とんびの視点

まとはづれなことばかり

それを評価するために知らねばならないことは?

2012年02月24日 | 雑文
やはり問題は言葉なのだと思う。たとえば「父親」と書く。それによって「父親」という言葉は共有できる。しかしその言葉から連想される映像、感情、考えは人それぞれだ。

震災以後、原発絡みの本を読むようにしている。東京に住むのであれば、原発の問題とはこれから数十年つき合っていくことになると思う。だとすれば少しは勉強しておかねばならない。まだ体系的な理解には至らないが、少しずつ知識は増えている。

新聞などの世論調査で原発の賛否を問うている。僕が目にしているかぎりでは、賛否はほぼ互角、わずかに反対の方が多いという感じだ。個人的には原発推進には無理があると思っているので、反対が増えることは悪くない、と思っている。

先日、仕事先での少人数研修で、受講者達に原発推進への賛否を問うてみた。参加者4人は全員「賛成」だ。理由を尋ねた。電力不足に陥る、というのが全員の答えだった。なるほど。みんなある根拠にもとづいて自分の意見を表明しているわけだ。

「では、自分が原発について知っていることを述べてください。それと、原発推進に対して賛否を述べるために知っていなければならないことは何だか言えますか」と質問した。誰もがほとんど何も説明できなかった。

研修の趣旨として伝えたかったのは、何かを評価するときに反射的に自分の意見を述べてはいけない。評価するために知らねばならないこと何かをまず自問しよう、ということだった。

学校教育や職場での「自分の意見をきちんと述べねばならない」という雰囲気と、消費者マインドのせいなのか、ものごとを簡単に評価できると思っている人が増えているようだ。小学校の子どもの教科書を見ていても、意見を述べることが重視されている。いわゆる「発表の仕方」である。入社して数週間の若者が、ミーティングで「仕事も少し分かってきたので、どんどんと自分の意見を出していきたい」などと発言するのを聞くと、擦り込まれているな、と思う。

学校や職場で、自分の意見を述べることの必要性、正当性を擦り込まれる。その一方で、消費者として主体性を立ち上げる時世となっている。消費者は、お金と引き換えにその商品の評価を好きにできる。その商品の背景や専門的な知識を知らなくても、自らの感覚、印象で好きなことを言える。(そこに幼児性や性格の悪さが加わればクレーマになる。)

結果、何かを評価するということは印象評価になる。印象評価をそれらしくデコレートすれば意見らしくなる。「電力不足に陥る可能性がある。そうなると日本の経済も成り立たなくなるので原発は推進すべきだ」と。しかしそれは、「原発」という言葉から知っている情報を連想して、感覚的な発言をしているに過ぎない。

ある言葉を聞いたときに、それについて知っていることを無意識的に探す。そしてなんとなく理解したつもりになる。誰もがそうするだろうし、それでよいことも多い。しかし場合によっては、何となく理解した上で、それについて自分が何を知らないのか、と問うことも必要だろう。とくに自分たちの生活に長いあいだ影響を及ぼすようなことについてはそうだ。

意見を述べたり、評価をする時もそうである。それを評価するために、自分は何を知らねばならないのか。そういう「問い」が心に浮かぶような人間を育てることこそ、まずもって学校がやらねばならないのではないか。(でもそれでは、従順やイエスマンは作れなくなる)。

マスコミが世論調査でまずやるべきことは、原発推進の賛否を問うことではない。賛否を述べられるために必要な情報を持っているか否かを問うべきなのだ。さらに原発について賛否を述べるためには、これと、これと、これと、これの観点があり、それぞれについてはこういう状況だと解説する。その上で、では、あなたは賛成しますか、反対ですか、と尋ねるべきなのだ。

「原発」という言葉を聞いたときに、「原発」という言葉は共有できる。しかしそこから連想される、映像、感情、考えは人それぞれ違う。その状態で「原発推進の賛否」を問い、それを数値で表し、国民の意見を云々することは、あまり丁寧な作業とは思えない。

原発絡みの本を読んできて、少しずつ知識が増えている。もう少したったら自分なりに「原発」について整理したいと思う。ちなみに「電力不足説」はけっこう疑わしい。それと賛否を述べるためには、核廃棄物処理についての現状理解くらいは必要だと思う。




自然のサイクルと共に

2012年02月20日 | 雑文
今日はいつもより少し早起きをし、家の中をほうきで掃除した。それから土手までジョギングに行った。土手の水たまりのような小さな池は、一部分、表面に氷が張っている。東から南に昇る太陽が少しずつその氷をとかすのが、きらめきぐあいで遠くからもわかる。

