とんびの視点

まとはづれなことばかり

雑文 1月28日

2016年01月28日 | 雑文
また、ブログを書けていない。書かねばと思いながら、時間が取れない。書こうと思うことはあるのに、書けないまま。目に付いた食材を冷蔵庫にストックするうちに、すべての賞味期限の切れそうになり、進退極まった感じだ。扉を閉じて見なかったことにしても、状況は悪化するだけ。とりあえず、簡単な料理を作りながら冷蔵庫の中を整理するしかない。

忙しい理由。長男の受験勉強に付き合っているから。受験日まであと2週間を切った。志望校の過去問を家でやるとよい点を取る。しかし模試だとまだすこし不安定。どうせ受験するなら合格する方が良い。できる限り付き合うことにした。そして、先週の日曜日は10時間くらい付き合った(夜の合気道の稽古も諦めた)。さすがに疲れた。週末はあと2回。同じ感じで行く。

この半月くらいの間に本を4冊読んだ。後藤健二さんの『ダイヤモンドより平和が欲しい』、古谷経衡氏と奥田愛基氏の『愛国ってなんだ 民族・郷土・戦争』、布施祐仁著の『経済的徴兵制』、そして梨木香歩著の『僕は、そして僕たちはどう生きるか』の4冊。

『ダイヤモンド』。後藤さんが殺されてしまったのは本当に残念なことだと思った。目の前の少年兵への優しさを感じた時、後藤さんが生きていないことを悲しく感じた。この本で、少年兵は麻薬を体に埋め込まれることで恐怖感も人を殺す罪悪感もなくなることを知った。自衛隊は南スーダンでこういう子どもたちと戦うことになるのだろうか。その時の自衛隊員と子ども兵士のことをどうしても想像してしまう。

『愛国ってなんだ』。今ひとつ面白みに欠ける本だった。古谷氏は、メディアが奥田氏などのシールズのメンバーを「普通の大学生」と取り上げることが気に入らないようだ。奥田氏たちががいかに普通ではない(普通よりすごい)かを認めさせようとしていた。たしかに僕も、日本社会で使われる「普通」という言葉は危ういと思っている。日本では「マジョリティー」を「普通」と表現する傾向があり、その「普通」が「ノーマル」の意味にすり替わる。すると「マイノリティー」が「アブノーマル、異常」と位置付けられる。ただ、この本でそこまで「普通」にこだわる必要があるようには思えなかった。

『経済的徴兵』。日本を考える上で読んでおいたほうがよい。とくに子どもがいる人にとっては。日本社会は大きな転換期を迎えていると思う。たとえば急速な格差社会への変化がその一つだ。変化と書いたが、これは雨降りのような自然な移ろいではない。意図的な社会の変革である。アメリカの例にもあるように、格差社会は経済的徴兵ともつながる。(堤未果さんの本などにある)。真面目に働いても格差が生まれるような社会的構造ができつつある。そこで学問を修めたい貧困層は、男子であれば軍隊に、女子であれば風俗に向かう。そういう社会を作ろうとする人たちには、その人たちの合理性はあるのだろう。しかし、その合理性は市井の庶民の合理性とは異なる。自分はどちら側にいるのか。そういうことを考えるためにも、この手の本を読まねばならない社会になった。

『僕は、そして僕たちはどう生きるか』。名著『君たちはどう生きるか』を受けた本だ。タイトル
通り、この世界でどのように生きていったらよいのかを扱った物語だ。少し驚いたのは、小説の中で前提とされている、僕たちが生きていく「この世界」が、戦争へのきな臭さを感じせる世界として描かれていたことだ。いまの世相を考えれば、戦争へのきな臭さの中で自分が生きることを考えるのは当然かもしれない。しかし、僕が十代の頃には、どう生きるかという問題は、どちらかといえば哲学的な問いだった。ある意味、悠長な時代だったのかもしれない。大学に行くために自衛隊に行くかどうか考える、風俗店で働くかどうか考える。そういうことが「自分がどう生きるか」を考えることになる。この先、そう考えざるを得ない子どもたちのことを考える。

