雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

室町ふたたび5(加筆)

2006-12-06 23:42:34 | 歴史
昨今の政治の報道というと、1)政局(誰と誰がくっついたとか離れたとか)か、2)汚職発覚、3)掛け声ばかりの改革、だけで、議論の過程が報道されてその結果どうなったこうなったなんてことは全くない。これは、社会の形成のされ方に淵源があるように思う。

原因としてふたつあげたい。外敵に絶えず襲われる恐怖が他の文化圏より希薄だったことと、生活の確保の手段(土地所有の保証)が外連だったこと、である。

戦国時代は厳しかったはずでは、という声も聞こえそうだが、室町は、鉄製農具によって農耕が豊かだったといわれるから、生存競争の激化というより、土地所有の保証をめぐるシステム上の問題という色彩が濃い。

1週間ほど前、「後北条氏の~」と題するシンポジウムに出かけた。司馬さんが描いた「漢」のなかで最も好きな早雲の子孫たち、およびその領国内でどのような施政があったのか知り、室町前半の生活をみてみたかったからである。果たして農耕はもとより材木にしても豊富にあったらしい。

結局現在日本を作ったといわれる鎌倉から室町にかけての世が、飢饉はあっても、農耕というパターン化したサイクルのなかにいて、きちんとした議論をする必要もリーダーを選び抜く必要もなかったことが現在に響いているといいたい。

結局駄目なときはあいつを切る、こいつを切る、というなら、政治なんて必要ない。そして結局重要視されるのは、「実力者」という肩書きの、数ある派閥の長が、中央に金を配って終わりなのだ。

そして「掛け声ばかりの改革」。

こいつは「実力者」という現在困っていない人間がやるんだから抜本的な改革はありえない。自分の足元をわざわざ削るはずがない。与党が野党のための政策をつくるようなものだ。

だから社会からあぶれて自殺するひとに対して、自殺があったことを報道しつつ、「自殺しても益なし」といった軽はずみな発言しか出てこない。

自殺者はなぜ自殺をする?この社会になんかいたくないからだ。平然とテレビできれいごとをいい、老後は何をしようかなどといっている人間には絶対わからない。

そんな彼らに唯一の希望が他人の自殺の報だ。これほど勇気付けられるものはない。自分と同じ思いを共有し、死の瞬間に対する恐怖を克服した先人がいることがわかったんだから。よしオレも、という気になる。

いじめの自殺者のことをいっているのではない。記憶によると、3万4千人くらいの方が自殺して、それが一向に減らず、それに何もしないばかりか、更なる弱者の年寄りの年金を減らしてる国に、本当に税金を払う必要があるのか。何万という人間が鴨川(だったっけ?)で餓死するのを尻目に、銀閣をつくる義政に金を払う必要があるのか。

福沢諭吉っつぁんがいっていたように、政府は、国を代行する人間の一団体であって我々の国そのものではない。政府は絶対揺るがないものでもない。

追伸1:これまでの「室町ふたたび1234

追伸2:「生活の確保の手段(土地所有の保証)が外連」についての説明忘れました。土地確保は、中央の権威を借りる、実力者に金をやったりこびることによって行われてきたから、外連(=権威によるハッタリ)といいたかったのです。松前藩が秀吉に取り入って北海道のリーダー格になったように。


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