また、ブログを書けていない。書かねばと思いながら、時間が取れない。書こうと思うことはあるのに、書けないまま。目に付いた食材を冷蔵庫にストックするうちに、すべての賞味期限の切れそうになり、進退極まった感じだ。扉を閉じて見なかったことにしても、状況は悪化するだけ。とりあえず、簡単な料理を作りながら冷蔵庫の中を整理するしかない。
忙しい理由。長男の受験勉強に付き合っているから。受験日まであと2週間を切った。志望校の過去問を家でやるとよい点を取る。しかし模試だとまだすこし不安定。どうせ受験するなら合格する方が良い。できる限り付き合うことにした。そして、先週の日曜日は10時間くらい付き合った(夜の合気道の稽古も諦めた)。さすがに疲れた。週末はあと2回。同じ感じで行く。
この半月くらいの間に本を4冊読んだ。後藤健二さんの『ダイヤモンドより平和が欲しい』、古谷経衡氏と奥田愛基氏の『愛国ってなんだ 民族・郷土・戦争』、布施祐仁著の『経済的徴兵制』、そして梨木香歩著の『僕は、そして僕たちはどう生きるか』の4冊。
『ダイヤモンド』。後藤さんが殺されてしまったのは本当に残念なことだと思った。目の前の少年兵への優しさを感じた時、後藤さんが生きていないことを悲しく感じた。この本で、少年兵は麻薬を体に埋め込まれることで恐怖感も人を殺す罪悪感もなくなることを知った。自衛隊は南スーダンでこういう子どもたちと戦うことになるのだろうか。その時の自衛隊員と子ども兵士のことをどうしても想像してしまう。
『愛国ってなんだ』。今ひとつ面白みに欠ける本だった。古谷氏は、メディアが奥田氏などのシールズのメンバーを「普通の大学生」と取り上げることが気に入らないようだ。奥田氏たちががいかに普通ではない(普通よりすごい)かを認めさせようとしていた。たしかに僕も、日本社会で使われる「普通」という言葉は危ういと思っている。日本では「マジョリティー」を「普通」と表現する傾向があり、その「普通」が「ノーマル」の意味にすり替わる。すると「マイノリティー」が「アブノーマル、異常」と位置付けられる。ただ、この本でそこまで「普通」にこだわる必要があるようには思えなかった。
『経済的徴兵』。日本を考える上で読んでおいたほうがよい。とくに子どもがいる人にとっては。日本社会は大きな転換期を迎えていると思う。たとえば急速な格差社会への変化がその一つだ。変化と書いたが、これは雨降りのような自然な移ろいではない。意図的な社会の変革である。アメリカの例にもあるように、格差社会は経済的徴兵ともつながる。(堤未果さんの本などにある)。真面目に働いても格差が生まれるような社会的構造ができつつある。そこで学問を修めたい貧困層は、男子であれば軍隊に、女子であれば風俗に向かう。そういう社会を作ろうとする人たちには、その人たちの合理性はあるのだろう。しかし、その合理性は市井の庶民の合理性とは異なる。自分はどちら側にいるのか。そういうことを考えるためにも、この手の本を読まねばならない社会になった。
『僕は、そして僕たちはどう生きるか』。名著『君たちはどう生きるか』を受けた本だ。タイトル
通り、この世界でどのように生きていったらよいのかを扱った物語だ。少し驚いたのは、小説の中で前提とされている、僕たちが生きていく「この世界」が、戦争へのきな臭さを感じせる世界として描かれていたことだ。いまの世相を考えれば、戦争へのきな臭さの中で自分が生きることを考えるのは当然かもしれない。しかし、僕が十代の頃には、どう生きるかという問題は、どちらかといえば哲学的な問いだった。ある意味、悠長な時代だったのかもしれない。大学に行くために自衛隊に行くかどうか考える、風俗店で働くかどうか考える。そういうことが「自分がどう生きるか」を考えることになる。この先、そう考えざるを得ない子どもたちのことを考える。
