11月も終わりである。今年も残り1ヶ月。桜の木も赤茶色の葉が上の方の枝にわずかに残るほどになった。幹や枝が思いのほか黒々としている。雨のあとの寒い日に特有の色だ。それにしてもあっという間の1週間だった。先週は仕事であっという間に過ぎた。木曜日の夜にはゆらゆら帝国のライブに行った。金曜日と土曜日には仕事で山梨県の道志村にキャンプに行った。(金曜日は次男の誕生日、土曜日は長男の学校の音楽会。どちらもスケジュールミスですっぽかしてしまった)。そして日曜日には買い物と次男の誕生祝いをする。あっという間である。
11月はハードでいささか疲れがたまっていた。重い体でワクワクしながらライブ会場の新木場coastに向かう。6時半過ぎに会場に入る。後の方の高くなった場所の最前列に立つ。前の方の観客を見下ろせて、ステージまで何も遮るものはない。手すりにもたれながら開演まで1時間近く待つ。(いつもそうなのだが、立って開演を待つこの時間がすごく疲れる)。考え事をしながら、会場が人で埋まっていくのをぼんやりと見下ろす。
ざわつきが少しずつ大きくなり、会場がいっぱいになる。すーっとライトが落ちる。期待に満ちた歓声があがる。暗いステージに慎太郎さんたちが入ってくる。試すように楽器を鳴らす。一郎さんが叩いたドラムの音が体にぶつかってくるとライブの感覚を思い出す。音は振動で、耳で聞くものではなく、全身で受け取るものだということを。それだけで少し体が軽くなる。
「冷たいギフト」でライブが始まる。前の方の観客が頭と体を曲に合わせて揺らす。特にギターの慎太郎さんの前はノリがよい。曲が進むにしたがってだんだんとノリが伝わっていく。上半身を揺らしながら心地よさそうにしている人、頭を激しく振っている人、両腕をあげて踊っている人、会場全体にうねりが広がる。
そういうのを眺めていると、本当にすごいことだと思う。これだけの人たちがわざわざお金を払って音楽を聞きに来て、そして楽しそうに踊っている。僕が人前で何かをしたって人なんか集まらないだろう。もちろん彼らだって最初から人が集まったのではないだろう。辻説法のように、誰も振り向かないかもしれない状況で演奏を繰り返し、少しずつ人を惹きつけていったはずだ。少なくとも資本に頼った作られた人気で人を集めたのではなく、演奏のすごさで人を集めたのである。
どんどんと曲が進む。休むことなく演奏を続ける。2時間近い演奏で、彼らが休んだのはほんの1,2分だったと思う。ものすごい精神力だ。楽しむというよりも、必死で演奏をしているように見える。どうしてこんなに一生懸命なのだろう。不思議な気がしてくる。いつものことだが、聞きながら今回のライブで解散してしまうのではないか、今回が最後じゃないのか、という思いが頭をかすめる。きっとこのライブが最後かもしれないという覚悟で演奏しているのだろうと思った。
という話しもライブ後に友だちにしてみた。すると、聞きに来てくれる人たちにはすごく感謝しているみたいですよ。今回が初めての人もいるでしょうし、最初で最後の人もいると考えているみたいですよ、とのことだった。なるほど、そのとおりである。ライブもそうだが、人と何かをするためには、自分とそれ以外の人が必要だ。自分だけでも成り立たないし、相手だけでも成り立たない。そうなれば、出来事を成り立たせるためには、自分と同じ程度に相手も大事にしなければならない。
ライブもそうである。ライブが成り立つためには、演奏している彼らとそれを聞きに行く人が必要だ。それが分かっているから、慎太郎さんたちは聞きに来てくれる人たちに感謝しているのだろう。自分たちは何度でもライブができるという気持ちになるはずはない。人によってはこれが最後のライブだ。それを自分たちの努力次第で良くも悪くもできる。そういう思いで必死に演奏することになるかもしれない。
ライブも終わりに近づき会場は熱気に包まれる。会場の後の方でも踊り出している人たちがいる。1曲終わるごとにみんなが両腕を突き上げて歓声をあげている。飛び跳ねる、頭を振る、腰を揺らす、汗が飛び散る。そんな光景を見ながら、僕が音を追いかけたり、音が僕にぶつかってきたりする。
特に最後から2曲目の「ロボットでした」は圧巻だった。曲の途中からベースラインもドラムのリズムもシンプルな繰り返しになり、慎太郎さんのギターが歯医者の機械のようなノイズ音を弾きつづける。メロディアスな音楽が解体して音そのものが生のすがたを現す。そんな演奏を5,6分も続けたろうか。踊っていた観客の動きが少しずつ止まってくる。みんな金縛りにあったように黙ってステージを見上げている。
次から次へと音が体にぶつかってくる。ぶつかっては体の表面で止まる。そのうち、1つ1つの音が体を通り抜けはじめる。体に穴が空きそこを音が通り抜けていくようだ。時おり、ライブでこういう感じになることがある。ただ体を通り抜けるだけではない。通り抜ける時に、音が僕の中に溜まった疲れや汚れたものを一緒に持っていってくれる。どんどんと自分が清浄になり、軽くなっていく。もしかしたら祓いのプリミティブな感覚というのはこういうものかもしれないと思う。
