とんびの視点

まとはづれなことばかり

ゆらゆら帝国のライブ

2009年11月30日 | 雑文
11月も終わりである。今年も残り1ヶ月。桜の木も赤茶色の葉が上の方の枝にわずかに残るほどになった。幹や枝が思いのほか黒々としている。雨のあとの寒い日に特有の色だ。それにしてもあっという間の1週間だった。先週は仕事であっという間に過ぎた。木曜日の夜にはゆらゆら帝国のライブに行った。金曜日と土曜日には仕事で山梨県の道志村にキャンプに行った。(金曜日は次男の誕生日、土曜日は長男の学校の音楽会。どちらもスケジュールミスですっぽかしてしまった)。そして日曜日には買い物と次男の誕生祝いをする。あっという間である。

11月はハードでいささか疲れがたまっていた。重い体でワクワクしながらライブ会場の新木場coastに向かう。6時半過ぎに会場に入る。後の方の高くなった場所の最前列に立つ。前の方の観客を見下ろせて、ステージまで何も遮るものはない。手すりにもたれながら開演まで1時間近く待つ。(いつもそうなのだが、立って開演を待つこの時間がすごく疲れる)。考え事をしながら、会場が人で埋まっていくのをぼんやりと見下ろす。

ざわつきが少しずつ大きくなり、会場がいっぱいになる。すーっとライトが落ちる。期待に満ちた歓声があがる。暗いステージに慎太郎さんたちが入ってくる。試すように楽器を鳴らす。一郎さんが叩いたドラムの音が体にぶつかってくるとライブの感覚を思い出す。音は振動で、耳で聞くものではなく、全身で受け取るものだということを。それだけで少し体が軽くなる。

「冷たいギフト」でライブが始まる。前の方の観客が頭と体を曲に合わせて揺らす。特にギターの慎太郎さんの前はノリがよい。曲が進むにしたがってだんだんとノリが伝わっていく。上半身を揺らしながら心地よさそうにしている人、頭を激しく振っている人、両腕をあげて踊っている人、会場全体にうねりが広がる。

そういうのを眺めていると、本当にすごいことだと思う。これだけの人たちがわざわざお金を払って音楽を聞きに来て、そして楽しそうに踊っている。僕が人前で何かをしたって人なんか集まらないだろう。もちろん彼らだって最初から人が集まったのではないだろう。辻説法のように、誰も振り向かないかもしれない状況で演奏を繰り返し、少しずつ人を惹きつけていったはずだ。少なくとも資本に頼った作られた人気で人を集めたのではなく、演奏のすごさで人を集めたのである。

どんどんと曲が進む。休むことなく演奏を続ける。2時間近い演奏で、彼らが休んだのはほんの1,2分だったと思う。ものすごい精神力だ。楽しむというよりも、必死で演奏をしているように見える。どうしてこんなに一生懸命なのだろう。不思議な気がしてくる。いつものことだが、聞きながら今回のライブで解散してしまうのではないか、今回が最後じゃないのか、という思いが頭をかすめる。きっとこのライブが最後かもしれないという覚悟で演奏しているのだろうと思った。

という話しもライブ後に友だちにしてみた。すると、聞きに来てくれる人たちにはすごく感謝しているみたいですよ。今回が初めての人もいるでしょうし、最初で最後の人もいると考えているみたいですよ、とのことだった。なるほど、そのとおりである。ライブもそうだが、人と何かをするためには、自分とそれ以外の人が必要だ。自分だけでも成り立たないし、相手だけでも成り立たない。そうなれば、出来事を成り立たせるためには、自分と同じ程度に相手も大事にしなければならない。

ライブもそうである。ライブが成り立つためには、演奏している彼らとそれを聞きに行く人が必要だ。それが分かっているから、慎太郎さんたちは聞きに来てくれる人たちに感謝しているのだろう。自分たちは何度でもライブができるという気持ちになるはずはない。人によってはこれが最後のライブだ。それを自分たちの努力次第で良くも悪くもできる。そういう思いで必死に演奏することになるかもしれない。

ライブも終わりに近づき会場は熱気に包まれる。会場の後の方でも踊り出している人たちがいる。1曲終わるごとにみんなが両腕を突き上げて歓声をあげている。飛び跳ねる、頭を振る、腰を揺らす、汗が飛び散る。そんな光景を見ながら、僕が音を追いかけたり、音が僕にぶつかってきたりする。

特に最後から2曲目の「ロボットでした」は圧巻だった。曲の途中からベースラインもドラムのリズムもシンプルな繰り返しになり、慎太郎さんのギターが歯医者の機械のようなノイズ音を弾きつづける。メロディアスな音楽が解体して音そのものが生のすがたを現す。そんな演奏を5,6分も続けたろうか。踊っていた観客の動きが少しずつ止まってくる。みんな金縛りにあったように黙ってステージを見上げている。

次から次へと音が体にぶつかってくる。ぶつかっては体の表面で止まる。そのうち、1つ1つの音が体を通り抜けはじめる。体に穴が空きそこを音が通り抜けていくようだ。時おり、ライブでこういう感じになることがある。ただ体を通り抜けるだけではない。通り抜ける時に、音が僕の中に溜まった疲れや汚れたものを一緒に持っていってくれる。どんどんと自分が清浄になり、軽くなっていく。もしかしたら祓いのプリミティブな感覚というのはこういうものかもしれないと思う。