土手の上を高校生たちが自転車で学校に向かう。寒そうな制服姿で、身を縮めるようにして、自転車を漕いでいる。学校への登下校の3年間、春夏秋冬、自転車で土手を走る。そういう時間は積み重なっていく。いつか、いい思い出として、思い出されるかもしれないし、しないかもしれない。そんなことを考えながらゆるくジョギングをする。

話は変わる。このあいだ「自然との共生」という言葉を思い浮かべた。環境に優しくとか、地球に優しくなどの言葉はよく見聞きする。商品などでも「エコ」を掲げているものが多い。しかしちょっと考えてみればわかるが、「優しく」という言葉には人間の環境や地球にたいする優位性が現れている。

環境や地球を「自然」という言葉でとひと括りにしてみる。しかし自然には地震も津波もある。それらは、人間が優位にたった気分で「優しく」できる相手ではない。私たちは、その力を「畏れ」、サイクルをうまく合わねばならない相手なのかもしれない。

「自然と共に」というようなことを言うときに、人間を中心にした空間的な広がりだけを前提としている気がする。人口が集中する都会がある。その周りに郊外がある。さらに農村があり、人の住まない山野峡谷がある。人間はこれまで自然を開発し、都市を空間的に押し広げようとしてきた。あまりやり過ぎると自然という空間が減り、バランスが崩れる。だから、空間としての自然の領域を守るために、「共生」などを言うようになった。

そう考えると「優しく」という表現が出てくるのもわかる。しかし私たちが本当の意味で「自然と共に」ということを考えるなら、空間的な自然との共生のみでなく、時間的なサイクルの共有も必要になる。私たち人類は、何万年という単位で自然のサイクルに合わせて生きてきた。一年を通して、一日においてもそうであったろう。季節の変化、一日の太陽の巡り、それらに合わせて生活したいたはずだ。

それが大きく変わったのは電気が発明されてからだろう。エジソンが最初の発電所を造ったのはわずか130年前だ。電気のおかげで夜が明るくなり、多くの人たちが眠らなくてもいられるようになった。暑い夏にどうつき合い、寒い冬をどうやり過ごすのかでなく、夏には涼しすぎるくらいの冷房、冬には暖かすぎるくらいの暖房を使うようになった。それでいて日本には四季があっていいね、などと言っている。

そろそろ自然を空間的に捉えるのではなく、時間的なサイクルとして捉えて、それと歩調を合わせることを思い出した方がよい。可能であれば、朝起きて夜眠るようにしたほうがよい。不規則に夜勤などをしている人は、心臓病やうつ病になる可能性が高いとどこかで読んだ気がする。夏に汗を流しながらスーツを着るのも、自然のサイクルに逆らっている。

もっと大きな視野でみれば、地震のサイクルもある。今回の震災は未曾有だと言われた。故に福島原発の事故も想定範囲外とされた。しかし自然のサイクルという視点から見れば、それは違って見えたはずだ。実際、そのような過去の記録は存在したし、研究も行なわれていた。自然を時間的なサイクルとして見ようとしないから、それらを無視できたのだ。

前回に続く、受け売りの2つ目。『ザ・スクープスペシャル』の録画をみた。古文書と地震考古学で日本の過去の地震や津波などを検証し、今後にいかすという内容だった。番組を見てわかったのは、古文書をひも解けば、東北以外にも地震や津波の記述がけっこうあるということだ。問題は、それをどういう姿勢で読むかだ。(だいぶ前の新聞で、火山の危険性を感じた原発推進派の人が火山学者のところに行き「火山が原発に影響しない結果が出る計算方法を教えてください」と言った、という記事を読んだ)。また地層から過去の津波を調べる地震考古学の研究からも、東北などでは6000年に6回は巨大津波があったことがわかっている。ここにも自然のサイクルがきちんとあるのだ。(記憶をたよりに書いているので多少まちがっているかもしれないが、他にもいくつか具体的なことを書いておく。)

1つめ。巨大地震と火山噴火の連動について。今世紀(だった気がする)、マグニチュード9クラスの地震が起こったとき、数年以内に火山の噴火を伴わなかったケースはない。(古い地震はマグニチュードを計測できないから記録がないのだろうと想像する)。当然、今回の地震でも火山噴火の連動が予想される。そしていま、可能性が一番高い山は富士山である。富士山が騒がれているのは知っていたが、他のケースを出されると信憑が高くなる。ちなみに富士山が噴火して、溶岩が河口湖方面に流れると、河口湖は埋まるそうだ。

