4月29日の毎日新聞に『「インド流」を手本?』という記事が載っていた。米軍普天間飛行場の移設問題で迷走している鳩山首相を、インドの政府高官が「ハトヤマはクレバーだ」と述べているという記事だ。インドの高官によれば、鳩山が移設先の「腹案がある」とのらくらしている間に、メディアが「候補地」を先行取材することで、全国で米軍基地を押し付けられるのがイヤだという声が上がる。結果、国外移設が最善というムードが作られる。「迷走も打算?」という記事である。
テレビをほとんど見ないので鳩山首相がどんな表情で何を言っているかは良く知らない。しかし新聞に目を通している限り、少なくとも彼がさまざまな場面で「迷走」しているように感じられる。だが、普天間問題については違う見方も出来るのではないかという気もする。というのは、封印したとはいえ、彼の持論は「常駐なき日米安保」だからだ。
僕は政治については詳しくないので、あまり突っ込んだ話は出来ないが、「常駐なき日米安保」と現状の間にはかなりのギャップが存在している。地元に基地が来るのは反対だが、米軍が日本からいなくなることは不安だと思っている人がかなりの数になることは、新聞の報道からでもわかる。米軍そのものは日本に必要だが、地元に来てもらっては困る。これが前提条件である。
この前提条件から「常駐なき日米安保」まで引っ張るために出来ることは何か。1つには、あらゆる地元に基地がくる可能性を想像させ、意思表明をさせることだろう。そういう声を集めていけば、日本に米軍基地を受け入れる地域がほとんどないことになる。その結果、そもそも米軍が日本に常駐している必要があるのだろうか、という問いが出てくるかもしれない。鳩山首相が迷走しているのかクレバーなのかはわからない。しかし、受け入れ拒否の声がかつてより大きくなっているのは事実だ。
この記事を見た時に「自然な出来事ほど人々はそれを受け入れざるを得ない」という(むかし自分で考え出した)言葉を思い出した。人間というのは人が行なったことには積極的な反応をするが、自然な出来事には基本的には受け身となるということだ。
『荘子』か何かに出ていた話しだと思うが、川で舟を操っているときには別の舟がぶつかってくる。その時、人が乗っていない舟だと腹は立たないが、人が乗っている舟だと腹が立つ、というのがある。(だから人が乗っている舟とぶつかっても、乗っていない舟と同じだと思えば腹も立たないだろう、というのがこの話しの要点である。)もちろん近ごろでは、道端に停まっている自転車に自分からぶつかっても、自転車に腹を立てるような人たちが増えている。その意味では現在では、舟の話しのリアリティーは薄れているかもしれない。
それでもまだ天災よりは人災に腹を立てるという傾向はある。例えば、大地震と大規模テロ。どちらも多くの犠牲者がでるが、その反応はかなり違うものだろう。大地震については、防災の不備や建築の違法性など人が関わる部分の責任追及は起こるが、地震そのものは受け入れざるをえない。しかし大規模テロをしかたがないから受け入れようとは思わないだろう。報復をする。原因を追及する。可能な限り積極的に動くだろう。テロには明確な人の意志が働いているからだ。ある出来事が人の意志に基づいているとき、人はそれに積極的に反応する。言い方を変えれば、出来事に人の意志が働いていない場合は、人はそれを受け入れがちになる。
そこで話しを鳩山首相の普天間問題に戻す。彼の行動は意図によるのか、よらないのか。少なくとも「迷走」というのが大方の判断である。つまり「意図によらない」言動ということだ。意図によらない言動によって、基地はいらないという声が上がっている。つまり地方の人々の自然の声である。沖縄の声や、徳之島の声を「わがままだ」と批判することはできない。心情的にはその声を受け入れたいと思う人は多いだろう。
可能性としては3つだ。第一。今回のドタバタは単なる「迷走」である。この場合、鳩山首相はただの愚か者ということになる。しかし結果的には沖縄の基地問題に(というか日本の基地問題に)一石を投じたことになるかもしれない。
第二。鳩山首相が中途半端に賢い場合。この場合、今回のドタバタは意図にもとづいていることになる。自分が「迷走」しているような振りをして、基地問題、ひいては日米安保の問題を顕在化させることを狙っている。中途半端に賢ければ、いずれ「あれは意図に基づいたものである」という声がどこかから出てくることになる。(その場合、本人の口からではなく、周辺から出てくることになる)
第三。鳩山首相が地球人の予想を超えて賢かった場合。すべての言動は意図したとおりで、起こっているドタバタも予想通りである。例えば、沖縄の基地問題は数十年というスパンで考える問題で、自分の役割は解決ではなく、問題を顕在化させることのみだと割り切っている。そしてそのことは誰にも知らせずに、そこから生じる周囲の評価も受け入れる。なぜなら、意図により出来事を引き起こすより、意図のない迷走から引き起こされた出来事の方が人々に受け入れられやすいからである。
可能性として3つ挙げたが、それぞれの確率にはかなりの差がある。おまけに、1番目と3番目は現象的にはまったく同じである。仮に2番だとしても、その話しが出てくるのは、この問題に決着がついてからだろう。つまり基本的には「迷走」なのだ。