本の話は終わり。こういう風に書いていると、少しずつ頭の中の風通しが良くなる。あとは先週末の市民連合のシンポジウムのことを書いておく。先週の土曜日、東京北区の「北とぴあ」というところで市民連合のシンポジウムがあった。「2016年をどう戦い抜くか」というタイトルで、哲学者の柄谷行人さんの講演や、映画監督の森達也さん、憲法学者の青井美帆さん、政治学者の三浦まりさん、SEALDSの諏訪原健さん、政治学者の山口二郎さんのパネルディスカッションがあった。

映画監督の森達也さんの話が印象に残った。森監督の周りでは安倍政権のやってることに反対する人たちが多い。映画監督、戦場カメラマン、作家、ジャーナリスト、ほとんど反対しているそうだ。なぜか。彼らはみんな「現場をみているから」だ。戦場、被災地、そういう人の生き死にの現場にいる彼らにはとても賛成できるものではないそうだ。僕はそんな過酷な現場には行ったことはない。しかし想像はできる。戦争を観念的に考えるのではなく、戦場の一人一人を想像する。想像力のない人間に限って自己合理化がはやい、というのは『ダンス・ダンス・ダンス』での五反田君のセリフだ。その通りだと思う。

もう一つ、森さんの話で興味深かったのは、いま日本社会で起こっていることは、かつてのオウム真理教がやっていたこと同じだという話だった。オウムが求めたのは同質性だった。一つの集団の中で異論や異質なものを許さない。さらに外部に敵を作り出す。それにより集団は一つにまとまるが、外部とはかみ合わなくなってくる。その結果、ああいった事件につながった。いまの日本社会も異論や異質なものを許容しなくなっている。(憲法9条の「9」という字が書かれたキーホルダーを持ったままでは、政治的主張をしているという理由で国会に入れない、とか)。近隣諸国との対立を煽ったりしている。(まあ、これは相手も同じようなことをしているが)。日本人が理解している日本と、諸外国から見た日本はどのくらいずれがあるのだろう。そこを理解しないと、不幸な出来事に繋がるかもしれない。

他にも書こうと思ったことはあったが、だいぶリセットされた感じがしてきたので、この辺りで終えよう。ブログを書き続けることと、ランニングを続けることと。これが僕の心身のメンテナンスには必要なようだ。まずは書き続けること。継続的なランニングはもう少し後だ。ちなみに先週末、5キロ走ったら筋肉痛になった。1年前は5キロはウォーミングアップの距離だったのに。すごく衰えている。
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忙しさのピークを越える

2016年01月18日 | 雑文
朝から雪の影響でドタバタした。本当なら、次男の骨折がほぼ治ったので、今日から学校の送り迎えはなくなるはずだったが、雪と雨で道路がひどい状態になっていたので、やはり送っていくことにした。せっかくここまで来た。今日の行き帰りでコケたりしたら、元も子もない。小学への往復30分、ぐちゃぐちゃの道を歩いた。靴の中に冷たい水がしみ込み、靴下はビショビショ、指先が冷たくなった。

さて、昨日でやっと1月に入ってからの忙しさがひと段落した。忙しさの主な要因はPTAの活動だ。6日の午前中は学校開催の講演会を聞きに行き、謝辞。7日は地区の会長会。8日は地区の新年会。10日も地区の新年会。15日は昼から夕方まで餅つき大会の準備、夜には地区の青少年育成の初顔合わせ。16日には朝から夕方まで餅つき大会。そして17日は朝から夕方まで地区PTA合同のバドミントン大会の主催。体育館がとても寒く、治ったはずの咳が少しずつ出てきた。(もう少しで風邪が再発しそうだった)。これで終わりだ。そう思ったら今朝の雪だ。子どもを送ることを考えるとちょっと気持ちが萎えた。

とはいえ、忙しいこと自体はそれほど嫌ではない。やることが決まっていると考えずにすむ。考えずに体を動かしているのはやはり楽だ。でもあるポイントを越えると、突然、そんな状況が怖くなる。目の前のことを機械的にさばいているだけではないかと。屋根の上の風見鶏が風に合わせて動くように。それなりの役割はしているが、空を飛ぶことはけっしてできない。

不思議なものだ。人が生きているのは「いま・ここ」しかない。だからその「いま・ここ」を生きていればそれで良いはずなのに、過去や将来、あそこや向こうを考えないと怖くなってくる。おそらくほとんどの動物は「いま・ここ」だけで生きている。人間だけが「いま・ここ」だけでは生きられないのだろう。