2つめ。今回の震災以後、貞観津波が話題になった。これは貞観の地震(869年)の津波である。9世紀後半、平安時代である。どうもいまの日本の状況はこの時期と似ているらしい。例えば、陸地で直下型のマグニチュード7クラスの地震が頻発し、そのあとマグニチュード9クラスの地震が起こった。これは貞観の時と今回では重なるらしい。

ところが話しはそれで終わらない。貞観のほぼ10年後、関東地方では直下型の巨大地震が起こった。さらに、そのほぼ10年後、南海連動方の超巨大地震が起こっているのだ。つまり、自然のサイクルでみれば、今回の東北を皮切りに、関東地方での巨大地震、南海での超巨大地震が10年単位で続いてもおかしくないのだ。そう考えると、95年の阪神淡路大震災は、その後の超巨大地震の前触れの直下型地震に過ぎないことになる。さらにそれだけ地震が続けば、火山活動も活発になるかもしれない。日本はもう大変である。

悲観的になったわけでもないし、人の不安を煽るつもりもない。ただ久しぶりに、う~ん、と唸るような感じになった。ちっぽけなことを言えば、こんな時期に家を建てローンを抱え込んだのは間違いじゃないかということがある。まあそれはよい。それよりも強く感じたのは、日本列島というのはそういうサイクルを抱えた場所なんだ、という事実の重たさだ。それが人々に与える影響はとても大きいんじゃないだろうか。

縄文時代からこの列島に住む人たちは、そういうサイクルとつき合いながら生きてきた。そして長い時間をかけて、それに合った自然観や精神性を培ってきたことだろう。一世代、個人が意識的に身につけるのではなく、何世代にもわたって集合的に身に付けてきたのだろう。そしてそれは日本人(列島に住む人たち)らしさとでも言えるものかもしれない。でも具体的には何を身に付けてきたのだろうか。よくわからない。そしていま何を失いつつあるのか。それもよく分からない。大きな問いにぶつかった気がする。

ランニング再開

2012年02月19日 | 雑文
昨日、今日と相方と一緒に軽くランニングをする。昨日は晴れで太陽の光はだいぶ強くなっていたが、ものすごく冷たい風が北からびゅーびゅー吹いていた。川の表面は波立っていた。暗い藍色の水と波の白が鮮やかだった。寒かったが久しぶりのランニングに体が喜んでいた。7キロほどゆっくりと走った。

土手では高校生がマラソン大会をやっていた。男子が青いジャージ、女子が赤いジャージで北風に向かって気だるそうに走っていた。とてもじゃないがふだんから走っているようなフォームではない。慣れていない人間がこんな寒空のなか走っても楽しいはずがない。走ることが嫌いになるだろうなと思った。そういえば僕も高校生のころは走ることが大嫌いだった。

今日は風もなく心地よかったので距離を少し延ばすことにした。ところが6キロぐらい走るとヒザが痛み出した。無理をしても仕方がないので堤の上を3キロほど歩いた。土手のランニングコース、グランド、そして川を見下ろしながらゆっくりと歩いた。(横では相方が歩くスピードにあわせてジョギングしている)。

風はやわらかく太陽が暖かい。ランナーが歩いている僕の横を走りすぎていく。小型犬が飼い主とちょっと距離をとりながら走っている。ウォーキングをしながら話しをするカップルとすれ違う。タイミングの合わないパスを出しているサッカーの試合が見える。荒川遊園の観覧車が遠くの方に見える。それらすべてが春を予感させる太陽の光に包まれている。

のどかだ。レースに備えて土手を走っていたとき、走るためでなくゆっくりと土手に来たいものだ。よく、そう思っていた。図らずも、今日はそんな感じになった。1ヶ月後のフルマラソンを考えるとまずい感じだが、とてもよい時間だった。いずれにせよ、30分程度のランニングならできそうな感じだ。ランニングを再開しよう。レースのことはあまり考えずに気分よく走ろう。

さて、受け売り情報を2つほど書く。(目的は書きながら整理するためだ)。どちらもテレビ番組から。1つはNHKスペシャルでやっていた海や湖、川などの放射能汚染についてだ。ちょっと前に録画した番組なのでタイムリーではない。

原発事故のあと高濃度の放射性の汚染水を海に流した。その時、放射能は海の水で薄まるので魚などには深刻な影響は出ない、というようなことを専門家が言っていた。当時の説明では、排出された放射能は世界中の海水に平均的に拡散していくので問題ない、というような印象だった。ところがどうも海の中にもホットスポットのようなものが作られているらしい。専門家の期待はまた外れたわけだ。

