今日は朝から冷たい雨が降っている。このままランニングはできずに終わりそうだ。今月、ここまで96km走った。月初、一週間以上走れなかったことを考えれば、よいペースだ。このペースを定着させ、一月のレースに持ち込みたい。
先週、次男と『風立ちぬ』に行って、もっと映画を見たいと思った。さっそくDVDを借りて、昨日、是枝監督の『歩いても 歩いても』を見た。とても心地よかった。午前中に映画を見て、夜には野田MAP公演の『MIWA』を見に行った。面白い芝居だったが、すごい芝居とまではいかなかった。(予想だおりだが、古田新太と池田成志、そして宮沢りえが良かった)。ちょっと文化的な週末だ。
先日、図書館で雑誌『ニュートン』を借りた。特集は「時間論」だった。アインシュタインの相対性理論をテーマにしたものだ。僕は高校に入った頃には理系科目を捨てていたので、正しく理解している自信はない。それでもおおよその内容は理解できた気がする。
相対性理論とは、この地球上と光速に近いスピードで移動している宇宙船の中では時間の進み方が違う、というものだ。光速に近い宇宙船の方が地上よりも時間がゆっくり進む。だから宇宙船で三年旅をして地球に戻ったら五年たっていたことになる(年数はいい加減)。映画『猿の惑星』で使われていた。
とくに感心したのは、アインシュタインの一貫性だ。特殊相対性理論は「光速度不変の原理』をもとに成り立っている。どういう原理かというと、光の速さは常に一定で秒速30万km、というものだ。(そして光速は宇宙で最も速い)。
アインシュタインは十六歳の時に、光が最も速いのならば、光の速度から見たべつの光はどのように見えるのか、という疑問をもった。(具体的には、光速で飛んでいる自分の顔は前にかざした鏡に映るか、というものだったと思う)。疑問としては、時速60kmで走っている自動車から、時速80kmで走っている電車を見たらどうなるのか、というのと同じである。
時速80kmの電車は、路上からは時速80kmだが、自動車に乗った人からは時速20kmに見える。私たちは経験的な事実としてそれを知っている。そしておそらく光も同じだと推論する。光速の半分の速度で飛んでいる宇宙船から光を発すれば、その光は光速の半分の速度に見えるはずだと。
アインシュタインは違う。光の速さは秒速30万kmだから、どのような状況でも秒速30万kmのはずだ。つまり光速の半分の速度の宇宙船から光を見ても、その光は秒速30万kmで去って行くはずだ、と考える。だがそうなると、宇宙船から発された光を地上から観察したら、秒速45万kmとなってしまう。これだと光の速さが秒速30万kmという「光速度不変の原理」に反することになる。
僕ならば、不思議なこともあるものだと、そこで終わってしまう。しかしアインシュタインは、そこからグイグイと考えを進めていく。光速度が不変だとすれば、それをそれを基準に「時間と空間」を論理的に書き換えてしまえばよい、と。それにより、「光速に近いほど、時間はゆっくり進み、空間は縮む」という結論を導き出す。つまり、時間や空間の均一性は宇宙全体で共通しているのではなく、相対的ということになる。(地球上ではほぼ均一だから問題にはならない)。
後には特殊相対性理論に重力の要素を加えた「一般相対性理論」が出来上がる。どちらも理論的に導き出された結果だが、その後の観察では理論通りの現象が認められているそうだ。十六歳の疑問から一般相対性理論まででも20年以上かかっている。一貫して何かをやり続けるのはすごいことだ。これはアインシュタインだけでなく、一流の人には共通している。
どうすれば「一貫して何かをやり続ける」ことができるのだろう。少なくともアインシュタインには結果は見えていなかったし、報酬も約束されていなかった(とはずだ)。結果が分かっていて、成功報酬が決まっているから取り組んだ、というのではなさそうだ。
アインシュタインが一貫して考え続けられたのは、「問い」がいつも目の前にあったからではないか。僕にっては不思議なことで「終わり」となる地点が、彼にとっては「出発点」だったのだ。おそらく、うまく行かないことがあるたびに、そこを終着点とせずに出発点にする。そういうサイクルを持っていたのだろう。
相対性理論を考えられるほどの頭脳を、万人が持っているはずはない。しかし、行き止まった時に、そこを終着点ではなく出発点にするという姿勢なら、僕にも持てるかもしれない。理論の内容は正確に理解できないが、そういう姿勢は学ぶことができる。