最後の曲は「無い!!」。いつにも増して厚みのある演奏である。圧倒的な演奏をして、演奏を終える。いつものように照れながら手を振り慎太郎さんがステージを去る。嘘のように僕の体から疲れが抜けている。うれしい気持ちに浸りながら家路に着く。それにしても、本気で何かをやっている人はかっこよいものである。疲れたなどとは言っていられない。頑張らねば。ちょっと反省する。
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筑波マラソン2009

2009年11月23日 | 雑文
昨日は筑波マラソンだった。とても肌寒く、時おり雨の降る体力を消耗するレースだった。2,3日前まで参加かリタイアか迷っていた。1つにはここのところ体調が万全でなく、ほとんど走り込みができていなかったからだ。もう1つはあまりに忙しくマラソンに意識を集中できず、マラソンが自分の日常にとって余分なことに感じられていたからだ。

練習もできず、集中もできていない。理想的とは言いがたい状態だ。マラソンよりもまずは日常の雑多な出来事を整理することが必要な気がしていた。そんな時、品川駅にある本屋のテレビに映るイチローの姿を見た。いつものようにムダなものを削ぎ落とした風体だ。肉体的にも精神的にも。雑多な出来事を整理するにはランニングである。いつもそうしていたことを思い出し、筑波マラソンに出ようと思った。5時間くらいジョギングをするつもりでいろいろ整理しよう、と。

物事は思うようにいかないものだ。朝から厳しい冷え込みだ。気温は5℃か6℃くらいだろう。おまけにスタート前には雨が降りはじめる。大きなゴミ袋に頭と手が出るように穴をあけ、雨よけにかぶる。手袋は雨で濡れると保温の役目をしないので外しておく。

午前9時半にスタート。 とりあえず周囲のランナーと同じペースで30分ほど走る。1km6分のペースで5kmほど走る。いつもより少しゆっくり目だが、思ったより負荷がかかっている感じだ。このペースでは走り切れないだろう。少しペースを落とすべきだと思う。でもそれは無理だった。あまりに寒いからだ。落とすどころか、少しペースを上げねばならない。手袋を外した手がどんどん冷たくなっていく。軽く握った拳から出ている親指がとくに冷たい。体を温めるために少しペースを上げる。

目の前に背の高い女の子が走っていた。1km5分30秒をくらいのベースだ。体型やフォームからするとそれほどのランナーではなさそうだ。しばらく彼女に着いて行くことにする。基本的には彼女の足下を見ながら走る。あまり周囲の情報を入れないようにする。疲れるからだ。リズムを刻むように彼女のシューズの裏が右、左と顔を見せる。規則的な足音も聞こえてくる。濡れたアスファルトがうしろに流れて行く。

集中力が落ちはじめると顔を上げて走るようにする。コースの所々で去年のことを思い出す。去年はサロマ湖の準備のために筑波マラソンに参加したんだった。練習でも走り込んで、肉離れ寸前の状態で参加した。今年とは違い青空だったが、風強く、それなりに寒いレースだった。30km過ぎで肉離れになりかけ、立ち止まってストレッチをした。途中、頭に風船をつけたペースメーカー同士がすれ違いざま声を掛け合っていた。(コミカルな情景で、去年のブログに書いた記憶がある)

走りながらいろいろなことを思い出す。思い出すというより、それぞれの場所に2つの出来事が重なり、そのことが僕という人間に刻み込まれる。「時は飛去するとのみ解会すべからず。経歴なり」という道元の言葉が走りながら思い浮かぶ。出来事は過ぎ去っていくだけだと思ってはいけない。出来事は繰り返され重なっていく、という意味だ。去年と同じ場所を今年も走る。去年はここで立ち止まってストレッチをしたのだ。今そこを走りすぎていく。今そこを走ることが、去年そこでストレッチをしていたことを思い出させる。時を隔てた2つの出来事が1つの場所で重なる。リタイアせずに走って良かったなと思う。

時おりペースが落ちそうになるが、彼女の後ろ姿を見失わないように着いて行く。何と彼女はほぼイーブンペースで27kmまで走りつづけた。この地点でタイムは2時間30分弱。残り15kmを90分で走れば4時間を切れる。当然、同じペースを維持することにする。しかし、ほぼ同時に彼女はペースダウンをしたようだ。その後、ゴールまで1度も彼女の姿を見ることはなかった。(彼女がペースメーカーになってくれなければひどいレースになったと思う。名前も顔もわからないが、どうもありがとう。)

呼吸も楽だし、フォームも崩れていない。予想に反して楽に走れそうだと思っていたら34kmくらいで落とし穴があった。左膝が痛み出した。先週の合気道の演武会の開会式・閉会式での長時間の正座で膝をやられたのだ。痛む左膝をかばって走ると右膝が痛くなる。フォームが崩れ、呼吸が荒くなる。悪循環だ。おまけに急にガス欠状態になる。走っていても力が出ない。道端の応援の人から飴を貰い給水所まで何とかしのぐ。給水所では立ち止まってバナナとあんパンを大量に食す。(バナナ丸ごと1本とあんパン3つ)。

