さて年末である。気分がだいぶすっきりしている。昨日、今月の目標の300kmのランニングを達成した。少なくとも年内はランニングについて考えなくてもよい。そう考えるとほっとする。6月のフルマラソンで4時間3分。自分の最低目標を3分オーバーした。来年1月末の若潮マラソンを目指して、7月から心を入れ替えて走った。
毎月目標を立ててはクリアし、少しずつ目標を上げていった。その間、どれだけ走っても「あと何km」という意識がなくなることはなかった。今日走れても、明日のことが心配になる。今月走れても来月のことが気になる。肉体的にもきついが、精神的にもきついものがあった。とにかくそれが一段落着いた。
もちろん、来月もレースまでランニングはするが、基本は調整である。かりに30km走ることがあってもそれは調整である。タイムを伸ばすために自分を追い込む走りは今月で終わりだ。きちんと調整すれば、きっと結果は出せるはずだ。無理をしてケガをする方が怖い。
ここまで書いて、手が止まった。画面を眺めながら、何を書こうかとぼーっとしている。古語で言うと「ながむ」だ。こうして、ぼーっとできること自体が心地よい。ランニングに時間が取られるとそれを取り戻すために効率的に動こうとする。思索にふけるというより、すべてを処理する、という感じになる。仮にぼーっとできる時間が取れても、疲れているのですぐに居眠りをしてしまう。こんな風に画面を見ながらぼーっと考えるのは本当に久しぶりだ。
『恋する原発』を読んだ。高橋源一郎の小説だ。タイトルからも想像できるように、震災・原発事故後の小説だ。雑誌の発表したときにちょっと話題になった。というかちょっと物議をかもした。アダルトビデオの制作会社が、震災のチャリティーのためにアダルトビデオ作るという話しだ。(実際はもっと複雑なのだが、大枠ではそういうことになる)。
当然のことだが、アダルトビデオでチャリティーという発想がきわどい。おそらくストレートに、それは素晴らしいことだ、みんなも同じようなことをどんどんやろう、と言える人はあまりいないだろう。おそらく、チャリティーという善意は良いが、そのためにわざわざアダルトビデオを作るのは違うんじゃないか、と感じるのだろう。
それはチャリティーとアダルトビデオがどこかで断絶しているからである。もちろん具体的にあいだを繋ぐのは「お金」である。「お金」という意味では、額に汗して稼いだお金も、株取引で手にしたお金も、アダルトビデオで稼いだお金も同じである。(僕の意見ではない。現代の日本社会の考え方がそうであるはずだ)。だから日常では、どのような形のお金であれ(違法でなければ)、銀行に預金することもできるし、商品を買うこともできる。
しかしチャリティーとなるとどれもが同じ「お金」とはいかなくなる。そこでやり取りされるお金は、それを手に入れた手段と切り離せなくなる。だからチャリティーのためにアダルトビデオを作ることに心理的な反発を感じる。この気持ちには同意できなくもない。被災者のことを考えて何らかのサポートをしたいと思ったとき(つまり、相手のことを本気で考えて何かをしようと思ったとき)、その行為を成り立たせる手段そのもの問われるということだ。
平たく言えば、金さえばらまけば良いというものではない。そこには心がこもっていなければ(それはお金を得る行為に現れる)だめなのだということだ。つまりチャリティーは何よりもまず「心」の問題である。その上に「お金」が乗っかってくるのだ。だからアダルトビデオでチャリティーというのはだめなのだ。ということになる。
しかし私たちの日常において、アダルトビデオは社会の一部に組み込まれている。それは経済活動の一環でもある。基本的には社会はそれを受け入れている。それほど目くじらを立てる人はいない。あとは個々人の趣味の問題である。この事実を逆説的に捉えれば、私たちの日常は、相手のことを本気で考える「心」を根本とせず、「お金」を中心に動いていることになる。
ずっと「お金」「お金」で動いていながら、震災になったらチャリティーの「お金」には「心」が伴っていないとダメだと言いだす。無反省に正しさへと集団的な変わり身をする。ある種の思考停止状態だ。そんな危うさを感じて、高橋源一郎はこういう小説を書いたのではないか。
この小説は誰に対して書かれたものなのだろうか。読んで、まずそう考えた。私たちの発言は、それが突然のものであれ、問いの形をとっているものであれ、その発言に先行する何かに対する「答え」としてなされる。だとすれば、この小説は先行する何かに対する「答え」である。この小説は被災者に対して不謹慎だ、という意見があるかもしれない。不謹慎に映るだろうと僕も思う。
