〈今度は「186歳」 同級生は十三代将軍家定〉、毎日新聞の社会面に出ていた記事だ。近ごろ発覚した「戸籍上は生存する超高齢者」である。おそらく家族が死亡を隠して年金を不正に受け取っていたというようなケースとは違い、社会的にそれほど悪影響のある事ではないだろう。それにしても、こういう報道が続くと「次は何歳が出てくるのだろう?」という妙な期待をしてしまうところがある。
そういえば、「戸籍制度」は日本と韓国と台湾ぐらいにしかないと聞いたことがある。その時は「なるほどそういうものか」と思ったが、ちょっと考えたら戸籍制度そのものについてあまり理解していないことに思い至った。
ウィキペディアによると、「戸籍とは、戸と呼ばれる家族集団単位で国民を登録する目的で作成される公文書である。日本では戸籍法に定められている。東アジア諸国特有の制度」とある。
古代以来の中国の華北社会では、戸(こ)と呼ばれる小家族が成立し、これが社会構造の最小単位として機能していた。そのため政権が社会を把握するためには戸の把握が効果的であった。つまり政権が支配下の民の把握を戸単位で行ない、それを文書に作成したものが戸籍である。
日本でも律令制の制定に伴って戸籍制度を導入したが、当時の社会構造は華北のように戸に相当する小家族集団を基礎にしたものではなく実態にはそぐわなかった。その後、中央政権が全人民を全国的に把握する体制は放棄される。全国的な安定統治が達成された江戸時代の幕藩体制下でも、住民把握の基礎となった「人別帳」は、血縁家族以外に遠縁の者や使用人なども包括した「家」単位に編纂された。結局、今のような戸籍が日本にでき上がったのは明治時代になる。
なるほど、そう考えれば戸籍が世界中に存在しないということは理解である。そもそも古代中国の華北に存在した「戸」と同類のものがなければ(あるいは作り上げねば)、戸籍というものは存在しないことになる。戸籍がないからといって、それぞれの国家が人民の把握をしていないということではない。把握の単位が違うだけだ。個人単位で行なったり、家族集団単位で行なったりしている。戸籍があろうとなかろうと、どの国でも人民の把握は行なっているということだ。
そう考えると、今回の記事が少し違って見える。現象として起こっているのは、戸籍がきちんと管理されていないことにより、186歳の人間が生存していることになっている、ということだ。それを〈今度は「186歳」 同級生は十三代将軍家定〉という方向に引っ張れば苦笑ものの社会面の記事になるが、国家権力が人民を把握できていないという方に引っ張れば政治・行政の記事になる。
今回のような戸籍の不備を年齢の問題にすると、私たち個人の問題と微妙な重なりを見せるが、戸籍による人民の把握と、私たちが自分の年齢を意識することは本来別物だろう。言い換えれば、私たち個人は戸籍という人民把握側の視点を内面化させることによって自分自身の年齢を個人の問題として意識するようになる。
20年近く前に私が日本語学校でアルバイトをしていたとき、バングラデシュ人の生徒が何人かやってきて身分証明書のようなものを見せてくれた。誕生日は「1967年1月1日」となっている。「へーっ、1月1日なんだ。おめでたいね」と声を掛けると、別の生徒の誕生日も「1965年1月1日」その別の生徒も「1月1日」。まさかそんなに1月1日生まればかりのはずはないだろう。
そう思い尋ねると、結局、誰も自分の誕生日など知らないのだ。誕生日どころか、「僕は26歳という事になっているけど、たぶん本当はあと2歳くらい年下ね。おかあさん(おかさん、と発音する)なら本当の年、知っているかもしれないね」と生徒が言う。周りも、そうだよね、という感じで頷いている。その時は、何だこのいい加減さは、と思った。自分のことをそんなに曖昧にしておいて平気なのか、と。
しかし考えてみると、これは2つの観点から見ることができる。一つはバングラデシュという国家が(その正確な生年月日を含めて)人民の把握をできていないということ。これは別に個人の問題ではない。そしてもう一つは個人が自分の年齢を把握するということだ。
自分の年齢の把握。現代の日本で自分の年齢を知らない人に出会えば、私たちはその人自身に何らかの問題があると思うだろう。老人であれば「んっ、これは」という問題だし、一般的な成人であれば知的な能力を疑われる。子どもは自分の年齢を答えられるように教え込む。
子どもは物心ついた頃からさまざまな場面で年齢を聞かれる。お前は何者だと問われているかのようである。答えることで相手が笑顔になり褒め、受け入れてくれる。そのようにして年齢が自己の核の部分に食い込んでくる。
年齢とは個人的なものであるようだが、極めて社会的なことなのだ。お互いに年齢を確認し合わなくても生きていける社会なら、誰もが年齢をそれほど意識することはないだろう。そしてそれは案外、悪い事ではないのかもしれない。年齢はみな等しく変わるが、人の成長にはばらつきがあるからだ。(いろんな子どもに勉強を教えてきたが、「2学年下げればすごく優秀なのに」と思うことは何度もあった。)
すでにいない人間に対して「今度は186歳」という言葉が出てくる。よくよく考えると奇妙な事態だ。現実には存在しないもの、自らの観念が勝手に作り上げたものを相手に勝手に不思議がっているのだから。「186歳、十三代家定の同級生」。自らが作り出した幻だ。