体力は戻るが、膝の痛みはあんパンでは治らない。37km過ぎから歯を食いしばって走る。ジョギング感覚で楽に走ろうと思っていたけど、結局、歯を食いしばって走ることになるのか、と妙なことに感心する。残り2kmというところでちょっとした下り坂がある。ちょっとだけペースを上げて走る。サロマ湖100kmの98km地点を思い出す。ワッカ原生園の出入り口だ。あのレースも残り2kmの地点に下り坂があったんだ。筑波マラソンがサロマ湖100kmと重なる。「時は飛去するとのみ解会すべからず。経歴なり」。いろんなものが重なっていく。

練習不足のせいだろう。さすがにキロ単位のスパートはかけられなかった。それでもコールタイムは3時間50分。悪くない。レース前の状況から考えれば上出来である。次のレースは来年1月末の館山若潮マラソンだ。次はもう少しきちんと準備をしておこう。そして何かを重ねよう。

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組織について考える

2009年11月16日 | 雑文
先日の日曜日、子どもたちと合気道の演武会に参加した。私が通っている道場はある会の支部道場である。本部と支部をあわせて7つか8つの道場があり、会員数も大人と子どもを合わせて500人くらいいるように思われる。それらが一堂に会して道場ごとに演武を行なう。

私はもともと1人でいても苦にならない仕様である。そういうこともあってここ10年近くはランナーとして1人でてくてくと走っていた。まったくの初心者ジョガーから少しずつ距離を伸ばし初心者ランナーに変身した。そしてペースも速くなり、自分勝手なフォームらしきものも身につき、ついにはフルマラソンを走るようになった。そしてコンスタントにサブフォーで走れるようになり、人前でも市民ランナーとして自分を語れるようになってきた。

1人で出来るランニングもそこそこになってきたので、そろそろ2人でやることをはじめてみようかと思った。そこで合気道である。2人でやる合気道ができるようになれば、その後は5人でやるバスケット、そして11人でやるサッカーなどと冗談を言ったものだ。しかし演武会で500人くらいの人間が胴着を着ているのを見ると、2人でできる合気道とはだいぶ違う景色が広がっていた。ずいぶん遠くまで来たような気がした。

本部があり、それに7つか8つの支部があり、そこに500人くらいの人間が所属している。支部間では人の行き来はそれほど頻繁ではない。一部の人間はさまざまな道場間を行き来しているが、大半の人間は基本的には自分の所属道場のみに通っている(と思われる)。つまり大半の会員にとっては自分の通っている道場以外は観念的な世界である。他の道場長などは名前と顔が一致しないような人も多いはずだ。

会社として喩えるなら、本社と支社の関係のようなものだろうか。本社には社長や会長がいて、支社には支社長がいる。それぞれの会社には50人から100人くらいの人間がいる。組織について考えたことのある人なら、この規模の組織をまとめていくのが大変なことはすぐに分かるだろう。おまけにこの会社には社員はほとんどいない。よくてパートタイマー、たいがいはアルバイトといったところである。(多くの練習生にとっては、仕事、家庭、合気道くらいの順番である。)

全員が社員であっても500人の人間をまとめるのは大変だ。一握りの経営陣と大多数の現場の人間の間には確実にズレが存在する。経営陣が「ふつうに考えればこのようになる」と思っていることは現場の人間からすれば「現場のことをまったく考えていない理不尽なことであり」、現場の人間の「動かしがたい事情」は経営陣には「自分本位のわがまま」にしか見えない。お互いに「なぜ当たり前のことが分からないのだ」と相手を非難する。

多くの人間を集めればこういうことが起こるのは必然である。5人、10人の仲良しグループの感覚とやり方を拡大コピーすることで、規模を10倍、20倍にしようとしても確実に失敗する。量的な変化はあるポイントを越えると質的な変化を必ず要求する。にもかかわらず、小規模で成功したやり方をそのまま拡大コピーしてうまくいくと思っている人間は多い。(そして「上手くいかない、上手くいかない」と不平不満を述べている)

5人、10人のグループであれば、メンバーは具体的な世界を共有できる。それは日常の出来事を通してさまざまな調整が出来ることを意味する。出来事に即した言葉を使って相手を説得したり、タイムリーな行動で相手を助けることで、皮膚感覚で世界の共有が出来る。

しかし数百人の規模の組織ではそれは不可能である。自分の具体的な世界と組織の具体的な世界にはギャップが生じる。ある支社の社員の具体的な世界と、会社全体を考える経営陣の具体的な世界はぴったりとは重ならない。社員の具体的な世界の方が狭いのは当然だ。はみ出た経営陣の具体的な部分が社員にとっては観念的な世界となる。

