とんびの視点

まとはづれなことばかり

息は上がれど、脚は上がらず

2012年01月30日 | 雑文
昨日の日曜日、館山若潮マラソンを走った。3時間45分、結果はパッとしないものだった。去年の倍近く練習したにも関わらず、タイムは去年とほとんど変わらない。何とも不思議な感じのするレースだった。それでも悔しさとか不満というものはぜんぜんない。平穏。心の岸辺に波はない、という感じだ。

そもそも今回のレースは去年の6月の喜多マラソンの失敗から始まっている。タイムは4時間3分。どんなことがあっても4時間を切る、という自分で決めたルールが守れなかった屈辱的なレースだった。自分で決めたルールを守れなくなると、人からルールを決められてしまう。僕はわがままなのでそんなことには耐えられない。だから自分で決めたことが守れないのはかなりまずい事態だ。

もちろんレース1週間前に合気道の稽古で足の指を捻挫したという理由もある。しかし人生の出来事は理科の実験室で行なうものとは違う。不確実なさまざまな出来事は前提条件なのだ(そうでなければ大抵は想定外となってしまう)。そういう中でも結果が出せねばならない。というわけで、かなり強い気持ちで7月から計画的に走った。目標タイムも僕がマラソンで狙う最高の3時間30分にした。去年の倍近く走った。でもタイムは去年とほとんど変わらなかった。

若潮マラソンには5年連続の参加になる。もっとも寒く、もっとも風が強く、今までで一番きびしい条件だった。直前の風邪、膝のケガ、長く治らない腰痛、そして風の強さ。記録を狙うのはかなり厳しい。でも諦めてはいなかった。20km地点までに3時間半のペースランナーを捕まえて、可能なかぎり食らいついていく。そういう計画だった。

午前10時にスタート。朝から曇っていたがスタートとほぼ同時に太陽が顔を出す。風も強そうだが、正面からの向かい風ではないので思ったよりも楽だ。いつものように最初の10kmくらいはランナー達も何となくざわざわしている。5km地点で23分30秒。予定より1分ほどペースが速い。そのせいか8km地点でペースランナーに追いついてしまう。かなりゆっくりしたペースに感じた。これなら3時間半は確実に切れる。そう思った。

コース右側には内房の海が見える。風のせいか白い波頭がいくつも、いくつも見える。快晴なら富士山が見えるはずだ。時おり海からの風が砂を運んで吹きつけてくる。13kmくらいか、房総半島の先端近くはちょっとした上りになる。このあたりで腰にわずかな痛みを感じる。でも気にするほどではない。20人くらいの集団がほとんど足音もさせず、上半身のブレないフォームで静かに走っている(足音がしだすと上半身もブレ、余裕がない走りとなる)。

18kmくらいで膝が痛み出す。でも気にするほどではいな。精神的にはかなり余裕がある。ハーフが1時間42分30秒。どうやら後半を5分多めにとるペース配分のようだ。コースを考えればこの5分は余裕ではなく、実際はイーブンペースだ。コースが少しずつ上りになる。ここから10kmは大半が上りで、下りと平坦な道が少しずつある。

上りが続き24kmくらいから少しずつしんどくなる。腰の痛みが強くなり、膝もおかしくなる。何よりも給水所で手にしたパンが食べられないのには驚いた。僕はマラソン中に食べ物をいくらでも食べられる(あえて取らないようにすることは多いが)。サロマ湖ではスタート時よりもゴール時の方が体重が増えていたくらいだ。パンを口に入れると気持ち悪くなる。風邪の影響だ。消化器系が復活していないのだ。

だんだんと腰が痛くなってくる。フォームが崩れているのが自分でもわかる。急に息が上がり始める。無理なフォームでスピードを出しているからだ。それでも不思議なことに精神的には余裕がある(やはり今回は走り込んだからだろう)。「息は上がれどスピードは上がらず」と下らないことを思い浮かべてちょっと楽しくなったりする。

