とんびの視点

まとはづれなことばかり

中継ぎブログ

2010年07月22日 | 雑文
ブログの更新が追いつかない。次にまとまった時間を取れるまでに日にちがかかる。仕方がないので、前回のブログと次回のブログをつなぐ、中継ぎ感覚で簡単に書く。

先週の木曜日から風邪をひき始め、週末の三連休は寝たきり。眠れるだけ眠る。眼がさめると布団の中で『ゲド戦記4 帰還』を読むが、すぐに眠くなりまた眠る。そんなことを繰り返しているうち梅雨が明ける。外は夏だ。

今週は風邪が抜けないままどたばたと仕事をする。そして週末には家族で館山に行き海遊びだ。毎年、夏になると館山の海に遊びに行く。もう15年以上続けている。15年、長い時間だ。いろいろなものが変わっていく。海の家がなくなり、ライフガードがいなくなり、砂浜の横に防波堤ができる。会社の保養所は壊され、土地が切り売りされ、こぎれいな貸別荘ができる。そんなふうにいろんなものが変わっていく。

でも、ちりちりと焼けつくような太陽の光や、青の濃い海、抜けるような青空、イメージそのままの入道雲、アスファルトに映る浮き輪を抱えて歩く濃い影は昔のままだ。本体は15年分歳をとったが、影には歳をとった気配はない。夏が何度も繰り返される。

ちょっと前のことになるが、『ザ・キャラクター』という芝居を見た。野田秀樹が主宰するNODA・MAPの第15回公演だ。ギリシア神話をベースに、単なる町中の書道教室がカルト集団化して行き、最終的には社会に対してのテロ行為に至る。明らかにオウム真理教の地下鉄サリン事件が下敷きになっているものである。

しかしこれはサリン事件を舞台上で再現しようとしたのではない。時間とともに事件が風化してしまうことを憂慮して作った芝居ではない。「オウム的なものはまだ解決していなのだな」、舞台を見ながらそう思った。そして反射的にすぐに村上春樹の『1Q84』を思い浮かべた。あれもオウム的なものがテーマの一つになっていた。

村上春樹の『1Q84』も野田秀樹の『ザ・キャラクター』もオウム真理教をモデルにしている。しかし描こうとしているのは、普通の人間たちとは違った異様な集団が異常な犯罪を行った。それは私たち普通の人間にとって重大な問題である、ということではない。両者ともにオウム真理教をモデルにしながら、オウム的なものが〈いわゆる普通の人たち〉と地続きになっていることを示そうとしている。

『1Q84』は〈リトル・ピープル〉を持ち出すことで、世界の成り立ちそのものにオウム的なものがセットされていることを物語ろうとしていた。『ザ・キャラクター』では〈書道教室〉という極めて日常的な場所とそこに集う普通の人々の心性にオウム的なものが存在することを表現していた。

今日は時間がないので詳しく比較は入らないが(時間があればできるというほど簡単でもないが)、オウム的なものについては僕も再考せねばならないのだろう。

『ザ・キャラクター』に関して言えば、話が進む中、少しずつ舞台上で行われていたことに観客が引き込まれていく。そして自分が現場の当事者であるかのような感覚を持ち始める。その瞬間、宮沢りえが「おい、ひと言なにか言ったらどうだい」と観客席に向かって叫ぶ。(あくまで舞台正面に向かってであり、観客に直接言っているのではない)

心臓がどきんとした。自分が責められているかのようだった。ごめんなさいだんまりを決めんこでいました、心の中でそんな言葉が出てきた。(別にそんなに悪いことをしているわけでもないんだけど)。そんなわけでオウム的なものを考えねばならないのかなあ、と思わされた。(そして、村上春樹のロングインタビューが載っている『考える人』を買ってしまった)。『贋作・罪と罰』とか『赤鬼』とか『ロープ』に比べると少し劣るが、それでも良い芝居だった。

それにしても、カーテンコールの時に野田さんが観客席を見る目つきのするどいこと。毎回のことだけど。

職場体験でコミュニケーションについて話す

2010年07月16日 | 雑文
明け方、ふくらはぎがつる。その痛みで目が覚める。ほとんどランニングをしていないからだ。不思議なことに、ランニングをしばらくサボると寝ていて脚をつることがある。相方も同じことを言っているし、ランニングをしている友人も経験している。夏のランニングは厳しいので、ついついサボりがちになってしまう。その報いである。

ランニングをサボると頭の整理が追いつかないというデメリットもある。正確に言うと、頭の中の整理が追いつかないというより、身体に溜まった雑多なものを走ることで仕分けして頭に届けることができないという感じだ。頭に届けば言葉になる。だからすぐに文章に置き換えられる。頭に届かないと、もやもやした念のようなものが身体に残る。その分、身体が重くなる。という訳でブログが追いついていない。