まず、第一原発近海20キロ圏内はそれなりの高濃度である。簡単には薄まらない。また、そのあたりでとれた底魚は基準値を上回っていた。放射性物質が海底に溜まり、そこに生きるゴカイなどが吸収し、そのゴカイを食べる底魚が高い数値を示すというわけだ。

また、これらの放射性物質は広大な太平洋に拡散するというよりも、太平洋岸を南に下っているそうだ。日本の太平洋側では、川から流れた水は地球の自転の影響で海岸沿いを南に向かう。放射性物質もそれに合わせて動く。茨城県のひたちなかの沖合では海水から高い数値が検出されている。また千葉県の銚子沖でもそこそこの数値が出ている。

とくに銚子沖の数値が10月に比べて12月の方が上がっていた。放射能が海全体に薄く拡がるというよりも、ホットスポットが拡散しているようだ。(この考え方はきわめて東京中心になるのだが)銚子から房総半島を辿って南下すればその先には東京湾がある。

それとは別に東京湾は放射能の影響を受け始めている。首都圏に降り積もった放射性物質が川を辿って東京湾に流れ込んでいるからだ。番組では江戸川と荒川を取り上げていたが、河口付近の数値は第一原発20キロ圏内の海域とそれほど変わらなかった。汚染の拡がり方からすると、東京湾の汚染が最もひどくなるのは2年2ヶ月後だという。場合によっては、川からの汚染と海からの南下の汚染で、東京湾は放射能汚染に挟み撃ちされるかもしれない。

原発事故は昨年の3月に起こったもので、それ以後は事故の収束に向かっている時間だ。そんな雰囲気かもしれない。でもそれは間違いだろう。原発事故とは、1つ始まってしまえば次から次へと新たな事故が起こるものなのかもしれない。まるで将棋倒しのように。最初に倒れた将棋を駒を立て直せば解決というような簡単なものではない。今も1つ、また1つと新しく駒が倒れているのかもしれない。そして、あとどのくらいの駒が倒れるのか、それも分かっていない。

原発をコントロールすることの不可能性。そして原発の時間と人間の時間のズレ。このあたりのことを、今回の事故をきっかけにこの社会は考えねばならない気がする。この世界には人間の科学技術では思い通りに出来ないことがあり、現代人の時間感覚で判断できないものがあるのかもしれない。そういう謙虚さが必要なのだと思う。

もう1つの受け売りは、古文書と地震考古学の番組からだが、長くなってきたので次回に。

久しぶりのジョギング、そして『関西電力反原発町長暗殺指令』を読む

2012年02月13日 | 雑文
昨日、久しぶりに軽くジョギングをした。2週間ぶりだ。自宅から荒川の土手に行き、そこで折り返して帰ってくる。ヒザの調子を試すための5kmほどの軽いジョギング。うちの奥さんと話しながら2人で走った。走り出すと、体が喜んでいるのがわかる。体がスピードを出そうとするのを頭で押さえ込む。

土手の手前では風速15メートルの表示。強い北風が吹いている。気温は低い。それでも季節が変わったのか、真冬の刺すような冷たさはない。太陽の力が少しずつ強くなっているのだろう。あっという間に走り終わる。物足りないくらいの距離だ。ただヒザには少しだけ痛みがある。ケガを治しながら、板橋市民マラソンに向けて走り込む。今回の目標はタイムとは違うところにありそうだ。

さて、『関西電力反原発町長暗殺指令』(齊藤真著、宝島社)という本を図書館で借りて読んだ。事故以来、原発絡みの本を読むようにしている。このもともと福島での原発事故とは別の流れで書かれたものだ。週刊現代に数年前に掲載された記事が、タイミング良く本になったというわけだ。

話しとしては簡単だ。関西電力が福井県の高浜町で原発事業(とくにプルサーマル)を推進しようとする。ところが町長はことごとく関電の方針と衝突する。現地には高浜の天皇と言われる関電社員の「K」という人物がいる。関電の方針を実現するためのキーパーソンだ。

関電(というかK)は、プルサーマル実施のためには施設の厳重な警備が必要だと考える。そして犬を使った警備を考える。どう猛な大型犬だ。Kの指示で現地に警備会社が作られる。(この本の中で実名で暗殺計画を暴露している矢竹と加藤という人物が中心になる)。そして犬を使った警備が始まる。Kは警備会社の事業展開をちらつかせ、2人を手足のように使う。

