世間は受験シーズンも本番ですね。
じつは我が家にも高校受験を控えた男子がいます。
1月半ば、業者の実施する最後の模擬試験がありました。
学校の友達と同じ教室で試験を受けたのですが、休み時間になると彼がやたらと話しかけてきたそうです。
「あの難しい問題は解けたか」とか「今回のテストの結果は大事だ」とか矢継ぎ早に。
ちょっと面倒くさく、息子は違和感を持ったそうです。
友達は明るくて、性格も良く、成績もトップクラスです。
学校の先生がすごく評価をするタイプの生徒です。
あとでわかったことですが、彼は「塾のアドバイス」に従っていたそうです。
模擬試験の休み時間には、出来なかった問題などの話をして、周りの人間を混乱させろ、とのことです。
その塾では、倍率5倍でも前後左右の人間を落とせば君は受かる、などと指導しているそうです。
やれやれ、という感じです。
人を混乱させる暇があったら、試験の休憩時間に自分の勉強をすればよいのに。
自分の力をつけるより、相手の力を落とすことで、相対的な優位に立つ。
中学生にそんなことを教えて、大人として恥ずかしくないのかと思いました。
狭い世界で、相手のパフォーマンスを落とし、自分の優位を保つ。
そんな人たちが大人になって、会社組織やら、共同体やら、国家を作ったとする。
非常に脆弱な人々の集まりにしかならないでしょう。
狭い内側だけを見ていれば良いかも知れないが、外の相手には通用しない。
グローバル化とか言われている時代に、なんとも、とんちんかんな話です。
とはいえ、これは未来を背負う子どもたちだけの話ではないかもしれません。
(実際、そういうことを教えているのは、いま現在の大人ですから。)
長い時間をかけ、少しずつ社会が変化してきた結果かも知れません。
社会の変化は、自分の顔の変化のように、気付きにくいものです。
昨日と今日、今日と明日では私たちの顔はほとんど変わりません。
だから、自分は変わらずに、ずっと同じ顔をしているような気がする。
でも10年前の写真を出して、いまと見比べてみれば、その変化は歴然としています。
バブルがはじけ、平成に入った頃から日本の景気がぱっとしないものになりました。
年功序列や終身雇用というそれまでの日本型の経営に疑問が呈され、
成果主義や能力主義という言葉が人口に膾炙されるようになった。
おまけに何かの冗談かのように「自己責任」という言葉が使われ出した。
世の中は変わっていくのだな、このままではいられない、という雰囲気はあった。
とはいえ、昨日と今日、今日と明日で見れば、同じような毎日が続きます。
リストラで職をなくしたり、正社員になれなかったなど、特定の個人がしわ寄せを受けることはあった。
でも、自分がその当事者にならない限り、昨日と今日、今日と明日は同じような毎日だった。
それでも実態は少しずつ変わっていたのだと思う。
時おり、そういったレポートがテレビやラジオ、新聞などで報じられていた。
例えば、社内で成果主義、能力主義的な査定をすることによって、上司や部下や同僚が敵になった。
年功賃金であれば、同じ会社の人間は基本的には力を合わせる仲間だと思える。
しかし、社内で競争をあおり、能力や成果で賃金に差をつければどうだろう。
上司や部下や同僚は仲間だ、手放しではそう思えなくなるかも知れない。
ましてや、成果や能力の査定が、社内という閉じられた世界での相対的なものであれば、
自分の能力や成果を上げることよりも、相手の能力や成果が上がらないことを願う人も出るだろう。
意図的に相手を失敗させることはなくても、積極的に何かを教えることには躊躇したかもしれない。
そのような集団が外部の集団に比べて、どれほどの素晴らしい成果を上げられるというのだろうか。
(あるいは外部の集団も似たようなことをしていたのかもしれない。)
ましてや「自己責任」の時代、成功することよりも失敗しないことを内面化した時代だ。
よほどの能力や自信がなければ、チャレンジをすることなどないだろう。
昭和の終わりと、ほぼ30年後の現在では、かなり社会は異なったものになったと思う。
昨日と今日、今日と明日はほとんど変わらない。そんな感じで30年が過ぎたのかもしれない。
しかし30年前と今日の社会の違いは、30年前の自分といまの自分と同じくらい違うかもしれない。
そう考えれば、大人たちが子どもに、自分の力をつけるよりも相手の力を削ぐことを教え、
子どもたちが律義にそれを実践することは、極めて自然なことなのかも知れない。
狭い世界で相手よりも強いことを示して満足する。ただのマウンティングじゃないかと思う。
そんなことを続けている人、そんなことを続けている人たちの組織や共同体や社会、
そんなものが高いパフォーマンスを発揮できるというのだろうか。疑わしいと思う。
他人を混乱させ相対的な優位を保つのではなく、まずは自分が力をつける。
それから他人と協力して、そして外に開かれ、よりよいパフォーマンスを発揮する。
その方が、自分も他人も共に、心地よく仕事が出来るだろう。