でも、それは良いことなのかもしれない。「いま・ここ」を厳密に捉えれば、そこにいるのはつねに「自分」だ。「いま・ここ」だけを考え、生きることは、自分のことだけを考えて生きることになる。過去や将来、あそこや向こうを考えることは、自分以外の人間を考えることになる。シリアで戦禍に苦しむ人。福島でいまだ仮設住宅で生活する人。かつて南の島で戦争していた人。そして子どもたちの将来。そうすることで、「いま・ここ」の自分が、どんな状況にいるのか知ることができる。「いま・ここ」だけで生きていけないことは悪くないかもしれない。その意味で人間は動物よりも優れている。

そう書きながら、すぐに反対の考えが浮かぶ。人は「いま・ここ」だけでなく、過去や将来、あそこや向こうを考えられるからこそ、過去の人たちの苦しみをないがしろにしたり、将来の子どもたちに負の遺産を残したり、自分以外の人を道具や手段として利用することができる。自分の欲望や自分の正義のために。人が「いま・ここ」しか生きられなければ、わずかな領土を巡って何年も殺し合いをすることもないし、餓死する人がいるなかで、富の半分を1%の人間が占有できる世界を作ろうとも思わないだろう。「いま・ここ」だけで生きていけないのは、良くないことかもしれない。その意味で人間は動物よりも劣っている。

人は「いま・ここ」に自分の欲望や正義を置き、そこから過去や将来、あそこや向こうを道具や手段にし、利用することができる。人は過去や将来、あそこや向こうを声を聞こうとしながら(音を観じながらと書けば観音となる)、「いま・ここ」の自分を生きることもできる。私たちはどちらを選ぶこともできる。

いや、自覚的であれ、無自覚であれ、私たちはつねにどちらかを選んでしまっている。もっとも危険なのは、自分が何を選んでいるのか気づかずにいることだ。選んでいるのに選んでいないつもりでいることだ。自分が何かを選んでいることに気づき、自覚的に選ぶようにすることがよいだろう。そのためには、自分の欲望や正義について自覚的であること、過去や将来、あそこや向こうの声をきちんと聞こうとすることが大切だ。

とりあえず、1月の忙しさのピークは越えた。自分の欲望や正義を考えたり、過去や将来、あそこや向こうの声を聞くことに、少しは時間がとれそうだ。ちゃんと選ばないと。
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憲法を読もう

2016年01月14日 | 雑文
PTA会長をやっていると学校関係者と話す機会が増える。そこで以前から気になっていることを、ある人に質問してみた。「憲法九十九条には、天皇又は摂政及び、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」とある。公立学校の先生は公務員ですね。公務員になった時に、何か憲法についての研修のようなものはあるのですか、と。

答えは、教員になった時に「憲法を守る」という署名はするらしいが、研修のようなものはなかったと思う、というものだった。この答えに間違いがなとすると、憲法を読まずに憲法を守ると署名し、その後も憲法を読まないままの人がいるかもしれないことになる。

だとすると、制度的にも問題があるし、個々人の資質にも疑問が出てくる場合がありそうだ。制度的な問題というのは、公務員に対して憲法についての研修を行っていないことである。当たり前だが、憲法というのは国家に対する縛りである。国家が暴走することで国家や国民が不幸な事態に進まないようにするものだ。公務員という行政に関わる人間に、その内容をきちんと学ばさせないのは制度的に問題があると言わざるを得ない。

個々人の資質に疑問がつくというのは、中身を知らずに署名してしまうこと、また署名した内容を事後的にも確認しないということだ。(全員がきちんと読み込んだ上で署名していることも、可能性としては否定できないが、現実的にはそういうことはないと思う)。

このように書くと、制度や個人を悪く言っているように聞こえるかもしれない。しかしそんなつもりはない。この状況はある意味、日本人の現状を反映しているだけだろう。安保法制が問題になったことで(あるいは改憲を掲げる安倍政権が成立したことによって)憲法について学び始めた人たちはかなりの数に上るだろう。それでも、いまだに憲法をきちんと読んでいない人はたくさんいることと思う。