外は暗くなり、まだ雨が降っている。
先週、次男と『風立ちぬ』に行って、もっと映画を見たいと思った。さっそくDVDを借りて、昨日、是枝監督の『歩いても 歩いても』を見た。とても心地よかった。午前中に映画を見て、夜には野田MAP公演の『MIWA』を見に行った。面白い芝居だったが、すごい芝居とまではいかなかった。(予想だおりだが、古田新太と池田成志、そして宮沢りえが良かった)。ちょっと文化的な週末だ。
先日、図書館で雑誌『ニュートン』を借りた。特集は「時間論」だった。アインシュタインの相対性理論をテーマにしたものだ。僕は高校に入った頃には理系科目を捨てていたので、正しく理解している自信はない。それでもおおよその内容は理解できた気がする。
相対性理論とは、この地球上と光速に近いスピードで移動している宇宙船の中では時間の進み方が違う、というものだ。光速に近い宇宙船の方が地上よりも時間がゆっくり進む。だから宇宙船で三年旅をして地球に戻ったら五年たっていたことになる(年数はいい加減)。映画『猿の惑星』で使われていた。
とくに感心したのは、アインシュタインの一貫性だ。特殊相対性理論は「光速度不変の原理』をもとに成り立っている。どういう原理かというと、光の速さは常に一定で秒速30万km、というものだ。(そして光速は宇宙で最も速い)。
アインシュタインは十六歳の時に、光が最も速いのならば、光の速度から見たべつの光はどのように見えるのか、という疑問をもった。(具体的には、光速で飛んでいる自分の顔は前にかざした鏡に映るか、というものだったと思う)。疑問としては、時速60kmで走っている自動車から、時速80kmで走っている電車を見たらどうなるのか、というのと同じである。
時速80kmの電車は、路上からは時速80kmだが、自動車に乗った人からは時速20kmに見える。私たちは経験的な事実としてそれを知っている。そしておそらく光も同じだと推論する。光速の半分の速度で飛んでいる宇宙船から光を発すれば、その光は光速の半分の速度に見えるはずだと。
アインシュタインは違う。光の速さは秒速30万kmだから、どのような状況でも秒速30万kmのはずだ。つまり光速の半分の速度の宇宙船から光を見ても、その光は秒速30万kmで去って行くはずだ、と考える。だがそうなると、宇宙船から発された光を地上から観察したら、秒速45万kmとなってしまう。これだと光の速さが秒速30万kmという「光速度不変の原理」に反することになる。
僕ならば、不思議なこともあるものだと、そこで終わってしまう。しかしアインシュタインは、そこからグイグイと考えを進めていく。光速度が不変だとすれば、それをそれを基準に「時間と空間」を論理的に書き換えてしまえばよい、と。それにより、「光速に近いほど、時間はゆっくり進み、空間は縮む」という結論を導き出す。つまり、時間や空間の均一性は宇宙全体で共通しているのではなく、相対的ということになる。(地球上ではほぼ均一だから問題にはならない)。
後には特殊相対性理論に重力の要素を加えた「一般相対性理論」が出来上がる。どちらも理論的に導き出された結果だが、その後の観察では理論通りの現象が認められているそうだ。十六歳の疑問から一般相対性理論まででも20年以上かかっている。一貫して何かをやり続けるのはすごいことだ。これはアインシュタインだけでなく、一流の人には共通している。
どうすれば「一貫して何かをやり続ける」ことができるのだろう。少なくともアインシュタインには結果は見えていなかったし、報酬も約束されていなかった(とはずだ)。結果が分かっていて、成功報酬が決まっているから取り組んだ、というのではなさそうだ。
アインシュタインが一貫して考え続けられたのは、「問い」がいつも目の前にあったからではないか。僕にっては不思議なことで「終わり」となる地点が、彼にとっては「出発点」だったのだ。おそらく、うまく行かないことがあるたびに、そこを終着点とせずに出発点にする。そういうサイクルを持っていたのだろう。
相対性理論を考えられるほどの頭脳を、万人が持っているはずはない。しかし、行き止まった時に、そこを終着点ではなく出発点にするという姿勢なら、僕にも持てるかもしれない。理論の内容は正確に理解できないが、そういう姿勢は学ぶことができる。
外は暗くなり、まだ雨が降っている。