三ツ谷洋子のスポーツ21・ブログ

Jリーグ開幕前から理事として17年間かかわったスポーツビジネスコンサルタントの三ッ谷洋子が日々の話題を取り上げます。

HALL OF FAME

2006年05月27日 | 2006年
「日本サッカー殿堂」掲額式典が、先日、JFAハウス内の
日本サッカーミュージアムで行なわれました。
功労者として認められ、写真が掲げられ栄誉を与えられる人を祝う式典です。

招待状が届いたので出席してみました。
(百聞は一見にしかず――ですから、何でも見ておくことが大切です。)
会場は1階のヴァーチャルスタジアム。
通常は大型映像装置(メガビジョン)が設置され、迫力ある映像を楽しめるエリアです。

この日はセレモニー仕様となっており、ステージに向かって並んだ100席ほどが
掲額者の家族、JFA関係者、マスコミなどで埋まっていました。
司会は「ダイヤモンドサッカー」で有名な金子勝彦さん。

第1回の昨年は20人が掲額者に選ばれました。
初代の今村次吉会長から岡野俊一郎前会長まで9人の会長のほか、
“日本サッカーの父”ドイツのデトマール・クラマー、
メキシコオリンピックで3位の原動力となった釜本邦茂、杉山隆一などです。

今回の掲額者10人は故人でした。
私が面識のある人はいませんでしたが、ただ1人名前を聞いたことがある人物を見つけました。
資料にはこのような経歴が書かれていました。

竹内悌三。1908年11月6日、東京都生まれ。

東京府立第五中学校(現都立小石川高校)でサッカーをはじめ
浦和高等学校、東京帝国大学でプレー。
帝大では竹腰重丸氏の後継者としてセンターハーフで活躍し、帝大の黄金時代を築いた。

1936年第11回オリンピック競技大会(ベルリン)では主将。
また、3FB制という新技術に対する優れた理解力と実行力で
優勝候補のスウェーデンを破る快挙に大きく貢献した。

オリンピック後は、単身ヨーロッパ各地を訪ね、現地のサッカー事情をJFAへ報告、
世界の最新事情を提供することで、日本サッカーの技術向上に貢献した。
1946年(昭和21年)4月12日、シベリア抑留中に病没。

年齢を数えてみると、37歳という若さで亡くなっています。
海外の情報を入手する困難さは、今では想像できないものだと思います。
そんな時代にサッカーのために尽力していたことが想像されます。

この「竹内さん」のことを聞いたのは、10年以上前のこと。
新たにJリーグの理事となる照明デザイナーの石井幹子さんを前に、
「石井さんのお父さんは竹内さんといって、日本サッカーの草創期に活躍されたんですよ」と
川淵さんが紹介してくれたのです。

石井さんは3年前に理事は退任しましたが、
この日は遺族として父のレリーフの額を壇上で受け取りました。

「スポーツの殿堂」は、英語では「HALL OF FAME」と呼ばれ
米国ではよく目にしますが、日本のスポーツ界ではほとんど聞きません。

「井戸を掘った人を忘れない」で顕彰する――。
とても大切なことだと思います。



株式会社スポーツ21エンタープライズ】 
  代表取締役 三ッ谷洋子
  スポーツビジネスコンサルタント
  スポーツプロデューサー
http://www.sports-21.com 
コメント
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