1週間も前のことだが、友人の天祖神社で中学生に話しをした。職場体験で神社にやって来た15名の男女の中学生に対して1時間ほど授業のようなものをもった。昨年に続いて2度目である。2度目だから慣れたかというとそんなことはない。1年前にやったことなどすっかり忘れている。そんな訳でしっかりと準備していく。

自分が中学2年生の時を思い出す。リアルに仕事について考えてなどいなかった。ましてや神社を職場とすることなど考えたことがなかった。おそらく今の中学2年生もそれほど変わらないだろう。職場体験の授業を学校がやると決めたから参加しただけ。別に神社を職場としようと思ってなどいない。そういう中学2年生の男女を15人相手にするわけだ。

誰も積極的に僕の話しなど聞こうとしないだろう。となれば基本は力技、気分は辻説法である。自分が話をすれば誰かが耳を傾けてくれるなどと思わないこと。誰も聞いていなくても大きなはっきりとした声で話し続けること。それが何よりも大切になる。話し終わった時に5人以上を引き込んでいれば僕の勝ち、という目標を勝手に立てる。

宗教を機能面から見た時に神社が共同体のバインド機能を歴史的に持っていたこと、現在のビジネスではコミュニケーション能力が必要とされていることから、コミュニケーションの話しをした。コミュニケーションとは情報伝達だと言われる。でも情報を伝達するだけなら機械にもできる。そこでコミュニケーションとは「情報」と「感情」を伝える技術だと説明をする。

その上で「僕は勉強が嫌いです。だから夏休みはすべて遊びます」といった類いの例を挙げる。感情も情報も入っている、おそらくこの言葉を聞いた人(親とか先生だろう)でその意味が理解できない人はいないだろう。ただ、おそらくその言葉は却下されるだろう。ということは、情報と感情を述べてもコミュニケーションが成立したことにはならない。「意味」を理解できることと、「分かってもらう」ことは違うことだからだ。

そうコミュニケーションで人が求めるのは「分かってもらう」ことである。言葉の意味を理解してもらうことだけではない。そこで「分かる」という言葉を「分ける」という言葉と絡めながら話しを進める。私たちは物事を「分ける」ことによって「分かる」ことができる。そして何かを「分ける」際には、そこに必ず基準が存在する。自分の用いている基準を相手に伝えること、相手の用いている基準をきちんと聞き出すこと、それらの同じところと違うところを確認して、双方が納得のいく落とし所を見つけることがコミュニケーションであると説明する。

極めて初歩的な具体例を挙げる。「昼/夜」は、1日を太陽が出ているか否かの基準で分けている。「大人/子ども」は、人間をある年齢を基準に分けている。「男/女」は、人間を性別という基準で分けている。「分かる」ということは「分ける」ことである。そして「分ける」ためには何らかの「基準」が必要である。その基準をやり取りするのがコミュニケーションである。

では「鶏肉、豚肉、レタス、キャベツ、リンゴ」とある。これを2つのグループに分けてみよう、と少しずつ生徒を引き込む。ある生徒は(鶏肉、豚肉)と(レタス、キャベツ、リンゴ)分けた。別の生徒は(鶏肉、豚肉、リンゴ)と(レタス、キャベツ)に分けた。これは誰もが理解できる。「では、(鶏肉、豚肉)と(レタス、キャベツ、リンゴ)に分けた基準は何だろう?」と本人以外の生徒に尋ねる。

当然のように「肉とそれ以外の野菜みたいなもの」という答えが返ってくる。みんなもふむふむと納得している。まあそうだろうなと思い本人に「それでいい?」と尋ねると、「漢字とカタカナで分けた」と答える。ナイスである。物事の流れが僕の方にやって来ている。このチャンスを一気につかむことにする。

ほら、違ってたでしょ。言葉になった意見は同じでも基準が違っていることがあるんだよ。これって同じ言葉を使って話していても違うことを考えているってことだよ。たとえば「僕たち(私たち)ともだちだよね」「そうだね」とか話していても、実際にはぜんぜん違うことを考えているようなことなんだ。そういう経験したことないかな?彼らの日常の出来事に重なるように話しを持って行く。

いつの間にか、何にもの生徒が顔を上げてこっちを見ている。自分から発言してくれる生徒も出てくる。どうやら5人以上こっちを向けるということには成功したようだ。用意したことの半分もできなかったけど、彼らがコミュニケーションについて考えるときの材料にはなっただろう。次回はもっと上手くやれそうだ。来年が楽しみである。

