毎年GWは、外出するなら湯斗くらいで、家でのんびりするものと決めていた。
どこにいっても混むと決まっているからである。
しかし5月2日、東名で静岡に向けて走り出した。
行き先は誓願寺で、片桐且元の墓参りを娘としようと思っていた(妻もいたような気がするが)。
しかし秦野インターを超えるとすぐに娘と2人っきりのロマンチックな計画(繰り返しだが妻も確か僕が運転する車に乗っていた)は諦めなければならなかった。
御殿場の前後が、50キロの渋滞との表示を目にしたからだ。
全く折角のGWなんだから家でゆっくりしていればいいものを、1000円になったからって、浮き足立っちゃって!と叱り飛ばしたくなったが、「その言葉そっくりそのままお返しする」といわれそうだったのでやめ、松田インターで降りて、前日に予習していた東名が混んでいた場合の経路その1で静岡に向かった(その3まであった)。
渋滞中の東名を見上げ、はじめは金を払って渋滞の渦中にいる連中をせせら笑っていたが、混雑とあまり速度が出せないことから、時間的に誓願寺は諦めざるをえなくなってやめた。
仕方ないので片桐の話を娘に車内でした。
なぜ今日は片桐の墓参りに行こうかと思ったかというと、娘のお婿さんにいい男だなぁと思ったからさ、と。
なぜ片桐なんぞに?
というひとも多いいだろう。
確かにいわゆる賤ヶ岳の七本槍のひとりだが、加藤清正や福島正則らほど派手な人気はない。
が、娘をたくす場合彼のような責任感ある男こそと思ったからだ。
室町のような時代では、誰かが誰かを裏切るなどということは当たり前なのだが、片桐は、自分が属す組織に忠実であったばかりか、その組織の中にうもれず絶えず外との関係をみて、自らの組織が生き抜くように走りつづけた。
そうした意味で彼はまさに president だった。
いうまでもなくPresident とは、PreとSideがくっついた単語で、「あらかじめ脇にいるひと」の意である。「脇」にいてその位置から組織の内と外とをみて、その組織の進むべき道を用意していく、いってみれば政治家である。
政治家の何が難しいといって、内も外も複数いて、それぞれの利害が交錯するから、その板ばさみになって苦しみ、誠意があればあるほど、嫌われる。
その組織自体が強ければ大きく出られるが、弱いと妥協につぐ妥協で外より内からも信頼されにくくなるという悲劇的な結末が待っているわけだ。
しかし片桐はいつも誠意をこめて実務的に内と外のバランスをとった。
はじめ片桐は、浅井長政の家臣だった。
信長にやられるときも最後まで浅井方として戦い、長政を男泣きさせた。
秀吉傘下に入ってからも外と内のバランスを見事にとらねばならぬ交渉事の指揮者として力を発揮した(刀狩とかいろいろ)。
秀吉もその力を認め世継ぎの秀頼のそば近くに置いた(この事実こそ注目すべきだ)が、その頃には秀頼自体の力が弱いから、外と内の軋轢に苦しめられた(こうなるとわかっていたからこそ秀吉は片桐を残したのだ)。
つまり誰も味方がいない状態に置かれるわけである。
にもかかわらず、関ヶ原前夜の家康側の裏工作の真っ最中、片桐はモクモクと豊臣のための案を練り上げた。
関ヶ原で負けたあとも、豊臣のために尽力した(この辺りは資料によって相違があるが、その相違こそ、僕は彼がいろいろな矛盾を抱えて仕事をしていた証だと思う)。
大坂はもともと狭いところで、豊臣を喰わせるのに十分な石高はない。そこで埋め立てをして少しでも田畑を増やそうとしたのも彼だし、家康の度重なるいやがらせにも、淀を人質として差し出して、家康の死後に再び豊臣として頑張ればいいと主張したのも彼である。
が、結局家康からの1万石加増を5千石に減らして受けたにもかかわらず、秀頼たちの疑いを買って、退くことになった。
そして大坂夏の陣で秀頼が没したときの片桐の行動は伝えるところ正反対である。
一方では、秀頼たちが隠れる場所を東軍に密告した非情な裏切りもの、もう一方が死を知って大坂城にかけつけて意識がなくなるほどの号泣である。
娘にはそういう厳しい荒波のなかで男が守りたいと思う女性になってほしいと思ったし、またそういう男の唯一の理解者になってほしい。
と話したのだが、
娘も妻も寝ていた。
どこにいっても混むと決まっているからである。
しかし5月2日、東名で静岡に向けて走り出した。
行き先は誓願寺で、片桐且元の墓参りを娘としようと思っていた(妻もいたような気がするが)。
しかし秦野インターを超えるとすぐに娘と2人っきりのロマンチックな計画(繰り返しだが妻も確か僕が運転する車に乗っていた)は諦めなければならなかった。
御殿場の前後が、50キロの渋滞との表示を目にしたからだ。
全く折角のGWなんだから家でゆっくりしていればいいものを、1000円になったからって、浮き足立っちゃって!と叱り飛ばしたくなったが、「その言葉そっくりそのままお返しする」といわれそうだったのでやめ、松田インターで降りて、前日に予習していた東名が混んでいた場合の経路その1で静岡に向かった(その3まであった)。
渋滞中の東名を見上げ、はじめは金を払って渋滞の渦中にいる連中をせせら笑っていたが、混雑とあまり速度が出せないことから、時間的に誓願寺は諦めざるをえなくなってやめた。
仕方ないので片桐の話を娘に車内でした。
なぜ今日は片桐の墓参りに行こうかと思ったかというと、娘のお婿さんにいい男だなぁと思ったからさ、と。
なぜ片桐なんぞに?
