雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

室町ふたたび4

2006-09-15 22:53:36 | 時事

ドアをあけるとカマキリがいた。

僕も驚いたが、カマキリもそうだったようで、「なんだよ」みたいにこっちをみていた。



カマキリといえば、オスがメスより小さい。だから交尾しながらメスに食われたりする事実は有名。

直感的に写真のカマキリをオスだと思った僕は、同情心と親近感が湧いた。お前も大変だな(泣くことはないが)。

ところでオスがメスより弱いのは猛禽も同じ。したがって食糧がなければ喰われる。メスと一夜を過ごすなんて我々には想像できないスリルがあるだろう。

誰かがいっていたように、人間の男性の欲情は、数千年、体力の優位(=暴力)を前提にしている。だから人間の男には、猛禽のオスの覚束なさはわからないはずだ。

というのも猛禽のメスは子供でも父親を食らう。あっという間に成長して体格に差がつくからである。だから家族団欒はない。想像してみてほしい、母と娘が部屋の真ん中でふんぞり返り、オスはすぐ逃げられるようにちょっと距離をおいて立ち尽くしているのを(どっかでみたことがあるような・・・)。

そんな力関係で性欲が湧くところがすごい。

そこまで考えるとカマキリの背中に哀愁まで漂ってきた。お前、今まで怖い思いを何回したんだ(カマキリより猛禽のオスの方がつらいのだが)。。。

しかし世の中現実を直視しなきゃいけない。つらくても現実ならそれをスタート地点にしなきゃ前に進めない。。。

生きものは喰うことで存続する。そして自分だけが捕食者でいられるはずがない。要は、喰うか喰われるかじゃないか。鷹や隼は二羽並べておくと、ちょっと目を放してるすきに一羽いなくなることがあるらしい。おっかない事実だが、それがわかれば肝っ玉すえるしかないじゃないか(日本人の場合ここに湿り気が加わって「あはれ」になる場合もある)。

そこが下克上の戦国大名に猛禽である鷹が気に入られた理由だったと思う。信長はその典型で、現状をシンプルすぎるほどにとらえなければ前時代(中世)の秩序を壊すことは出来なかったろう。

司馬さんは男の典型を書きたいといって数々の「漢(おとこ)」を描いてきたが、そのなかで信長も日本社会の「漢」だった。 

「漢」はもともと川の名だから、「流すもの」ということだろう。つまり司馬さんもよくいっていたが、「漢(おとこ)」は「革命家」で、時のうつろいによって日々刻々と旧態となってゆく社会をUPDATEしてくれるひと、という意味になる(勝手な推測だが)。

そうすると今度の総裁選は重要なUPDATEをする機会ということになる。

ちなみに総理候補の安倍晋三氏提言を読む限りでは個人的に期待は生まれなかった。散見される「イノベーション」はいわゆる Buzzword にさえみえた。

Buzzword とは、「素人にはわかりにくいもったいぶった専門用語」のこと。「イノベーション」を普通に「革新」とか「刷新」と日本語でいえばいいのに、と思った。といって、その真意や具体案を知るために、安倍さんの著書『美しい日本』(新書)を買うつもりはない。あれだけ本屋に高く積まれていると意地でも買いたくない(なんのこっちゃ)。。。

さて「刷新」が「漢」の役割として、こんな時代に必要な「漢」のモデルとして司馬さんが描いたひとりに北条早雲がいる。

まず組織刷新としては、「日本的改革」の特徴である、システム自体に寄生する守護・地頭を廃した。これは、信長なんかもやったが、そのパイオニアである。またこれも信長や秀吉がやることになる貨幣重視によって足軽を雇った(これは先例あり)。

しかし何よりこのひとが素晴らしかったのは、結局コミュニティをつくる土台である百姓がリーダーの施政によって幸せにならなければそのコミュニティの一部になって働くこともない、という当たり前すぎるほどの考え方だった(孟子の義)。

四公六民という、戦国期どこの国も真似できない租税の安さ、困ったときの借金、農業の指導など、この親身さが、北条とその領国坂東の百姓との間に絶対的な絆をつくり、これがなければ、統一後の秀吉と対決するまで、戦国時代を生き残ることはできなかったろう。