リーダーはこの観念的な部分をきちんと言語で説明しなければならない。これが組織の理念や目標のようなものになる。リーダーにとっては具体的な出来事なのに、そこに属する人間にとっては観念的にしか聞こえない出来事が存在する。それがうまく言葉にされた時に理念や目標というものになる。リーダーがその部分をリーダーにとっての具体的な出来事としてメンバーに語っても絶対に理解されない。力を背景にした無茶の押し付けにしかならない。相手が「ノー」と言わないのは背景の力を感じているからだ。

人は何からの共同体を作り、属しながら生きていくものである。どんな共同体に属したとしても自分の具体的な世界をはみ出す観念的な部分がそこには存在する。その観念がきちんと言語化され共有されている限り共同体は試行錯誤しながらも前に進んだり、再構築されたり、健全に解体されたりする。反対に言語化されない観念は呪縛となり、そこに属する人間を摩耗させることになる。組織をケアするというのは労力のいることである。

そんな訳で組織から距離をおき、1人てくてくランニングをしていた。1人で出来るようになったので、2人でできる合気道を始めた。そしたら演武会には500人もの人間がいた。僕にとって合気道の具体的な世界は2人である。500人のほとんどは観念的な世界ということになる。大いなるギャップである。ギャップを埋めるために必要なのは「言葉」である。どんな言葉が聞こえてくるか、いましばらく耳を澄ませてみよう。

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出来事と思い込みのズレ

2009年11月13日 | 雑文
ここのところ肌寒い日が続く。寒いといえば寒いのだが、ジャケットやセーターを通して冷たさが体にしみ込んでくると、少しばかり心地よくもある。桜の葉もだいぶ散ってしまった。桜が散り、銀杏が散ると、ちょっとモノトーンな街になる。もう11月も半ば、残りは1ヶ月半。今年もあっという間に終わってしまいそうである。

11月の半ばといえば、ブログを書きはじめたのが2年前の11月の半ばだった。その時、1本あたり2000字程度の文章を1年で100本書くという目標を立てた。先日、これまでに書いたブログの数を見たら、201本だった。1年目はかなり苦しみながら100本を書いたが、この1年はだいぶ楽に書けた。量については何とか達成できるようになった。次は当然、質である。

先日、Podcastでこんなやりとりを耳にした。女性アシスタントが「ここのところだいぶ秋も深まってきましたがどうですか?」とメインキャスターの男性に尋ねた。男性は鴨川に住んでいるらしく、鴨川の自宅の周りの森(?)の話しをする。「近くには榎が何本もある。でもそれぞれ紅葉が違う。もうほとんど茶色くなり散りはじめているのもあれば、半分だけ色づいているのもある。木によってはほとんど緑のままのものもある」と。

「へーっ。そうなんですか。不思議ですね。どうして同じ木なのに違うんだろう。どうしてだろう」。女性アシスタントは驚き、何度も不思議がっていた。本心から驚いている様子だった。もちろん僕もキャンプなどで木々を眺めていて、おなじ種類の木でも紅葉のすすみ具合が違うことに気づき、はっとすることはある。でもそれは、忘れかかっていた大切なことをふとした拍子に思い出したような感じだ。彼女の驚き方はそれとは違う。その驚き方を耳にしていたらちょっと気になってきた。

結局のところ彼女が驚いたのは、自分が思っていたことと聞かされた事実が違っていたからだ。榎の紅葉のすすみ具合は1本1本違うという事実に驚いたということは、彼女は榎はみんな同時に紅葉すると思い込んでいたことになる。おそらく彼女は今まで榎が紅葉するところを自覚的に見たことはなかったはずだ。その意味では自分が知っていた事実と、鴨川での事実の食い違いに驚いていたわけではない。自分の思い込みと事実の違いに驚いていたのだ。

僕が興味を持ったのは、彼女の不思議が向かった方向である。彼女は「榎の紅葉が木によって違う」ということを不思議がり、「どうしてだろう」と疑問を投げ掛けていた。榎の紅葉が木によって違うのは単なる事実である。たまには同時に紅葉している木々もあるだろうが、それは榎は同時に紅葉するということが本来的に決まっているからではない。自分の思い込みと事実が食い違った時に事実の方を不思議がるというその驚き方が不思議だ。

こういう場合に不思議がるべきは、「なぜ自分は榎の紅葉を1度としてきちんと見たことがないにもかかわらず、榎がすべて同時に紅葉するなどと思い込んでいたのだろう」ということである。出来事とズレていた自分の思い込みがどのようなものなのか、それを不思議がるべきなのだ。実はこれは彼女に限ったことではない。私たちはみなこの手の思い込みを持っている。ほとんど思い込みから成り立っていると言っても良いくらいである。

出来事と食い違う思い込みが無いという人はいないだろう。何かを思うという行為それ自体が出来事とのズレを引き起こすものだし、そのズレこそがすべてを動かす原動力でもあるからだ。(おそらく「死」という状態のみが私にとってズレのない状態だろう。しかし私の「死」は他者にズレを引き起こすだろう。)だから出来事と思いの間にズレが生じることが問題なのではない。そのズレをどのように生きるかが問題なのだ。

