とんびの視点

まとはづれなことばかり

猫のこと

2012年03月26日 | 雑文
我が家には猫が2匹いる。17年前の初夏、荒川の土手で拾った。夜、ランニングに行くと、土手の茂みの中から仔猫の鳴き声がする。のぞき込んでみるととても可愛い仔猫がこっちを見て鳴いている。捨て猫だ。とてもじゃないが自力で生きていける大きさではない。仕方がないので拾って帰ることにした。(茂みの中で見つけたので、あとで「やぶ」と名付けた。)

「やぶ」を掌にのせて遊んでいると、離れたところから、また仔猫の声がする。見ると土の上を鳴きながらこっちに向かって歩いてくる。「やぶ」と同じ模様、明らかに兄弟だ。一回り体が小さく、貧相な顔をしている。可愛さはだいぶ劣る。だからと言っておいて帰るわけにも行かない。これも拾って帰る。(土の上で見つけたので、あとで「つち」と名付けた。)

そんな風にして、猫たちとの生活が始まった。結婚して2ヶ月くらいのころのことだ。夜、土手にランニングに行った夫が「お土産だよ」と仔猫を2匹持って帰っても動じない。たいした奥さんである。時おり小さな病気はしたが、ほとんど獣医にかかることもなく元気に過ごしていた。

ところが1ヶ月くらい前から、「つち」の調子がおかしくなってきた。まず動きが緩慢になった。階段をゆっくりと上り下りするようになった。時おり、階段を踏み外しそうになったり、エサを見失ったりしている。よく見ると、昼間なのに瞳孔が開いている。知りあいなどと話しをして、老齢化に伴う白内障だろうと思った。

ところが。ある朝起きると「つち」の右目が赤くなっている。赤いビー玉のようだ。さすがに変だと思い、相方が医者に連れ行った。高血圧による眼底出血だった。血圧が240という異常な数値だった。血液検査もした。老齢化によって心臓などの機能も落ちているが、何より腎臓がひどいことになっていた。ほとんど機能していない。(人間で言えば人工透析の数値だ)。長期的なケアが必要となった。

動物病院への通院だ。これは辛い。コストがバカにならない。我が家の少数精鋭なる福沢諭吉たちが、1人また1人と動物病院へ吸い込まれていく。福沢たちの献身のせいか、「つち」の血圧も普通の高血圧程度に下がった。見た目にも動きがよくなっている。これで一安心。そう思ったら、死ぬまで水分補給のための皮下点滴をやらねばならない、獣医さんは相方にそう告げた。

1週間に2回か3回病院に行き、1度に2000円くらいの点滴を死ぬまで打ちつづけるそうだ。やれやれ、である。これからどれだけの福沢が動物病院に旅立つのか。そのあたりを察してか、獣医さんが家で自分で点滴をすればコストを半減できると教えてくれた。

家で点滴といえば、当然、僕の出番である。この手のことはたいてい人並み以上にできる。なんと言っても器用貧乏である。そんなわけで昨日の日曜日、相方と一緒に「つち」を連れて病院に行き、点滴の打ち方を教えてもらった。

かつての入院経験から点滴は何度も受けているので、猫も静脈に点滴を打つのだと思っていた。そんな簡単に猫の静脈は見つかるのか?見つかったとしても細い血管にきちんと刺すのは至難の業じゃないか?だからこそ僕の出番なのかもしれない、などと妄想していた。

そうしたら、話しは簡単だった。猫の背中、肩甲骨の辺りのたるんだ皮を引っぱり上げて、1センチくらい刺せばよいのだ。大したことはない。リンゴの皮をつなげたまま剥くほうが大変なくらいだ。獣医さんの前でやって見せたら、問題なくOKが出た。

そんなわけで我が家にはいま、猫用の点滴セットがある。ほぼ1日おきに「つち」の背中に打つことになる。どのくらい続くのかわからない。その間、何人の福沢が我が家から動物病院に旅立つのかわからない。人間の生活にも影響が出るだろう。でも、まあ、いいじゃないか、そんなものだ、と思う。