町長との対立が深まり、Kの思い通りにものごとが進まなくなる。そこでKは犬を使って町長を暗殺するという計画を立て、矢竹に実行を迫る。結局、暗殺計画は実行されず、プルサーマル計画も流れる。Kも現地を離れる。それによって警備会社の事業展開の話もなくなる。この仕事に人生を賭けていた2人は裏切られた思いで告発を考える。そして筆者に話しを持ってくる。

筆者は取材を重ね、週刊現代に発表する。しかし記事はほとんど黙殺される。マスコミも騒がず、関電からの抗議もなく、社会的な話題にもならない。唯一の反応といえば、矢竹と加藤という人物が未払いになっている犬の購入代金を取り立てに行った件が「恐喝容疑」となり、有罪判決を受ける。(なんとKに訴えられたのだ)。

正直、いまひとつ引っかかってこない本だった。話しに信憑性がないということではない。原発の利権を考えれば、殺人事件があってもおかしくはない。(岐阜県御嵩町では、96年に産廃処理場建設を巡って反対派の町長が襲われている)。おそらく「原発に反対する町長を犬によって暗殺する」という事件性に引っ張られすぎているのだろう。そこに関わる人たち(関電、K、高浜町民、町長、矢竹、加藤、そして取材してしまう筆者)のさまざまな事情のようなものが見えてこないのだ。

週刊誌の段階で大手マスコミが無視するというのは理解できる。関電も足並みを揃えて記事を黙殺するのもわかる。しかし週刊誌に報道されたのに話題にならないということは、一般の読者に今ひとつ届かなかったからだろう。福島の事故がなければ僕もこの本を手にすることはなかっただろうし、実際に読んでみても自分とはあまり関係があるように感じられない。

書いていてわかってきた。結局のところ社会的な意味では何ひとつ事件は起こっていないのだ。(皮肉なことに恐喝容疑だけが社会的な事件である)。関電が高浜町でプルサーマルを実施しようといろいろ現地対策を行なった。そのなかには怪しいものもあるかもしれない。でも、それ自体は別に事件ではない。町長が原発に反対するということもあるだろう。警備事業を巡っての不当な下請け切りもひどい話しだが原発に特有の問題ではない。そして何より、犬を使った暗殺というのは未遂であれ、実際に行われていない。

暗殺事件が起こっていれば、これらの話も一連の事件として読者に届いたかもしれない。しかし実際には事件は起こっていない。関電(というかK)との業務の契約や約束について不満を抱く2人の男がいろいろな話しをしているにすぎない。そう受け取られてしまう可能性がある。事件が起こらなかったからこそ、そういう事件が起こってもおかしくないという事情が描かれなければならない。

この本で僕がなるほどと思ったことがある。それは原発事業に関わっている人たちがそれを「誇り」と感じている部分があるということだ。実名で告白した2人も、原発の警備をやっているということを、子どもにも誇れる仕事だと胸を張っている。おそらく日本のエネルギーを支えているという気持ちなのだろう。

ほんとうは原発など嫌なのだが、ほかに産業もない。そんな地域が、原発にからむ雇用や電源三法交付金を念頭に誘致していると思っていた。中央が厄介なものを金で押し付けている、そういう図式で捉えていた。しかし、日本のために必要な原発を、ある程度のリスクも込みで引き受ける。それは誇りのある仕事だ。そんな風に思っている人たちが多くいても不思議ではない。(そもそも、原発はクリーンで安全なエネルギーということになっているのだから)。

考えてみると、そのあたりがよく分からない。原発に関して報道などで入ってくるのは推進派か反対派の声ばかりだ。多くの人たちは積極的に推進や反対を唱えたりはしないだろう。そこにある原発、あるいは原発誘致を、生活のための1つの条件として見ているのではないか。(あるいは見ていたのではないか)。

そう考えると、「原発を廃止すると電気代が上がる。産業界にも家計にも響く。だから云々……」というのは、中央の身勝手な言い分ということになる。原発で生活が成り立っている人たちがすでにいるかもしれない。(原発がなければ生活が成り立たない人かもしれない)。その人たちは、危険だが日本のためを思って原発を引き受け、その仕事に誇りを持ち、日々、額に汗して働いているかもしれない。

個人的には原発は反対である。だが原発で生活している人たちもたくさんいるだろう。そういうことを想像せずに反対を言ってみても「暗殺計画」のように何だか引っ掛かりの感じられない話しに聞こえてしまうだろう。この本を読んで、そんなことを考えることになった。