28km地点。一挙にスピードが落ちる(ここまで劇的に落ちたことはいまだかつてない)。3時間半の集団がすーっと先に行ってしまう。これは絶対に追いつけないとわかる。腰が痛くて、上半身と下半身を連動させた動きが出来なくなっている。脚のつけ根から先だけの走りになってしまった。小股でちょこちょこ走っている感じだ。1kmあたりのタイムが5分から7分くらいに変わってしまう。

そこからは信じられないくらいのランナーに抜かれた。何百人という単位だろう。もう時計を見ることは止めてしまった。できる動きをしながら走りつづけるしかない。それが最短のタイムになるはずだから。そう思いながら、アップダウンの山の中を抜け、海沿いのコースに戻ってくる。32km地点くらいだ。ここから6kmほど近くゆるい上りが続く。毎年、1番苦しむところだ。

冷たい風が吹きつける。ペースが落ちたせいで1kmが遠くなる。それでも精神的には余裕がある。無理な走り方さえしなければ10kmくらい楽に走れるという自信がある。早くゴールにつきたいとか、あと何キロ残っているのだろう、というストレスも感じない。今の自分の最速で走りつづければいい、すっきりした気持ちだ。

フォームが崩れているのでふだん使わない筋肉を使うことになる。そのせいで脚のいろんな筋肉が痙攣をし始めている。ちょっとでもスピードを上げたらパンクするのがわかる。そうならないように淡々と走る。そんな僕をすごく苦しそうな表情のランナーが抜いていく。(端から見ると僕には根性がないように見えるのだろうな)。

ゴールの数百メートル前、道端の人が一生懸命応援をしてくれるので、それに応えてスピードを上げてみた。残りもわずかなので大丈夫かと思った。5メートルも行かないうちに脚が痙攣して動けなくなる。仕方がないストレッチをする。会場に入るとゴール横の掲示タイムは3時間45分を指している。そういえば去年もこんなものだったなと思い出す。ゴールラインを跨ぐ。そして振り返って帽子を取り一礼をする。

崩れたフォームで走ったせいで今日は筋肉痛がひどい。腰も痛むし、両膝ともやられている。おまけに足首もへんだ。僕は自宅での自分の仕事場はロフトなのではしごの上り下りが大変だ。久しぶりにひどい状態だ。

帰り道、暮れていく冬空を見ながら車を運転した。空はすでにうす暗くなり、西の方は弱いオレンジと灰色を混ぜたような色だ。葉を落した木々の黒いシルエットが浮かぶ。毎年、同じように走って、同じような景色を眺めながら帰路につく。

達成感もなければ、強い後悔もない。(長い練習を含めて)やるだけのことはやったという穏やかな充実感がある。不思議な感じだ。次のレースは3月後半の板橋市民マラソンだ。おそらくそこで僕は3時間30分を狙うだろう。ただ今回のレースに向けたような根を詰めた練習はしない。残念なことに、そこまでランニングに捧げる時間が僕にはない。

そう、残り10km淡々と走っていたときに、一瞬だけ心が震えるようなことがあった。僕を抜いていった高齢のランナーの緑のTシャツの背中に「走るの、好きか?」というプリントがしてあったのだ。目に飛び込んできた。少しずつ僕から離れていく。そのあいだずっとその言葉を眺めていた。「大好きだ。走るのが大好きだ」と声を出さずに言った。脚はろくに動かず、目標タイムにもぜんぜん届かないが、それでも走っていることがとてもよいことに思えた。

また1週間もすればランニングを再開するだろう。3月のレースを意識しないといったら嘘になる。でも結局のところ、タイムのために走るのではない、走ることが好きだから走るのだ。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あさっては館山若潮マラソン

2012年01月27日 | 雑文
いよいよ日曜日はレースだ。明日の朝には家を出て館山に向かい、明後日にはフルマラソンを走ることになる。予報では最高気温が6℃。かなりの寒さだ。風次第ではかなり厳しいレースになる。それにしても、すべての条件が理想的にそろったレースというのはまずない。今度の館山でフルマラソン以上のレースは21回目になる(いつの間にかけっこうな回数になったものだ)。それでも理想的なレースというのは思い返しても1回か、2回しかない。

