雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

ニホンのデントー

2007-09-04 22:30:08 | 歴史
瀬島龍三氏 死去 激動の昭和 エリート参謀(産経新聞) - goo ニュース

瀬島といえば、1939年末から太平洋戦争までの日本軍全作戦に関わった人物。

『大東亜戦争の実相』は、満州事変から支那事変までの説明など右よりではあるが、心に残っている。

特に、日本の権力システム上の問題点の指摘がいい。

日本は、軍事面では大本営、政略が内閣、という形でまず割れている。これは明治憲法の11条にある統帥権の存在のためで、これがあったため、東郷外相は、真珠湾攻撃の10日前に軍部の戦争計画の日程を知るなんてことになった。

結局日本の意思決定は、大本営と内閣の合意でなされるのだが、問題は陸海軍大臣が大本営と内閣の一員を兼ねているということと、現役武官がなることである。

これによって内閣総理大臣の権限は軍関連の人事に手が出せない(彼らの意志を無視して内閣が成立できないから)。

つまり日本の意思決定をするための全体を見渡す調整役がいないということになる。

瀬島いわく、

「かくて戦時又は事変における日本国家の運営は、内閣、陸軍、海軍の三極構造、または内閣総理大臣(外務大臣)、陸軍大臣、参謀総長、海軍大臣、軍令部総長の5(6)極構造を以って行われたのであります。そこにはいわゆる独裁の危険は皆無であると共に、決断と事務の停滞、時間と精力の浪費、妥協に伴う矛盾と不統一、無原則、無目的の弊風を免れなかったのであります。
 実に旧憲法下における日本の如く、その国家権力が分散牽制して、集中統一性を欠いたものは少ないと確信します。憲法の形式論としては、統治権を総攬される天皇の実がその州統一を図り得る地位にあられ、天皇はそれを図り得る絶大な精神的権威を御持ちであられました。
 しかし天皇なかんずく昭和天皇はその権力を、1945年8月の終戦決定以外は直接行使されませんでした。。。(43-44)」

もちろん瀬島はこのあと天皇を弁護している。

従来「総攬」(4条)の意味が保守・リベラルで解釈が分かれるというか曖昧だから、天皇の「無当責」(3条)から天皇自身が「君臨すれども統治せず」を選んだのだとしている(元老2人からのススメもあって)。

ここから天皇の責任を問う声なども出てくるのだろうが、僕が瀬島の指摘で興味深かったのは、明治憲法がドイツ憲法を範としながらも各自解釈が異なり(天皇は英国皇室を範とした)、その違いから支持系統の真ん中が空白になっていることの指摘である。

まさに、「独裁の危険は皆無であると共に、決断と事務の停滞、時間と精力の浪費、妥協に伴う矛盾と不統一、無原則、無目的の弊風」とは建国以来の日本の伝統そのものではなかったろうか。

各自が各団体の利益を代表し、陸軍は対露、海軍は対米を考えているのでは話にならない(瀬島は満州事変から支那事変、対英米蘭戦まで自衛のためとしているが、反省として、満州事変から支那事変に発展させたことを失敗としている)。

そして問題はこの淵源がどこにあるか、である。

これも前々回と重なり、鎌倉を除く日本の歴史に連綿とみられてきたことだが、日本国内の争いは立場の争いで、個人のぶつかりあいではないからだ(岡本太郎風にいうと、ニホンは箱庭に生きている)。

医師と患者、政治家とある民間団体のリーダー、教員と学生、といった区分けがあってそこから出てのコミュニケーションがない(=ソーシャル・リアリティしかない、そしてそのソーシャル・リアリティに疲れると、ぶつかるのではなくて厭世観にひたる、現実のシステム自体を換えようとはしない)。

本来国の対外問題なら尚更国の中の秩序を重んじることは、第一義とすべきでない。

もちろんどの国にもそうした派閥争いはあるが、すべての情報がある程度集積する場所はある。

しかし日本にはないから各集団が腹のなかで個別に交渉を続けて、三国同盟やら四ヶ国同盟やら「船頭多くして」状態になった。

鎌倉のように自分の生活や人生を背負って発言しなきゃ他者と対峙できるようにはならない(役所や外務省ほかの長がその役割として抗議文を送ったって伝わるはずがない)。

日本の歴史で、645、1192、1868が、3ステージと考えられているが、このなかで1192以外はただのハッタリだ。

追伸1:Bush、Iraq で兵力削減を示唆?(NY Times)

追伸2:韓国で学歴詐称が流行る?(Washingtonpost)。 


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