とんびの視点

まとはづれなことばかり

2014.1.1の東京新聞より

2014年01月04日 | 雑文
今日は1月4日だが1月1日の新聞について書いている。思ったより時間がかかる作業だ。あと二日分新聞が残っている。正月休みだからまだ時間が取れるものの、これを日常的に続けるには、ある程度の工夫と、かなりの能力アップが必要そうだ。

1月1日の記事でいちばん惹かれたのは、【こちら特報部】の「新日本原発ゼロ紀行」という記事だ。でもそれについては読むのが精一杯で書けなかった。しばらくはバランスの悪い状態が続きそうだ。

【東電 海外に210億円蓄財 公的支援1兆円 裏で税逃れ】

東京電力が海外の発電事業に投資して得た利益を、免税制度のあるオランダに蓄財し、日本で納税しないままとなっている。
投資利益は少なくとも2億ドル(約210億円)。
東電は、福島第一原発の経営危機で国から一兆円の支援を受け、実質国有化されている。にもかかわらず、震災後も事実上の課税回避を続けていたことになる。

このことは東京新聞の調べでわかったらしい。そして1月1日の一面トップの記事だ。東京新聞の読者にとっては、社会的にも大きな話として受け取られる可能性が高い。しかし、ネット以外のマスメディアでは、この話はどのくらい報道されたのだろうか。気になるところだ。

ある出来事に関して同じ意見を持つためには、二つの条件が揃えば良い。同じ判断基準を持つことと、同じ情報を持つことだ。逆に言えば、意見が異なるときには、判断基準が異なるか、持っている情報が異なるか、その両方が異なるかだ。意見が異なるとき、お互いが自分の正しさを主張し、相手を批難し合うのは生産的ではない。自分の判断基準と情報を明示し、相手の判断基準と情報を確認する。そしてどこにズレが存在しているのか確認する。そこが対話の出発点となる。

僕がこういう形でしばらくのあいだブログを書こうと思ったのも、そのあたりを整理するためだ。自分が政治や経済や社会に関し、どんな情報を手にし、どんな判断基準で意見を形成しているか、この辺りをクリアにすることで、意見を異にする人の情報や判断基準との違いが想像しやすくなるからだ。

東京新聞は原発関連では批判的な記事を数多く載せている。それを読んでいる僕は当然のように、原発に批判的な情報を数多く持つことになる。そして東京新聞を読んでいること自体、ある種の判断基準を僕が持っていることを示している。

だから「東電が税逃れで海外に210億円蓄財」というような記事を無自覚に批判することもできる。しかしそれをしても意味はない。記事によれば、東電の蓄財は「現行税制では合法」らしい。しかし「公的支援を受ける立場を考えると、企業の社会的責任を問われる」とのことだ。合法だが問題がある、というのがポイントになる。法的な正しさと良心がぶつかっているのだ。こういう場合、責められる側は合法的であることを理由に自己正当化をするし、責める側は相手の良心を責める。そこにズレが起こる。

だとすれば、東電が税を逃れて海外に蓄財している、という出来事に対しては、合法性という基準で判断すべきことなのか、良心の問題という基準で判断すべきなのか、両方の基準で判断すべきなのか、その辺りを確認することが必要になる。僕としては、合法性と良心、どちらも視野に入れるべきだが、両者がぶつかった時には良心を優先すべきだと思う。良心に反することは魂を損なうことになるからだ。


【浜岡増設同意 地元に53億円】
1980年代の話。中部電力が、旧静岡県浜岡町(現御前崎市)から浜岡原発3、4号機の増設同意を得た。その際、公にした寄付金36億円と別に、53億円を支払う約束を非公表で町と結んでいた。
当時の町長は、非公表の理由を「中部電側の意向。隣接自治体の嫉妬があり派手に見せたくなかった」と説明した。

これも東京新聞が秘密扱いの文書を入手して記事にしたものだ。読んで何かが引っかかるが、どこに何が引っかかっているのかうまく捕まえられない。原発を推進する際の構造的な問題と、人間のお金に関する心性あたりに引っかかっていそうだが、言葉に拓いていくには時間が足りない。今回は、そういう出来事があったという情報を手にしたところで止めておこう。

【断片】
・マントルまで掘削する「モホール計画」は、アポロ計画と並ぶ米国の二大科学事業として、1950年代後半に始まった。

・すでに雇用全体の4割の二千万人が非正規雇用。

・中東の雄エジプトは東西冷戦期の1950~70年代後半にかけて、旧ソ連の軍事・産業支援を受けた。……79年にイスラエルと平和条約を結ぶなど親米陣営の一員となる。

・35歳から44歳までの未婚者で親と同居している人は2012年で305万人いる。

2013.12.31の東京新聞より

2014年01月04日 | 雑文
これを書いているのは1月3日の午後、はやくも新聞の日付に引き離されている。気になった記事は二つ。
【IAEAと福島、福井両県が秘密指定条項】