本の話は終わり。こういう風に書いていると、少しずつ頭の中の風通しが良くなる。あとは先週末の市民連合のシンポジウムのことを書いておく。先週の土曜日、東京北区の「北とぴあ」というところで市民連合のシンポジウムがあった。「2016年をどう戦い抜くか」というタイトルで、哲学者の柄谷行人さんの講演や、映画監督の森達也さん、憲法学者の青井美帆さん、政治学者の三浦まりさん、SEALDSの諏訪原健さん、政治学者の山口二郎さんのパネルディスカッションがあった。
映画監督の森達也さんの話が印象に残った。森監督の周りでは安倍政権のやってることに反対する人たちが多い。映画監督、戦場カメラマン、作家、ジャーナリスト、ほとんど反対しているそうだ。なぜか。彼らはみんな「現場をみているから」だ。戦場、被災地、そういう人の生き死にの現場にいる彼らにはとても賛成できるものではないそうだ。僕はそんな過酷な現場には行ったことはない。しかし想像はできる。戦争を観念的に考えるのではなく、戦場の一人一人を想像する。想像力のない人間に限って自己合理化がはやい、というのは『ダンス・ダンス・ダンス』での五反田君のセリフだ。その通りだと思う。
もう一つ、森さんの話で興味深かったのは、いま日本社会で起こっていることは、かつてのオウム真理教がやっていたこと同じだという話だった。オウムが求めたのは同質性だった。一つの集団の中で異論や異質なものを許さない。さらに外部に敵を作り出す。それにより集団は一つにまとまるが、外部とはかみ合わなくなってくる。その結果、ああいった事件につながった。いまの日本社会も異論や異質なものを許容しなくなっている。(憲法9条の「9」という字が書かれたキーホルダーを持ったままでは、政治的主張をしているという理由で国会に入れない、とか)。近隣諸国との対立を煽ったりしている。(まあ、これは相手も同じようなことをしているが)。日本人が理解している日本と、諸外国から見た日本はどのくらいずれがあるのだろう。そこを理解しないと、不幸な出来事に繋がるかもしれない。
他にも書こうと思ったことはあったが、だいぶリセットされた感じがしてきたので、この辺りで終えよう。ブログを書き続けることと、ランニングを続けることと。これが僕の心身のメンテナンスには必要なようだ。まずは書き続けること。継続的なランニングはもう少し後だ。ちなみに先週末、5キロ走ったら筋肉痛になった。1年前は5キロはウォーミングアップの距離だったのに。すごく衰えている。
忙しい理由。長男の受験勉強に付き合っているから。受験日まであと2週間を切った。志望校の過去問を家でやるとよい点を取る。しかし模試だとまだすこし不安定。どうせ受験するなら合格する方が良い。できる限り付き合うことにした。そして、先週の日曜日は10時間くらい付き合った(夜の合気道の稽古も諦めた)。さすがに疲れた。週末はあと2回。同じ感じで行く。
この半月くらいの間に本を4冊読んだ。後藤健二さんの『ダイヤモンドより平和が欲しい』、古谷経衡氏と奥田愛基氏の『愛国ってなんだ 民族・郷土・戦争』、布施祐仁著の『経済的徴兵制』、そして梨木香歩著の『僕は、そして僕たちはどう生きるか』の4冊。
『ダイヤモンド』。後藤さんが殺されてしまったのは本当に残念なことだと思った。目の前の少年兵への優しさを感じた時、後藤さんが生きていないことを悲しく感じた。この本で、少年兵は麻薬を体に埋め込まれることで恐怖感も人を殺す罪悪感もなくなることを知った。自衛隊は南スーダンでこういう子どもたちと戦うことになるのだろうか。その時の自衛隊員と子ども兵士のことをどうしても想像してしまう。
『愛国ってなんだ』。今ひとつ面白みに欠ける本だった。古谷氏は、メディアが奥田氏などのシールズのメンバーを「普通の大学生」と取り上げることが気に入らないようだ。奥田氏たちががいかに普通ではない(普通よりすごい)かを認めさせようとしていた。たしかに僕も、日本社会で使われる「普通」という言葉は危ういと思っている。日本では「マジョリティー」を「普通」と表現する傾向があり、その「普通」が「ノーマル」の意味にすり替わる。すると「マイノリティー」が「アブノーマル、異常」と位置付けられる。ただ、この本でそこまで「普通」にこだわる必要があるようには思えなかった。
