フェミニズムがメキメキと出てきたのは、きちんとした理論武装をしたからです。そしてその理論武装を支えたのがポストモダン、今日はその概説です(Sivaのリクエストによります)。
ここでのポストモダニズムとは、Jean-Francois Lyotard の The Postmodern Condition (1976)という本での定義を指します。
定義は、"incredulty toward metanarratives"で、incredulty とは「不信」、metanaratives とは、「How toものの概説書」です。つまりある事象を実はこんなものと説明するもののことで、普通専門家が書きますが、それらに対する不信がPostmodernです。
なぜこうなるかは、ソシュール(Ferdinand de Sassure)に始まる文芸批評史を大雑把に見る必要があります。
ソシュールが『一般言語学講義』で書いたことは(ひとつだけではありませんが)、世の中のものにはみな名前がついていますが、その名前とそれがつけられている本体とは全く関係がないということです。換言すると、本体がどんなものかわからなくても名前がつけられる、実は本体のことは全くわかってなかったということが重要なポイントです。名前はとりあえず社会生活のなかで使うために御するためにつけただけですからわかってなくてもいいのです。ですから今まで大丈夫だと思っていたアスベストが実は有害だったなどという発見に出くわすことになります。
その次が構造主義(といってもあまりに幅広いのでこれも次のことだけではありませんが)で、名前の付け方についての発見です。上述したように名前というのは、便宜上つけたものですが、その便宜とはどういうことかということです。その便宜とは、区別です。何かを何かと区別するために名前をつけます。だから言葉は二項対立になります。例えば人間を動物と、その人間を男女、大人と子供で区別します。あるひとつの指標のみに注目した二項対立です。
次のポスト構造主義でいわれたのは、この二項対立のほとんどには、必ず優劣の差がつけられているということです。男女では「男」に、自然と文明では「文明」に、大人と子供では「大人」に、それぞれ「優」がついている。これによってたったひとつの指標で分類しただけなのに「男」に属するというだけで「女」より優るということになってしまうということです。そしてディコンストラクションでは(ポスト構造主義やディコンストラクションという区別は無用かもしれません)、この二項対立A Bは、実は優側のAを確立することが目的でBとは非Aにほかならない、人種で考えてみると、白人以外は、黄色人種もアフリカ系アメリカ人もヒスパニックも一応名前の区別はありますが、Aである白人と違うということがいいたいのであって、Aを特権化することにしか役立っていないということです。アメリカで暮らしていくのに、Social Security Card が必要ですが、その申し込み欄には、White or Non White と人種を書く欄がありました。ほかに選択肢はなかったです。
最後にPostmodern。ここではあらためてこれまで優とされてきたAをAたらしめているものは何かを考えます。そしたらソシュールが明らかにしたようにもともと言葉は本体がわからずにつけているものでしかないわけですから、AがAでいる根拠は実は皆無だったということになります。するとこれまで権威がつけられてきたものが一斉になくなって不信をもたれるようになりました。医者や弁護士や教授も確かに評価すべきところがあるのですが、それはほかの職業についているものも同じですし、優れているとされている点以外では普通のどこかいびつなところがある人間です。こうした風潮というか発見が現在も根強く続いていることはみな感じているところだと思います。
そしてFeminismは、性差という一指標をもとに区別された名前「女」をつけられたために嫌な思いをした、と考える人々の集団です。結局問題は言葉およびその使い方にあったわけです。こうなってくるとこれまで使われてきた言葉自体全てがFeministsには攻撃対象になります。言葉だけではありません、これまで男性を優れているものとしてしてきた世の中で造られたものは全部攻撃対象であり、かつ排除すべきものということにしたのがRadical Feminism(文字通り一番ラディカル)です。反体制派と繋がるのは論理的帰結ということになります。
ただしこれは西洋(特にAnglo Saxon)の話で、そっくりそのまま日本に導入できるものではありません。また、たとえ男性中心世界ものでやや偏ったものが出来上がってきたとしても功績が全くなかったとはいえないと思います。むしろこうした理論武装によるこれまでの秩序の破壊によって、つまりこれまで依拠できたものができなくなったことによる不安が多くの人に感じられているのではないでしょうか。
というわけでまじめなFeministsは破壊だけでなく新しい枠組みを作ろうとしました。目標は、Pluralismの温存です。Pluralismというのは、人間を描写する指標がひとつではなく、複数あるということです。Feministsが感じた差別は、たったひとつの指標をある個人全体にあてはめられるPowerによって生じるものですから、そのPowerを指摘したフーコーがFeminismに援用されました。そしてそうしたPowerを排除し、Pluralismの温存を前提とした公正な競争を可能にするシステムを構築することがFeministsの課題になりました。
ただなかなか容易なことではありませんので、「差別による被害者」という名称を武器にする人たちの方が目に付いてしまうのは先日も触れたところです。また、そうしたひとたちがきちんとアイデンティティを獲得する過程に注目したPostcolonialismというのも関心の的になりました。
まじめにやってるFeministsのなかで光芒を放ったのは、Donna J. Harawayです。彼女の面白さは、上述した文芸批評史に描かれた理論武装をデリダなどからではなく(デリダと同じYaleにいたのに)、生物学や科学史から学んだところです。僕は男性ですのであまりフェミニズムには関心がありませんでしたが、彼女のドクター論文(生物学)にはかなり驚きました。この本は、つい最近まで希少価値が高かったのですが、数年前にペーパーバックで再版されてます。