きちんとトレーニングを積んだ。当日の自分のコンディションが良い。そして気象条件がよい。この3つがそろえば理想的と言えるだろう。今回に関しては、トレーニングはきちんと積んだ。気象条件は風次第だ。ただコンディションには不安が残る。痛みはほとんどないが膝には違和感が残る(レース中に痛み出す可能性は低くはない)。ずっと続いている腰痛が抜けない(レース中に痛み出す可能性は低くはない)。そして風邪が抜け切っていない。

膝や腰については、毎回なにかあるものなので仕方がない。しかし風邪はいただけない。5年くらい前だろうか。風邪を引いたまま荒川市民マラソンを走った。このときはひどかった。まず、あまりトレーニングを積まなかった。すでに何回かフルマラソンを完走していたので、いつの間にか甘く見ていたのだ。そのうえ、異常な強風だった。荒川の土手を北から南に向かって、風速15メートル以上(?)の風が吹いていた。コース沿いのテントはすべて畳まれ、停めてある自転車はすべてなぎ倒された。コースは前半が北から南、そして折り返して南から北への単調なコース。つまり折り返してからのハーフを強風に向かって走ることになる。

春先とはいえ、強い北風だ。体は冷えていく。だんだんと熱が出てくる。そして走り込み不足で脚が上がらなくなる。30kmを過ぎてついに歩き出す。後にも先にもレースで歩いたのはこのときだけだ。肉離れの痙攣をなだめるために少し歩いたことはあるが基本的には歩かない。(タイムは平凡なものだが、サロマ湖100kmでも一度も歩かなかった)。

それまで、走ることに比べてマラソンで歩くのは楽なのだと思っていた。しかし認識が一変した。辛い、走る以上に辛い。寒さで体が震える。1kmが信じられないくらい長い距離に感じる(そしてゴールはもっと遠くなる)。心が折れ、レース中なのに何かが終わってしまった感じになる(でも終われない)。このときは走りながら二度とマラソンなどやるものかと思った。

それでも、その後も何度も走っている。思うようなトレーニングが積めなかったり、当日の体調がいまひとつだったり、気象条件が厳しかったり、毎回、何らかの条件はつくが、それでも何とか歩くことなく完走している。結局のところ、あらゆる条件がそろわないところがマラソンの醍醐味なのだと思う。手持ちのカードでその場所を何とか満足のいくものにするしかないのだ。それは良く考えてみれば、人生と同じだ。充分な才能や機会や財力がなくても、手持ちのカードで何とかその場、その場で手応えのようなものを手に入れながら、やがて終わりを迎える。わかりやすい縮図なのだ。だからこそ、僕は(僕なりに)日々のランニングを含めてマラソンにきちんと向かい合うようにしている。そしてそこから何かを学ぶようにしている。

日々のランニングでもレースでも、「こんなことをやっていて、いったい何の意味があるのだ」と思うことがときどきある。それは自分の人生を眺めて「こんなことをやっていて、いったい何の意味があるのだ」と思うことと同じだ。走ってしまったのだから何も考えずにとにかく走れ。走ることについての意味を考えるのではなく、きちんと走ることに集中するんだ。意味なんて走り終わってから考えれば良い。走りながら自分にそう言い聞かす。走り終わってしまえば意味なんてどうでもよくなっている。反省や後悔する部分はある。でも基本的には走らないよりは走って良かったと思っている。(人生もそうありたいものだと思う。いろいろあったけど、生きないよりは生きて良かったな、と思えるような)。

『走ることについて語るときに僕の語ること』で村上春樹はこう書いている。

『個々のタイムも順位も、見かけも、人がどのように評価するかも、すべてあくまで副次的なことでしかない。僕のようなランナーにとってまず重要なことは、ひとつひとつのゴールを自分の脚で確実に走り抜けていくことだ。尽くすべき力は尽くした、耐えるべきは耐えたと、自分なりに納得することである。そこにある失敗や喜びから、具体的な――どんなに些細なことでもいいから、なるたけ具体的な――教訓を学び取っていくことである。そして時間をかけ、そのようなレースをひとつずつ積み上げていって、最終的にどこか得心のいく場所に到達することである。あるいは、たとえわずかでもそれらしき場所に近接することだ(うん、おそらくこちらの方がより適切な表現だろう)。』