虫取り網をもった守衛さん

2012年02月10日 | 雑文
若潮マラソンから2週間ちかくたった。まだ膝が治らない。仕方がないので接骨院に行った。靭帯などには問題はないとのこと。治るのに必要な時間をかけるしかない。時間を短縮するために、しばらくは接骨院に通おう。走れないのでだんだんとむずむずしてくる。

周期的に、アウトプットが楽しい時期と、インテイクが心地よい時がやって来る。いまはどちらかというとインテイク気味。ブログもツイッターも乗り越えるべき壁として立ちはだかっている感じだ。こういう時、引っ越す前なら12階のベランダから外を見た。そうすると何か書けた。

この時期なら毎日のように富士山が見えた。夕焼け色の富士山は毎日見てもあきないほどだった。見下ろせば桜並木が見えた。冬には焦げ茶色の桜の幹と枝が冬らしい街の景色を作っていた。春には薄ぼんやりとした桜色の空気が感じられた。初夏には太陽の光と緑の葉のコントラストが楽しめた。夜には星は少ないが東京にしては広い夜空が見渡せた。遠くには池袋や新宿の高層ビルの窓の明りや赤く点滅する灯が見えた。そういうものをそのまま書いてもよいし、そこから思うことを書いても良かった。

いまロフトの窓から見えるのは、窓のすぐ外にある電線だ。何の情緒もない。ときどき鳥がやって来ることもある。雀と鳩の間くらいの大きさの鳥だ。(こんど名前を調べよう)。バランスを取るように電線の上でしばらくゆらゆらしている。首をあっちに向けたり、こっちに向けたりする。そして大抵はフンをして飛び去っていく。窓の向こうは2階建ての屋根が続く。(いずれは3階建てに立て替えられ、視界はふさがれるのだろう)。その向こうには十何階かのマンションが壁のように並ぶ。唯一、マンションの間に庚申塔に立つ大銀杏が1本見える。それらを見ていても、何かを書きたいという気にはならない。

あるいはそれは僕の感性の問題なのかもしれない。下町の小さな2階建ての屋根や、壁のような高層マンションや、マンションに囲まれる1本のイチョウの大木からイマジネーションを得る人もいるに違いない。やってみようじゃないか。

例えば、庚申塔の横のマンションに住む虫取り網をもっている守衛さんについての話だ。庚申塔の横のマンションには守衛さんが常駐している。近ごろのマンションはしてはめずらしい。ほとんどが警備会社と契約して、オートロックや防犯カメラを使って遠隔でセキュリティー対策をしているからだ。でもそのマンションには守衛さんがいる。

入り口の横にはちょっとした受け付け窓口がある。守衛さんはその内側でいつもテレビを見ている。机と椅子とテレビが入ると余裕がなくなるような狭い空間だ。でもその扉の奥には生活空間があるようで、どうも守衛さんは住み込みのようだ。守衛さんは小柄で優しそうなおじいさんだ。(こんな人でいざという時に大丈夫なのかと心配してしまうほどだ)。マンションに出入りする人にしずかな笑顔できちんと挨拶をする。

多くの住民たちは今どき守衛さんなんて必要ないと思っていた。面倒な人間関係がひとつ増えるだけだと思う人もいた。でも実際に住んでみると出入りするときに笑顔で挨拶する程度で、あとは話しかけてくることもない。なんだかんだ言っても守衛の格好をした人がいた方が不審者も入ってこない。何より管理費が高いわけではない。(近隣のマンションよりもかえって安いくらいだ)。きっと建て主と何らかの関係があるのだろうと住民たちは想像していた。

でもひとつだけ不思議なことがあった。守衛さんはときどき夕方に虫取り網をもってマンションの屋上に上がっていくのだ。あるいは朝早く虫取り網をもって屋上から降りてきたこともある。守衛さんは鍵を持っているから屋上に行き来すること自体は問題ない。でもなぜ虫取り網を持って行くのだろう。14階の屋上にまで上ってくる虫はそれほどいない。(屋上庭園になっているわけではない。ただのコンクリートの屋上だ)。何かの虫が発生したとしても虫取り網で捉まえるよりは殺虫剤を使うだろう。考えれば不思議だが、住民たちもとくに深く考えはしなかった。下手に質問してわずらわしい人間関係が発生してもめんどうだと思った。

じつは守衛さんは虫取り網で「三尸神(さんししん)」を捕まえていたのだ。住民の幸せを願って。

そもそも庚申信仰というのは道教の三尸説に基づく陰陽道系の信仰だ。日本では平安時代以来、朝廷をはじめひろく民間に普及した。道教では、人間の体内には三尸神とよぶ三匹の虫がいて、上尸神は頭、中尸神は胸、下尸神は身体下部の病をおこすと考えていた。