土手でたまたま出会った。そのまま見捨てることもできた。(当時、公団ではペットは飼ってはいけないことになっていた)。でも拾った。そして17年。少なくとも僕の人生の一部は猫によってかたち作られた。そして振り返ってみればそれはよい思い出だ。この先「つち」の背中に点滴を打ちつづけることで、僕の人生の一部に「猫の背中に点滴を打つ」という新たなページが加わる。せっかくだから長いページになってほしい。
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板橋市民マラソン

2012年03月20日 | 雑文
日曜日、板橋市民マラソンを走ってきた。ヒザが完治していないし、二月からほとんどランニングをしていないので今回はやめようと思っていた。ただ今回は仕事上の仲間もエントリーしていて、自分が走れなくても応援に行くことになった。ひとが走っているのを目の前で見せられたらぜったいに悔しくなる、そう思い参加することにした。

うまい具合に今回が初マラソンで、ほとんど練習をできなかった男がいた。一人で走らせたら7時間のリミットに間に合いそうもない。ちょうどいいので彼のペースメーカーをすることにした。6時間30分で完走をめざす。これなら無理をしてスピードをあげ、ヒザをやられる心配もない。ちょっとでも痛みがひどくなればリタイヤすればよい。

当日はほとんど曇りで、ときおり雨がぱらついた。天気予報では14℃と暖かいはずが、じっさいには肌寒い一日だった。会場までは自転車。ゆらゆら帝国を聞きながらテンションを上げた。目標タイムもない、トレーニングもつんでいない、いつリタイヤしてもよい。こんなに緊張感がないマラソンはいまだかつてない。

そのせいか、会場でも一緒に走る相手と会えない。ぞろぞろスタートする人たちを列の横で眺め、結局、最後尾までいくが見つからず。仕方がないのでほかの仲間と走り出し、いったい俺はなんのために走っているのだろうと疑問に思う。4kmほどの給水所でなんとか相手を見つけ、一緒に走ることになる。

10kmが75分、20kmが80分。悪くないタイムだがおそらくもたないだろうと思った。1人で走った4kmでへんなペースができてしまったのだ。案の定、折り返してからはまったく前に進まなくなった。すぐにストレッチをするようになる。足が上がらず、腕を振っているから走っているといえるが、じっさいには歩くのと変わらない速さだ。気温は上がらず、北風が冷たい。おまけに雨までぱらついてくる。こいつを置いて1人で先に走って行こうかと思う。

とにかくスピードが上がらない。本人は走っているつもりだが、話しをしながら歩いている2人組の女子に追い抜かれる。走っている人間が、歩いている人間に追い抜かれているのだ。そんなペースだ、制限時間内の完走があやうくなる。(そんななかでも僕はけっして歩かない。ゆっくりと小刻みにジョギングをしている。レース全体ではいつもの3倍くらいの歩数になっていただろう)。

33kmあたりでついに相手が歩きだす。不思議なことに姿勢が良くなり、スピードが上がる。制限時間内にゴールできそうな感じだ。2人組の女子を歩いて抜き返す。(走っているときに抜かれ、歩いて抜き返すとはふしぎなことだ)。1km、また1kmとゴールに近づく。5時間、5時間30分と時がすすむ。ゆっくり走ることにだんだんと飽きてくる。ゴール寸前でリタイヤしようかと思う。

相手も完走できそうなので、残り1kmは1人で走らせることにする。その方が達成感があるだろうし、最後くらい僕も思いっきり走りたい。41kmの表示をみて、がんばれよ、と声をかけてスピードを上げる。自分のペースで走るのはすごく楽だ。一挙にごぼう抜きだが、すこし恥ずかしい。競争の途中で寝てしまったウサギの気分だ。

走っていたのはほぼ6時間30分。とても長い時間だ。ゆっくり走ったのでヒザは問題なかったが、身体はかなり疲弊した。寒空のした柳の枝が黄緑色にかすむ、そんな土手を震えながら自転車で家路に向かった。
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整理のための雑記

2012年03月16日 | 雑文
なんとなくドタバタした日々を過ごしている。ちょっと立ち止まって考えるためにこれを書いている。

日曜日は板橋市民マラソンに参加することにした。ヒザにはわずかに違和感が残るし、この1ヶ月半ほとんど走れていない。ぎりぎりまで迷った。でも走ることにした。1つには、走れなくても応援に行くことになるからだ。今回は仕事上の知り合いが5人ほどエントリーしている。だから、自分が走れなくても応援に行くことになる。人が走っているのを見たら、自分が走っていないことが絶対に悔しくなる。だから走ることにした。