国際原子力機関(IAEA)と福島、福井両県が相互協力を結んだ。
その覚書には、IAEAか県の一方が要求すれば、共有している情報を非公開にできる条項が含まれている。
福島県では、除染や放射性廃棄物の管理については県、放射線による健康影響調査については県立医科大がIAEAと締結した。
自己情報や測定データ、子どもの甲状腺がんなどについて、県側かIAEAが「住民の不安をあおる」などとして秘密指定すれば、その情報は公開されない恐れがある。
IAEAはチェルノブイリ原発事故で「被曝による健康の変調はなかった」との報告書をまとめている。

この記事からはいろいろ考えることができる。風呂敷を広げすぎると収集がつかなくなるので、焦点を絞る。

ひとつ目は「情報を非公開にすること」の意味だ。情報が非公開にされることは、毎日配達されている新聞が届かないこととは違う。届かない新聞には気づくこともできるし、問い合わせることもできる。情報を非公開にすることは、その情報の存在を教えないことである。存在を知らないのだから、それが隠されていることにも気づかない。

もちろん、すべての情報を非公開にすることはできない。福島の事故や健康調査に関するあらゆる情報が非公開にされれば、さすがに私たちも情報の不在に気づく。適度に情報を非公開にする。言い方を換えれば、情報の不在に気づかれない程度に情報を公開する。つまり情報を非公開にするというのは、情報をコントロールすることだ。

私たちはコントロールされた情報から、出来事の全体像を描き、問題を立て、さまざまに考える。公開された情報は事実であるし、それ以外の情報は存在していないので、主観的には正しい情報をすべて集め、きちんと事態を理解したと思う。しかし実際には、情報は足りていないし、場合によっては決定的に重要なものが抜けたままになる。

情報をコントロールすることは、情報の受け手に個々の情報の内容をインプットすることではない。ある出来事に関して公開する情報を選別することによって、発信者が望むような出来事の全体像や考え方を、受け手が主体的に行うようにすることである。

情報を非公開にする、というのはそういうことなのだ。この場合、IAEAや福島県は自分たちが望むように、一般の人たちが全体像を描き、ある考えを持つような情報を公開し続けるだろう。彼らの望みが、私たちと同じであれば問題は少ない。ただ、IAEAが「チェルノブイリ事故で被曝による影響がない」と言っているのを見る限り、どうも違うようだ。

正しい情報をすべて手に入れることは原理的に不可能だ。それは情報が公開されていてもだ。あらゆる情報は多かれ少なかれバイアスがかかっているし、私たち自身がバイアスをかけている。そしてある出来事に関して、すべての情報を手に入れることはできない。そう考えると、情報の非公開は制度的には重要な問題だが、公開されれば問題がなくなるというわけではない。

だとすれば必要になるのは、個々の情報に対する評価よりも、情報に対する構えのようなものだろう。あらゆる情報はバイアスがかかっているし、自分自身もバイアスをかけている。そして私たちが手にしている情報はつねに部分的である。平たく言えば、自分は間違っているかもしれないし、全てを知っているわけではない。そういう姿勢が必要なのだろう。


【新国立競技場、高さ緩和前提でコンペ募集】

新国立競技場は、2020年東京五輪のメーン会場となる。
その建設をめぐり、事業主体の日本スポーツ振興センター(JSC)が、デザインコンペの募集要項で、当時の都の高さ制限の倍以上高い建物を認めていたことがわかった。
規制側の都も、計画案を話し合う有識者会議で、副知事が「見直しは可能」と発言していたことが判明。緩和ありきで計画が進められていた様子が浮かび上がった。

この記事は、東京新聞が情報公開請求で入手した「有識者会議の議事録」から明らかになったそうだ。JSCも東京都も高さ制限に関して配慮した気配がほとんどないいそうだ。おそらく景観問題は相対的に低いマターだったのだろう。

この問題、内容に言及するほどの知識はない。ひとつ気になるのは、他のメディアでこの話がどのように扱われているかだ。これは上記の「情報の公開」の話とも絡む。

もうひとつは「有識者会議」だ。日本の政策決定についてウォッチするには、有識者会議について調べねばならなそうだ。これはどこかできちんとおさえよう。