とんびの視点

まとはづれなことばかり

『「なんとかする」子どもの貧困』を読む

2018年03月04日 | 読書
今日は本格的な春を感じさせる1日だった。土手には枯れ草の中に青っぽいオオイヌノフグリの小さな花がたくさん咲いていたし、柳の枝も遠目にはぼわっとした黄緑色になっていた。そのぼわっとした黄緑が南からの風にゆらゆら揺れている。南風は花粉もたくさん運んでくる。春だ。

今夜は合気道の稽古があるので、7kmほど軽くジョギング。今月の目標も140km以上走ること。

『「なんとかする」子どもの貧困』(湯浅誠著、角川新書)を読んだ。「貧困」という言葉が巷間に流布するようになり久しい。子どものころにも(40年以上も前のことだ)、「貧乏」とか「貧しい」という言葉はあった。そういう家庭も存在した。しかし、いま使われている「貧困」という言葉は、かつての響きとは少し違う気がする。

著者によれば、「貧困」=「貧乏・貧しさ」+「孤立」だそうだ。つまり「貧乏・貧しさ」を抱えていても、社会や人とのつながりが保てていれば「貧困」ではない。(江戸末期に日本に来た外国人が見た日本の姿だ。)あるいは、「孤立」していても、ほとんどのことを「お金」で解決できる人は「貧困」ではない。

小泉政権のころから「ワーキング・プア」と「自己責任」という言葉が人口に膾炙するようになった。この2つは見事に「貧困」を生み出す構造を支える。「ワーキング・プア」とは、毎日まじめに働いていても十分な金銭的な収入を得られない状態だ。(本人の努力不足というよりも、ある労働制度が合法的に存在し、その結果、生じる現象だ。)そこに、自分に起ったことはすべて自分の責任である、自分で何とかしろ、という「自己責任」という言葉が重なる。

まじめに働いているけれども貧乏だ。でも、それは自分の責任で生じたことだから、人に相談したり、助けてもらうようなことではない。貧乏で孤立した状態ができ上がる。それが「貧困」である。

いまの日本社会は、まじめに働いても十分な収入が得られない、低賃金を合法的に支える制度と、何かあっても人に相談できない自己責任を内面化した人たちで成り立ってることになる。当然、そのような社会には問題が生じる。そのひとつが社会の分断である。貧富という格差による分断、左右という価値観による分断。そういう分断が少しずつ社会を蝕んでいく。(これは日本だけでなく、資本主義が行き詰まった先進諸国共通の問題だ。)

この本では、そういう分断を少しでも解消しようとする人たちの事例がいくつも紹介されている。自分のいる場所でできることをやっていく。決して大上段に構えない。トライ&エラーを繰り返しながら、少しずつ前に行く。そんな人たちの事例がいろいろと出てくる。

個人的に興味を引かれたのが、国立情報学研究所の新井紀子さんの話だ。新井さんは数学者で、社会共有知研究センター長だ。「ロボットは東大に入れるか(東ロボ)」プロジェクトで知られる人工知能(AI)の研究から、子どもたちの読解力テストに着手するようなった。(テストの結果は昨年の新聞などに
で、教科書を読解できていない中高生がかなりいる、という内容の記事になった。)

東ロボは、問題を解き、正解を出すことはできるが、問題を読んで理解してるのではない。現段階の人工知能にとって、文章の意味を理解することは不可能に近いらしい。では、どうやって正解を出しているのかというと、大量のデータの中から符合するキーワードやパターンを読み取り、最も確率の高いものを瞬時にはじき出しているそうだ。

たとえば、「アメリカは、1945年8月9日に(○○)に原子爆弾を投下した。それにより日本はポツダム宣言を受け入れることを決めた」とあれば、膨大なデータを検索し、そこから(長崎)と答えを導くことができる。これは、文章を読解して意味を理解しているのではなく、データの組み合わせの確率の高さから答えを導いているにすぎない。