もう1つ理由がある。知り合いの数名はほとんど勢いでエントリーした初マラソンの人間だ。そしてほとんど練習をしていない。完走が危ぶまれる。それならば6時間半程度を目標にしたペースランナーになろうと思った。僕としてはLSDの感覚で走ればよく、無理してヒザを悪化させることもない。そのうえ知り合いが完走できればそれに越したことはない。そんなわけで明後日はフルマラソンだ。それにしてもここまで緊張感のない大会というのも初めてだ。

昨日は2ヶ月ぶりに合気道の稽古をした。もちろんそれほどハードなことは出来ない。道場のはじっこで1人で受身を繰り返したり、取り(技をかける方)を少しやったりした。受身をしていても体がごつごつしているし、技のやり方は忘れているし、散々だった。とはいえ楽しかった。ランニングとは違う動きもそこそこ出来るようになっている。もう少しでヒザも完全に治るだろう。(と思っているのだが、日曜日にフルマラソンを走るなんて狂気の沙汰だと言われた)。

3月11日の日曜日には反原発デモに参加した。午後に日比谷公園に行き、黙祷をし、それからデモ行進。その数日前、長男が遊んでいて足をケガした。接骨新に行ったら剥離骨折と判明。その時にはデモは諦めたのだが、(自分も初めてだが)子どもには集会の雰囲気やデモを見せておきたいと思ったのでちょっとでも参加することにした。(もちろん、この日に行動を起さないと、あとで文句も言えないという思いもあった)。

何というのか、デモというのは大きなマラソンの大会に似ていた。まず、スタートを待って人々が列を作っていること。前に進もうとする体を押さえ込むマラソンのスタート前の雰囲気と似ていた。あといろんな種類の人たちがいることもマラソンと似ている。だれもが42.195kmを走る。でも目標のタイムや参加する理由はそれぞれだ。同じようにデモに参加する人たちもいろいろだ。手作りの看板を持ち大声でシュプレヒコールを上げつづける人から、それに小声で唱和する人、個人的な話しをしながら歩く夫婦、子どもを怪しながら散歩するように歩く家族。いろいろだ。

とにかく日比谷公園を出て行進する。昼過ぎから雲が太陽を覆い、北風が強くなる。午前中の春の陽気から一気に冬に逆戻りだ。東電の前を過ぎ、銀座を歩く。休日を銀座で過ごす人たちがデモ行進を見る。あっ、そういう目で見ているのだ、と思う。「こっちとそっち」というような隔絶を感じさせる見方だ。距離はわずかだ、歩道か車道かという程度のものだ。非難めいたり、何か考えがあるまなざしをしているのでもない。ただ、異なるものをフラットに見るような感じだ。(でも僕も同じような目で歩道の人を見ていたのかもしれない。なぜなら歩道の人たちを見て、今日、この時間、銀座にいたらデモに参加するでしょ、と一瞬思ったりしたのだから)。

長男の足に負担がかかる前にデモの列を抜けた。抜けて外側から見た瞬間、デモ行列が統一された意志を持っているように見えるから不思議だ。中を歩いていると、いろんな種類の人がいることがわかる。横で看板を上下させながら大声を歩いている人に違和感を持ったり、この男とは別の場所で会っても絶対に友だちにならないだろうとか、それぞれの異なりの方に目が行く。でも外に立つと、そんな雑多な人たちが「反原発」という1つの集団に見える。(マラソン大会のランナーを外から見ているのと同じだ)。

外から見ると1つの集団だが中はけっこう雑多、こういう「ゆるさ」が案外悪くないと思った。全員が目くじらを立てた集団がデモをするような状況は、社会にとって末期的だ。それよりも「ゆるい」段階でデモを行い、それが警告として社会的な昨日を果たし、修正に繋がるのであればそれは悪くない。だからこそ、こういう段階(それほどではないがまだ余裕が残っている)で本当に多くの人たちが行動するのがよいと思う。ちょっと間違えば暴動に発展するような段階になってからでは遅いだろう。