そして最後まで無私を通した(早雲の生活は質素だった)。この無私は、それぞれの能力と努力によって職能がきまり、それを基準に世の中の富がきちんと分配されるべきという社会観に立脚していた。諭吉っつぁんや尾崎行雄と同じである。そして自分がいつヤラレテモいいという覚悟で、筋だけを通した(=新渡戸の武士道だね)。

とにかく無理矢理がなかった。説明を心がけ、わかるまで話した。社会や生活の歯車すべての意義までみなで確認しあったのではないかという気さえする。結果、領国内みんなの(ひとりもないがしろにしない)生まれてから死ぬまでの確保がなされた。

五木寛之さんがいっていたが、ここ何年か1年に3万人の自殺者が出た。これは五木によると、ベトナム戦争時の1年の死者数と同じで、日本は武器は使っていないが戦争状態にあったのと同じことだ、といっていた。

その通りだと思った。しかも現在10年後の生活さえみえない。

アメリカ保守のTownhall で、こうした袋小路に陥ったアンバランスな日本の社会構成の分析と日本政府の取り組みが紹介されていた。

まず現状。日本の長寿(女性平均85.5で1位、男性は78.5才で香港とスイスについで3位)が逆に将来の日本に影を落としている。長寿は、社会経済の活性が地盤になければ、ただヨボヨボの状態で自活を強いられる老人が残るだけから、というもの。

ここ20年で4,000の学校がなくなっている日本の出生率は1.32。人口を一定にするには2.1が最低必要だから、コミュニティとしていかに不健康かがわかる。また昨年死者数が出生者より21,408人多かった。

それなのにいやなニュースだ、子供の数が減ってるのに小学生の校内暴力が過去最高だなんて(Sankei Web)。それからこれは本来喜ぶべきものだが、百歳以上が10年前の4倍(読売)になってるという。

とにかくそこで政府がどちらをとるべきか迷ったのは、世代間をはじめとする「公平」と、財政逼迫をなんとかする「効率」である。そして日本は「効率」を選んで、労働者の3分の1がFull-time でなくなった(90年代は5分の1)というのがTownhallの説明。

この分母をなくす数字操作で効率をあげ、更にそれに伴う、ある年齢層に一定の不公平さをつくった。それが落ち着いた今年、新卒の就職はいいらしい。高校生の求人倍率も上昇してる(Asahi)し、大学生もいいらしい。

つまり早雲との違いは、公平を確保した上で、効率をなんとかしようとしたところだといいたい。早雲は誰かをないがしろにすると、その後始末(テロ)が大変だということもよく知っていた。公平にするには、当然公平な義務も生ずるが、それは生のもともとの厳しさを認識すれば、みなが群れなければならない理由も明瞭になった。

諭吉っつぁんは結局これを明治日本でやろうとして実現できなかった。ただ多くの人間にその考え方で感化はした(僕も)。みんながやる気にならなきゃダメなんだっ、と諭吉っつぁんの著作を読むと思う!

よしっ、というわけで、僕は景気づけに湯斗に、さんまのづけ丼(下)を食べに行った。


さんまといえば、「目黒のさんま」が有名だが、あれは目黒とか世間知らずが問題なのではなくて、世間知らずなひとでも殿様(松平出羽守)が勤まる江戸中期が主題じゃないだろうか(根拠はない)。つまりまだ江戸中期だから米から金という経済の基軸変化によるほころびもないし、リーダーはそんなに重要じゃない時代ということだ。

しかぁしっ、さんまは「秋刀魚」と書くことからもわかるように、「秋の(中秋の名月などでよくみえる)夜、刀のようにみえる魚」という意味があり、秋に勇を鼓す魚ではないだろうか(これも完全に勝手な解釈です)。今はみんなが松平出羽守みたいに世の中に鈍感でいていい時代じゃない、「さあ、みんなで頑張ろぉ」(どっかで聞いたような。。。)。

追伸:核管理に日本、新構想提案(読売)



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1 Comments

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補足 (stone)
2006-09-16 09:36:16
早雲のいいとこひとつ書き忘れました。現状というか世の中の分析が明晰だったことです。
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