というひとも多いいだろう。
確かにいわゆる賤ヶ岳の七本槍のひとりだが、加藤清正や福島正則らほど派手な人気はない。
が、娘をたくす場合彼のような責任感ある男こそと思ったからだ。
室町のような時代では、誰かが誰かを裏切るなどということは当たり前なのだが、片桐は、自分が属す組織に忠実であったばかりか、その組織の中にうもれず絶えず外との関係をみて、自らの組織が生き抜くように走りつづけた。
そうした意味で彼はまさに president だった。
いうまでもなくPresident とは、PreとSideがくっついた単語で、「あらかじめ脇にいるひと」の意である。「脇」にいてその位置から組織の内と外とをみて、その組織の進むべき道を用意していく、いってみれば政治家である。
政治家の何が難しいといって、内も外も複数いて、それぞれの利害が交錯するから、その板ばさみになって苦しみ、誠意があればあるほど、嫌われる。
その組織自体が強ければ大きく出られるが、弱いと妥協につぐ妥協で外より内からも信頼されにくくなるという悲劇的な結末が待っているわけだ。
しかし片桐はいつも誠意をこめて実務的に内と外のバランスをとった。
はじめ片桐は、浅井長政の家臣だった。
信長にやられるときも最後まで浅井方として戦い、長政を男泣きさせた。
秀吉傘下に入ってからも外と内のバランスを見事にとらねばならぬ交渉事の指揮者として力を発揮した(刀狩とかいろいろ)。
秀吉もその力を認め世継ぎの秀頼のそば近くに置いた(この事実こそ注目すべきだ)が、その頃には秀頼自体の力が弱いから、外と内の軋轢に苦しめられた(こうなるとわかっていたからこそ秀吉は片桐を残したのだ)。
つまり誰も味方がいない状態に置かれるわけである。
にもかかわらず、関ヶ原前夜の家康側の裏工作の真っ最中、片桐はモクモクと豊臣のための案を練り上げた。
関ヶ原で負けたあとも、豊臣のために尽力した(この辺りは資料によって相違があるが、その相違こそ、僕は彼がいろいろな矛盾を抱えて仕事をしていた証だと思う)。
大坂はもともと狭いところで、豊臣を喰わせるのに十分な石高はない。そこで埋め立てをして少しでも田畑を増やそうとしたのも彼だし、家康の度重なるいやがらせにも、淀を人質として差し出して、家康の死後に再び豊臣として頑張ればいいと主張したのも彼である。
が、結局家康からの1万石加増を5千石に減らして受けたにもかかわらず、秀頼たちの疑いを買って、退くことになった。
そして大坂夏の陣で秀頼が没したときの片桐の行動は伝えるところ正反対である。
一方では、秀頼たちが隠れる場所を東軍に密告した非情な裏切りもの、もう一方が死を知って大坂城にかけつけて意識がなくなるほどの号泣である。
娘にはそういう厳しい荒波のなかで男が守りたいと思う女性になってほしいと思ったし、またそういう男の唯一の理解者になってほしい。
と話したのだが、
娘も妻も寝ていた。
僕もそれを聞いてから歴史に興味を持ち始めたきっかけになりました。
ちなみに片桐且元は清和天皇の家系の子孫でもあるんですよ(>_<)
しかし、そこまで理解をしてくれ、僕もそう考えてるので非常にありがたいです!!
ちなみに片桐且元の直接の子孫は今は滋賀県高月町に住んでいますよ。
立派な古い蔵があります!!
ありがとうございました。
しかし直接の子孫の方となると問題です。
僕の家系は、両親たちがいっていたことが真実なら、桓武平氏系の末端の藤原氏ですから、仇敵になります(笑)。
勘違いをしていましたm(__)m
おばあさんの家系は片桐且元の父親の兄弟の末端にあたると言われ僕の思い違いでしたが、家門は一緒で何百年と続く家系図も見せてもらい、何百年と受け継がれてる先祖代々の仏壇も見せてもらいました。
現在の高月の片桐家のお爺さんの代で十六代目とも教えられ、清和天皇から続く家系図でした。
又、親戚に片桐且元を研究をしていた、片桐新一さんから頂いた家系図のコピーがおばあさんも持っていました。
ちなみに片桐は数第前から改名された苗字であり、以前は片切と名乗っていて、本当の片桐且元の名前は片切且元とも伺いました。
それで片桐且元の墓があるお寺の住職の話しでは、片桐且元はそのお寺で滞在しており、徳川家康に敵意があると家康に疑われ、誤解を解くために面会を何度も求めたが叶わず意をわかってもらう為に自ら自害したと数十年前に聞いたらしいです。
本当かどうかは定かではありますが、墓がある住職は当時そう話しをしたみたいです。
一応報告と思いコメントを入れました。
又、僕はまだ25歳なのでこれからどんどんと片桐且元のゆかりの地に行き自分なりに調べてみたいと思いましたo(^-^)o
我が家系と違って由緒正しいですね(苦笑)。
もしよろしければこれからもレポートを是非お願いします。