明日は館林まで南桂子展を見に行く。そして明後日はマラソン。またしばらくドタバタしそうな感じだ。
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今ここではない何かに思いを馳せる

2012年03月13日 | 雑文
今日は久しぶりにランニングをする。ジョギングではなくランニングだ。昼休みに1時間ちょっと、11kmほど走る。 北風が弱く吹く。少しばかり肌に冷たいが、太陽の光は暖かい。荒川の土手は春のようだ。8kmを過ぎたあたりからヒザが痛くなるが、走ること嬉しさの方が勝っている。ちょっと無理をしてでも、そろそろランニングを再開したい気になる。

昨日で震災、原発事故から1年がたった。早かったような、長かったような1年だった。昨日、家族で日比谷公園に追悼の集会に行き、その後、反原発のデモ行進に参加した。そのことを書こうと思ったのだが、書き進めるうちにうまくいかなくなった。

震災、原発事故以後、自分としては何かが変わった気がしていたし、その延長線上に昨日のデモがあると思っていた。そんな文脈でこのブログもわりとするっと書けるのではないかと思っていた。でも書き進めるうちに、その文脈では何かが抜け落ちてしまう気がし始めた。もちろん、震災、原発事故があり、いろいろ考え、デモに参加したという文脈は嘘ではない。でもそれを書いてしまうと、別の何かが抜け落ちてしまう気がした。

書きながら、1年前のことを思い出し始めた。その時、自分が何をしたのか、何を感じたのか、そんなことが断片的に頭に浮かんできた。思い出すことで、自分が1年前にしたことや感じたことをけっこう忘れていることに気づき、驚いた。1年前、すごく衝撃を受けたはずなのに、その後、いろいろ情報や知識を仕入れることで、体験のコアになる何かを忘れていた。忘れたまま1年後にデモに行ったことを書いている。ちょっと怖くなった。まずは1年前に何を感じたのかを思い出すことが大切だと思った。デモのことを書くのはその後だ。

1年前、東京でも経験したことがないような揺れが起こった。たまたま家仕事だったので、すぐに子どもの保育園の様子を見に行った。その途中、道路がひび割れ、そこから水が溢れ出ていた。それを見て、いつもとは何かが違うと思った。家の中はひどいことになった。洋服ダンスは倒れ、テレビは落ち、本棚から本は崩れ、食器棚から落ちたコップや皿は割れた。靴のまま夜まで家の中を片づけた。

ふだんは見ないテレビをつけた。少しずつ情報が入ってくる。東北の方で津波があったらしい。市原の方で火災が起こっているらしい。交通機関が止まっているらしい。断片的に情報が入る。何度も余震が繰り返し起こる。死者が出たことが報道され始める。最初は5人とか10人とか、そんなものだった。でも津波の被害がはっきりするにつれて、信じられないような死者数になる。100人単位、1000人単位で未確認の死者数が報告される。夜の気仙沼の火災の映像が目に焼き付く。

もう元にはもどれないと直観した。うまく言えないが、個人が利益を追求するのではなく、みんなが力を合わせて生きていかねばならない世界になったと思った。あとで振り返ったときに、2011年3月11日こそ日本が変わった日だったのだと気づくのだろうと思った。(このときにはまだ原発事故は起こっていない)。

地震当日かその翌日か、僕は子どもたちに話しをした。日本という社会は地震前までとは確実に違うものになってしまった。おそらくこれからもっと大変なことが起こるかもしれない。そこを生きていくためには、自分の利益だけを考えているような人間ではダメだと思う。みんなのことをきちんと考えられる人間がこれからは必要になる。それは大変なことだが、君たちも少しずつ頑張ってそういう人になって欲しい。10歳と6歳の男の子だ。話しがきちんと理解できるとは思っていない。でもきちんと話しおかなくてはと思った。

そして原発事故が起こった。それにより、事態はより深刻になった。地震・津波だけであれば、東京に住んでいる人間にとって、東北で起こった一時的な出来事で終わったかもしれない。しかし原発事故によって、東京の人間は時間的にも空間的にも出来事の外側にはいられなくなった。ましてや福島の原発は東京の電気のために存在している。