『経済的徴兵』。日本を考える上で読んでおいたほうがよい。とくに子どもがいる人にとっては。日本社会は大きな転換期を迎えていると思う。たとえば急速な格差社会への変化がその一つだ。変化と書いたが、これは雨降りのような自然な移ろいではない。意図的な社会の変革である。アメリカの例にもあるように、格差社会は経済的徴兵ともつながる。(堤未果さんの本などにある)。真面目に働いても格差が生まれるような社会的構造ができつつある。そこで学問を修めたい貧困層は、男子であれば軍隊に、女子であれば風俗に向かう。そういう社会を作ろうとする人たちには、その人たちの合理性はあるのだろう。しかし、その合理性は市井の庶民の合理性とは異なる。自分はどちら側にいるのか。そういうことを考えるためにも、この手の本を読まねばならない社会になった。
『僕は、そして僕たちはどう生きるか』。名著『君たちはどう生きるか』を受けた本だ。タイトル
通り、この世界でどのように生きていったらよいのかを扱った物語だ。少し驚いたのは、小説の中で前提とされている、僕たちが生きていく「この世界」が、戦争へのきな臭さを感じせる世界として描かれていたことだ。いまの世相を考えれば、戦争へのきな臭さの中で自分が生きることを考えるのは当然かもしれない。しかし、僕が十代の頃には、どう生きるかという問題は、どちらかといえば哲学的な問いだった。ある意味、悠長な時代だったのかもしれない。大学に行くために自衛隊に行くかどうか考える、風俗店で働くかどうか考える。そういうことが「自分がどう生きるか」を考えることになる。この先、そう考えざるを得ない子どもたちのことを考える。
本の話は終わり。こういう風に書いていると、少しずつ頭の中の風通しが良くなる。あとは先週末の市民連合のシンポジウムのことを書いておく。先週の土曜日、東京北区の「北とぴあ」というところで市民連合のシンポジウムがあった。「2016年をどう戦い抜くか」というタイトルで、哲学者の柄谷行人さんの講演や、映画監督の森達也さん、憲法学者の青井美帆さん、政治学者の三浦まりさん、SEALDSの諏訪原健さん、政治学者の山口二郎さんのパネルディスカッションがあった。
映画監督の森達也さんの話が印象に残った。森監督の周りでは安倍政権のやってることに反対する人たちが多い。映画監督、戦場カメラマン、作家、ジャーナリスト、ほとんど反対しているそうだ。なぜか。彼らはみんな「現場をみているから」だ。戦場、被災地、そういう人の生き死にの現場にいる彼らにはとても賛成できるものではないそうだ。僕はそんな過酷な現場には行ったことはない。しかし想像はできる。戦争を観念的に考えるのではなく、戦場の一人一人を想像する。想像力のない人間に限って自己合理化がはやい、というのは『ダンス・ダンス・ダンス』での五反田君のセリフだ。その通りだと思う。
もう一つ、森さんの話で興味深かったのは、いま日本社会で起こっていることは、かつてのオウム真理教がやっていたこと同じだという話だった。オウムが求めたのは同質性だった。一つの集団の中で異論や異質なものを許さない。さらに外部に敵を作り出す。それにより集団は一つにまとまるが、外部とはかみ合わなくなってくる。その結果、ああいった事件につながった。いまの日本社会も異論や異質なものを許容しなくなっている。(憲法9条の「9」という字が書かれたキーホルダーを持ったままでは、政治的主張をしているという理由で国会に入れない、とか)。近隣諸国との対立を煽ったりしている。(まあ、これは相手も同じようなことをしているが)。日本人が理解している日本と、諸外国から見た日本はどのくらいずれがあるのだろう。そこを理解しないと、不幸な出来事に繋がるかもしれない。
他にも書こうと思ったことはあったが、だいぶリセットされた感じがしてきたので、この辺りで終えよう。ブログを書き続けることと、ランニングを続けることと。これが僕の心身のメンテナンスには必要なようだ。まずは書き続けること。継続的なランニングはもう少し後だ。ちなみに先週末、5キロ走ったら筋肉痛になった。1年前は5キロはウォーミングアップの距離だったのに。すごく衰えている。