耳を塞ぎ、目を閉じる

2010年07月12日 | 雑文
ワールドカップも終わった。予想通りのスペインの優勝である。日韓共催以来、ナショナル単位でのサッカーはほとんど見なかったが、今回は日本戦を含め久しぶりにワールドカップを楽しんだ。グループリーグの試合はそれほどでもなかったが、ベストエイトに入ってからはとても面白かった。 (責任放棄のパスが圧倒的に少なくなった)。冷静に予想すればスペイン、ギャンブルであればウルグアイと思っていたのでけっこう楽しめた。

今回のワールドカップで学んだことが1つある。それは「欲しい情報を、欲しいときに手に入れるためには、目を塞ぎ、耳を閉じねばならない」ということだ。先々週、楽しみにしていたのが「ドイツvsスペイン」。ところが放送開始は午前3時半。そんな時間にサッカーを見ていたら仕事に影響する。とりあえず録画して、翌日、仕事から帰ったら見ることにした。

はたと思い当たる。電車の中のモニターや、駅構内の通路に並ぶモニター。そういえば、しょっちゅうワールドカップの結果を流している。天気を調べようとどこかのホームページを除いてもサッカー情報が載っている。情報系のメールの中にもサッカー情報が載っている。

家を出てからの移動中はすべてヘッドフォンをして音楽を聞く。そして常に地面を見ながら歩く。メールも必要最低限しかやり取りしない。ちょっと気になることがあっても検索などしない。周りでサッカーの話が始まれば指を耳に突っ込み、口の中でごにょごにょ言って音が入らないようにする。家に帰れば玄関に夕刊がおいてある。反射的に手が伸びるが、何かが僕を押しとどめる。(録画を見てから手に取ったら、そこにはロッペンが手を上げている写真があった。)何というのか、非生産的にストレスフルな1日であった。

欲しい情報を欲しいときに手に入れるためには、目を塞ぎ耳を閉じねばならない。どれだけ探しても、欲しい情報を欲しいときに手に入れることができない。ここまで書いて「欲しい情報を、欲しいときに」という言葉遣いは間違っていると気づいた。厳密に考えれば「欲しい情報」は「欲しい時」と必ずセットになっている。日常では「その情報は今は大切ではない」とか「それに関してはいつでもいい」という言い方をする。でもそれは「欲しい情報」を手に入れるのが「いつでもいい」ということではない。その言葉が意味しているのは「今のところその情報はそれほど欲しくない」ということだ。

情報に対して「目を塞ぎ、耳を閉じねばならない」、あるいは「どれだけ探しても(情報が)手に入らない」というのは、結局のところ情報は私たちの思い通りにならないということだ。隠されていれば探し出すための苦労が生じる。見せつけられていればシャットダウンするための労力がかかる。

探しても情報が見つからない社会よりは、情報を見せつけられている社会の方が便利なのかもしれない。でも、何かを見せつけられているということは、その間、別のものを見ることができないということである。おそらくそこにはサブリミナル的な効果があるだろう。あるいは、洗脳という言葉が思い浮かべることもできる。これまでほとんどサッカーを見ていなかったような人が、本気で感動したり、蘊蓄を述べていたりする。場合によっては諭されたりする。「シャビって昔はチャビって呼ばれていたことを知ってますか?」と言いたくなる。

たかがサッカー、それほど目くじらを立てるものではないと言われるかもしれない。その通りである。問題はサッカーではない。僕が気になるのは、情報が見せつけられているということの方である。現在とは一見さまざまな情報がオープンになっている世界のように見える。にも関わらず、ワールドカップになれば社会はそれ一色に染まる。現在とは、情報がオーブンなのではなく、選択的に見せつけられている情報が氾濫しているだけなのかもしれない。そのような状況で人々の思考がどのように歩んでいくのかはちょっと注意しておかねばならない。(今回の選挙の結果もその辺りと絡められそうである)。

とはいえサッカーはサッカーでとても楽しかった。最後に印象に残ったのは、表彰式でオランダの監督が首に掛けてもらったメダルをすぐに外したことだ。それを見て、カンプ・ノウの悲劇でマテウスがメダルをすぐに首から外したのを思い出した。どちらも小さく首を横に振っていた。敗者の姿って結構、記憶に残るものである。

子どもの小遣い

2010年07月05日 | 雑文
先日、長男が「おふじさん」に行ってきた。地元の冨士神社で毎年、富士山の山開きにあわせて開かれる縁日のようなものである。東京北区のホームページには「地元では〈おふじさん〉の名で親しまれています。江戸時代に富士山に行けなかった庶民立ちが冨士塚を築き、富士山に見立てて参詣していました。毎年山開きの日に祭礼が行なわれ、脇の道路沿いには、露店が立ち並び、多くの人で賑わいます。十条冨士塚は北区有形民族文化財に指定されています」とある。