彼女はどこかで「榎は同時に紅葉する」という考え(=思い込み)を手に入れた。おそらくそれは「榎」だけではないだろう。「ケヤキの紅葉がそれぞれだ」「桜の紅葉がそれぞれだ」「銀杏の黄葉がそれぞれだ」と言われても同じように驚いただろう。つまり彼女は「同じ種類の木は同時に紅葉する」と思い込んでいたことになる。(だからと言って、同じ種類の木はほぼ同じ時期に紅葉するという言葉を彼女が否定するとは思わない)。

(ここからは想像なのだが、)彼女は同じ種類のものに同じ働きかけをしたら同じ結果が出ると考えている。科学的なのだ。同じ条件で同じ実験をすれば同じ結果が出るというのが科学的な考え方である。もちろん、きちんとした科学者はこんな風には考えない。ある女性科学者は言っていたが、科学とはまず仮説を立て、現象を観察したり実験をすることで自分の仮説が正しいかどうかを検証するものである。

ただ、同じことをしたら同じ結果が出るという考え方は一般にかなりひろく蔓延している。たとえばあなたが会社で上司であれば、同じように指示を出しているのにどうして2人が出す結果は違うのだろう、と思ったことがあるだろう。部下であれば、同じように報告しているのにどうしてこの上司は分かってくれないのだろう、と思ったことがあるだろう。あるいは子どもの勉強を気にする親であれば、みんなと同じ授業を聞いているのにどうしてうちの子はできいのだろう。などなど。

まず、いずれの出来事もすべて当たり前のことだ。あるがままの出来事を見ないで、自分の思い込みを出来事に当てはめようとするから「どうして」と思うことになるのだ。まずはズレを引き起こしているのは自分の思い込みであることを知るべきである。だからと言って、出来事の問題がなくなるということではない。部下が仕事をできないのは問題だし、子どもが勉強について行けないのも問題である。何らかの対処は必要である。

対処として最も下策であるのが、「どうしてお前はそうなんだ?」と相手に尋ね、「どうにかしなさい」と指示することである。「どうして?」と思っているのは私であり、その原因は「私の思い込み」である。それは明らかに私の不思議だし、私の問題である。その説明と対策を相手に求めるのは筋違いであろう。私が問題を解きほぐし、私が解決への道筋をつけねばならない。

このように考えると、私の不思議を解くことが、相手の問題を解決することと1つに重なってくることになる。こういうことが起こる原因はズレがあるからである。私の思いと出来事にズレがあるから、こういうことが起こるのである。だから、思い込みそのものが悪いのではない。思い込みと出来事のズレをどう生きるかが問題なのである。

前回は時間において現在、過去、未来がお互いに重なっていることを書いたのだが、今回は期せずして私が他者と重なってしまうという話しになった。まあ、1つのことを別の角度から語っているだけなので当たり前といえば、当たり前である。

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とても読みにくい、時間についての考察です

2009年11月09日 | 雑文
さてさて、前回の続き。過去から現在そして未来へ一直線に進む時間。その時間の上で、現在の出来事の原因を過去に求める思考の型。そのような思考の型とは別の枠組みについてである。錯綜しそうな予感である。勢いで書いてゆくので、だいぶ荒っぽいものになるだろう。

過去・現在・未来という一直線に進む時間に疑問を投げ掛けたからといって、出来事の先後を否定しようというわけではない。僕が高校生だったのは20年以上前のことだし、いまは2人の男の子の親だし、いずれは白髪の老人になるだろう(薄髪の老人はいやだ)。高校生、2児の親、白髪の老人、そのような出来事の先後関係は常に変わらない。

すでに起こってしまった出来事、いま起こりつつある出来事、そしてやがて起こる出来事。どれが先でどれが後かは揺るがない。しかし過去の出来事はすでに起こってしまったがゆえに「ある出来事」として確定し、現在起こりつつある出来事はまだ完了していないがゆえに「たぶんこんな出来事」として理解され、未来に起こる出来事はまだ起こっていないがゆえに「あるかもしれない出来事」として予想や妄想される。

出来事として先に起こりその内容が確実であることと、現在の出来事の原因を過去に求めることには明らかな関係がある。意味不明な現在の出来事の意味を確定するためには、すでに確定されている根拠となる出来事が必要である。それは過去にしか存在しない。ゆえに結果としての現在の出来事と、原因としての過去の出来事という図式ができあがる。原因は先に生じ、結果は後から生じるというわけだ。

まずは出来事の先後関係と原因/結果が一致しないということについて考えてみる。例えば、親子について考えてみる。太郎(32歳)と花子(4歳)という父娘がいたとする。当然のことながら、この世に先に出現したのは太郎である。花子は太郎よりも28年後にこの世に生まれた。その意味では、太郎と花子には動かしがたい先後の関係が成り立つ。さらに太郎がいるから花子がいる、という言い方も成り立つ。太郎は親であり、花子は子である。親がいるから子がいる、ということになる。

この言葉遣いは「親が原因、子が結果」という考えにスライドする。そして「親=原因=先」「子=結果=後」という図式が成立する。出来事の先後関係と原因/結果が一致した関係である。しかし考えてみれば、太郎は初めから親だったわけではない。花子が子として生まれた時に初めて「親」となったわけである。(子どもがいない親は、厳密には親とは言えない)。