トレーニングも積んだ。村上春樹の本も読み直した。風邪も何とか押さえ込みつつある。コース図をプリントアウトして何度もレースをイメージした。膝と腰は不安だが、考えても仕方がない。まあ行けるところまで行くまでのことだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風邪気味、膝のケガ、腰痛

2012年01月23日 | 雑文
さて、レースまであと1週間を切った。先週末から天気が崩れがちで、ほとんど走れない。ちょっと緊張感が切れてしまった気がする。それでもこの天気がレース本番でなくてよかった。冷たい雨のレースだと僕の走力ではタイムは二の次になってしまうだろう。予報では今度の日曜日は晴れのようだ。一安心だ。(しかし予想最高気温は6℃。風が吹いたらかなり厳しいレースになるだろう。)

しかしそれ以前に、今のところ不安要素が3つほどある。1つは風邪を引きかかっていることだ。数日前の夜中、次男が寝ぼけ眼で布団に入ってきて朝まで一緒に寝た。その日の昼間、次男は鼻水を流し、咳をしていた。朝起きたら、僕ものどが痛くなっていた。今ものどが痛み、咳が出ている。かりに発熱まで進んだら、レースの参加は危ぶまれる。参加しても無理せず完走というのが目標となってしまうだろう。

2つ目は、膝の調子が良くないことである。ランニングで痛めた膝はほぼ回復したが、週末の合気道の稽古で膝を痛めた。かるい捻挫のようなものだが、まだ痛みは残っている。レースまでに痛みは抜けそうだが、最中に悪化する可能性がありそうな感じだ。そういえば、去年の6月のフルマラソンの時にも、直前の合気道の稽古で左足の薬指をひどく捻挫した。レースでは4時間3分とノルマの4時間をオーバーし、猛省をすることになった。今回もまた合気道の稽古である。どうもマラソンと合気道は相性が良くないようだ。

3つ目は、慢性的な腰痛である。ここ数ヶ月、ずっと痛みが抜けない。原因は筋肉なのか骨なのかよくわからない。接骨院に行っても今ひとつピンと来ない。体の中心、かなり深いところがずっと痛んだままだ。雨も降っているし、風邪気味だし、膝も痛めているので、腰を治してしまおうとストレッチをしているが、レースまでに痛みがなくなることはないだろう。

レースに向けた練習は今回は十分だったが、不安要素は今までにないくらい多いかもしれない。まあ考えても仕方がない。風邪を悪化させず、膝を治し、腰をケアする。可能なかぎりよい状態でスタートラインに立つしかない。当日は、楽しむだけだ。

そんな状況で村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んでいる。レースに向けて気持ちを高めていくためだ。冒頭の方で、有名ランナーがレース中に自分を叱咤激励するためにどんなマントラを唱えているか、というヘラルド・トリビューン紙の企画について書いている。あるランナーは兄から教えられた文句をレース中ずっと頭の中で反芻しているという。

その言葉とは「Pain is inevitable. Suffering is optional.」「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」というものだ。マラソンレース中「ああ、きつい、もう駄目だ」と思ったとする。「きつい」というのは避けようのない事実だ。しかし「もう駄目」とあきらめるかどうかはあくまで本人次第である。この言葉はマラソンの一番大事な部分を簡潔に要約している、村上春樹と書いている。

確かにその通りだと思う。どのレースを振り返っても、歯を食いしばって走らなかったことはない。良いタイムのときも、悪いタイムのときもそうだ。どんなレースにも何度か歯を食いしばって走らなければならない状況がある。きつい、だが、ここで駄目だとあきらめるとずるずると落ちていってしまう。何かがそこで切れてしまう。そして何よりも自分に負けることになる。