もちろん長男は冨士塚を参詣するために神社に行ったのではない。「おふじさん」が何であるかも知らずに、浮かれ気分で友だちと露店が並ぶ縁日へ遊びに行ったのだ。

夜、仕事から帰ると、長男が不満そうにしている。尋ねてみると、「カメ掬い(金魚すくいのカメバージョン)」に失敗したとのこと。それも5回も連続で。ふむふむ、1回いくらしたのだね、と尋ねると「200円」との答え。一瞬にして1000円を散財したわけである。

1000円も無駄にすれば不満になるのも当然かと思っていたら、そうではなかった。翌日、もう一度トライしたいと母親に訴えたところ却下されたことが不満であったらしい。長男曰く、コツがわかった、次は上手くいくから、翌日にトライしたいとのことだった。どうしてコツが分かったのかとたずねると、露店のお兄さんが「こうやるといいよ」と目の前でやって見せてくれたそうだ。さんざんお金を使わせたあとに手本を見せるとは、長男は明らかにカモにされている。本人はもちろん気づかずに喜んでいる。

子どもが寝てから、相方と子どもの小遣いについて話しをした。今回の長男のお金の使い方に違和感を覚えたからだ。1回200円の「カメ掬い」を5回も連続でやることにショックを受けた。僕なら2回が限度だ。そして2回失敗したら、400円も無駄にしたことに罪悪感を持ったことだろう。どうやら長男にはそれが全くないらしい。何故だろう?

まず根本的な失敗は、上限を確認しないで長男を「おふじさん」に行かせたことだ。カメ掬いと別の「クジ」もやったので、1度に1200円くらい使ったことになる。ほぼ1ヶ月分の小遣いである。使ったお金は週ごとの小遣いを貯めたものなので、長男は特に間違ったことをした訳ではない。問題は「カメ掬い」であっという間に1000円がなくなっても平気でいられるメンタリティーである。

何というのか、お金に対するリアリティーが感じられない。しかしよくよく考えてみると思い当たる節がある。長男の小学校では子ども同士で遊ぶときに小遣いを持ち歩くことを禁止している。つまり日常的にお金を使い慣れていない。1日の小遣いが50円であれば、日々の遊びの中でその50円の使い方を工夫しなければならない。お店にはたくさんの駄菓子やおもちゃがある。50円で買えるものは限られている。当然、買い物も慎重になるし、50円の大切さも身にしみてわかってくる。そういう経験を長男はしていない。

それにも関わらず、僕が子どもの時よりも長男は多くのおもちゃとお菓子を所有している。(お菓子に関しては、お菓子袋などというものがあり、その中には常に何種類かのお菓子がストックされている)。本人が欲しいと言って買ってもらったものもあれば、何かの拍子に誰かがくれたものもある。そこには値段の感覚がない。

日々の少ない小遣いをやりくりし金銭感覚を養うことも、自分が手に入れるものについての値段の感覚もない。だからカメ掬いを5回も続けてやることや、1000円無駄にしてしまったことにまったくショックを受けないのだろう。子どもが小遣いを持って遊ぶことで生じるトラブルを未然に防ぎたい気持ちは理解できる。しかしこのまま6年生まで小遣いを持たずに遊んでいると、等身大の金銭感覚が身に付かないのではないかと心配になる。

お金よりも大切なものがある、僕が子どもの頃には、少なくとも大人たちは建前としてはそう言っていた。現在では何でもお金に結びつけて物事を価値づけようとする。新聞などでスポーツ選手について語る際も、賞金であり、年俸である。技術やパフォーマンスについて語るよりも、より多くの人が関心を持つからだろう。だから子どもにはなるべくお金の話はしないようにしていた。でもその結果、カメ掬い5回連続である。

何でもお金というフィルターを通して物事を価値づけるメンタリティーを身に付けさせたくないが、等身大の金銭感覚は身に付けさせねばならない。そんなことを子どもが眠ったあと相方と話し合った。そんな話しをしたあげく、ふと思いついたことがあった。翌朝、長男に確認したら大当たり。

「君は、カメ掬いがやりたいのかい。それともカメが飼いたいのかい?」と尋ねる。
「カメが飼いたい」長男が答える。
「1000円あればカメはきっと買えると思うよ」やはりそうかと思う。
「カメ掬いの他にカメが売っているの!?」長男驚きの表情。

抜けているのは金銭感覚だけではなかった。金銭感覚を身に付けさせること、カメがお店でも売っているということを教えること。そういうことが親の仕事である。