とんびの視点

まとはづれなことばかり

存在していないものに影響される

2016年11月11日 | 時事
11月も10日を過ぎた。今年もあと50日程度だ。早いものだ。明日から3週間続けて、地域の小学校の周年記念式典と祝賀会が続く。11月もあっという間に終わってしまうだろう。

トランプ氏がアメリカ大統領になった。何か意見をいいたくなるが自制する。メディアの情報から最後にはヒラリーが勝つと思っていた。そして予想は外れた。そんなメディアからの情報しかもっていない状態で、トランプについて考えても、的外れになるだけだ。まずは、トランプが勝つと予想した人たちの言葉を追いかける。何か考えるのはそれからだ。

さて、先日の東京新聞に次のような記事があった。

『福島の整備工場 洗車汚泥に放射性物質 最大5.7万ベクレル 基準7倍超 保管限界』

タイトルしか載せないが、内容は簡単に想像できるだろう。この手の話には慣れてしまったので、意識していないとスルーしそうになる。原発事故前であれば、この程度の事故がどのように報道さていたのか。この手の記事を目にするたびに、そう意識するように務めている。

以前であれば、大きな扱いとなっていたはずだ。新聞では1面扱い、テレビもワイドショーが大げさに取り上げただろう。しかし、フクシマ以後、このくらいでは大きな問題にならない。原発事故の大きさに比べたら、ささいに見えてしまうから。

本当は大きな問題なのに、もっと大きな事故があったせいで小さく見えているだけ。似たようなことが何度もあるので慣れてしまっているだけなのだろうか。あるいは、本当は小さな出来事なのに、以前は大げさに騒いでいただけなのだろうか。

事故後、政府が「ただちに健康には被害がない」といったことを思い出すとあてにならない。マスメディアはきっとどんなことにも両論併記をするだろう。判断するのは私たち自身だ。専門家も誰が専門家で誰が御用学者なのかわからない。何を基準に判断すればよいのかわからない。結局、自分が見たいこと、聞きたいことを追い求めているだけかも知れない。

事実として言えるのは、福島の整備工場に5万ベクレルを超える放射性物質があるということだ。大きな事件と思おうと、小さな出来事と思おうと、私たちの思いとは関係なく、放射性物質はきっちり5万ベクレルの影響を及ぼす。その影響がどのようなものか僕にはわからない。でもその影響は存在する。

放射性物質の存在を知らない人は、その影響を受けていても、その影響が存在していることを知らない。つまり影響は存在していないことになる。そして存在していないものから影響を受けることになる。得体の知らない何かと、やり取りをしなくてはならない。

存在していないものにつねに影響されている。それが私たちのありようである。
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真夜中のトイレ掃除

2016年11月07日 | 猫のこと
わが家には、いま、4匹の猫がいる。カミュ、マルセル、プルースト、ナツの4匹。いずれもオスだ。わが家の第2世代の猫たちだ。第1世代の猫は20年くらい前に、荒川の土手で僕が拾ってきた。背中は茶トラでお腹が白い兄弟。名前をヤブとツチと言った。

3年半ほど前にツチが死に、入れ替わるようにカミュが拾われてきた。正確に言えば、うちの相方が近くの空き地から抵抗する小猫を捕まえてきた、という感じだ。全身、濃い茶色の縞模様でとても器量が良い。ただ、非常に臆病で、すぐに人に噛みつく。噛みつくので名前は「カミュ」にした。よく年老いたヤブに噛みついていた。

その翌年、ヤブが死にカミュが残される。数ヶ月をおいて、長男が荒川の土手から猫を拾ってきた。かばんに3匹詰めてきたが、家の近くで1匹が逃げた。白黒模様の2匹の猫がやってきた。名前は「マルセル」と「プルースト」。

カミュは噛みつくから名付けただけだが、『異邦人』のカミュを連想する。そしてある種のかっこよさもある。ここはそれに倣って、と本棚を見ながら家族で名前を考えた。(ミッシェルとフーコーという案もあった)。

20年前に僕、そして相方、さらに長男が猫を拾った。「あと、猫を拾っていないのは僕だけだね」とは次男の言葉。やめてくれ、猫を3匹買うのでも大変なのだ。これ以上は無理だ。そう次男にも言い聞かせていた。それにも関わらず、翌年、わが家の玄関の前で小猫の鳴き声がする。やめておけばよいのに、次男と相方が出て行く。

背中が茶トラでお腹の白い小猫だ。とても人懐っこい。そして足の裏にケガをしている。仕方がないので獣医に連れて行く。手当てをして、「2、3日は云々」と言われる。2、3日飼ってしまえば、もう手放すこともできない。4匹目の猫となったわけだ。人懐っこいので名前は「ナツ」とした。

とまあ、いまわが家には猫が4匹いるわけだ。猫についてはいろいろ書けそうだし、いずれ写真もお披露目しよう。今回は、第1世代とのギャップについてひとつだけ書く。

いま考えれば、ヤブとツチは素晴らしい猫だった。エサは安いドライフードですんだし、ほとんど病気もしない。そして人間のトイレで用を足せたので猫砂もいらないし、臭いもない。とくに引っ越してトイレが自動洗浄になってからは、猫が用を足せば重さで自然に水も流れる。手間がかからなかった。そして猫なんてちょっとしつければみんなそんなものだと思っていた。

『ノルウェーの森』に人生をビスケット缶にたとえるシーンがあった。主人公のワタナベ君が沈んでいるときに、緑が、人生はビスケット缶だと思えばよい。缶の中には好きなビスケットも嫌いなビスケットもあるから、嫌いなビスケットばかりが出てきたとしても、あとには好きなビスケットが残っている、というような話をする。

猫のトイレを思うたびに、僕はこのビスケット缶の話のことを思い出す。好きなビスケットはヤブとツチで食べ尽くしたようだ。嫌いなビスケットがマルセルという姿をとってやってきたのだ。

先日の夜中のことだ。上手く寝つけず、それでもやっと眠気がきたころトイレに行った。1時半のことだ。ドアを開けると壁に何かが流れたような跡がついている。天井近くから床まで、そして床には水たまりのようなものが‥‥。そして臭い。

マルセルだ。マルセルが壁に取り付けた物入れに乗って、そこから壁に向かって尿をしたのだ。(わが家では「マル尿」と言われている。これまでにも、洗たく機の中、玄関、中華鍋、そして座っている僕の横っ腹など、数えきれないほどの「マル尿」をしている)。

眠気が吹っ飛んだ。一瞬、見なかったことにしたいと思った。でも、そんなことをすれば、明日の朝には事態はよりひどいことになっている。1時間、壁と床を掃除した。さすがに、腹立たしくなってきた。なんの因果で、真夜中に壁から床に流れる猫の尿を掃除せにゃならんのだ。

掃除しながらビスケット缶のことを考える。まだマルセルを飼って2年だ。どのくらい、嫌いなビスケットは残っているのだろうか。
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