迷走しているのは一つの舟だ。鳩山丸という舟だ。そこにはあたかも船頭がいないかのようである。舟はどこかにぶつかることになるだろう。船頭がいない舟がぶつかっても腹が立たなかったのは、はるか昔の中国の話で、ここは現在の日本である。
テレビをほとんど見ないので鳩山首相がどんな表情で何を言っているかは良く知らない。しかし新聞に目を通している限り、少なくとも彼がさまざまな場面で「迷走」しているように感じられる。だが、普天間問題については違う見方も出来るのではないかという気もする。というのは、封印したとはいえ、彼の持論は「常駐なき日米安保」だからだ。
僕は政治については詳しくないので、あまり突っ込んだ話は出来ないが、「常駐なき日米安保」と現状の間にはかなりのギャップが存在している。地元に基地が来るのは反対だが、米軍が日本からいなくなることは不安だと思っている人がかなりの数になることは、新聞の報道からでもわかる。米軍そのものは日本に必要だが、地元に来てもらっては困る。これが前提条件である。
この前提条件から「常駐なき日米安保」まで引っ張るために出来ることは何か。1つには、あらゆる地元に基地がくる可能性を想像させ、意思表明をさせることだろう。そういう声を集めていけば、日本に米軍基地を受け入れる地域がほとんどないことになる。その結果、そもそも米軍が日本に常駐している必要があるのだろうか、という問いが出てくるかもしれない。鳩山首相が迷走しているのかクレバーなのかはわからない。しかし、受け入れ拒否の声がかつてより大きくなっているのは事実だ。
この記事を見た時に「自然な出来事ほど人々はそれを受け入れざるを得ない」という(むかし自分で考え出した)言葉を思い出した。人間というのは人が行なったことには積極的な反応をするが、自然な出来事には基本的には受け身となるということだ。
『荘子』か何かに出ていた話しだと思うが、川で舟を操っているときには別の舟がぶつかってくる。その時、人が乗っていない舟だと腹は立たないが、人が乗っている舟だと腹が立つ、というのがある。(だから人が乗っている舟とぶつかっても、乗っていない舟と同じだと思えば腹も立たないだろう、というのがこの話しの要点である。)もちろん近ごろでは、道端に停まっている自転車に自分からぶつかっても、自転車に腹を立てるような人たちが増えている。その意味では現在では、舟の話しのリアリティーは薄れているかもしれない。
それでもまだ天災よりは人災に腹を立てるという傾向はある。例えば、大地震と大規模テロ。どちらも多くの犠牲者がでるが、その反応はかなり違うものだろう。大地震については、防災の不備や建築の違法性など人が関わる部分の責任追及は起こるが、地震そのものは受け入れざるをえない。しかし大規模テロをしかたがないから受け入れようとは思わないだろう。報復をする。原因を追及する。可能な限り積極的に動くだろう。テロには明確な人の意志が働いているからだ。ある出来事が人の意志に基づいているとき、人はそれに積極的に反応する。言い方を変えれば、出来事に人の意志が働いていない場合は、人はそれを受け入れがちになる。
そこで話しを鳩山首相の普天間問題に戻す。彼の行動は意図によるのか、よらないのか。少なくとも「迷走」というのが大方の判断である。つまり「意図によらない」言動ということだ。意図によらない言動によって、基地はいらないという声が上がっている。つまり地方の人々の自然の声である。沖縄の声や、徳之島の声を「わがままだ」と批判することはできない。心情的にはその声を受け入れたいと思う人は多いだろう。
可能性としては3つだ。第一。今回のドタバタは単なる「迷走」である。この場合、鳩山首相はただの愚か者ということになる。しかし結果的には沖縄の基地問題に(というか日本の基地問題に)一石を投じたことになるかもしれない。
第二。鳩山首相が中途半端に賢い場合。この場合、今回のドタバタは意図にもとづいていることになる。自分が「迷走」しているような振りをして、基地問題、ひいては日米安保の問題を顕在化させることを狙っている。中途半端に賢ければ、いずれ「あれは意図に基づいたものである」という声がどこかから出てくることになる。(その場合、本人の口からではなく、周辺から出てくることになる)
第三。鳩山首相が地球人の予想を超えて賢かった場合。すべての言動は意図したとおりで、起こっているドタバタも予想通りである。例えば、沖縄の基地問題は数十年というスパンで考える問題で、自分の役割は解決ではなく、問題を顕在化させることのみだと割り切っている。そしてそのことは誰にも知らせずに、そこから生じる周囲の評価も受け入れる。なぜなら、意図により出来事を引き起こすより、意図のない迷走から引き起こされた出来事の方が人々に受け入れられやすいからである。
可能性として3つ挙げたが、それぞれの確率にはかなりの差がある。おまけに、1番目と3番目は現象的にはまったく同じである。仮に2番だとしても、その話しが出てくるのは、この問題に決着がついてからだろう。つまり基本的には「迷走」なのだ。
迷走しているのは一つの舟だ。鳩山丸という舟だ。そこにはあたかも船頭がいないかのようである。舟はどこかにぶつかることになるだろう。船頭がいない舟がぶつかっても腹が立たなかったのは、はるか昔の中国の話で、ここは現在の日本である。