「太郎」は「花子」より先に存在しているが、「親としての太郎」と「子としての花子」は同時に成り立つのである。親は子より先に存在するのではなく、親と子は同時にこの世に生まれる。その意味では、太郎と花子の存在には動かしがたい先後関係があるが、親=太郎と子=花子は同時に生まれるのである。出来事の存在の先後関係と原因/結果はかならずしも一致しないのである。

さらに別の例を考えることで、原因と結果が一方向の固定的な関係ではなく、双方向に影響し合う無常的な関係であることを示してみる。

【出来事A】少し痛んだリンゴを食べる。
【出来事B】30分後にお腹が痛くなる。

これは一連の出来事として捉えることができる。「少し痛んだリンゴを食べたので、30分後にお腹が痛くなった」と。当然、2つの出来事には動かしがたい先後関係がある。そして「リンゴを食べた」ことが原因で、お腹が痛くなったことが「結果」である。上でも書いたような出来事の先後関係と原因/結果が一致しないことはここにも当てはまる。

「リンゴを食べた」ことは先で、「お腹が痛くなった」のは後のことである。これは動かせない事実である。そしてリンゴを食べたことが、お腹が痛くなったことの「原因」であることもその通りである。しかし「原因=リンゴを食べた」と「結果=お腹が痛くなった」は同時に成立するのである。お腹が痛くなった時に初めて、リンゴを食べたという出来事が「原因」として見いだされるのである。つまり出来事の先後関係と原因/結果は一致しないのである。

さらに一歩先に進めよう。「原因とは、何らかのものを成り立たせるその根拠のようなもの」と仮定するならば、「リンゴを食べた」と「お腹が痛くなった」という2つの出来事は一方向で固定的な原因/結果の関係に収まらなくなる。「お腹が痛くなった」という出来事が「結果」的に起こったせいで「リンゴを食べた」という出来事が「原因」として成立した。つまり「お腹が痛くなった」という結果の出来事は、「リンゴを食べたという出来事を『原因』として成り立たせた」ということになる。

「結果である『お腹が痛くなった』という出来事B」が「原因である『リンゴを食べた』という出来事A」を成り立たせている。「BがAを成り立たせている」という言葉遣いから言えることは、「お腹が痛くなったという出来事B」が『原因』であり、「リンゴを食べたという出来事A」が『結果』である、ということだ。

「少し痛んだリンゴを食べた」という出来事は「30分後にお腹が痛くなった」という出来事の原因でもあり結果でもある。「30分後にお腹が痛くなった」という出来事は「少し痛んだリンゴを食べた」という出来事の原因でもあり結果でもある。つまりこの2つの出来事は、双方向に原因/結果として支え合う無常的な関係なのである。(実際は、あらゆる出来事がこの関係に巻き込まれることによって無礙に影響し合う関係となる)

出来事の先後関係は動かしがたい。しかし原因/結果という視点から見れば、あらゆる原因/結果は同時に成立する。言い方を変えれば、私たちが物事を原因/結果という思考の型で見る限り、本来ならば原因と結果は同時であると実感することになるはずだ。ではその実感とはどのようなものか。おそらく次のようなことになる。

過去を取り戻せるということだ。出来事そのものの先後関係が動かせないように、出来事そのものを無かったことにすることはできない。しかし過去の出来事が固定された原因としてのみ存在するのではなく、現在の原因の結果となるのであれば、現在の行為によって過去に新たな厚みを持たせることができる。奇妙な言い回しだが、過去に希望を持つことが可能になるのだ。

未来についても同様である。論理構造的には時間を1つスライドさせれば良い。現在は未来の原因であるとともに結果であり、未来は現在の結果であるとともに原因でもある。現在が未来の結果とか未来が現在の原因という言い方には引っ掛かりを感じるだろう。しかし出来事を原因/結果という関係で捉えようとすればこのような言い回しは成り立つ。

現在が未来の原因であるというのはいい。それでは現在が未来の結果であるというのはどういうことなのか。端的に言って、現在は「不可得」ということである。私たちには捉え切れないほどの豊かさを現在は備えているということである。(その豊かさは、場合によっては個の生命などというものは簡単に押しつぶしていく場合もある)。

このように考えるならば、過去も現在も未来も固定的な内容を持った出来事の一方向の関係によって成り立っているのではなく、とどまることなくすべてが双方向的に影響を与え合っている関係であることになる。過去は現在や未来の原因でもありながら結果である。現在も過去や未来の原因であり結果である。未来も過去や現在の原因であり結果である。もちろん出来事の先後関係は動かしがたい。しかし私たちが出来事の先後関係を意識するのは、原因/結果という思考の型と前後関係を一致すると考えている時ではなかったか。

出来事の先後関係と原因/結果の思考型は一致しない。そこでは現在が原因で過去が結果である出来事が起きている。そこでの時間感覚は過去から未来という方向の一直線のものと言えなくなってくる。それと同時に出来事の内容も違った意味を持ちはじめることになる。

(感想)読み直したが、同じことを繰り返している部分もあるし、喩えも十分とは言えない。話しの筋道を失わないようにすることが精いっぱいで、他者に対する説得力というものをあまりもたないものになっている。まあ、この話しは形を変えながら、何度も書かれることになるだろう。
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相変わらずの低空飛行