そっちの方がよいと思う。
じつは我が家にも高校受験を控えた男子がいます。
1月半ば、業者の実施する最後の模擬試験がありました。
学校の友達と同じ教室で試験を受けたのですが、休み時間になると彼がやたらと話しかけてきたそうです。
「あの難しい問題は解けたか」とか「今回のテストの結果は大事だ」とか矢継ぎ早に。
ちょっと面倒くさく、息子は違和感を持ったそうです。
友達は明るくて、性格も良く、成績もトップクラスです。
学校の先生がすごく評価をするタイプの生徒です。
あとでわかったことですが、彼は「塾のアドバイス」に従っていたそうです。
模擬試験の休み時間には、出来なかった問題などの話をして、周りの人間を混乱させろ、とのことです。
その塾では、倍率5倍でも前後左右の人間を落とせば君は受かる、などと指導しているそうです。
やれやれ、という感じです。
人を混乱させる暇があったら、試験の休憩時間に自分の勉強をすればよいのに。
自分の力をつけるより、相手の力を落とすことで、相対的な優位に立つ。
中学生にそんなことを教えて、大人として恥ずかしくないのかと思いました。
狭い世界で、相手のパフォーマンスを落とし、自分の優位を保つ。
そんな人たちが大人になって、会社組織やら、共同体やら、国家を作ったとする。
非常に脆弱な人々の集まりにしかならないでしょう。
狭い内側だけを見ていれば良いかも知れないが、外の相手には通用しない。
グローバル化とか言われている時代に、なんとも、とんちんかんな話です。
とはいえ、これは未来を背負う子どもたちだけの話ではないかもしれません。
(実際、そういうことを教えているのは、いま現在の大人ですから。)
長い時間をかけ、少しずつ社会が変化してきた結果かも知れません。
社会の変化は、自分の顔の変化のように、気付きにくいものです。
昨日と今日、今日と明日では私たちの顔はほとんど変わりません。
だから、自分は変わらずに、ずっと同じ顔をしているような気がする。
でも10年前の写真を出して、いまと見比べてみれば、その変化は歴然としています。
バブルがはじけ、平成に入った頃から日本の景気がぱっとしないものになりました。
年功序列や終身雇用というそれまでの日本型の経営に疑問が呈され、
成果主義や能力主義という言葉が人口に膾炙されるようになった。
おまけに何かの冗談かのように「自己責任」という言葉が使われ出した。
世の中は変わっていくのだな、このままではいられない、という雰囲気はあった。
とはいえ、昨日と今日、今日と明日で見れば、同じような毎日が続きます。
リストラで職をなくしたり、正社員になれなかったなど、特定の個人がしわ寄せを受けることはあった。
でも、自分がその当事者にならない限り、昨日と今日、今日と明日は同じような毎日だった。
それでも実態は少しずつ変わっていたのだと思う。
時おり、そういったレポートがテレビやラジオ、新聞などで報じられていた。
例えば、社内で成果主義、能力主義的な査定をすることによって、上司や部下や同僚が敵になった。
年功賃金であれば、同じ会社の人間は基本的には力を合わせる仲間だと思える。
しかし、社内で競争をあおり、能力や成果で賃金に差をつければどうだろう。
上司や部下や同僚は仲間だ、手放しではそう思えなくなるかも知れない。
ましてや、成果や能力の査定が、社内という閉じられた世界での相対的なものであれば、
自分の能力や成果を上げることよりも、相手の能力や成果が上がらないことを願う人も出るだろう。
意図的に相手を失敗させることはなくても、積極的に何かを教えることには躊躇したかもしれない。
そのような集団が外部の集団に比べて、どれほどの素晴らしい成果を上げられるというのだろうか。
(あるいは外部の集団も似たようなことをしていたのかもしれない。)
ましてや「自己責任」の時代、成功することよりも失敗しないことを内面化した時代だ。
よほどの能力や自信がなければ、チャレンジをすることなどないだろう。
昭和の終わりと、ほぼ30年後の現在では、かなり社会は異なったものになったと思う。
昨日と今日、今日と明日はほとんど変わらない。そんな感じで30年が過ぎたのかもしれない。
しかし30年前と今日の社会の違いは、30年前の自分といまの自分と同じくらい違うかもしれない。
そう考えれば、大人たちが子どもに、自分の力をつけるよりも相手の力を削ぐことを教え、
子どもたちが律義にそれを実践することは、極めて自然なことなのかも知れない。
狭い世界で相手よりも強いことを示して満足する。ただのマウンティングじゃないかと思う。
そんなことを続けている人、そんなことを続けている人たちの組織や共同体や社会、
そんなものが高いパフォーマンスを発揮できるというのだろうか。疑わしいと思う。
他人を混乱させ相対的な優位を保つのではなく、まずは自分が力をつける。
それから他人と協力して、そして外に開かれ、よりよいパフォーマンスを発揮する。
その方が、自分も他人も共に、心地よく仕事が出来るだろう。
そっちの方がよいと思う。