その自覚のせいか、原発絡みの情報や知識を仕入れるようになった。その分、確かに知識はついた。日本にある原発を北からすべて言える。ヨウ素とセシウムとストロンチウムとプルトニウムの人体へ影響も理解した。貞観地震の年号も覚えた。そんなことで、震災、原発事故のことを考えている気になっていた。

そのつもりで昨日のデモに参加した。情報や知識を仕入れいろいろ考えたことは間違いではない。しかしデモのことを書こうとして違和感があった。自分は1年前の震災、原発事故から離れてしまったのではないか、と。本当の意味での震災、原発事故の当事者にとって、1年前の出来事は過去にはなっていないだろう。1年前に起きてそのまま現在形で続いているはずだ。

体験の強度を弱めるというのは、ある意味では時間の持つよい力だ。でも場合によっては時間は大切なことも持っていってしまう。震災、原発事故から1年たち、デモに参加したのは悪いことではない。しかし、こういう日には、1年前に何をして何を感じたのか、そこに戻ることのも大切なのではないか、そんな気がした。

今の自分を発信するのではなく、今ここにはない何かに思いを馳せることを忘れないようにしたい。


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『THE BEE』イングリッシュバージョンを観ました

2012年03月11日 | 雑文
先日、『THE BEE』のイングリッシュバージョンを見た。(日本語バージョンのチケットは何度もトライしたが取れなかった)。水天宮ピットという250人くらい収容の小さな劇場だったので、役者がとても間近に観れた。出演は4人。野田秀樹とキャサリン・ハンターという名女優、あとは男性2人。(4人で8役ぐらいを演じる)。

筒井康隆の『毟りあい」という小説が原作、野田秀樹が戯曲を書いた芝居だ。何年か前にもイングリッシュバージョンと日本語バージョンで上演をしていて、僕はその時、日本語バージョンを見た。とても痛い芝居で、見たあとすごく消耗したことを記憶している。こんな筋の芝居だ。

主人公の普通のサラリーマン井戸(キャサリン・ハンター)が、息子の誕生日のプレゼントに電卓を買い帰宅すると、脱獄犯が妻と息子を人質に家に立てこもっている。脱獄犯はストリッパーの自分の妻と会うことを要求する。

井戸は妻子を救いたい気持ちから脱獄犯の妻を説得に行くが、邪険に扱われる。井戸は同行していた刑事から銃を奪い、脱獄犯の妻と息子を人質にとる。偶然にも脱獄犯の息子は井戸の息子と同い年で、誕生日も一緒。そこから、電話(と間に入る刑事)を通して井戸と脱獄犯の救いのないやり取りが始まる。

お互いに妻子を解放することを要求する。どちらもゆずらない。子どもの指を折る。暴力が電話越しにお互いに伝わる。エスカレートする。井戸は脱獄犯の息子の指を包丁で落とし封筒に入れる。ストリッパーの母親が封筒をなめて封をする。それを刑事に渡し、脱獄犯に届けさせる。刑事が脱獄犯からの返事を持ってくる。封筒には自分の息子の切り落とされた指が入っている。

井戸はすべてをあきらめ、受け入れた表情で頭をゆっくりと振る。そしてまた子どもの指を切り落とし、母親が封をなめて、刑事に渡す。刑事が返事を持ってくる。指の入った封筒だ。井戸が子どもを見る。子どもはいやがる。いとおしそうに子どもを抱きしめる。(誰が誰の子どもを抱きしめているのだろう?)。そしてまた指を切り落とす。母親が封をなめる。刑事が封筒を持っていき、また持ってくる。

子どもは自分から手を差し出す。切り落とし、封をなめ、刑事が封筒を持っていき、持ってくる。子どもの指を落そうとするが、子どもは息絶えている。今度は母親の指を切り落とす。母親は自分で封をなめ、それを刑事に渡す。母親も息絶える。井戸は自分が勝った、今度は自分の指を相手に送り付けてやる、という。そして蜂のうなりが高くなり、芝居は終わる。

とても痛い芝居だった。切り落とした指のやり取りが始まると、涙が出てきた。野田秀樹の芝居に痛みは付きものだが、どこかに(救いはないかもしれないが)逃げ道はある。でもこの芝居にはそれがない。徹底的に人間のどうしようもなさを見せつけられる。