というわけで、AIは英語や国語が苦手だそうだ。2015年度のセンター試験模試では、東ロボは5科目8教科全体の偏差値が58.7だったが、国語は45.1だったそうだ。

新井さんは、AIと同じように、勉強のできない子どもも読解ができてないのではないか、と問いを立てた。既知の知識というデータを探って、キーワードやパターンを見つけ出し、確率的に答えを言い当てる。それを無意識的に行っている。(いわゆる「勘」というヤツだ。)読解力のない子どもたちはそのように問題に向き合っているのではないか。

そうであれば、人間の持っているデータはとても少ないので、知識量を必要とする状況では通用しなくなる。(AIと同じやり方をしていたら、AIに取って代わられることになる。)だからといって、文章読解のやり方を知らない子どもに、「ちゃんと読め」と言っても通用しない。そもそも、文章読解のやり方を知らないのだから、ちゃんと読みようがない。きっと、勘を頼る読み方をより強化することになる。

そう考えれば、人間がAIに負けないため(仕事を奪われないため)には、あるいはAIと共存していくためには、パターン発見とデータ内での確率計算はAIに任せ、文章の意味を読解する力を身に付けることが必要となる。

そしてこの手の読解力は「貧困」な状態では身に付きにくい。読解力とはある程度の読書量が必要になるからだ。できれば読書は幼い頃からの方が良い。いわゆる「読み聞かせ」が入り口だ。「貧困」家庭は、幼い頃から子どもに「読み聞かせ」がをしにくい状況だ。親は収入確保のため、多くの時間を仕事に取られて、子どもに本を読み聞かせる時間的な余裕がない。その上、社会や他人とのつながりがない「孤立」状態が重なる。子どもに「読み聞かせ」をする人がいないのだ。

子どもは、文章を読解するという経験を持つことなく育つ。その場の雰囲気を察知して勘で判断するという処世術を身に付ける。その方法が文章を読むときにも活用される。しかしそれは読解力のない読み方である。データ量の著しく少ない、そして演算処理速度の遅い、AIのような読み方だ。当然、AIにはかなわない。(AIのディープラーニングの強みは膨大のデータ量によって確率が担保されていることになる。)

だから公教育には、文章を読みとける読解力を身に付けさせる義務がある。そうしないと、社会はさらに貧富の二極化が進む。二極化が進むということは、中間層がいなくなることだ。中間層がいなくなれば、民主主義も滅びる。民主主義とは分厚い中間層によって支えられた制度だからだ。

「貧困」というのは、当事者個人だけの問題ではない。自己責任だから放っておけとか、可哀想だから助けるということではない。社会のあり方と深く関係している。とくに「貧困」がある一定の数を超ると、社会に大きな影響が出てくるだろう。

社会の問題であれば、その問題は、その社会にすむ「私」の問題でもある。私の問題であれば私が多少のことをすることは当たり前だ。それは自分とは違う向こう側にいる他者をどうにかするという図式ではない。つまり、分断の図式ではない。同書にはそんな人たちの事例がたくさん出ていた。

(最後の方、時間切れ。話しを無理やり閉じました。次回、違う角度から書く予定。)
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『サバイバー 池袋の路上から生還した人身取引被害者』を読んで思ったこと

2017年04月28日 | 読書
今朝は土手を8kmほどランニング。今月はこれで101km。何とか月の最低目標の100kmを越えた。おまけに1km6分を切るスピードだ。1週間前には7分以上かかっていた。大きな違いだ。ジョガーから梅ランナーへ復活。理由は腰の調子が少しよくなったからだ。合気道の稽古仲間に整体を生業としている人がいて、先週末、その人に体を整えてもらった。

