さ』が目に留まった。
僕はいわゆる「永劫回帰」を思い出した。絵本でいうと、『100万回死んだ猫』に似ている。
詳しく論じれば両者は違うのだが、僕に合わせて低次元にしていただくと、両者ともその瞬間を悔いなく生きよ、そしてその瞬間に責任をとれ、ということになる。
クマさんはもっともっと仲良くし楽しくしたいから彼の不満をぶつけ、ウサギさんはできるだけの精一杯のことをしていたわけだから(そもそも喋れないわけだから)、去る以外になくなった。
昨日楽天の監督を退任した野村監督の言葉に、自分の限界を知ったところから真の勝負が始まる、というのがあったが、真のコミュニケーションも同じだと思っている。
クマさんもウサギさんも互いの限界までいってそこをどう超えるかが問題だったから、1度はふたりの関係は壊れなければならなかった。
そんなことを考えながら、その数瞬間前から流れている音楽に自然と関心が移った。
女性ボーカルのなんとも自然な声と歌詞と旋律で、あってないような、その存在が耐えられないくらい軽いのに存在していることは間違いないもので、僕は聴き入り、娘もその心地よさに眠りに落ちた。
僕は、曲の合間にあるはずの曲とミュージシャンの情報に耳を傾け、それが miyumiyu という女性デュオだということがわかった。
早速購入し、先週聴き続けた。
家族の評判はよくなかった。
いまやクラシックからタンゴまで聴きこなす娘は一切関心を払わなかった。
妻も、聞きやすいし力もあると思うけど、空気みたいで、印象が残らない、と彼女にしてはかなり本質的な批評をした。
僕も彼女の批評には同意するが、それだけではないものを感じた。
繰り返しになるが、「存在の耐えられない軽さ」を感じさせる音楽という点では、著しい個性を感じたのだ。
我々人間の個人一人の生は、地球全体でみたら本当に「軽い」のだが、その軽い中に一人ひとりの生が詰まっていて、芥子粒のような生を生きつつ、実体ののあるものにしたいと思っている。
そんなときに自分の生を確認する作業として、自分を惹きつける人間との出会いとそのコミュニケーションは重要な意味を持ってくる。
「ねぇ♪そのまま、私の瞳(め)をみて話して、ホントのところを 好きだって」(有明の月)。
なんて詩はそんな認識から生まれたとしか思えなかった。
それから「Sanzan」という曲の歌詞は、上記ウサギさんの言葉のように感じた。
♪散々歩いたみたいに靴の底磨り減ってるのをみて、
しっかりしろっていつもみんなはいうけど、
問題はその前に大事なこの気持ちを
誤解のないようにちゃんとわかってもらいたい
曖昧は、そう、いつだって、熟れない赤色をしていて
丁寧に そう、こうやって君に伝えておきたい
取り留めない話 前置きするけどまじめに聞いてほしい
最後には言葉一杯
パズルのピースはめるように
結局のところいつも決まって君がつなぐ
だいじなところで全部与えてもらってばかり
いつでも笑顔の君に確かに甘えてた
曖昧にするときっと何でもうまくはいかない
体内の奥にずっと しまっておくわけにもいかない
くだらない話もまじえてするけど
飽きずに聞いてほしい
届いているなら離れててよい
こころここにある いつもそばに♪
いい音楽に出会った。
絵本を探すためだ。
娘のためとはいいながら、面白いものにはつい魅入ってしまう。
一週間前なので、タイトルが思い出せないが、クマとウサギの話がよかった。
クマとウサギは、クマの家でなぜか共に暮らしはじめるがとても楽しい生活を送っている。
しかし問題がひとつある。
ウサギは鳴かないから(=話せないから)、いつも笑顔だけでクマさんだけが一方的に喋っていることだ。
クマはそれが不満で、ニコニコしかしてくれないウサギにある日激昂する。
「なんでなにもいってくれないんだっ!」
それをみたウサギは、クマの家を出て行ってしまう。
クマはひどく後悔する、一緒に暮らした楽しかった日々を思い出しながら、その激昂を悔やむ。
読後素晴らしい話だと思った。
が、主題がわからなかった。
そこでいつかのように自発動功に切り替えて、この話のテーマを教えてくれる言葉を待ちつつ、本屋の中を歩いた。
するとクンデラの『存在の耐えられない軽さ』が目に留まった。
僕はいわゆる「永劫回帰」を思い出した。絵本でいうと、『100万回死んだ猫』に似ている。
詳しく論じれば両者は違うのだが、僕に合わせて低次元にしていただくと、両者ともその瞬間を悔いなく生きよ、そしてその瞬間に責任をとれ、ということになる。
クマさんはもっともっと仲良くし楽しくしたいから彼の不満をぶつけ、ウサギさんはできるだけの精一杯のことをしていたわけだから(そもそも喋れないわけだから)、去る以外になくなった。
昨日楽天の監督を退任した野村監督の言葉に、自分の限界を知ったところから真の勝負が始まる、というのがあったが、真のコミュニケーションも同じだと思っている。
クマさんもウサギさんも互いの限界までいってそこをどう超えるかが問題だったから、1度はふたりの関係は壊れなければならなかった。
そんなことを考えながら、その数瞬間前から流れている音楽に自然と関心が移った。
女性ボーカルのなんとも自然な声と歌詞と旋律で、あってないような、その存在が耐えられないくらい軽いのに存在していることは間違いないもので、僕は聴き入り、娘もその心地よさに眠りに落ちた。
僕は、曲の合間にあるはずの曲とミュージシャンの情報に耳を傾け、それが miyumiyu という女性デュオだということがわかった。
早速購入し、先週聴き続けた。
家族の評判はよくなかった。
いまやクラシックからタンゴまで聴きこなす娘は一切関心を払わなかった。
妻も、聞きやすいし力もあると思うけど、空気みたいで、印象が残らない、と彼女にしてはかなり本質的な批評をした。
僕も彼女の批評には同意するが、それだけではないものを感じた。
繰り返しになるが、「存在の耐えられない軽さ」を感じさせる音楽という点では、著しい個性を感じたのだ。
我々人間の個人一人の生は、地球全体でみたら本当に「軽い」のだが、その軽い中に一人ひとりの生が詰まっていて、芥子粒のような生を生きつつ、実体ののあるものにしたいと思っている。
そんなときに自分の生を確認する作業として、自分を惹きつける人間との出会いとそのコミュニケーションは重要な意味を持ってくる。
「ねぇ♪そのまま、私の瞳(め)をみて話して、ホントのところを 好きだって」(有明の月)。
なんて詩はそんな認識から生まれたとしか思えなかった。
それから「Sanzan」という曲の歌詞は、上記ウサギさんの言葉のように感じた。
♪散々歩いたみたいに靴の底磨り減ってるのをみて、
しっかりしろっていつもみんなはいうけど、
問題はその前に大事なこの気持ちを
誤解のないようにちゃんとわかってもらいたい
曖昧は、そう、いつだって、熟れない赤色をしていて
丁寧に そう、こうやって君に伝えておきたい
取り留めない話 前置きするけどまじめに聞いてほしい
最後には言葉一杯
パズルのピースはめるように
結局のところいつも決まって君がつなぐ
だいじなところで全部与えてもらってばかり
いつでも笑顔の君に確かに甘えてた
曖昧にするときっと何でもうまくはいかない
体内の奥にずっと しまっておくわけにもいかない
くだらない話もまじえてするけど
飽きずに聞いてほしい
届いているなら離れててよい
こころここにある いつもそばに♪
いい音楽に出会った。