指を切り落としてから、再び指を切り落とすまでの間、同じことが繰り返される。指を切り落とす。ストリッパーの女とセックス(ある意味でのレイプだ)をして眠る、朝起きる。洗面台で蛇口をひねり顔を洗う。三面鏡をひらく。鏡に向かって丁寧にヒゲを剃る。自分の容姿を確認する。きちんと背広を着る。そして食事をとる。そこで指が届く。また、指を切り落とし、セックスをして、眠る。プッチーニの「ハミングバード」の美しい静謐な音楽の中、セリフはなく、儀式のように同じ行為が繰り返される。

暴力と理性とセックスがひとつのサイクルとして日常を作り出している。静かにきちんと手順を辿るように繰り返される。そしてそれが繰り返される度に、事態は少しずつ悪い方へと向かっていく。最終的にそれを断ち切るのが「蜂」である。蜂のブーンッ、ブーーーンッ、という音が井戸の暴力と理性とセックスのサイクルに垂直に切り込む。井戸と脱獄犯がお互いを思い通りにしようと、暴力と理性と性を用いても変えられない状況を1匹の蜂が簡単に変えてしまう。

もちろん蜂のうなりは状況を解決はしない。しかし当事者に自覚を促し、状況を一時停止させることはできる。暴力と理性と性によって現実が悪化していくのは、この芝居に限ったことではない。私たちの世界は多かれ少なかれ、自分の好まない人間への攻撃性と、無自覚な欲にもとづく理性的な思考(策略)と、ちょっとした性的な倒錯によってなりたっている。(それらすべてが揃ったものが戦争だろう)。

芝居と同じように、私たちはそのサイクルに気づかずにある部分では事態を進めているかもしれない。暴力には暴力、策略には策略というように、カウンターとなる対抗手段を取ることは相手とぶつかることになしかならない。(そういえば、力に対して力で対抗してはダメだと合気道では言われる)。状況の自覚を促す「蜂」のようなうるさいうなりが必要なのかもしれない。

それとどこかで繋がっているのだろう。今日はこれから家族で日比谷公園に行く。震災被害者への追悼と反原発のデモに参加するためだ。この時期、ブーンッ、とやっておかないとあとで文句も言えないような気がする。
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4万テラベクレルは致死量換算できないのか?

2012年03月05日 | 雑文
先月のジョギングの距離を計算したらわずか33kmだった。そしてヒザにも軽い痛みがときどき走る。2週間後には板橋市民マラソン。まともに走ることはできないだろう。不参加にするか、何か別の目的を作って走るかのどちらかだ。いずれにせよ、ヒザの痛みが抜けてからの話しだ。

さて、先日の東京新聞に「セシウム4万テラベクレル放出」という記事があった。福島第一原発事故で大気に放出された放射性セシウムの量だ。テラというのは1兆ということだから膨大な数字だ。40000000000000000ベクレルのセシウムとなる(ゼロの数はあっているのだろうか?)。こういう記事は読んでいてわかるようでわからない。わかった気になれるが実はわかっていない。

その数字が膨大だということは理解できるが、それがどういう意味をもつのか具体的な想像ができないからだ。具体性を持たせるためだろう。記事ではチェルノブイリとの比較を行なっている。チェルノブイリでは13万7000テラベクレルのセシウムが出たらしい。それと比べると3割程度というところだ。

なるほど、と思いたくなる。しかしこれも、わかったような気がするだけだ。チェルノブイリで具体的にどんなことが起こったのか(あるいは起こっているのか)を知らないから、具体的な比較を想像できないのだ。あのチェルノブイリ事故の3割程度かと、何となくわかった気になるだけだ。

ふと、ひらめいた。放射能をある種の有害物質として考えれば、その影響をきちんと説明できんじゃないか。例えば、青酸カリが1kg盗まれたりしたら、報道機関は必ず「致死量何人分」というような説明をする。放射能でも同じことはできないのだろうか。

この記事には「セシウム4万テラベクレル」とある。「セシウム」と「ベクレル」を使っている。「セシウム」と書く意味は、他の核種については述べていないということだ。事故当初、問題になっていたのはヨウ素だし、微量ながらもストロンチウムとかプルトニウムも出ているらしい。(ヨウ素は半減期が短く、甲状腺癌を引き起こす。ストロンチウムはカルシウムと似いてるので骨に吸収されやすいんだっけ?プルトニウム自然界には存在しない元素。以前は東電がプルト君というキャラクターを使って「食べても大丈夫」と宣伝していたらしい)。