2009年11月07日 | 雑文
相変わらずの低空飛行である。冗談のようだが口の中を噛み口内炎ができた。これによってアウトプットする気力がさらに低下した。おまけに軽い風邪にかかってしまった。これでインプットのレベルも下がった。そしてランニングもできない。やれやれである。とはいえ、葉が少しずつ茶色くなった道玄坂のケヤキの木が太陽の光を反射しながら風に揺れたり、夜の京浜東北線が上野駅で停まり開いた扉から風が流れ込むと同時に上野の森の冷たい匂いに鼻の奥がひんやりしたり、秋の力はインプットのレベルが落ちた僕にもその豊かさを届けてくれる。

さてさて事務的に文章を書こう。今日の目標は筋道を失わずにゴールに行き着くことだ。前回、フロイトの概念「家族ロマンス」を手掛かりに「アダルト・チルドレン」を話題にして云々、ということを書いた。そのことを整理してみる。基礎的な情報は『家族の痕跡』(斉藤環著)による。

まずフロイトの提出した著名な概念のひとつに「家族ロマンス」というものがある。これは自分の両親は本当の両親ではなく本当はもっと素晴らしい両親が他にいる、と想像するような幻想のことだ。自分は母親と高貴な男性との不倫関係で生まれた子どもだと想像するようなものもある。確かに心理学関連の書物を読んでいると、両親は本当の両親ではなく自分は橋の下で拾われたのだと想像する子どもの話にぶつかることがある。

このような幻想を持つときには、おそらく自分の現状に違和感がある、あるいは受けいれられないものを感じている、子どもはそんな状態にあるのではないか。そしてその原因なり回答なりを両親の問題として解決しようとしている。両親の問題ということは時間的には自分の存在に先行するもの、つまり過去に問題を見いだすことである。自分の現在に対する違和感や理不尽さの原因を、自分以外、そして過去に求めるという思考の型がここには見て取れる。(これを思考と言って良いのか正直迷うところである。)

現在では、フロイトの言ったような「家族ロマンス」幻想はさすがに数がなくなってきたらしい。しかしそれは、単純になくなってというのではなく「家族否認妄想」のような形に姿を変えている。そのひとつが「アダルト・チルドレン」幻想である。アダルト・チルドレンとは、機能不全家族のもとで育った子どものことである。もともとはアルコール依存症の親の元で育てられた子どもを指すものだったが、その範囲が広がり、親から虐待などさまざまなトラウマ的体験を受けた結果、自己の正当な欲求を正当に表出できなくなった人を指すようになった。

現在をうまく生きることができない人がいる。その原因は何故かと言えば、両親から虐待などのトラウマ的体験を受けたからである。やはりここでも現在の自分の原因を過去に見いだそうとする思考の型を見ることができる。現在を決めるのは過去というわけである。実際のところ、アメリカなどでは子どもの頃親から性的な虐待を受けたという主張が法廷で争われ、その主張が「偽記憶」であったことが明らかになったこともある。しかし単純にそれを「うそ」と言って片づけることはできない。事実ではなかったが、本人にとっては「心的な現実」であったのだ。注目しておきたいのは、そのような心的な現実を導き出すベースになっているのが、現在を決定するのは過去という思考の型なのだ。過去に原因を求めるという思考の型はそれほどの強さを持っているものなのである。

とは言え、フロイトの「家族ロマンス」や「アダルト・チルドレン」という概念は、現代においてはそれなりに信憑を持つものである。精神分析や臨床心理学などのその概念を提出する基盤そのものが現代社会において認められているからである。現在を説明する原因を過去に求めるという思考の型という点に注目すれば、これは宗教的な世界が提示するある考えとまったく変わらない。

たとえばそれは「あなたが不幸なのは、前世に悪業をなしたからです」というものだ。この手の言葉を聞いた時に多くの人は「ばかばかしい」と思うかもしれない。人によっては「なるほど」と納得してしまうかもしれない。「ばかばかしい」と思う人は「前世」という考えを否定しているはずである。とはいえ、そのような人が「現在このようにある原因を過去に求める」という思考の型まで否定しているはずはない。否定しているのは「前世」という内容である。この考えに納得のいく人は、過去が現在を決定するという思考の型を肯定した上に、前世という考えも肯定している。2つの考えは、内容的には相反するものであるが、その出所は同じである。

「いまの自分がなぜこのようにあるのか」。日常が上手くいっている限りこのようなことを考えることなく、私たちは過ごしている。しかしある日、突然のように歯車が狂ってくる。世界が昨日までとは違って見えてくる。当たり前だと思っていたことが疑わしくなる。鏡の中の自分が別人のように見える。どうしてこんなことになってしまったのだろう。何故?そう思ったときに自然と過去を振り返る。どこに原因があったのだろうか、と。

現在の原因を過去に求める。過去が現在を決定する。このような思考の型そのものが疑われることはない。何故なのだろう。それはおそらく、時間というものが過去から現在、そして未来へと一方向に直線的に続くものとして受けとめられているからだろう。見方を変えれば、時間そのものに対する別の考えが認められるなら、現在の原因を過去に求めるという以外の思考の型が見いだされるはずである。そのような思考の型から導き出される「現在」はそれまでとは違った「内容」を顕すことになる。次回はその辺りを書ければと思っている。