さすがに長く続いている腰痛が一度に治ることはない。それでも体全体のゆがみがとれ、疲れが一気に吹っ飛んだ。いや、単に疲れがなくなっただけでなく、体中にエネルギーが満ちている感じだ。体の左右のバランスがかなりずれていたようだ。施術後、家に帰ったら「顔が変わった」と相方が驚いていた。自分では気付いていなかったが、かなり顔が崩れてたようだ。それがすっかり良くなっていたらしい。この調子で腰が改善すれば、来春のフルマラソン復活も視野に入ってくる。とりあえず、5月の目標は1週間に30km、1ヶ月で125kmというところだ。

先週末、『標的の島』という映画を見た。沖縄の基地問題を扱った映画だ。高江のヘリパッド建設、宮古島と石垣島での自衛隊基地の建設。それらを推進しようとする日本政府、その背後にあるアメリカの戦略。基地問題や本土の姿勢に対する沖縄の人たちのさまざまな反応。簡単にわかったようなことを言えない気がした。知らないことがあまりにも多すぎる。問うべきは「沖縄の基地をどう思うか?」ではない。「沖縄の基地について意見を述べるためには何を知らなければならないか、それを知っているか?」だ。そんな中、政府は辺野古の埋め立てに着手した。かりに沖縄に基地が必要だとしても、このやり方はよくない。

ちょっと前のことだが、『サバイバー 池袋の路上から生還した人身取引被害者』という本を読んだ。マルセーラ・ロアイサというコロンビア女性が体験談を書いたものだ。コロンビアではだいぶ売れたようだ。21歳のシングルマザーで生活に苦しんでいた彼女が、不安と希望を胸に日本に来てみれば、実態は人身売買のようなもので、暴力にさらされ、売春を強要されたという話だ。彼女の場合は普通の生活に戻り本を出版することができたからよいが、それこそ虫けらのように存在が消えていく人も山のようにいるはずた。(そんな彼女だって10年以上たってもトラウマが残っている)。

この本を読んで2つのことを思った。今回はひとつめ。

話の舞台となっているのは、1990年代終わりのころの池袋だ。池袋といえば、いま住んでいる家から5kmちょっとの距離だ。そのころ僕が通っていた大学はとなり駅だった。買い物にもしょっちゅう行ったし、飲みにも行った。芸術劇場に野田マップの芝居を観に行くこともある。まあ、僕の平凡な日常の延長線上にある場所だ。。僕とって池袋とはそんな平凡な場所だ。その平凡な感覚は池袋にとどまらない。とくにイレギュラーな事態が起こらなければ、僕の移動に合わせてその平凡な場所は広がる。そして観念的になれば、社会とか世の中とか日本とか世界も、そういう平凡な場所になる。

僕にとっては平凡な池袋という場所を、彼女は暴力にさられ、売春を強要される場として捉える。人身売買のような形で日本にいる彼女にとって、暴力にされされ売春を強要される感覚は日常全体を覆う。その日常は日本で営まれる。結局、日本とは暴力にされされ売春を強要される場所ということにな。

僕にとっても彼女にとっても、池袋は「池袋」、日本は「日本」で同じだ。地球上の同一の場所にある。でも、僕の「池袋」と彼女の「池袋」とはまったく異なる。自分とのかかわりで成り立つ「池袋」や「日本」の意味や内容が異なるからだ。同じだけど異なる。同じでないが異なってもいない。仏教的には「不同不異」という。考えることもなく、これは当たり前のことだ。同じ会社に属していても、その会社が何であるか(つまり意味)は、自分とのかかわりにおいて成り立つ。同じネコを飼っていても、家族それぞれにとっての意味は微妙に異なる。こういった「かかわり」によって物事が成り立つことを「縁起」という。

私にとって存在するものは、〈私〉とのかかわりを離れて存在しない。どのような出来事も私とのかかわりを切り離しては成り立たない。「池袋」はつねに私にとっての池袋であり、「日本」はつねに私にとっての日本である。あらゆる人が共通了解に至れるのは、名称や位置情報といったたぐいで、その意味や内容はひとそれぞれ、千差万別にしかなりようがないのだ。

