三ツ谷洋子のスポーツ21・ブログ

Jリーグ開幕前から理事として17年間かかわったスポーツビジネスコンサルタントの三ッ谷洋子が日々の話題を取り上げます。

「負けてたまるか」

2012年01月24日 | 2012年
年末に“バレーの松平さん”が亡くなりました。
ブログで何度か松平さんのことを取り上げたことがありますが、
私が最も影響を受けたスポーツ界の先輩でした。

大学を卒業して産経新聞に入り、
社会部からサンケイスポーツ運動部に配属された私は、
バレーボール担当となりました。

当時、松平さんは全日本男子チームの監督で、
2年後のミュンヘンオリンピックを目指していました。

初めて記者会見を取材した後、「私も慶応出身です」と自己紹介をすると、
「そう後輩だね、頑張って」と、笑顔で励まされたことを覚えています。

男子バレーは1964年の東京オリンピックで銅メダル、
次の1968年のメキシコオリンピックで銀メダルを獲得し、
「残るは金メダル」と勢いに乗っている時でした。

とはいえ、東京オリンピックで優勝した“東洋の魔女”の人気のせいで
男子バレーへの注目率は今一つでした。

バレーの日本リーグには、各新聞社が様々な個人賞を出していて、
毎年、各社のバレー担当記者がくじ引きをします。

私が引いたのは男子スパイク賞でした。
会社に戻ってデスクに報告すると
「なんで女子の賞じゃないんだ」と叱られました。

そんな風潮の中で、松平さんは男子バレーの人気を高めるために
テレビ局とタイアップして「ミュンヘンへの道」という番組を作ったり
若手選手を売り出すために隠れたエピソードを披露して
記者たちにネタを提供しました。

オリンピック前には強豪国との試合を組み
日本ファンの期待を煽りました。
国交のなかった東ドイツを招待しようと奔走し
クラブチームを呼んで期待に応えました。

大会直前に出した著書のタイトルは「負けてたまるか」。
金メダルを取ると公言し、見事に実現させました。
男子バレー人気は急上昇し、
練習会場にもファンが殺到するようになりました。

私は新聞で松平さんの半生を連載記事としてまとめ
部長賞をもらいました。

松平さんはお話が上手なので
話されるままを書いただけなのです。

そのお話の中では、スポーツと政治が深く関わっていることを
気付かせてくれました。

私の母が松平さんのファンで一度お会いしたいというので、
ご自宅に一緒にうかがったことがあります。
色紙にサインをお願いすると、
添えられた座右の銘は「負けてたまるか」。

念願の金メダルを取ってもなおこの言葉なのかと、
意外に思ったものです。

1980年のモスクワオリンピックでは
日本のスポーツ界は政府の圧力に負けて大会ボイコットを決めましたが
最後までボイコットに反対した一人が松平さんでした。

「日本のスポーツ界は理論武装しなければだめだ」というコメントが
今でも強く印象に残っています。

この年の10月、私が企画した第1回国際女性スポーツ会議で
松平さんにシンポジウムのコーディネーターをお願いしました。

体操のチャスラフスカ(チェコ)や陸上のアシュフォード(米国)など
世界の女性トップ(元)選手を集めた会議です。

「なんで僕が女性スポーツなの」と最初は驚かれましたが
快く引き受けていただきました。
(当時は女性の適任者がいなかったのです。)

その後もいろいろな場面でお願いすることも多く、
最近では松平さんが主催される
「ミュンヘンオリンピック当時のマスコミ人の会」に
毎回、呼んでいただきました。

2年前だったと思います。
開始時間を間違えて欠席してしまいました。
「三ッ谷さん、どうしたの」と電話をもらいました。

その後、何度か電話でお話しすることはありましたが
お会いしていませんでした。
あの日、時間を間違えていなかったらと、
今でも悔やまれます。

そうそう、私の座右の銘も「負けてたまるか」です。
折に触れて自らに言い聞かせる言葉となっています。

松平さん、たいへん長いことお世話になりました。
ありがとうございました。

合掌

===========================
 三ッ谷 洋子
 株式会社スポーツ21エンタープライズ代表取締役
 法政大学スポーツ健康学部教授
 スポーツビジネスコンサルタント
 スポーツビジネスプロデューサー
「スポーツとまちづくり」アドバイザー
 WSFジャパン(女性スポーツ財団日本支部)代表