最後の曲は「無い!!」。いつにも増して厚みのある演奏である。圧倒的な演奏をして、演奏を終える。いつものように照れながら手を振り慎太郎さんがステージを去る。嘘のように僕の体から疲れが抜けている。うれしい気持ちに浸りながら家路に着く。それにしても、本気で何かをやっている人はかっこよいものである。疲れたなどとは言っていられない。頑張らねば。ちょっと反省する。
11月はハードでいささか疲れがたまっていた。重い体でワクワクしながらライブ会場の新木場coastに向かう。6時半過ぎに会場に入る。後の方の高くなった場所の最前列に立つ。前の方の観客を見下ろせて、ステージまで何も遮るものはない。手すりにもたれながら開演まで1時間近く待つ。(いつもそうなのだが、立って開演を待つこの時間がすごく疲れる)。考え事をしながら、会場が人で埋まっていくのをぼんやりと見下ろす。
ざわつきが少しずつ大きくなり、会場がいっぱいになる。すーっとライトが落ちる。期待に満ちた歓声があがる。暗いステージに慎太郎さんたちが入ってくる。試すように楽器を鳴らす。一郎さんが叩いたドラムの音が体にぶつかってくるとライブの感覚を思い出す。音は振動で、耳で聞くものではなく、全身で受け取るものだということを。それだけで少し体が軽くなる。
「冷たいギフト」でライブが始まる。前の方の観客が頭と体を曲に合わせて揺らす。特にギターの慎太郎さんの前はノリがよい。曲が進むにしたがってだんだんとノリが伝わっていく。上半身を揺らしながら心地よさそうにしている人、頭を激しく振っている人、両腕をあげて踊っている人、会場全体にうねりが広がる。
そういうのを眺めていると、本当にすごいことだと思う。これだけの人たちがわざわざお金を払って音楽を聞きに来て、そして楽しそうに踊っている。僕が人前で何かをしたって人なんか集まらないだろう。もちろん彼らだって最初から人が集まったのではないだろう。辻説法のように、誰も振り向かないかもしれない状況で演奏を繰り返し、少しずつ人を惹きつけていったはずだ。少なくとも資本に頼った作られた人気で人を集めたのではなく、演奏のすごさで人を集めたのである。
どんどんと曲が進む。休むことなく演奏を続ける。2時間近い演奏で、彼らが休んだのはほんの1,2分だったと思う。ものすごい精神力だ。楽しむというよりも、必死で演奏をしているように見える。どうしてこんなに一生懸命なのだろう。不思議な気がしてくる。いつものことだが、聞きながら今回のライブで解散してしまうのではないか、今回が最後じゃないのか、という思いが頭をかすめる。きっとこのライブが最後かもしれないという覚悟で演奏しているのだろうと思った。
という話しもライブ後に友だちにしてみた。すると、聞きに来てくれる人たちにはすごく感謝しているみたいですよ。今回が初めての人もいるでしょうし、最初で最後の人もいると考えているみたいですよ、とのことだった。なるほど、そのとおりである。ライブもそうだが、人と何かをするためには、自分とそれ以外の人が必要だ。自分だけでも成り立たないし、相手だけでも成り立たない。そうなれば、出来事を成り立たせるためには、自分と同じ程度に相手も大事にしなければならない。
ライブもそうである。ライブが成り立つためには、演奏している彼らとそれを聞きに行く人が必要だ。それが分かっているから、慎太郎さんたちは聞きに来てくれる人たちに感謝しているのだろう。自分たちは何度でもライブができるという気持ちになるはずはない。人によってはこれが最後のライブだ。それを自分たちの努力次第で良くも悪くもできる。そういう思いで必死に演奏することになるかもしれない。
ライブも終わりに近づき会場は熱気に包まれる。会場の後の方でも踊り出している人たちがいる。1曲終わるごとにみんなが両腕を突き上げて歓声をあげている。飛び跳ねる、頭を振る、腰を揺らす、汗が飛び散る。そんな光景を見ながら、僕が音を追いかけたり、音が僕にぶつかってきたりする。
特に最後から2曲目の「ロボットでした」は圧巻だった。曲の途中からベースラインもドラムのリズムもシンプルな繰り返しになり、慎太郎さんのギターが歯医者の機械のようなノイズ音を弾きつづける。メロディアスな音楽が解体して音そのものが生のすがたを現す。そんな演奏を5,6分も続けたろうか。踊っていた観客の動きが少しずつ止まってくる。みんな金縛りにあったように黙ってステージを見上げている。
次から次へと音が体にぶつかってくる。ぶつかっては体の表面で止まる。そのうち、1つ1つの音が体を通り抜けはじめる。体に穴が空きそこを音が通り抜けていくようだ。時おり、ライブでこういう感じになることがある。ただ体を通り抜けるだけではない。通り抜ける時に、音が僕の中に溜まった疲れや汚れたものを一緒に持っていってくれる。どんどんと自分が清浄になり、軽くなっていく。もしかしたら祓いのプリミティブな感覚というのはこういうものかもしれないと思う。
最後の曲は「無い!!」。いつにも増して厚みのある演奏である。圧倒的な演奏をして、演奏を終える。いつものように照れながら手を振り慎太郎さんがステージを去る。嘘のように僕の体から疲れが抜けている。うれしい気持ちに浸りながら家路に着く。それにしても、本気で何かをやっている人はかっこよいものである。疲れたなどとは言っていられない。頑張らねば。ちょっと反省する。