実を言えば、僕自身、憲法をきちんと読み始めたのは、安倍政権が成立してからだ。それ以前の僕の知識は、かつて中学の公民の時間に憲法の前文を暗記させられたことと、9条という平和憲法がある、という程度のものだった。そんな状態で、漠然と憲法は変えない方がよいと思っていた。おそらく、かなりの数の護憲派と言われる人たちも、きちんと内容を読まずに平和憲法だから守るべきだと考えているだろう。(もちろん、平和を守りたいという気持ちは良いことだ。少なくとも、戦争をしたいと思うよりは良いだろう)。

では改憲派はどうだろう。これもきちんと憲法を読んでいる人の比率はそれほど多くはないのではないか。現行の憲法では日本を守ることができない。時代に合わないものだから変えたほうが良い、という意見を受け入れて改憲を述べているのだろう。そうだとすれば、どちらも憲法を読むことなく、なんとなくのイメージで賛否を表明していることになる。

憲法を自分で読んでみれば、護憲派、改憲派という言葉自体にまやかしがあることがわかる。私たちは護憲派とは憲法を全く変えない立場、改憲派とは憲法を変えようとする立場、そのように理解しているはずだ。しかし現行憲法にはきちんと会見条項が含まれている。

第九六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
(2)憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

つまり、憲法の内容に照らして、護憲という言葉を理解すれば、憲法を改正すること自体は否定しない立場になる。きちんとした手続きにしたがえば、憲法は改正しても良いのだ。僕自身、その意味で護憲の立場である。(もちろん、手続きがきちんとしている改憲であっても内容に賛成するか反対するかは別だ。その事実を受け入れるということと、賛同することは別である)。

さて、今年は日本人の市民的な成熟や知性が試される年だと思う。安倍政権が憲法改正を掲げた参院選が(あるいは衆参同時選挙が)あるからだ。私たちは憲法に対しての賛否を問われることになる。

憲法には興味がないと選挙に行かない人。これは自分が生活する社会にあまりにもむかんしんすぎる。シールズのメンバーが国会前で「無関心ではいられるが、無関係ではいられない」と何度も何度も言っていた。僕もそう思う。自分や子どもたちが生きる社会の大きな転換点に関わらないというのは危険な行為ですらある。市民にすらエントリーしていないことになる。

市民的な成熟や知性が試されるのは、憲法改正について立ち止まって考えることができるか否かにかかっている。「あなたは憲法改正に賛成ですか、反対ですか」と聞かれた時に、すぐに賛否を表明することが知性ではない。知性とは、そういう問いをされた時に、「自分は憲法改正に賛否を表明できるほど憲法について知っているのだろうか」と自らに問うことである。自分が何を知っているかでなく、何を知らないかを問えることである。

その出発点として、私たちはまず憲法を読んでみるべきだ。理解できるところもあるだろうし、理解できないところもあるだろう。理解できないのであれば、そこからさらに憲法について学べば良い。多少の時間は取られるだろう。でもそれは自分や子どもたちが生きる社会をどうするかという話だ。無関係な他人の話ではなく、自分自身のことだ。

おそらく、護憲派、改憲派という単純な二分法では片付かない話だわかってくるはずだ。平和憲法は大切だしその理念は変えるべきではない。その一方で今の平和憲法は沖縄と自衛隊の犠牲の上に成り立ってもいる。成立当時の国際情勢、その後の世界情勢の変化、関連することは山のようにある。

もちろん、全てを知らなければ賛否を表明できないというのではない。どんな物事であれ、私たちがその物事についてすべてを知ることはできない。私たちはつねにすべてを知らないままで選択をしなくてはならない。だからこそ、イメージで知っているつもりになり簡単に賛否を表明することは危ういのだ。そういう危うい人たちが多い社会は、市民的に成熟しているとは言えないし、知性があるとも言えない。

憲法改正についての理解が深まることが大切なのではない。憲法についての理解が深まることが大切なのだ。憲法改正について議論する前に、憲法の中身について話し合うことが必要なのだ。中身については話し合うためには、まずその中身を知らなければならない。まずは憲法を読んでみよう。その上でみんなで憲法改正の話をきちんとすれば良い。それこそが市民的に成熟し知性がある行為である。

話しを学校の先生から始めたので、最後にそこに戻す。教育が子どもたちを成熟した市民に育てること、あるいは知性ある人間に育てることを目標とするならば、さまざまなケースで「人間とは全てを知らずに判断せざるを得ない存在なのだ」ということを子どもたちに気づかせてほしい。べつに難しいことではない。自分がそういう存在であることを忘れずにいればよいのだ。
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お腹いっぱい、そろそろ痩せよう