なんでそんなことを考えたか。この本を読むちょっと前に新聞で「あなたは日本社会に満足ですか」という調査の結果を見たからだ。(6割くらいが「満足」と答えていた)。ここでいう「日本社会」とは、調査に答えた人たちと切り離された、誰もが共通した内容を備えた対象ではい。それぞれの人とのかかわりによって成り立っている意味や内容である。だから、この質問は「あなたは自分の現状に満足ですか」と聞いているのと変わらない。

だから、6割の人が満足だと答えても、それは「6割の人が満足しているよい社会だ」とはならない。満足だと答えた6割の人が、たまたま日本社会という場所でいま生活しているだけだ。その6割の人の日本社会もそれぞれ異なった意味や内容のはずだ。それはコロンビアの彼女と僕との異なりと本質的には変わらない。

じゃあ、僕と彼女を分ける決定的な違いは何か。それは「たまたま」「偶然」ということだ。僕はこの時代、たまたま日本に生まれた。たまたま下町の、たまたまそれほど裕福ではない職人の家の、たまたま…。そして彼女もこの時代、たまたまコロンビアに生まれた。たまたま女に生まれ、たまたま貧乏な家に生まれ、たまたま…。そんなことが人々の生活に大きな違いをもたらす。

その過程の中でいくつもの選択肢があったことも確かだ。友達の忠告を聞いて日本に来ないことだってできた。そうすれば、暴力にさらされ売春を強要されることもなかった。でも、彼女が日本の裕福な家庭に生まれていたらどうだろう。おそらく、ああいった形で池袋に立つこともなかっただろう。彼女は、日本から抜け出し、新たな生活を手に入れ、本を出版することができた。少なくとも池袋的な日常とはちがう日常を生きることができた。それは「たまたま」のようにも見えるし、「必然」のようにも見える。

自分が生まれる条件を選べないという意味で、私たちの人生は基本的には「たまたま」である。その「たまたま」という偶然の中で、何とか自分の生きている意味、つまり「必然のよなうなもの」を見つけようとするのが、わたしたち人間なのだろう。

長い距離を走れるれると、こういうことを頭で転がせるんだ。そんなことを思い出しながら走った。
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『帰郷』と『亡国記』

2017年01月22日 | 読書
先日、予約していた本が届いたとのメールが図書館から来た。小雪の舞うなか、歩いて図書館まで行く。連絡メールでわかるのは、借りた本のタイトルが『帰郷』ということだ。「帰郷」?、まったく記憶がない。なぜ予約したのか、誰が書いた本なのか。おそらく、新聞の書評欄などで目に付いたのだろう。買うのもなんだから、とりあえず図書館で借りてみようと思ったのだろう。

原発事故か太平洋戦争に関係した本だろう。そう思って、リファレンスの人から本を受けとる。浅田次郎の本だった。「浅田次郎?」ピンと来ない。表紙は大きく「帰郷」とある。背景には白黒の写真。よく見ると、日本人の帰還兵が日本の町の中で敬礼をしている。なるほど「帰郷」だ。やはり戦争物だった。

冬休みにも同じように『亡国記』という本を借りた。手にしてみると、原発事故をテーマにした小説だ。大地震で浜岡原発が壊れ、放射能が日本中に広まり、日本が崩壊するという話だ。福島の事故の経験をベースにしているので、首相官邸前での原発再稼働反対の抗議行動などの描写などもある。過去の現実と将来の危険をうまく接合して、現在の社会で潜在化している現実を想像させようとしているのだろう。

福島の原発事故がなければ、こういう小説はなかっただろう。かりに書かれたとしても、まったくリアリティーがなかっただろう。原発事故で本州には人がほとんど住めなくなる。北海道はソ連に占領され、九州は中国に占領され、本州はアメリカの核関連の施設や廃棄場になる。多くの日本人が難民のように外国に避難したり、たんなる労働力として扱われたりする。日本の国土も壊滅し、政府もなくなり、日本人もなくなる。まさに亡国だ。