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2009年11月02日 | 雑文
自分と世界のインターフェイスの具合があまり良くない時がある。いまがそうである。バイオリズム的な影響もあるのだろうが、自分のパフォーマンスが落ちている理由がべつにあることもある。例えば、僕の場合は「口内炎」である。口内炎ができると一挙にパフォーマンスが落ちる。人と話しをするのが億劫になる。もちろん相手の話を理解することは出来るし、それなりの相づちを打つことも出来る。でも相手の話の面白さを見つけ出すことがほとんど出来なくなってくる。

痛む口をちょっと開けたままで、間の抜けた表情で相手の話を聞いている。「口をちょっと開けたまま」というのがいけない。自分でも本当に締まりのない表情をしているのだと分かる。ぼーっと口を開けていると知性も逃げていくし、痴漢にも狙われる。(むかし新聞で痴漢が狙うのは「口を開けている女の子だ」という記事を読んだことがある。やはりちょっと抜けているように見えるのだそうだ。ただし、よだれを流している女の子はダメだそうである。冗談です)。

バイオリズムによってインターフェイスの調子が影響されるというのは、考え方によっては自然と調和が取れているということだ。しかし一方で、人間というものは自然の影響を受けずに自律的に行動できることをよしとするものである。落とし所としては、自然と調和しながら自律的に行動できる人間ということになるだろうか。

さてさて、なぜパフォーマンスが落ちているか。簡単である。車の扉に右手の人さし指を挟まれて使い物にならなかったからである。人さし指の爪の付け根辺りを扉に挟み、爪は下半分が青黒くなっている。指の太さは1.3倍くらいに腫れ上っている。しばらくは痛みでキーボードを打つことができなかった。いまは痛みはほとんどない。というよりも感覚がほとんどない。

一挙にパフォーマンスが落ちた。フロイトの「家族ロマンス」から「家族否認妄想」そして「アダルト・チルドレン」の話しを材料に、その思考型が「過去世の行為が現世の不幸の原因である」というものと同じことを示し、さらにその思考型が「過去から未来へと一直線にイメージされる時間」というより大きな思考型に乗っかっているということを書こうと頭の中では準備していたのだが、書く気にならない。書き出すと指が痛む。指がキーボードを上手く打てるように意識し出すと、どうしても内容に身が入らなくなる。

というわけでブログを放っておいた。が、そろそろ何とかせにゃと思いこれを書いている。これを書いている、と書いてキーボードを打つ手が止まる。書くことが思い浮かばないと言うのではない。言葉が自分の外側に出ていこうとせずに、どんどんと自分の中に落ちていく。落ちていく言葉を外側から見ている自分がいる。外側から見ているからそれを言葉として拾うことはできる。

たとえば、「藤原新也の『東京漂流』」、「70年代、80年代の日本」、「80年代は僕の十代」、「深川通り魔の川俣軍司」「金属バット殺人の一柳展也」。こういう言葉がいまだ言葉にならない想いと絡み合いながら自分の中に落ちていく。上手く文章が書けている時には(「上手な文章」ではない)、ある言葉が中心になり、言葉にならない想いを引っぱり上げながら、いくつもの言葉を生み出し、それらが繋がりながらひとつのまとまりを形作ってくれる。

落ちていく言葉を何とか引き上げながらここまで書いてきた。こんなものにいつまでも人を付き合わせるのも失礼というものだ。最後に「思い出」のために週末の出来事を書いて終わりにしよう。

10月30日(土)。天気は良い。10月の終わりというのにTシャツでも大丈夫なほどの気温だ。友人のO夫妻、H夫妻とわが家の4人、合わせて8人で荒川の土手でディキャンプをする。寒い日を予想しておでんを用意したのだが、残念であった。寒ければもっとおいしかったことだろう。しかし炭火で焼いたサンマはおいしかった。(「秋はサンマと合気道と言います。どちらも力技だと型が崩れます」。僕が思いついた、秋の合気道の標語です。)O夫妻は犬を2匹連れてきた。真っ黒なラブラドール・レトリバーと茶色のミニチュアダックス。子どもたちは大喜び。

11月1日(日)。曇り。風が強い。次男の七五三用の服を買いに行く。強風の中池袋まで家族で自転車をこいで。ついでにジュンク堂で子どもたちに本を買う。長男は『両生類・は虫類図鑑』、次男は木製のパズルを買う。それとジョギングを12kmほど。タイムは60分ちょっと。悪くない。

今日は気温が一気に下がる。曇ったり小雨が降ったりする中、土手までランニングに行く。冬の曇りのような空模様。向かい風を受ける度に体力が奪われていく。冬に走るということがどういうことかを思い出す。雨の中家まで帰ると手が信じられないくらい冷たくなっている。水が温かく感じられるほどだ。内向的でも案外、ランニングは大丈夫なものである。明日は次男の七五三。はやく指が治れば良いのだが。
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