2016年01月10日 | 雑文
先日、ビデオニュースのマル激トーク・オン・デマンド(http://www.videonews.com/marugeki-talk/768/)を見た。年末恒例の神保さんと宮台さんのトークライブを録画したものだ。その冒頭、満腹中枢の話があった。みんなが知るように、満腹中枢とは、食事で満腹を感じるための脳の視床下部にある器官だ。本当はお腹がいっぱいなのに、満腹中枢が信号を出すまでに時間差があので、私たちはついつい食べ過ぎてしまう。太らないためにはゆっくり食べましょう。そういった話で聞く言葉だ。

神保さんによれば、人類史においては満腹中枢がきちんと働く人たちがいたそうだ。つまり、満腹になるとすぐに満腹感をもち、それ以上食べない人たちだ。必要以上に食べないのだから、脂肪としてエネルギーをストックすることもない。おそらくスリムな人たちだったのだろう。では、そういう人たちはどうなったか。生き残れなかったそうだ。

現代の日本社会で生活する多くの人たちにとっては、食べ物はわりと簡単に手に入る。少なくとも食べ物が十分な時には、いざという時のエネルギーのため、脂肪を付けておかねばと考える人はあまりいないだろう。現代において、脂肪を体に蓄えておくことは、飢餓的状況にたいするリスクヘッジというより、単なる肥満に近い。

しかし人類史をひも解けば、ヒトが食べ物に困らないときのほうが少なかった。いや、現代の世界でも飢餓は9人に1人(およそ8億5000万人)もいる。そう考えれば、十分に食べたのに満腹中枢が働くのが遅れる、それにより脂肪を蓄えるのは、ヒトが生き残るための遺伝子れべるでの戦略なのかも知れない。

食べ物を十分に摂取しているのに、その事実に気づかずに、もっと食べてしまう。そういう傾向が私たちの深いところにセットされているのだ。

「自分たちは10年以上もさまざまな問題について話をしてきた。1つの問題について2時間近く話をすればそれなりに答えが出る。でも、結局は問題は何も解決していない、何故なのだろう」。番組で、神保さんと宮台さんがそんな話をしていた。

満腹中枢が問題なのだ、僕はそう思った。自分は十分に何かを持っているのに、その事実には気づかずに、もっと何かを欲してしまう。とても深いところでそうセットされた私たち。だからこそ、いつまでたっても問題を解決できないのだ。

いま、日本や世界の先進国で格差が問題になっている。日本でも相対的な貧困率で16%を超え、6人に1人が貧困とされる。大学、大学院、専門学校に通う若者の4割が奨学金を利用している。その返済には何十年もかかる。男子であれば自衛隊が、女子であれば風俗業が返済をサポートしてくれる。そんな社会になりつつある。

世界の富の半分を1%の人間が独占している。1%の人たちは自分の持つ富をけっして使い切ることはないだろう。でも彼らは、それを手放すことをしないだろう。満腹中枢が働いていないからだ。自分たちが十分にもっているのに、その事実に気づかず、もっと富を欲してしまう。

しかし、満腹中枢に異常があるのは彼らだけではない。私たちも基本的には同じだ。とりあえず今日、生きていられる。そんな時に、少し明日のストックになるようなものが手に入る。それを自分の明日のために取っておかずに、必要としている誰かにパスすることができるだろうか。かなり困難なことだ。

すでにお腹がいっぱいになっているのに、その事実に気づかずに食べ続ける。何もそれは富を欲することだけではない。問題についても同じだ。すでにこの社会は問題でいっぱいになっている。でも、その事実に気づかない。そして問題を生み出し続けている。いずれ私たちの満腹中枢は働き出すのだろうか。そろそろ解決しなければならない問題でいっぱいだと。

満腹になっても食べ続ける人がいる。食べることをやめられない人がいる。そして自分の重さで身動きが取れなくなる。あるいはちょっとした食べ過ぎに気づける人もいる。食べ過ぎても、それに気づき、自分の心身をよい状態に維持しようと努力できる人たちが。はたして私たちはどちらなのだろうか。このまま食べ続けるのか、食べ過ぎに気づけるのか。