福島の事故がなければリアリティーがなかっただろう、と書いた。しかし正確に言うとそれは違う。福島の事故そのもののリアリティーが人によって違うからだ。僕などは震災当時も以後も東京で生活をしている。事故後、放射性物質を含んだ雨が何度か降ったが、直接的な影響はそのくらいだった。(食品などの問題は続いているけど)。だから、どちらかと言うと原発を巡る歴史的な経緯や制度などが気になり、本を読んだりしている。だから、多少は小説にリアリティーを感じる。

しかし、福島で実際に原発事故にあった人にとっては、この小説のリアリティーは僕とは違ったものになるだろう。福島での自分の生活が取り戻せないことを、主人公たちの流浪に重ねて考えるかもしれない。あるいは、この小説すら作り物のように感じるかもしれない。

「福島で原発事故があった」ことは知っているが、原発事故については何も知らず、何も考えていない人には、こういう小説は荒唐無稽な作り話に見えるかもしれない。福島の原発では何が起こっていたのか、なぜ事故が起こったのか、どんな危機がどんな幸運があったのか、事故はアンダーコントロールで、すでに終わってしまったことなのか。そんな言葉と出会わない人もたくさんいるだろう。そういう人は、この手の本の存在自体に気づかないかもしれない。

太平洋戦争も原発事故も過去の出来事だ。出来事は終わってしまったが、影響はいまだに続いている。それは本当に終わった出来事と言えるのだろうか。そもそも何かが終わったと知るためには、それがどんな出来事であったのか知らなければならない。太平洋戦争は「アメリカと日本の戦争」で、原発事故は「東日本大震災の時に福島で起こった原発の事故」である。これは単なる言葉でしかない。言葉を知っても中身を知ったことにならない。

沖縄の基地問題も日米同盟も現在の社会の大きな課題だ。これは明らかに太平洋戦争の影響である。福島では事故収束まであと40年かかり21兆円かかると言われている。社会や日本人にとってすごい負担になるだろう。でも、太平洋戦争や原発事故が何であるのか知らなければ、いま起こっている影響にもリアリティーは感じないだろう。それは将来のリアリティーのなさにつながる。

いろんな時、いろんな処で、何が起こったのか。何が起こってるのか。何が起きるのか。知らないことばかりだ。すごく気になる。




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近頃読んだ本

2016年09月18日 | 読書
このところ読んだ本について。



震災直後の本。その意味では少し古い。とはいえ津波被害の当事者にとってはまだ過去は言えないだろうし、原発事故に巻き込まれた人たちは現在も事故は続いている。でも考えてみれば、廃炉作業が終わるまで私たちも巻き込まれている。そういうことを忘れそうになるので、たまには震災がらみの本を読まねば。本の中では、正力松太郎の話が面白い。



2ヶ月近く前の生前退位の話をきっかけに読んだ。いつものことだが知らないことが多い。現在の皇位継承者の先細りは、マッカーサーが仕掛けた時限爆弾、というのがこの本の一つの主張。あと、天皇は歴史的には万世一系でもないし、女性天皇も女系天皇も存在したとのこと。今後、天皇の退位の問題が議論されるだろうが、基本的な知識は必要だ。
天皇のビデオメッセージも興味深かった。ネットでテキストを手に入れて読み込んだが、天皇が訴えているのは、象徴天皇について国民はきちんと理解(勉強)してくれ、ということだと感じた。高齢になり仕事が大変だからやめることを理解して、などというものではない。



経済成長が望めない世界でどのように生きていくべきか。これは先進各国の課題だ。(聞くところによると、先進国の経済成長がなくなることは当たり前のことで、それを定常経済というそうだ。)東日本大震災は、日本社会にその問いを突きつけたともいえる。同書のタイトルでもある「小商い」とは、商売のノウハウではなく生きる姿勢のことだ。私たちが「いま・ここ」で生きているのは、たまたまであり、なんの理由もない。その「いま・ここ」を責任を持って引き受ける、それが「小商い」だ。その通りだと思う。