「ベクレル」というのは放射能の量を表したもので、人体への影響を表した単位ではない。人体への影響を考えるときには「シーベルト」を使う。だから避難や除染などの基準はシーベルトになる。(4月からの食品中の放射性セシウム新基準はベクレル表示)。となれば、ベクレルをシーベルトに変換できればセシウム4万テラベクレルが人体に及ぼす影響を具体的に示せるはずである。ちなみに1度に7000㍉シーベルト以上を浴びると100パーセント死亡するらしい。そしてベクレルをシーベルトに変換する式はあるらしい。

にも関わらず、そういう報道などはない。外部被爆とか内部被爆とかいろんな条件があるから簡単には計算できないということなのだろうか。よくわからない。でも、実際ある量の放射線を浴びれば死亡するのだし、ベクレルからシーベルトへの変換はできるのだから、条件さえ決めればその中で致死量的な表現は出来ような気がする。

やはり最先端の科学には素人には理解できない困難な問題があるのだろうか。あるいは、そんな計算をするとものすごい数字が出てきてしまうから伏せているのだろうか。よくわからない。まあ、このあたりも含めて、原発関係については引き続き勉強していこう。
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『子どもの無縁社会』を読んで愚考

2012年03月02日 | 雑文
『ルポ 子どもの無縁社会』(石川結貴、中公新書ラクレ)を読んだ。何ヶ所か目に留まり、連想したことをメモ程度に書いておく。

1つ目は、2011年の「居所不明児童生徒」が1183人いること。「居所不明児童生徒」とは、住民票を残したまま1年以上所在不明になり、その後の就学が確認されない日本国籍を持つ子どものことだ。児童生徒の数も知らないし、この数字が他の国と比べたときにどのような意味をもつのかもわからない。しかし、同じくらいの子どもたちが学校に行くのをみながら、それとは違う日々を過ごしている子どもが1000人以上もいるのだ。その一人ひとりの目から社会はどんな風に見えているのだろうか。あまりよい世界ではないだろう。大人になったときにその世界に何をするのだろう。

2つ目は、子どもの「行旅死亡人」について。同書によれば、「行旅死亡人」とは、身元不明の死亡人、いわば無縁仏のことである。行旅病人及死亡人取扱法では、「住所、居所、もしくは氏名が知られず、かつ引き取り者なき死亡人は、行旅死亡人とみなす」と規定されている。この行旅死亡人の情報は官報に載せられている。

僕は、「行旅死亡人」という言葉を数年前にテレビ番組で知った。NHKスペシャルの『無縁社会』という番組だった。どちらかというと孤独な老人の方に焦点が当たっていた気がする。しかし同書によれば、子どもの行旅死亡人もいるのだそうだ。官報にはこんな風に掲載してあるらしい。

◆平成18年12月22日付
名前 本籍・住所・氏名不詳
年齢 10代前半
性別 女性
上記の者は、平成17年10月14日午後9時頃、岩沼市○○○の川で頭蓋骨で発見されました。死後10年程度、死亡場所及び死因は不明。(後略)

◆平成20年10月9日付
名前 本籍・住所・氏名不詳
年齢 嬰児
性別 女児
身長 48センチ
上記の者は、平成20年7月17日、仙台市○○○の公園内において、造園の剪定作業を行なっていた作業員が、ツツジの植え込み内に置かれた紙袋を発見し、臨場警察官が同袋内を確認した結果、ビニール袋にくるまれた嬰児死体であることが判明したもの。(後略)

◆平成21年11月9日付
名前 本籍・住所・氏名不詳
小児の顔面頭蓋、下顎骨を欠く。所持金品はなし。
上記の者は、平成21年5月8日午前11時、姫路市○○○約7.6キロメートル沖海底で発見されました。死亡推定日時は平成16年頃と推定され、死亡の原因は不明です。(後略)