「そういえばさあ、あそこのばあさん、何十年も前からずーっといるけどちょっと薄気味悪いよな。いったい、いくつなんだろうな」。そんな目の前の具体的な不思議を問う言葉の方が健全な気がする。具体的な不思議よりも、楽しめる幻の方が巾を効かせている世の中なのかもしれない。
そういえば、「戸籍制度」は日本と韓国と台湾ぐらいにしかないと聞いたことがある。その時は「なるほどそういうものか」と思ったが、ちょっと考えたら戸籍制度そのものについてあまり理解していないことに思い至った。
ウィキペディアによると、「戸籍とは、戸と呼ばれる家族集団単位で国民を登録する目的で作成される公文書である。日本では戸籍法に定められている。東アジア諸国特有の制度」とある。
古代以来の中国の華北社会では、戸(こ)と呼ばれる小家族が成立し、これが社会構造の最小単位として機能していた。そのため政権が社会を把握するためには戸の把握が効果的であった。つまり政権が支配下の民の把握を戸単位で行ない、それを文書に作成したものが戸籍である。
日本でも律令制の制定に伴って戸籍制度を導入したが、当時の社会構造は華北のように戸に相当する小家族集団を基礎にしたものではなく実態にはそぐわなかった。その後、中央政権が全人民を全国的に把握する体制は放棄される。全国的な安定統治が達成された江戸時代の幕藩体制下でも、住民把握の基礎となった「人別帳」は、血縁家族以外に遠縁の者や使用人なども包括した「家」単位に編纂された。結局、今のような戸籍が日本にでき上がったのは明治時代になる。
なるほど、そう考えれば戸籍が世界中に存在しないということは理解である。そもそも古代中国の華北に存在した「戸」と同類のものがなければ(あるいは作り上げねば)、戸籍というものは存在しないことになる。戸籍がないからといって、それぞれの国家が人民の把握をしていないということではない。把握の単位が違うだけだ。個人単位で行なったり、家族集団単位で行なったりしている。戸籍があろうとなかろうと、どの国でも人民の把握は行なっているということだ。
そう考えると、今回の記事が少し違って見える。現象として起こっているのは、戸籍がきちんと管理されていないことにより、186歳の人間が生存していることになっている、ということだ。それを〈今度は「186歳」 同級生は十三代将軍家定〉という方向に引っ張れば苦笑ものの社会面の記事になるが、国家権力が人民を把握できていないという方に引っ張れば政治・行政の記事になる。
今回のような戸籍の不備を年齢の問題にすると、私たち個人の問題と微妙な重なりを見せるが、戸籍による人民の把握と、私たちが自分の年齢を意識することは本来別物だろう。言い換えれば、私たち個人は戸籍という人民把握側の視点を内面化させることによって自分自身の年齢を個人の問題として意識するようになる。
20年近く前に私が日本語学校でアルバイトをしていたとき、バングラデシュ人の生徒が何人かやってきて身分証明書のようなものを見せてくれた。誕生日は「1967年1月1日」となっている。「へーっ、1月1日なんだ。おめでたいね」と声を掛けると、別の生徒の誕生日も「1965年1月1日」その別の生徒も「1月1日」。まさかそんなに1月1日生まればかりのはずはないだろう。
そう思い尋ねると、結局、誰も自分の誕生日など知らないのだ。誕生日どころか、「僕は26歳という事になっているけど、たぶん本当はあと2歳くらい年下ね。おかあさん(おかさん、と発音する)なら本当の年、知っているかもしれないね」と生徒が言う。周りも、そうだよね、という感じで頷いている。その時は、何だこのいい加減さは、と思った。自分のことをそんなに曖昧にしておいて平気なのか、と。
しかし考えてみると、これは2つの観点から見ることができる。一つはバングラデシュという国家が(その正確な生年月日を含めて)人民の把握をできていないということ。これは別に個人の問題ではない。そしてもう一つは個人が自分の年齢を把握するということだ。
自分の年齢の把握。現代の日本で自分の年齢を知らない人に出会えば、私たちはその人自身に何らかの問題があると思うだろう。老人であれば「んっ、これは」という問題だし、一般的な成人であれば知的な能力を疑われる。子どもは自分の年齢を答えられるように教え込む。
子どもは物心ついた頃からさまざまな場面で年齢を聞かれる。お前は何者だと問われているかのようである。答えることで相手が笑顔になり褒め、受け入れてくれる。そのようにして年齢が自己の核の部分に食い込んでくる。
年齢とは個人的なものであるようだが、極めて社会的なことなのだ。お互いに年齢を確認し合わなくても生きていける社会なら、誰もが年齢をそれほど意識することはないだろう。そしてそれは案外、悪い事ではないのかもしれない。年齢はみな等しく変わるが、人の成長にはばらつきがあるからだ。(いろんな子どもに勉強を教えてきたが、「2学年下げればすごく優秀なのに」と思うことは何度もあった。)
すでにいない人間に対して「今度は186歳」という言葉が出てくる。よくよく考えると奇妙な事態だ。現実には存在しないもの、自らの観念が勝手に作り上げたものを相手に勝手に不思議がっているのだから。「186歳、十三代家定の同級生」。自らが作り出した幻だ。
「そういえばさあ、あそこのばあさん、何十年も前からずーっといるけどちょっと薄気味悪いよな。いったい、いくつなんだろうな」。そんな目の前の具体的な不思議を問う言葉の方が健全な気がする。具体的な不思議よりも、楽しめる幻の方が巾を効かせている世の中なのかもしれない。