日本会議がらみの本を2冊読む。アプローチの方法が違うがどちらも面白い。
多くの日本人が日本会議について知るべきである。考えや行動に賛否はあるだろうが、まずは知ること。現実的に安倍政権に大きな影響力を及ぼしている。いまの日本を知ろうとするなら(日本人なら知るべきだ)日本会議を知ることは大切だ。個人的には、大枠のところで目指しているものには反対だ。ただある種の問題意識は共感できそうだ。とくに地道な活動を数十年にわたって続けてきたのはすごい。

日本会議が嫌う現行憲法の12条に「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」というものがある。個人的にはもっとも好む条文だ。「不断の努力」、本を読んでいて感じたのは、その内容はどうあれ日本会議(につながる人たち)は「不断の努力」を続けてきたと実感した。だからそれなりの力を持つに至ったのだ。反対の考えを持つ人たちも同じように「不断の努力」が必要だろう。それは別に闘争するためではない。やり取りの質を上げていくためだ。



堤未果さんの一連の本を読むと、ちょっと気が滅入る。世界はひどいことになっているし、この流れは変わらなそうだ。簡単にいえば、グローバス資本とそれをコントロールする超富裕層が国家をエージェントとして自分たちに都合の良い法律を作り、そこからハゲタカのように利益を手にしているという話。アメリカを例にとりながらさまざま分野について話をする。教育も農業も貧困ビジネスも戦争もとにかく同じ図式だ。そのときハゲタカに突かれているのは、1%の超富裕層以外の人間だ。アメリカの大統領選でトランプやバーニーが支持を集めた背景がこれだ。

日本は敗戦後、アメリカの植民地状態だ。そして現在、軍事的にさらに一体化しようとしている。日本はアメリカ化していく。(このあたりと日本会議の問題をひとつの視点で考えてみたい。自民党の憲法草案には復古主義とグローバル資本主義が掲げられている)。日本でもしわ寄せは富裕層以外の私たちに来る。この図式の中では、大手メディアも骨抜きにされる。何かを簡単に信じるのではなく、うまく知識を蓄積させることが大切だろう。
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『日本戦後史論』

2016年09月03日 | 読書
『日本戦後史論』という本を読んだ。内田樹と白井聡の対談本で、図書館から借りた。読み始めてすぐに、あっ、この本は読んだことがあると気づいた。気付いたけど、何が書いてあったか思い出せない。読み進めながら、そうそう、そういうことが書いてあったよねと思うだけだ。前回読んで感心したところを、これはすごい、と今回も感心している。自分の判断基準がブレていないと喜ぶべきか、成長していないだけなのか。まあ、後者かな。

そうはいって、今回、気になったのは「占領期」のことだ。日本史では、戦中、戦後という言葉は聞くが、「占領期」という言葉はあまり聞かない。敗戦を終戦と言い換えたり、占領軍を進駐軍と呼んでいるから、「占領」という言葉を避けたい思いが、どこかにあるのだろう。

だから占領という言葉は知っていても、その実態についてはよく知らない。そもそも占領とはどういう状態を言うのか。そして占領期には何が行われたのか。占領が終わるとはどういうことなのか。そういうことを学校教育で習った記憶もないし、自分で体系的に学んでもいない。断片的な知識をバイアスのかかった想像で勝手につなげているだけだ。

悲惨な戦争が続いた。ある日ポツダム宣言を受諾して戦争が終わった。そして、すぐに戦後が始まったような印象がある。民主主義的で、平和を愛し、経済復興に向け国民が一丸となって働いた。そんなフレームで考えている。無意識的に。

でも、実際には日本は1952年まで占領されていた。その時期に何があったのか。そして、占領がどういう形で終わったのか。そういうことを学ぶ必要がありそうだ。とくに現在は。それなくして、憲法や自衛隊、沖縄の米軍基地について考えることも、まともな意見を述べることもできなそうだ。

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