さてさて、早いもので1月も終わろうとしている。残りは週末だけである。週末には館山でフルマラソン。3年連続の参加である。一昨年は4時間切りにチャレンジしたが、ゴールの3kmくらいの手前で両脚を肉離れ。崩れるように道路にしゃがみ込んだものだ。その後、脚を引きずるようにして走ったが、もちろん4時間は切れなかった。
去年は順調に3時間45分程度。個人的には悪くないタイムだが、それ以上に残り7km地点での出来事が記憶に残る。コース横には目に障害がありそうな幼児がいた。はいはいしているような変な動きだ。何か変だと思いながらも走りすぎる。すると僕の前の男性がコースを戻ってその子のケアをした。自分の走りにとらわれ、子どもを無視できた自分に反省させられた。そんな走りだった。
日曜日は天気もよさそうである。風さえ吹かなければ、走りながらいろんなことを思い出すのだろう。膝の痛みはまだ抜けないし、とくに課題があるレースでもない。楽しく走れて4時間が切れればよい。もちろん予想外のことが起こるのがマラソンである。でも起こったら起こったでそれも含めて楽しんでしまおう。
さてさて、ここから何を書こうか。無理に書かなくてもよさそうなものだが、無理にでも書く理由がある。今月のブログのノルマが9本で、これが9本目。自分で課したノルマをきちんと守らないと、別のところで他人にノルマを課されることになる。僕はわがままなので、そういうのには耐えられない。そういうわけで、無理やり話題を探す。
そしてまたまた「貧困問題」である。それも受け売りである。『正社員が没落する――「貧困スパイラル」を止めろ!』という本を読んだ。堤未果と湯浅誠の共著、というか半分以上は対談である。堤未果は『ルポ 貧困大国アメリカ』という本を出しているように、アメリカの貧困事情に詳しい。湯浅誠は年末派遣村で注目されたNPO法人「もやい」の事務局長である。当然、日本の貧困事情に詳しい。この本を読んでいると、アメリカも日本も貧困が深刻な問題であることがわかってくる。
例えば、アメリカでは医師や学校の教師がワーキングプア状態に陥るような構造ができ上がってしまっている。医療に関しては、新自由主義政策により保険会社と製薬会社が病院の経営に影響力を持つようになった。医師たちは、患者を治すことよりも利益を確保することが重要になる。治療よりも煩瑣な書類作成にほとんどの時間が取られる。すると休み時間が取れなくなり、医療事故が起こりやすくなる。訴訟に備えるため莫大な保険料を払わねばならなくなる。ある医師は、年収20万ドルのうち18万ドルを医療過誤保険料に支払い、実際の年収は日本円にして200万円程度になり医師をやめた。そして貧困に陥った。
教育現場にも競争原理が持ち込まれた。2002年に導入された「落ちこぼれゼロ法」がそのきっかけである。この法律はアメリカ中の学校に全国一斉学力テストを義務化するものである。テストの結果がそのまま教師の査定に結びつく。当然、貧困地域ほど結果は悪い。教師たちは減給や降格などの処分を受ける。ある一定レベル以下になると、政府からの助成金がカットされ廃校になる。教師たちはテストの結果を下げないために、問題を前もって張り出したり、回答用紙を改ざんしたり、出来の悪い生徒にテストを休ませたりする。本来の教育とは別のところで仕事が増える。まともな教育が出来ないことでうつ病になる。
そういった状況に耐えられなくて医者や教師をやめる。再就職先を探す。職業斡旋サービスでは「まずは履歴書から過去十年よりも前の経歴を消してくれ」と言われる。現在のアメリカでは過去の経験には価値がないのだ。価値があるのは「若いこと」「従順であること」そして「労働力として安価であること」だ。そして時給7ドルとか8ドルの仕事が待っていることになる。
とくに問題なのは医師とか教師というのは中間所得層の人間であることだ。プライドを持って仕事をし、それなりの収入を得ていた人が、他人事だと思っていた貧困へと転がり落ちていく。本のテーマがテーマだから多少、強調されているのかと思っていた。そうしたら、昨日、オバマ大統領が一般教書演説で「ミドルクラス」に配慮したメッセージを出していた。アメリカはかなりまずい状態のようだ。
