とんびの視点

まとはづれなことばかり

コロナ「禍」

2020年06月21日 | 雑文
言葉。すごく意図的に使われることもあれば、とくに考えることもなく口にされるものもある。「コロナ禍」。不思議な響きの言葉だ。初めて耳にした時「コロナ下」と思った。「禍」などという言葉を、私たちはふだん使わない。音が意味と繋がらなかったのだ。誰かが何となく口にした言葉とは思えない。誰かが何らかの意図をもって選んだに違いない。

ある出来事に言葉を与えることで、その存在が何者であるのか決めることが出来る。ある犬に「太郎」と名づければその犬は「太郎」になり、ある猫に「タマ」と名づければその猫は「タマ」となる。我々を何と名づけようか?

今回のコロナを巡る一連の出来事を「コロナ禍」と名づけることで、社会に起こっていること、私たちが経験していることは「コロナ禍」となった。そして私たちは「コロナ禍」という言葉を手がかりに、さまざまな問いを立てることになる。コロナ禍」とは、いったい何なのか?「コロナ禍」の経済への影響はどの程度か?「コロナ禍」に対して1人1人が出来ることは何か?などなど。

それぞれの「問い」に合わせて解法を考え、答えをだす。そして実践する。しかし、それらはすべて、「コロナ禍」という言葉の中でしかない。

「コロナ禍」。最初に耳にした時からずっと疑問に感じていた。自分から口にしたことはほとんどない。口にすると、受け売りの知識を披瀝するような居心地の悪さを感じる。

そんな中、都知事選が始まった。山本太郎の街宣を映像で見て、なるほど、と思った。彼はコロナによる一連の出来事を「コロナ災害に指定しろ」と訴えていた。

言葉の分かりやすさからしても、「禍」よりも「災害」のほうが良い。聞き違えることもない。何か喜ばしくない出来事が起こった「禍」よりも、さまざまな被害を社会や人々に与える「災害」という言葉のほうが、いまの状況に合っている。何せ、政府が「歴史的緊急事態」と閣議決定しているような状況なのだ。

今回のコロナによる一連の事態を「コロナ災害」と名づけると、それは「コロナ災害」として存在することになる。当然、私たちは「コロナ災害」に対して問いを立て、解法を考え、答えを出し、実践しなければならない。

山本太郎によれば、コロナが「災害」であれば、「災害対策基本法」を適用できるそうだ。そうなれば、例えば、収入がなくなって家賃が払えない人にも、国が家賃分の金銭を補助できるそうだ。詳しいことはわからない。しかし、コロナが「禍」ではなく「災害」であれば、他にも出来ることがたくさんあるそうだ。

「コロナ禍」という言葉は、たまたま誰かが言い出して、社会に定着したものなのか。あるいは、誰かが意図して名づけたものなのか。それはわからない。しかし、コロナが「災害」ではなく「禍」と名づけられたことによって、コロナは「禍」となり、私たちは「コロナ禍」を生きることになった。

言葉のもつ力は恐ろしいものである。
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