ただこれは被災者への「答え」ではない。高橋源一郎はこの小説をかつて書こうとした。9.11テロのあとである。結局、書けなかった。それが3.11後に再び書かれた。おそらくこの小説を書かせた「問い」は、9.11と3.11に共通する何かである。おそらくそれは「善悪二分法」による集団的な思考停止状態なのだろう。
毎月目標を立ててはクリアし、少しずつ目標を上げていった。その間、どれだけ走っても「あと何km」という意識がなくなることはなかった。今日走れても、明日のことが心配になる。今月走れても来月のことが気になる。肉体的にもきついが、精神的にもきついものがあった。とにかくそれが一段落着いた。
もちろん、来月もレースまでランニングはするが、基本は調整である。かりに30km走ることがあってもそれは調整である。タイムを伸ばすために自分を追い込む走りは今月で終わりだ。きちんと調整すれば、きっと結果は出せるはずだ。無理をしてケガをする方が怖い。
ここまで書いて、手が止まった。画面を眺めながら、何を書こうかとぼーっとしている。古語で言うと「ながむ」だ。こうして、ぼーっとできること自体が心地よい。ランニングに時間が取られるとそれを取り戻すために効率的に動こうとする。思索にふけるというより、すべてを処理する、という感じになる。仮にぼーっとできる時間が取れても、疲れているのですぐに居眠りをしてしまう。こんな風に画面を見ながらぼーっと考えるのは本当に久しぶりだ。
『恋する原発』を読んだ。高橋源一郎の小説だ。タイトルからも想像できるように、震災・原発事故後の小説だ。雑誌の発表したときにちょっと話題になった。というかちょっと物議をかもした。アダルトビデオの制作会社が、震災のチャリティーのためにアダルトビデオ作るという話しだ。(実際はもっと複雑なのだが、大枠ではそういうことになる)。
当然のことだが、アダルトビデオでチャリティーという発想がきわどい。おそらくストレートに、それは素晴らしいことだ、みんなも同じようなことをどんどんやろう、と言える人はあまりいないだろう。おそらく、チャリティーという善意は良いが、そのためにわざわざアダルトビデオを作るのは違うんじゃないか、と感じるのだろう。
それはチャリティーとアダルトビデオがどこかで断絶しているからである。もちろん具体的にあいだを繋ぐのは「お金」である。「お金」という意味では、額に汗して稼いだお金も、株取引で手にしたお金も、アダルトビデオで稼いだお金も同じである。(僕の意見ではない。現代の日本社会の考え方がそうであるはずだ)。だから日常では、どのような形のお金であれ(違法でなければ)、銀行に預金することもできるし、商品を買うこともできる。
しかしチャリティーとなるとどれもが同じ「お金」とはいかなくなる。そこでやり取りされるお金は、それを手に入れた手段と切り離せなくなる。だからチャリティーのためにアダルトビデオを作ることに心理的な反発を感じる。この気持ちには同意できなくもない。被災者のことを考えて何らかのサポートをしたいと思ったとき(つまり、相手のことを本気で考えて何かをしようと思ったとき)、その行為を成り立たせる手段そのもの問われるということだ。
平たく言えば、金さえばらまけば良いというものではない。そこには心がこもっていなければ(それはお金を得る行為に現れる)だめなのだということだ。つまりチャリティーは何よりもまず「心」の問題である。その上に「お金」が乗っかってくるのだ。だからアダルトビデオでチャリティーというのはだめなのだ。ということになる。
しかし私たちの日常において、アダルトビデオは社会の一部に組み込まれている。それは経済活動の一環でもある。基本的には社会はそれを受け入れている。それほど目くじらを立てる人はいない。あとは個々人の趣味の問題である。この事実を逆説的に捉えれば、私たちの日常は、相手のことを本気で考える「心」を根本とせず、「お金」を中心に動いていることになる。
ずっと「お金」「お金」で動いていながら、震災になったらチャリティーの「お金」には「心」が伴っていないとダメだと言いだす。無反省に正しさへと集団的な変わり身をする。ある種の思考停止状態だ。そんな危うさを感じて、高橋源一郎はこういう小説を書いたのではないか。
この小説は誰に対して書かれたものなのだろうか。読んで、まずそう考えた。私たちの発言は、それが突然のものであれ、問いの形をとっているものであれ、その発言に先行する何かに対する「答え」としてなされる。だとすれば、この小説は先行する何かに対する「答え」である。この小説は被災者に対して不謹慎だ、という意見があるかもしれない。不謹慎に映るだろうと僕も思う。
ただこれは被災者への「答え」ではない。高橋源一郎はこの小説をかつて書こうとした。9.11テロのあとである。結局、書けなかった。それが3.11後に再び書かれた。おそらくこの小説を書かせた「問い」は、9.11と3.11に共通する何かである。おそらくそれは「善悪二分法」による集団的な思考停止状態なのだろう。