日本はどうかというと、じつは五十歩百歩である。不況による派遣切りなどで、貧困の問題が目に触れやすくなってきた。しかし多くの語り口は「頑張っているのにこんな貧困に陥っている(だからこの人を救済しなければならない)」とか「頑張っていないから貧困に陥ったのだ(だから自己責任である)」といったものが多いような気がする。つまり貧困は個人の問題として語られているのだ。
しかし日本で起こっている貧困も、個人の問題というよりは社会的な構造の問題のようだ。もちろん当事者にとっては貧困は個人的な問題だろう。しかし貧困に陥っていない人ほど社会的な構造の問題だと考えた方が良い。アメリカと同じように、気がついたら自分が貧困に陥っているということが起こりえるのだから。
例えば、2007年には日本でも保健法の法審議会で「保健法改定中間試案」をまとめたが、そのなかにはアメリカの医療制度と同様のシステムの導入が盛り込まれていた。(この時は医師たちなどが問題点に気づき、阻止したそうである)。教育については、すでに競争原理が持ち込まれている。先日も東京・足立区の学校でテスト時に教員が生徒に答えを示唆したとの記事がったが、記憶によれば足立区はテスト結果に照らして予算を配分する方式を導入しようとしたことがあるはずだ。
日本はアメリカを真似しているのだから(あるいは「年次改革要望書」に忠実に従っているのだから)、アメリカと同型の問題が起こるのは当たり前である。実際、「保健法の改正」「派遣法の改正」「訴訟社会にする」などは年次改革要望書にもある。派遣法により企業は安価な労働力を手に入れることが出来る。当然、労働市場は値崩れを起す。正社員の横には、半額で同じ仕事をする派遣社員がいる。正社員にはプレッシャーがかかる。リストラの対象にならないためにサービス残業も進んでやるようになる。
「派遣切りの貧困」という一見、個人の問題に思えるものが、じつは大きな構造の問題であることがわかる。自分の隣に安価な非正規の労働者がいたら、それは他人の問題ではないのだ。自分と隣の非正規の人間とで「貧困のスパイラル」を構造化しているのだ。そうやって社会のみんなが貧困スパイラルに巻き込まれながら、その構造をより強化している。日本はそんな社会になっている。「なんかまずいぞ」、この本を読んでいるといやな感じになってくる。貧困の問題はもうちょっと追いかけねばならなそうである。
去年は順調に3時間45分程度。個人的には悪くないタイムだが、それ以上に残り7km地点での出来事が記憶に残る。コース横には目に障害がありそうな幼児がいた。はいはいしているような変な動きだ。何か変だと思いながらも走りすぎる。すると僕の前の男性がコースを戻ってその子のケアをした。自分の走りにとらわれ、子どもを無視できた自分に反省させられた。そんな走りだった。
日曜日は天気もよさそうである。風さえ吹かなければ、走りながらいろんなことを思い出すのだろう。膝の痛みはまだ抜けないし、とくに課題があるレースでもない。楽しく走れて4時間が切れればよい。もちろん予想外のことが起こるのがマラソンである。でも起こったら起こったでそれも含めて楽しんでしまおう。
さてさて、ここから何を書こうか。無理に書かなくてもよさそうなものだが、無理にでも書く理由がある。今月のブログのノルマが9本で、これが9本目。自分で課したノルマをきちんと守らないと、別のところで他人にノルマを課されることになる。僕はわがままなので、そういうのには耐えられない。そういうわけで、無理やり話題を探す。
そしてまたまた「貧困問題」である。それも受け売りである。『正社員が没落する――「貧困スパイラル」を止めろ!』という本を読んだ。堤未果と湯浅誠の共著、というか半分以上は対談である。堤未果は『ルポ 貧困大国アメリカ』という本を出しているように、アメリカの貧困事情に詳しい。湯浅誠は年末派遣村で注目されたNPO法人「もやい」の事務局長である。当然、日本の貧困事情に詳しい。この本を読んでいると、アメリカも日本も貧困が深刻な問題であることがわかってくる。