三尸神は庚申の日の夜に、つま先から抜け出して天に上り、天を支配している玉皇大帝(北極星)のもとへとおもむく。そしてその人間の悪事について報告をする。それを聞いた玉皇大帝は、その人間の死ぬ時期を決めた。人々はこれを恐れた。だから、庚申の夜には徹夜をして行いを慎んだ。つま先から三尸神が出て行かせなくするためだ。

僕のロフトの窓からは大きなイチョウが見える。庚申塔のイチョウだ。そして庚申塔のとなりはマンションだ。そのマンションには虫取り網をもったやさしい笑顔の年老いた守衛さんがいる。守衛さんは庚申の夜になるとこっそりと屋上に上り、虫取り網をしっかりと握る。そしてじっと待つ。日付も変わり、下町の夜が静かになる。住民たちはみな眠りについた。マンションの窓からひとつ、またひとつと小さな光が壁を伝うように上っていく。守衛さんは虫取り網を持って屋上の端っこを行ったり来たりする。そして小さな光をひとつ、またひとつと虫取り網で捕まえていく。東の空がうす青くなるまで。そうやってマンションの住民を守っているのだ。

なるほど、何とかなるものだ。やろうと思えば、電線でフンをする鳥からも何かが書けるかもしれない。思ってもいなかった展開になったが、ストレッチにはなったし、多少、アウトプットする気にもなってきた。合言葉は、まず手を動かしてから考えろ、だ。






『できることをしよう。 僕らが震災後に考えたこと』を読みました

2012年02月04日 | 雑文
『できることをしよう。 僕らが震災後に考えたこと』という本を読んだ。著者は糸井重里とほぼ日刊糸井新聞で、新潮社が出版したものだ。震災以降に「ほぼ日刊イトイ新聞」に掲載されたコンテンツを収録し、一冊の本にまとめたものだ。全体的なバランスや統一感は弱いが、読んでいて手応えのあるとても良い本だった。バランスや統一感が弱いぶん、それに対しての僕の印象もバラバラになっている。書きながら整理をしてみる。

本の内容は大きく分けて対談と体験記からなる。対談部分は、クロネコヤマトの社長や早稲田大学の講師など震災を支援する人とのもの、気仙沼や陸前高田で仕事を再開している人たちとのもの、防災の観点からNHKの人とのもの、そして糸井重里のロングインタビューからなる。体験記の部分は、糸井重里やスタッフが宮城県南端の亘理郡山元町に訪れたときのことと、一人のスタッフがひと夏をかけ高校野球の福島県大会を追いかけた部分からなる。

どの部分をとっても、個人に焦点が当てられている。震災に際して、あるいは震災後にさまざまな形でそれと関わった人たちが、具体的に何かを感じ、何かを考え、何を行動したかが書かれている。そういった個人を本の前書きで「ふつうの誰かさん」と呼んでいる。

『たいていのひとは、すばらしく立派な人でもなく、つくづく悪いやつでもなく、時にはおろおろ歩き、時には毅然として、「ふつうの誰かさん」として、好かれたり嫌われたりしながら生きています。そういう「ふつうの誰かさん」としての人間が、今回の大震災のような、とんでもない事実に直面したときに、どういう気持ちになるのか、どういうことをしはじめるのか、想像することはできませんでした。この本は、そういうぼくら「ほぼ日刊イトイ新聞」の人間達が会ってきたすてきな、「ふつうの誰かさん」の話しです。それ以上でもなく、それ以下でもないのですが、ぼくらはあえてよかったと思いますし、きっと読むとうれしくなったりもします。』

たしかに「読むとうれしくなる」という部分は多かった。たとえば被災直後のクロネコヤマトの社員の行動を社長がこう語っている。

『震災発生の数日後、地元ではもう、自発的に、わが社の社員が役場に直談判しに行って、救援物資の配送をはじめていた。「何でもやる、やらせてくれ」と。……現場判断で会社の車を使い、上司の承認も得ず、勝手にことを運ぶ。しかも無償で。これはね、ふつうの会社なら、権限違反なんです。』

大きな地震が来て、会社とも連絡取れない。周りではどんどん事態が悪くなる。救援物資が届かない。そんなときに、自分には車と日ごろ培ったノウハウがあると気づく。そこで行動を起す。内田樹の阪神淡路大震災の話を思い出した。被災地では、自分が失ったものを数え上げる人たちはどんどんダメになっていったが、自分に残されているものを数え上げる人たちは元気だった、というものだ。

