雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

室町ふたたび 10

2007-07-19 00:11:03 | 歴史
「美しい国」馬鹿にされた気がする 自民候補が首相批判(朝日新聞) - goo ニュース

確かにいざ実際に何をすべきかというときに「美しい国」では具体的にどうすればいいかわからないでしょうな。

というより日本の政治組織命令系統には結局現場任せが多いと思う。

いってみれば「善処しておくんなさい」といわれているようなもので、善処できない場合は現場のひとが取り替えられ、失敗した場合にはその程度によって上のものが責任をとる形ですりかえられる。

こうした構造は、組織が形骸化している徴候である。

どうしても政治組織の場合、行政担当者が代表する団体の利益が変らなければ結局現場主義にしかならない(日本の場合は既得権益者のなかで行政担当者が代わるだけなのでまず変らない:ある県で政治活動しているPさんは与党と野党がいれかわってもなんら変化ないといっていた。日本の政治家は地元の有力有権者の代表で、役人は既得権益を手放さないようにということで結局国で食べているひとたちのなかで担当が替わるだけである)。

だから以前「美意識」で、「美」とは「柔軟性のあること」を本義として「方法論の卓越」とパラフレーズし、結局目的(=目的)がはっきりしなければ本当の意味は決まらないと書いたが、彼らにとっては目的なんか決まらない方がいいわけである。

といって一般国民(僕も含めて)の怠慢もある。

大体何度もいうようだが、「美しい」という形容詞が「国」に限定用法でつけられること自体変だと本当に突っ込むひとがいない。

内閣による特別世論調査「日本は美しいか」をみると、日本の美とは自然の景観を指すひとが80%でトップだが、この解釈でいくと、みんなで一日1回ゴミでも拾え、ということにしかならない。

日本人の傾向として、本質的な核心(=目的)をつかない、というのはもはや伝統であり、「奥ゆかしさ」と美徳にまでされているのだから、性質(たち)が悪い。

結局既得権益者は、「撤果」に書いたような階級システムだから、頭を挿げ替えてもシステム自体は変るはずもなく、政治に何ができる、ということになって、義政は、その階級のなかに入ることも出来ない芸術家(今とちがって立場は外道みたいな「」)と接近するようになる。

そしてそこにこそ人生の本質があると考えることになって、つまり『風姿花伝』の「花」とは、「本質」というか無常な移り変わる外見とは異なるものであるから、結局浮世のしがらみを嫌う遁世と本質が同一視され、かくして日本文化は政治離れを起こしたという次第でござろう。

「殊更、その風を継ぐといえども、自力より出づる振舞あれば、語にも及び難し。その風を得て、心より心に伝わる花なれば、風姿花伝と名づく」(奥義讃嘆云)

追伸:これまでの「室町ふたたび」123456789


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