例えば、アメリカでは医師や学校の教師がワーキングプア状態に陥るような構造ができ上がってしまっている。医療に関しては、新自由主義政策により保険会社と製薬会社が病院の経営に影響力を持つようになった。医師たちは、患者を治すことよりも利益を確保することが重要になる。治療よりも煩瑣な書類作成にほとんどの時間が取られる。すると休み時間が取れなくなり、医療事故が起こりやすくなる。訴訟に備えるため莫大な保険料を払わねばならなくなる。ある医師は、年収20万ドルのうち18万ドルを医療過誤保険料に支払い、実際の年収は日本円にして200万円程度になり医師をやめた。そして貧困に陥った。
教育現場にも競争原理が持ち込まれた。2002年に導入された「落ちこぼれゼロ法」がそのきっかけである。この法律はアメリカ中の学校に全国一斉学力テストを義務化するものである。テストの結果がそのまま教師の査定に結びつく。当然、貧困地域ほど結果は悪い。教師たちは減給や降格などの処分を受ける。ある一定レベル以下になると、政府からの助成金がカットされ廃校になる。教師たちはテストの結果を下げないために、問題を前もって張り出したり、回答用紙を改ざんしたり、出来の悪い生徒にテストを休ませたりする。本来の教育とは別のところで仕事が増える。まともな教育が出来ないことでうつ病になる。
そういった状況に耐えられなくて医者や教師をやめる。再就職先を探す。職業斡旋サービスでは「まずは履歴書から過去十年よりも前の経歴を消してくれ」と言われる。現在のアメリカでは過去の経験には価値がないのだ。価値があるのは「若いこと」「従順であること」そして「労働力として安価であること」だ。そして時給7ドルとか8ドルの仕事が待っていることになる。
とくに問題なのは医師とか教師というのは中間所得層の人間であることだ。プライドを持って仕事をし、それなりの収入を得ていた人が、他人事だと思っていた貧困へと転がり落ちていく。本のテーマがテーマだから多少、強調されているのかと思っていた。そうしたら、昨日、オバマ大統領が一般教書演説で「ミドルクラス」に配慮したメッセージを出していた。アメリカはかなりまずい状態のようだ。
日本はどうかというと、じつは五十歩百歩である。不況による派遣切りなどで、貧困の問題が目に触れやすくなってきた。しかし多くの語り口は「頑張っているのにこんな貧困に陥っている(だからこの人を救済しなければならない)」とか「頑張っていないから貧困に陥ったのだ(だから自己責任である)」といったものが多いような気がする。つまり貧困は個人の問題として語られているのだ。
しかし日本で起こっている貧困も、個人の問題というよりは社会的な構造の問題のようだ。もちろん当事者にとっては貧困は個人的な問題だろう。しかし貧困に陥っていない人ほど社会的な構造の問題だと考えた方が良い。アメリカと同じように、気がついたら自分が貧困に陥っているということが起こりえるのだから。
例えば、2007年には日本でも保健法の法審議会で「保健法改定中間試案」をまとめたが、そのなかにはアメリカの医療制度と同様のシステムの導入が盛り込まれていた。(この時は医師たちなどが問題点に気づき、阻止したそうである)。教育については、すでに競争原理が持ち込まれている。先日も東京・足立区の学校でテスト時に教員が生徒に答えを示唆したとの記事がったが、記憶によれば足立区はテスト結果に照らして予算を配分する方式を導入しようとしたことがあるはずだ。
日本はアメリカを真似しているのだから(あるいは「年次改革要望書」に忠実に従っているのだから)、アメリカと同型の問題が起こるのは当たり前である。実際、「保健法の改正」「派遣法の改正」「訴訟社会にする」などは年次改革要望書にもある。派遣法により企業は安価な労働力を手に入れることが出来る。当然、労働市場は値崩れを起す。正社員の横には、半額で同じ仕事をする派遣社員がいる。正社員にはプレッシャーがかかる。リストラの対象にならないためにサービス残業も進んでやるようになる。
「派遣切りの貧困」という一見、個人の問題に思えるものが、じつは大きな構造の問題であることがわかる。自分の隣に安価な非正規の労働者がいたら、それは他人の問題ではないのだ。自分と隣の非正規の人間とで「貧困のスパイラル」を構造化しているのだ。そうやって社会のみんなが貧困スパイラルに巻き込まれながら、その構造をより強化している。日本はそんな社会になっている。「なんかまずいぞ」、この本を読んでいるといやな感じになってくる。貧困の問題はもうちょっと追いかけねばならなそうである。