そういえば、僕は去年、3キロ体重が増えた。腰が痛く、ランニングができないことを言い訳にしていた。それは間違いかも知れない。自分でも気がつかないうちに、満腹中枢がおかしくなり、いろんなことに気づかなくなっていたのかも知れない。まずは、自分がスリムになろう。
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2016年、風邪で始まる

2016年01月02日 | 雑文
2016年、申年である。元旦そうそう風邪をぶり返した。少しぼーっとしている。まずは出だしでつまずいた感じだ。つまずきついでに、年初から駄文でも書いてやろうと思う。景気付けだ。

去年はいろいろ忙しかった。状況に対応しながらそれなりのことはした気がするが、根本的なところでは上手くいかなかった1年だったと言える。原因は腰を痛めランニングが出来なくなったことだろう。

日常的にランニングを行うことが作家としてのパフォーマンス維持にどれだけ大切かを、村上春樹がいろんなところで書いている。走っている時には調子が良いとは僕も気づいていたが、10ヶ月近く走れない日々が続いてみて、自分にとっても走ることがどれほどパフォーマンスの維持に必要なのか実感できた。

日常的に走っていると、自分の体のちょっとした変化に気づける。ちょっとだるくても、走ってみれば体には問題がなく精神がだれているだけだとわかる。あるいは、気持ちははつらつとしているが思ったより体に疲れがたまっているとか。いろいろ気づける。気づくことで、すぐに具体的に対処が出来る。そうすることで、一定のレベルに体調を維持できるので、結果として風邪をひきにくくなったりする。

また、1時間以上も走っていると、頭の中がかなりクリアになる。考えても無駄なことは汗と一緒に流れてしまい、必要なことだけが残る。走り終わるといろんなことが整理されている。日常的に走っている人なら誰でも実感しているだろう。それ以上に、長い距離を走ると精神的にもスタミナがつき、長い思考を続けられるようになる。(もちろん、正しい思考ができるかどうかは別問題だ)。だから、走れていないと、頭の中では余分なものがぐるぐるし、短時間の思考しかできなくなる。目の前のことを場当たり的にやっつけることが多くなり、大事なことに腰を据えて向かい合うことができなくなる。当然、こういう文を書くこともおっくうになる。

年の初めから、みごとにだらだら書けている。やめよう。いずれにせよ、今年は腰をきちんと治そう。長期戦に耐えられるように、自分自身を心身ともに作り直さねばいけない。まずは風邪を治し、腰の治療を続けながら、少しずつランニングをしていくしかない。それと同時に、きちんと物事を考えてから何かを書こうという思いをしばらくは捨てよう。余分なものだらけで長時間思考できない頭で、まともなものなど書けるはずがない。しばらくは、余分なものをだらだらと書いていく。ランニングで汗を流すように。

頭をクリアにするために、簡単に去年のことを書いておく。けっこう年初の想定とはだいぶ違った1年だった。

1つめは猫だ。
次男が猫を拾い、わが家はオス猫が4匹になった。9月のことだ。僕が20年くらい前に荒川の土手で2匹の小猫を拾ってから、猫と一緒の生活が始まった。2匹が寿命で亡くなるのと入れ替わるように、相方が1匹、長男が2匹拾った。一昨年の夏はそのうちの2匹が続けざまに尿管の手術をすることになり、時間とお金をかなり取られた。やっと落ち着いたかと思っていたら、自分だけはまだ猫を拾っていない、拾う権利が自分にはあるはずだと思っている次男が1匹ゲットした。

向かいの家の車の下から、足の裏にケガをし、やせて弱った状態で次男に寄ってきた。そのうえ、やたらと愛想を振りまく。見捨てるわけにもいかないのでわが家で飼うことにした。もう3匹もいるのだから、1匹増えても同じようなものか。そう思っていたが大間違いだった。もとからいる猫たちの挙動がおかしくなったのだ。もともと長男が拾ってきた白黒の兄弟はトイレがいまひとついい加減だった。その彼ら、新入りがきたことで、自分のテリトリーを意識したのか、家の至るところでマーキングを始めたのだ。風呂場の窓枠、タンスの壁面、玄関のタイル、いろいろだ。

