Townhallによると、最近の調査で、アメリカの働く女性が、一時的もしくはずっと仕事をやめる傾向が強まっていることがわかった。
これは世間体や社会のプレッシャーからやめざるをえなくなったのではなく、女性自身が子供や家族のなかでの生活を重視する傾向があるからという(ある調査では働く女性の66%、またある調査では52%がそう述べている)。
アメリカではもう15年くらい前からこうした傾向があったことは以前書いた。簡単にいえば、社会で働くことは思っていたほど面白くない、ということだった。
もうひとつ面白かったのは、同じくTownhallの「なぜ Feminists は男性を怖れるか」。
同記事によると、男性の骨から精子の細胞が作れることがわかり、いわゆる男性などいらないとする Radical Feminists は狂喜しそうな発見だが、実は、同Feminists はすごく男性を怖れている、と指摘する。
その理由は、女性が男性が好きだということだ。アメリカで最も幸せといわれる女性は男性との結構生活をうまく送っていて、しかもその女性たちは、なんでわざわざ男と喧嘩する必要があるのか、と考えている。
Postmodern 以降力を認められたFeminism は、ある秩序やシステムではあぶれてしまう事実を問題にするもので、「対男性」ではなかった。
しかしRadical Feminism のように、「対現行システムの不備」を「対男」にしてしまうと、古典的な感情論に戻って袋小路にはいってしまう。「対男性」だとFeminists は「全女性」となるから、「現行システム」を享受する「女性」がいれば、Feminism という名称が嘘っぱちになる。
こうした事実を受けてか、同じくTownhall の「フェミニズムは終ったか?」では、古いタイプのフェミニズムを批判しつつ、今までのように左派だけにフェミニズムが関係するのではなく右のフェミニズムもなくてはならないと述べている。
それはそれで一案かもしれないが、なぜ左と右という既存の秩序のなかに組み込もうとするのかが僕にはわからない。
以前 Feminism は終わっていると基本的に考えていると書いたが、完全になくなるとも思っていない。
なぜなら世の中の役割分担に関する秩序、いわゆるジェンダーは、依然として存在するからだ。
先週、ある男の紹介で、乙女がやってきて長い手紙で僕に問うた、「人間はかくある本源に戻ろうとしているのでしょうか?」と。
つまり内容は、「退屈」で書いたような失われた秩序に関するもの、すなわち彼女も、ハイデガーのいう「存在論者」で、「実存主義」で仕方なく落ち着くことが出来ないのだ。
そして注目したいのは、こうした問いを僕に発してくるのが乙女ばかりだということだ。
ハイデガーのいう「存在論」は、「男」の特権だったような気がするが、彼らがそれを考えている(「Unassailable」で紹介した彼女たちもそうだったが)。
なんだか鎌倉時代の武士の興りや、宗教改革に似た匂いがした。
つまり彼らが自分の足で立つことを真剣に考えているということであり、なぜそんなことを考えなければいけないかといえば、ふたつの棺おけに足を突っ込んでいるからだ。
この状況がある以上、Feminism はなくならない、と思った。
これまでのFeminism とPostmodern 1、2、3、4。
これは世間体や社会のプレッシャーからやめざるをえなくなったのではなく、女性自身が子供や家族のなかでの生活を重視する傾向があるからという(ある調査では働く女性の66%、またある調査では52%がそう述べている)。
アメリカではもう15年くらい前からこうした傾向があったことは以前書いた。簡単にいえば、社会で働くことは思っていたほど面白くない、ということだった。
もうひとつ面白かったのは、同じくTownhallの「なぜ Feminists は男性を怖れるか」。
同記事によると、男性の骨から精子の細胞が作れることがわかり、いわゆる男性などいらないとする Radical Feminists は狂喜しそうな発見だが、実は、同Feminists はすごく男性を怖れている、と指摘する。
その理由は、女性が男性が好きだということだ。アメリカで最も幸せといわれる女性は男性との結構生活をうまく送っていて、しかもその女性たちは、なんでわざわざ男と喧嘩する必要があるのか、と考えている。
Postmodern 以降力を認められたFeminism は、ある秩序やシステムではあぶれてしまう事実を問題にするもので、「対男性」ではなかった。
しかしRadical Feminism のように、「対現行システムの不備」を「対男」にしてしまうと、古典的な感情論に戻って袋小路にはいってしまう。「対男性」だとFeminists は「全女性」となるから、「現行システム」を享受する「女性」がいれば、Feminism という名称が嘘っぱちになる。
こうした事実を受けてか、同じくTownhall の「フェミニズムは終ったか?」では、古いタイプのフェミニズムを批判しつつ、今までのように左派だけにフェミニズムが関係するのではなく右のフェミニズムもなくてはならないと述べている。
それはそれで一案かもしれないが、なぜ左と右という既存の秩序のなかに組み込もうとするのかが僕にはわからない。
以前 Feminism は終わっていると基本的に考えていると書いたが、完全になくなるとも思っていない。
なぜなら世の中の役割分担に関する秩序、いわゆるジェンダーは、依然として存在するからだ。
先週、ある男の紹介で、乙女がやってきて長い手紙で僕に問うた、「人間はかくある本源に戻ろうとしているのでしょうか?」と。
つまり内容は、「退屈」で書いたような失われた秩序に関するもの、すなわち彼女も、ハイデガーのいう「存在論者」で、「実存主義」で仕方なく落ち着くことが出来ないのだ。
そして注目したいのは、こうした問いを僕に発してくるのが乙女ばかりだということだ。
ハイデガーのいう「存在論」は、「男」の特権だったような気がするが、彼らがそれを考えている(「Unassailable」で紹介した彼女たちもそうだったが)。
なんだか鎌倉時代の武士の興りや、宗教改革に似た匂いがした。
つまり彼らが自分の足で立つことを真剣に考えているということであり、なぜそんなことを考えなければいけないかといえば、ふたつの棺おけに足を突っ込んでいるからだ。
この状況がある以上、Feminism はなくならない、と思った。
これまでのFeminism とPostmodern 1、2、3、4。