昔中国に「小国寡民」ということばがあった。
国は小さく少ない民からなり、ちらばってお互いの交渉はほとんどないような状況がよい、というような意味だ。
換言すれば、ある食糧で暮らしつづけるシステムが確立された状態が本来の文化圏(英語でのcultivated place)とされるものなら、それだけの存在であり続ければよい、とする。
しかしそうもいかない。
社会集団間の小競り合いがだんだん大きくなり、我々の知る世界史に登場してきた国々は、自然発生国家、近代国家とそのシステムを換えて規模を膨らめ、現代ではその近代国家が連合を組むEUなんかが模索されている。
一方その膨らみに伴い、本来の第1ステージの文化圏固有の文化が平均化されたり、知らないうちにマイノリティ扱いをされたり(フランス革命後のバスク人など)、個々人に二重三重のレベルの異なるプレッシャーがかかったり、システム上の問題が生じる。
例えばEUでは、個々の利益関係があまり鮮明にならない温暖化問題などでは一致しているが(Bostonglobe)、以前も書いたようにPoland がGermany との一票の差について不平をいっている(Bostonglobe)。
またアメリカでは、NAACPが存在意義をなくしてリベラルと化しているだけだし(Washingtonpost)、Townhall にはこれ以上多様化に配慮する必要はないという論も展開されているが、一方でChinese Americans の選挙権なんて問題も生じている(Bostonglobe)。
どこも組織形態の変化に合わせたUPDATEに四苦八苦しているといっていい(室町はそれが混乱していた)。
日本の場合の変化は、自然発生国家のときも近代国家になるときも(なったとはいえないというひともいようが)戦後も、外圧によるものだったこともあって、その際いつも官僚に依存した。
そしてその後も官僚への過重な給与と特権意識が与えられたから(明治維新後官僚だけが洋食やスキヤキを食べるお店に通うことが出来た)、平安京の桓武天皇だったか、官僚から京都(平安京)に逃げた。
とにかくある時代への対応が次の世の支障になるから、「大日本人」にも書いたように、もういちど国という最大の社会集団の健全化を考えるべきだと思ったわけだ。
そうなると必要になるのは、早雲が提案したような、国民全体の有機的な繋がりを可能にするモデルである。
部分を換える日本的改革だけでは、健全な国とはいえない。
もちろんその大きな舵取りには、家康がいっていたような時代の要求に応える必要がある。
小泉元総理は確かに改革をやったが、竹中さんというブレーンのいうシカゴ学派系の考え方まで国民が望んだわけではなかった。国民の多くが望んだのは、福祉国家型の安定社会であり、小泉さんに要求したのは、前時代の遺物を排除すること(=日本的改革)だけだったのだ。
したがって今回の選挙の立候補者に必要なのは、福祉国家をやる、という決意表明と、予算の裏づけである(日本というのは本当に国の動力となるものについては情報を隠す傾向があり、それを現場の人間が知らされないから単に目の前の功績を探して暴走した、というのが司馬史観。)。
社保庁の怠慢の責任を現内閣に負わせることでもなければ、みなの声にすべからく応えようとする曖昧な態度や、カモフラージュとしての憲法論争でも神頼みの景気対策ではない。
これをいえた方に軍配があがるが、いえなければ選挙で実際にカギを握るのは、公明党のはず(衆議院・参議院の各党人数はこちら)。もちろん衆議院は自民党が306で過半数割れはないが、参議院は違う。
追伸1:これまでの「室町ふたたび」1、2、3、4、5、6、7、8。
追伸2:Washingtonpost によると、NY で高校を卒業したばかりの女の子たちが交通事故で亡くなった。運転中に携帯電話でメールをしていたらしい。やっぱりあぶないね。
国は小さく少ない民からなり、ちらばってお互いの交渉はほとんどないような状況がよい、というような意味だ。
換言すれば、ある食糧で暮らしつづけるシステムが確立された状態が本来の文化圏(英語でのcultivated place)とされるものなら、それだけの存在であり続ければよい、とする。
しかしそうもいかない。
社会集団間の小競り合いがだんだん大きくなり、我々の知る世界史に登場してきた国々は、自然発生国家、近代国家とそのシステムを換えて規模を膨らめ、現代ではその近代国家が連合を組むEUなんかが模索されている。
一方その膨らみに伴い、本来の第1ステージの文化圏固有の文化が平均化されたり、知らないうちにマイノリティ扱いをされたり(フランス革命後のバスク人など)、個々人に二重三重のレベルの異なるプレッシャーがかかったり、システム上の問題が生じる。
例えばEUでは、個々の利益関係があまり鮮明にならない温暖化問題などでは一致しているが(Bostonglobe)、以前も書いたようにPoland がGermany との一票の差について不平をいっている(Bostonglobe)。
またアメリカでは、NAACPが存在意義をなくしてリベラルと化しているだけだし(Washingtonpost)、Townhall にはこれ以上多様化に配慮する必要はないという論も展開されているが、一方でChinese Americans の選挙権なんて問題も生じている(Bostonglobe)。
どこも組織形態の変化に合わせたUPDATEに四苦八苦しているといっていい(室町はそれが混乱していた)。
日本の場合の変化は、自然発生国家のときも近代国家になるときも(なったとはいえないというひともいようが)戦後も、外圧によるものだったこともあって、その際いつも官僚に依存した。
そしてその後も官僚への過重な給与と特権意識が与えられたから(明治維新後官僚だけが洋食やスキヤキを食べるお店に通うことが出来た)、平安京の桓武天皇だったか、官僚から京都(平安京)に逃げた。
とにかくある時代への対応が次の世の支障になるから、「大日本人」にも書いたように、もういちど国という最大の社会集団の健全化を考えるべきだと思ったわけだ。
そうなると必要になるのは、早雲が提案したような、国民全体の有機的な繋がりを可能にするモデルである。
部分を換える日本的改革だけでは、健全な国とはいえない。
もちろんその大きな舵取りには、家康がいっていたような時代の要求に応える必要がある。
小泉元総理は確かに改革をやったが、竹中さんというブレーンのいうシカゴ学派系の考え方まで国民が望んだわけではなかった。国民の多くが望んだのは、福祉国家型の安定社会であり、小泉さんに要求したのは、前時代の遺物を排除すること(=日本的改革)だけだったのだ。
したがって今回の選挙の立候補者に必要なのは、福祉国家をやる、という決意表明と、予算の裏づけである(日本というのは本当に国の動力となるものについては情報を隠す傾向があり、それを現場の人間が知らされないから単に目の前の功績を探して暴走した、というのが司馬史観。)。
社保庁の怠慢の責任を現内閣に負わせることでもなければ、みなの声にすべからく応えようとする曖昧な態度や、カモフラージュとしての憲法論争でも神頼みの景気対策ではない。
これをいえた方に軍配があがるが、いえなければ選挙で実際にカギを握るのは、公明党のはず(衆議院・参議院の各党人数はこちら)。もちろん衆議院は自民党が306で過半数割れはないが、参議院は違う。
追伸1:これまでの「室町ふたたび」1、2、3、4、5、6、7、8。
追伸2:Washingtonpost によると、NY で高校を卒業したばかりの女の子たちが交通事故で亡くなった。運転中に携帯電話でメールをしていたらしい。やっぱりあぶないね。