目の前でやられたのであれば、すぐに掃除ができるからよい。知らぬ間にやられるとたまらない。子どもたちが玄関で靴を履いた瞬間に、「うわ、濡れている」と悲鳴をあげる。ただでさえ学校に遅刻しそうなのに、大変なことだ。あるいはセーターを着てみたら、自分から臭さが漂ってくる。夜、疲れて帰宅し玄関の扉を開ければそこは公園の公衆トイレのような匂いがする。さまざまなトラップだ。でも1番のトラップは「幻臭」だ。電車などに乗っていて、突然、猫の尿の匂いがしてくる。靴か、かばんか、洋服か。気になる。周りの人は別に気にしていない。自分が幻臭をかいでいるのか、周りが気づかないふりをしているのか。すごく焦ることがある。

このところやっと落ち着いた感じがするが、まだまだ気は抜けない。僕が拾った最初の2匹は、人間用の便座でトイレができた。重さで水も自然に流れるので、トイレの砂もケアもまったく必要なかった。雲泥の差である。高望みはしない。普通にしてくれれば良い。

2つめは長男の高校受験だ。
もちろん、これは想定していた。しかし長男の学力は想定とは異なっていた。夏休みから長男の受験勉強につき合い始めた。夏休み前まではクラブ活動中心の中学生活だった。学校で1番練習が厳しいバレー部で、練習は1週間に6日。木曜日のみが休みだ。1年生の時から勉強を習慣的にはやっていない。塾にも通っていないので、ふだんは学校の宿題にプラスしてちょっと勉強をする程度。定期テストの時には集中的に勉強に付き合うことで、何とかそれなりの成績は維持してきた。そんなふうに3年生の夏休み前まで過ごしてきた。

初めての模擬試験の結果を見て驚いた。定期テストの結果から想像していたものからはかなり低い点数だったのだ。なるほど定期テスト前に集中して勉強しても、それは短期記憶にしかならなかったようだ。実にさまざまなことを忘れていた。そして夏休みから日々、できるかぎり長男の勉強に付き合うようにした。まずは英語からやり直した。一応、一通りやり直すのに9月までかかった。

そこから少しずつ数学にも付き合い出した。じつは僕自身、中学の途中で数学からは逃げてしまった人間だ。教えられるほどの学力はない。一緒に問題を解いたり、わからないと一緒に文句を言ったりする。2人で解法を読みながら1時間近く考えることもある。学習効率は悪いかも知れないが、学ぶ姿勢は伝えられそうだ。わからない問題にしつこく取り組むこと。それが考える力だ。僕からすれば、目標校に合格することも大切だが、それと同じくらい考える力を身に付けることが大切だ。そのおかげか、長男も少しずつ数学の問題を考えられるようになってきた。

秋の始めのころは、自分の時間がほとんどとれない状態にかなりイライラしていた。何もできない、そんな風に思っていた。ところがあるとき、すとんと落ち着いた。何もできないんじゃなく、長男と勉強しているじゃないか。それは「今」しかできないことなのだ。きっとそれは僕の人生にとって必要なことなのだろう。そして長男にとっても必要なことであってくれればと思う。あと1ヶ月半~2ヶ月、長男に付き合って勉強しようと思う。

3つめはPTA会長。
去年の4月から次男の小学校のPTA会長をしている。次男が卒業する来年の3月までの2年間だ。もともと組織というものが苦手な人間で、まともに会社勤めもできない。それなのに何の因果か引き受けることになった。オファーがあったのでとりあえずきちんと話を聞いた。無理だと思ったので丁寧にその旨を伝えた。どうもそういうやり取りをしたこと自体が好印象を与えてしまったようだった。日本社会では、何かを断る時には、相手の話をきちんと聞いてはいけないということを学んだ。相手と目を合わせないで、手のひらで押し返すようなポーズをとりながら「いや、無理です」「いや、無理です」と言い続けなければいけなかったのだ。

PTAに関しては書こうと思えばいろんなことが書けるので、まず、すごく抽象的なことを書く。あらゆる組織や制度は時間とともにそれなりの問題が出てくる。その一方、ある程度の時間に耐えた組織や制度にはそれなりの存在理由もある。つまり、問題点を指摘して性急な改革を行うのもだめだし、旧態然としてまったく同じことを繰り返すのもダメだということだ。そうなると基本、前例を踏襲することになる。しかし、社会がこれだけ大きく変わっているのだから、それではいずれ問題が出てくるだろう。。そういう時に大切なのは、そもそもの原点に戻って考えてみることだ。はたしてどれだけの人がPTAの正式名称とその設立の理念を知っているのだろうか。