何よりも子どもの行旅死亡人という存在に驚く。名前のない死だ。どう考えても自然死ということはないだろう。事故なのだろうか。場合によっては犯罪の被害者なのかもしれない。家族などから総督願は出ているのだろうか。居住不明児童生徒の1人が何らかの理由で命を落す。その死体を川や海に遺棄する。そんなことが起こっているのかもしれない。

実際、公園で発見された嬰児は捨てられた。生きているうちに捨てられたのか、死んでから捨てられたのかわからないが、いずれにせよ捨てられたのだ。当然、探す人などいないだろう。(ちなみに、2009年度に児童相談所が対応した「置き去り児童」は212人、「棄児」は25人。こうした対応に引っかからない子どもはどのくらいいるのだろう)。

3つ目は、「個人情報保護法」だ。虐待事件などの報道では児童相談所という言葉を目にする。事件によってはひどく叩かれたりしている。(マスコミは上手くいったケースはまず報道しない)。確かに、対応に不備のある児童相談所もあるだろう。しかし全体的には、少ない人数で頑張っているように思える。

その頑張りを邪魔する一因が「個人情報保護法」のように思える。例えば「あのマンションで子どもの泣き声がする、虐待のようだ」という連絡が入る。児童相談所の職員がマンションまで行く、オートロックで中に入れない。このマンションの住民の情報を管理会社に問い合わせる。個人情報保護法を理由に断られる。(マンションの住民がオートロックをあけたスキに建物に入ったりする。通報されれば犯罪である)。個人情報保護法という法律があるせいで、名称の印象とは反対に、虐待を受けつづける個人を作り出すようなことになる。

時おり、個人情報保護法のメリットは何だったのかと疑問に思う。保育園や学校での写真の名簿の扱いなど非常に気を遣っている。ある時処に人が集まれば自然と生まれるような繋がりも、手続きを踏まないと作れないような時がある。確かにそれは自由でしがらみがないかもしれない。しかし裏を返せば、人々がばらばらに分断されていることでもある。(統治者からすれば分断された個は御しやすいだろう)。一方、政治家や財界人などが自分を守るために個人情報保護法をたてにしている姿をよく目にする。なるほどこういうメリットを狙っていたのかと思ってしまう。

4つ目は、本の中に出ていた子育てよりもネットゲームを優先する母親の話。もともと実家で両親と同居。月10万程度のバイト代はすべてネットゲームに。ゲームで知り合った男性と結婚。そのまま夫も転がり込んでの同居。本人はそのままゲームを続ける。そして妊娠。出産。やがて子育てがゲームに支障をきたすので、同居の両親に子育てをおしつけ、ゲームに専念する。

僕が驚いたのは、子育てよりネットゲームを優先する理由だ。子どもは同居の両親や夫でも育てられるが、ネトゲのキャラクターを育てられるのは自分しかいない。そして、ネトゲの世界では、やればやるだけ、がんばればがんばるだけ成果が出るから、というものだ。内容としては破綻している。しかし思考形式(=考え方)だけをとり出せば次のようになる。

「Aは誰でもできるが、Bができるのは自分しかいないから、私はBを行なう。そしてBを行なう世界では、自分が努力すればするだけ報われる」。内容ほどの破綻は感じられない。だから同じ考え方で次のような内容を想像することもできる。「コンビニのレジなら誰でもできるが、原発の処理が出来るのは自分しかいない、だから私は原発の処理をする。そして原発処理においては、自分が努力すればするだけ、その成果がはっきり出る」。こちらは内容にも破綻はない。

別の話しに横滑りしそうなので戻す。僕が感じたのは、この主婦は現実の世界では努力が報われる実感を持てないのか、それは不幸なことだな、ということだ。確かに、高度成長期的な頑張れば報われる、というような世界ではなくなった。その意味では主婦の気持ちは分かる。しかし一方で、子育てができないのは彼女の未熟さだ。その親が未熟なだけ、子どもが「無縁」に近づくのだろう。

ここまで書いて言葉が降りてきた。

ゲームというのは人間が作ったものだ。だからいくらそれを極めようとも人間を超えられない。しかし子どもとは自然の摂理によって作られるものだ。だからそれを極めれば、人間を超えた何かを理解することができる。だから、自然の摂理にかなったものを極めることこそ、人間を超えることになる。
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