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3 コメント

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永遠の『監督』 (みなしごハッチ)
2012-01-31 23:54:52
松平さん、毎週のアニメ『ミュンヘンへの道』とドラマ以上のドラマとなったミュンヘン・オリンピックを観てた者にとって、松平さんの最も親しみと敬意を込めた呼び名は『松平監督』のような気がします。
あのミュンヘンで『松平一家』を率いて公言していた金メダルを獲得、『有言実行』を行うための生きた手本を示してくれました。
何かの機会に講演を一度だけ聴いた以外、直接お話をしたことはありませんでしたが、聴くにつけ読むにつけ、おっしゃってることは全て筋が通っていて説得力がありました。
たぶん当時(今でも?)スポーツ界では珍しく、スポーツだけでなく、世界の動向とビジネス世界のことを熟知されてたとの印象が強くあります。
それが故に閉鎖的なムラ社会では異端視あるいは煙たがれたかもしれないなと思いますが。
学校体育でも企業スポーツでもなく、真のスポーツ産業を確立するには、現実と理想の差を埋めるビジネス手腕と先見性を持つ、松平監督のような方が不可欠だと思っています。
とても残念でたまりません。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
合掌
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松平監督は「教育者」 (三ッ谷洋子)
2012-02-04 01:38:33
みなしごハッチさん
いつもコメントありがとうございます。
サッカーの川淵さんと比べて何が違うかを考えてみました。松平さんは「スポーツ界のスポークスマン」、川淵さんは「サッカー界のスポークスマン」といえるでしょうか。
ご指摘のように松平さんは、スポーツの世界にとどまることなく、政治や経済などについても広く認識しコメントされていたように思います。
また、「松平監督」という呼び名がぴったりではありますが、その姿勢は教育者に近いものがありました。
私が共感を覚えたのは、金メダルを取るために選手にバレーだけをさせていたのではなく、金メダリストにふさわしい人間作りをしていたことです。
海外遠征では、選手たちにその国の歴史を勉強させたり、現地で美術館や博物館に足を運んで、歴史や文化も学ばせていました。男子バレーは観光旅行をしていると、マスコミに叩かれたものの、その姿勢は一貫していました。
オリンピックでメダルを取った選手が、メダリストに相応しい人間かどうか、とても重要なことだと思います。
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国際感覚の教育 (みなしごハッチ)
2012-02-04 20:36:03
松平監督が、単なる有能なスポーツ選手の育成指導者ではなく、人の範たる人格者を育てる『教育者』であったことは当にそのとおりだと思います。
それも幅広い視野を持った国際人を育てることに腐心していた気がしましたが、三ッ谷先生の話を読んで納得しました。

実はその印象を意識したのは、もう何十年も前、ラジオでチェコスロバキアに遠征に行った話をされてた時です。
1968年8月、『プラハの春』をソ連軍の戦車が蹂躙したその時、全日本男子チームを率いてプラハに居合わせており、その時の選手とした会話などを語っておられましたが、慌てるでも興奮するでもなく、「眼前の光景を心に刻んで、世界の現実を学べ」と言っているようでした。
選手には国際遠征ではスポーツだけでなく、文化、歴史、政治までも含めて学び吸収させてたのを知りました。
文字だけではなく、五感を使って国際感覚を養わせてたのだと思います。

恐らく、松平監督に教え育てられた方々は、地に足の着いた真の「国際人」としてスポーツ、ビジネスで活躍し、また今も活躍されていることと思います。
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