具体的なことに言及するなら、やはり思ったより時間が取られる。オファーされた時は、最低限、入学式と卒業式と運動会に出てくれれば…、みたいなことを言われたが、実際はけっこういろいろやることがある。少なくとも、自分が何をやっているのか自覚しながら行動しようとするなら、やらねばならないことがいろいろ出てくる。もちろん、そういうやり方をすれば、いろんなことが学べるので、それはそれで悪い経験ではない。

4つめは安保法案。
いや今年は本当にデモに参加した。6月半ばから9月半ばまで、毎週のように国会前に足を運んだ。(9月以降も時々、参加している)。1つには安保法案の進め方がひどかったから、自分も何らかの態度表明をしておきたかったからだ。もう1つはシールズなどの若者たちがどんなことを感じ、考えているのか、メディアを通してではなく、自分の目で確認したかったからだ。残念ながら、現在の日本では、大手メディアの報道は鵜呑みにできない。だからと言ってネット情報も信頼できない。ある程度の参考にしかならない。最後は自分の目で確認することが必要だ。でもそれは自分が正しいことを証明するためではない。自分の思い込みと現実に存在するズレを知るためである。言い方を換えれば、自分が間違いにより気づきやすくなるためである。

これも書こうと思えばいろいろなことが書けるが、1つだけにしておく。あなたがかりに安保法に賛成だったとする。はたしてその安保法は僕が反対している安保法と同じものなのだろうか。この問いが大切だ。これはあなたと僕のあいだだけの話ではない。安保法に賛成している人同士のあいだでも、反対している人同士のあいだでも問えることだ。

かりにあなたが安保法は1つの新しい法律と10本の古い法律を1本にまとめたものだと知らなかったら、それは僕の反対している安保法とは違うものになる。集団的自衛権を合憲だと閣議決定するために、内閣法制局長官を代えたことを知らなければ、それも僕が反対している安保法とは違うものになる。同じように、僕はあなたが賛成している安保法を知らないかもしれない。僕が知らない何かをあなたは知っていて、それをもとに賛成しているのかもしれないからだ。

今回のことでもっとも考えさせられたのはそこだ。安保法に賛成や反対を言う前に、そもそも安保法とは何であるのか、それに対して賛成や反対を述べるためには何を知らねばならないのか。そういうことを確認することがまず大切で、急いで結論を急ぐべきではない。そういう声が大勢とはならなかった。マスコミがその役割をほとんど果たしていなかった。だから何も変わっていないかのように、大きく日本が変わっていく。そういう意味で、僕はこの社会が非常に危険だと思っている。(その危険さは、子どもたちの世代に降より具体的になるだろう)。

デモは危ないんじゃないか。中核派が絡んでいる。そんな声も聞いた。いずれも自分で確認しない人たちだった。確認しないから間違えることはない。問題を解いて、答え合わせをしないようなものだ。たとえば、8月30日の国会前。歩道から人があふれた時、先頭にいたシールズのメンバーは暴動にならないように、ぎりぎりのところで前に進めないように座り込んだ。一方、採決の直前、国会内では議員たちが乱闘に近い騒ぎを起こした。どちらの方が冷静だろう。

それは安保法に対してのおまえの見方じゃないかと言われるかもしれない。そのとおりである。私の意見に過ぎない。しかし、その言い方は同時にあなたの意見もあなたの見方に過ぎないことを意味する。どちらが正しいかは簡単には決められない。だからこそ、そもそも安保法を理解するためには何を知っていなければならないのか、それを評価するためには何を理解していなければならないのか。まずはこのあたりを話し合いながら確認して行く必要があるのだ。

自分と異なる意見を間違いだと断罪するのではなく、その異なる意見の合理性はどのように担保されているのか。対話を通じてそのあたりをやり取りできる社会が日本という国であればよいと思う。

まあ、そんなことを考えながら、猫のトイレを掃除したり、腰痛と付き合っていったり、子どもの勉強を見たり、身の回りのことでてんやわんやの1年なのだろう。

みんなにとって、よい1年でありますように。



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