Harawayについてはまた今度。
ここでのポストモダニズムとは、Jean-Francois Lyotard の The Postmodern Condition (1976)という本での定義を指します。
定義は、"incredulty toward metanarratives"で、incredulty とは「不信」、metanaratives とは、「How toものの概説書」です。つまりある事象を実はこんなものと説明するもののことで、普通専門家が書きますが、それらに対する不信がPostmodernです。
なぜこうなるかは、ソシュール(Ferdinand de Sassure)に始まる文芸批評史を大雑把に見る必要があります。
ソシュールが『一般言語学講義』で書いたことは(ひとつだけではありませんが)、世の中のものにはみな名前がついていますが、その名前とそれがつけられている本体とは全く関係がないということです。換言すると、本体がどんなものかわからなくても名前がつけられる、実は本体のことは全くわかってなかったということが重要なポイントです。名前はとりあえず社会生活のなかで使うために御するためにつけただけですからわかってなくてもいいのです。ですから今まで大丈夫だと思っていたアスベストが実は有害だったなどという発見に出くわすことになります。
その次が構造主義(といってもあまりに幅広いのでこれも次のことだけではありませんが)で、名前の付け方についての発見です。上述したように名前というのは、便宜上つけたものですが、その便宜とはどういうことかということです。その便宜とは、区別です。何かを何かと区別するために名前をつけます。だから言葉は二項対立になります。例えば人間を動物と、その人間を男女、大人と子供で区別します。あるひとつの指標のみに注目した二項対立です。
次のポスト構造主義でいわれたのは、この二項対立のほとんどには、必ず優劣の差がつけられているということです。男女では「男」に、自然と文明では「文明」に、大人と子供では「大人」に、それぞれ「優」がついている。これによってたったひとつの指標で分類しただけなのに「男」に属するというだけで「女」より優るということになってしまうということです。そしてディコンストラクションでは(ポスト構造主義やディコンストラクションという区別は無用かもしれません)、この二項対立A Bは、実は優側のAを確立することが目的でBとは非Aにほかならない、人種で考えてみると、白人以外は、黄色人種もアフリカ系アメリカ人もヒスパニックも一応名前の区別はありますが、Aである白人と違うということがいいたいのであって、Aを特権化することにしか役立っていないということです。アメリカで暮らしていくのに、Social Security Card が必要ですが、その申し込み欄には、White or Non White と人種を書く欄がありました。ほかに選択肢はなかったです。
最後にPostmodern。ここではあらためてこれまで優とされてきたAをAたらしめているものは何かを考えます。そしたらソシュールが明らかにしたようにもともと言葉は本体がわからずにつけているものでしかないわけですから、AがAでいる根拠は実は皆無だったということになります。するとこれまで権威がつけられてきたものが一斉になくなって不信をもたれるようになりました。医者や弁護士や教授も確かに評価すべきところがあるのですが、それはほかの職業についているものも同じですし、優れているとされている点以外では普通のどこかいびつなところがある人間です。こうした風潮というか発見が現在も根強く続いていることはみな感じているところだと思います。
そしてFeminismは、性差という一指標をもとに区別された名前「女」をつけられたために嫌な思いをした、と考える人々の集団です。結局問題は言葉およびその使い方にあったわけです。こうなってくるとこれまで使われてきた言葉自体全てがFeministsには攻撃対象になります。言葉だけではありません、これまで男性を優れているものとしてしてきた世の中で造られたものは全部攻撃対象であり、かつ排除すべきものということにしたのがRadical Feminism(文字通り一番ラディカル)です。反体制派と繋がるのは論理的帰結ということになります。
ただしこれは西洋(特にAnglo Saxon)の話で、そっくりそのまま日本に導入できるものではありません。また、たとえ男性中心世界ものでやや偏ったものが出来上がってきたとしても功績が全くなかったとはいえないと思います。むしろこうした理論武装によるこれまでの秩序の破壊によって、つまりこれまで依拠できたものができなくなったことによる不安が多くの人に感じられているのではないでしょうか。
というわけでまじめなFeministsは破壊だけでなく新しい枠組みを作ろうとしました。目標は、Pluralismの温存です。Pluralismというのは、人間を描写する指標がひとつではなく、複数あるということです。Feministsが感じた差別は、たったひとつの指標をある個人全体にあてはめられるPowerによって生じるものですから、そのPowerを指摘したフーコーがFeminismに援用されました。そしてそうしたPowerを排除し、Pluralismの温存を前提とした公正な競争を可能にするシステムを構築することがFeministsの課題になりました。
ただなかなか容易なことではありませんので、「差別による被害者」という名称を武器にする人たちの方が目に付いてしまうのは先日も触れたところです。また、そうしたひとたちがきちんとアイデンティティを獲得する過程に注目したPostcolonialismというのも関心の的になりました。
まじめにやってるFeministsのなかで光芒を放ったのは、Donna J. Harawayです。彼女の面白さは、上述した文芸批評史に描かれた理論武装をデリダなどからではなく(デリダと同じYaleにいたのに)、生物学や科学史から学んだところです。僕は男性ですのであまりフェミニズムには関心がありませんでしたが、彼女のドクター論文(生物学)にはかなり驚きました。この本は、つい最近まで希少価値が高かったのですが、数年前にペーパーバックで再版されてます。
Harawayについてはまた今度。