悲惨な状況でも、限られた条件の中で最善を尽くす。そういう「できることをしよう」という姿勢が、状況の悲惨さを打ち破る「うれしさ」のようなものをもたらすのだろう。ほかにも地震発生後に上司に無断でツイッターで情報配信をしたNHKの人間、津波で泥に埋まった家々をスコップで綺麗にするボランティアたち、防護服を着て警戒区域内のペットを救助する人などそういう話しが出てくる。

スコップ団は『正直なところ、きれいにしても、住めるようになるかどうかはわからない。……自分たちは、世界を換えることはできない。だけど、こうして誰かの世界を変えることはできる。簡単なことだ。あきらめなければいい』と言い、動物保護をする女性は『こんなふうに、一匹、一匹保護したり、エサとか水をあげてても、意味ないんじゃないかと思うことは、ときどきある。……でも動物が目の前にいたら、そんなことはもう関係ない。……結果を出そうとしているわけじゃないし、誰かのためにやっているわけでもない。たぶん、被災地で残された動物たちを保護するのが楽しいからやっているんだと思う』と言う。

「うれしくなる」というのとは違う考えさせられたこともある。それは陸前高田と気仙沼で事業を再開する話しについてで、「半壊より全壊の方がよい」というものだ。陸前高田と気仙沼、どちらも津波の被害を受けた。陸前高田は文字通り「壊滅・全壊」したが、気仙沼は、船、漁師、漁師の腕など残るものは残った「半壊」だった。外部の人間からすれば、まだ半分でも残った方が良かったのではと簡単に思ってしまう。

しかし当事者からすれば、全壊ならばあきらめもつくし、すべてを新しくできる。しかし、半壊だと水産業を復興させるという命題や、今後どう建て直したらいいかという不安感も残るというのだ。その意味で、全壊と半壊なら全壊の方がいいと言うのだ。(もちろんすべての人ではない。そう考える人もいるということだ)。ただ僕がいちばん重く感じたのは、「その意味で、すべてが綺麗に残っているのに何もできない福島のつらさがある」という言葉だった。目に見えるものは何ひとつ変わらない。何ひとつ壊れていないからあきらめることもできない。建て直そうにも壊れているものが見えない。見えているのは数字としての放射能だけだ。これはきついだろう。

また、糸井重里がツイッターを介してつながった津波被災者の女性とのやりとりも考えさせられた。彼は「自分が東北に行っても何もできないのではないか」と尋ねる。「スポーツ選手が子どもに絵本を読み聞かせるシーンをテレビで見たけど、ぼくはそんなことはできないし。いや、やってもいいよ、でもそういうことじゃない気がする。何すればいいんだろう。何を見ればいいの、話せばいいの?」と。

帰ってきた答えは、「まずは話しを聞いてくれるだけでもいい」、「みんなが同じ経験をしたから、話しをする相手がいないんです」というものだった。よく考えたら当たり前のことだが、これにはハッとした。『みんなが同じ経験をしたから話しをする相手がいない』。確かにそうだ。誰かと一緒にマラソンを走る。お互い同じようにきつい時間を過ごす。その相手に自分がいかにきつい体験をしたかを語ろうとは思はない。お互いきつかったね、と確認するくらいだ。

厳しい体験をした人は、その体験を誰かに話すことで少しだけ楽になる。その相手は同じ体験をしていない人の方が良いのだろう。体験していない人が話しを聞くことで追体験をする。そのとき体験した人のきつさのようなものが体験していない人に少しだけ移動する。それによって少し楽になるのだろう。「聞いてくれるだけでもいい」というのはそういうことなのだろう。(ふと思ったのだが、「話しを聞いてもらう」ではなく「語りを聞いてもらう」という方が正確なのだろう。話しは理解すれば良いが、語りは受けとめることが必要になる、そんな感じがする)。

そう考えると、この本には「うれしくなること」も「きつくなること」も書いてある。全体的なバランスも統一感も弱いが、さまざまなことが読者に移動してくる。よみながら些細なことを追体験できる気がする。書かれていることが「ふつうの誰かさん」のことだからだ。そのあたりが読んでいて手応えを感じたあたりなのだろう。その手応えとは、理解ではなく、受けとめることなのだろう。いずれにしろ僕にとってはよい本だった。

(やれやれ。最初に書こうと思っていたことと、ぜんぜん違うことになってしまった。ざっと本の概要を説明して、一方では本の内容をフックに震災について、もう一方では糸井重里について吉本隆明や親鸞との絡みで書こうと思っていた。にもかかわらずこうなってしまった。この事態そのものが考えるに値しそうだ)。