だから絶対にあきらめない、と言いたいが、実際は何度も半分だけあきらめることがある。半分というのが微妙だ。べつにレースそのものを投げ出したわけではない。きちんと完走はする。脚だって言うことを効かなくなるくらい精一杯だ。ただレース中に目標のタイムを5分、10分遅めに再設定するのだ。これが半分あきらめたという感覚をのちのちに残すことになる。

後でレースを振り返ったときに、もうちょっと速く走れたのではないか、という気がするからだろう。それは1分かもしれないし、30秒かもしれない。その時間で当初の目的が達成できるわけではない。それどころか先手を打って目標を再設定することで、タイムが大きく崩れることを防いだともいえる。端から見ても別に何かをあきらめたようには見えないだろう。いっけん合理的だ。しかしそういう合理的なところがいやなのだ。頭で判断するのではなく、体に判断させたいのだ。

今回は体が判断できるようにきちんと練習をしてきた。これでタイムが出なければ仕方がないと思えるような計画を立て、ばっちり走り込んだ。と思ったら、風邪と膝と腰である。何とも言えない味わいのある出来事である。僕にとってマラソンの醍醐味とは、予想と現実がかならずズレてしまうことだ。予想と現実が完全に一致することはない。そのズレを許容範囲に収めるために計画を立て努力することに手応えがある。その結果からさまざまなことを学べることに楽しみがある。

何も考えずに書き始めたので収集がつかなくなってきた。とにかくあと数日、マラソンに向けて自分を調整していくだけだ。

窓の外には雪が降っている。明朝は東京も雪化粧だろう。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『神様2011』を読む

2012年01月22日 | 雑文
前回の続きのような感じ。

『神様2011』は、文庫本を一回り大きくしたサイズで50ページに満たないハードカバーの本だ。震災・原発事故後に出版され、震災後小説として注目を集めた。(これから多くの作家が、さまざまな形で震災・原発事故を小説にするだろう。)

川上弘美は1998年に『神様』という短編集を出していて、その中に「神様」という短編が入っている。その短編集は僕も十年以上前に読んだ。良い短編集だったという記憶はあるが、どんな話しがあったかはほとんど忘れてしまった。唯一、何となく覚えていたのが「神様」だった。その意味では、やはり良い(というか好きな)小説である。

主人公は若い女性だ。郊外の低層のマンションのようなところに住んでいる。となりに「くま」が引っ越してくる。引っ越しの挨拶をすると、自分とくまは同じ出身で共通の知り合いがいるような関係だと分かる。そして2人で弁当をもって夏の暑い日に河原にピクニックに行く。

川では水遊びをしている大人と子どもに珍しがられる。くまは川に入り素手で魚を捕まえ得意そうにする。その場で魚をひらいて干物を作ってくれる。2人で昼寝をする。夕方になり、一緒に家まで帰る。別れの挨拶の時、くまが照れ臭そうに、お別れに抱擁をしてもよいかと尋ねる。親しい人と別れるときの故郷の習慣なのだ。ぎゅっと、しっかりした抱擁を交わす。「熊の神様のおめぐみがあなたにも降り注ぎますように」と熊が言う。主人公が「悪くない一日だった」と思うところで話しは終わる。

良い短編である。「神様2011」がなくても読むことを勧められる。(子どもに音読してあげようと思っている)。しかしこの短編の良さを説明しようとすると、川上弘美の文章の不思議な感じを説明しなければならなくなる。(僕は数冊しか川上弘美を読んでいないが、そこには共通した彼女独特の良さがある)。しかしそれをやるとすごく時間がかかりそうなので止める。(それに僕の力量では結局、混乱しそうだ)。

『神様2011』という単行本には、「神様」とそれを書き換えた「神様2011」という2本の短編が並べられている。基本的には同じ話しである。隣にくまがやって来て、知り合いになり、一緒に川にピクニックに行き、抱擁して別れる。どちらも同じだ。唯一違うのは、「神様2011」が震災・原発事故後の日常として書かれていることだ。同じ出来事が、震災・原発事故によってまったく違ってしまったということを見事に書き表している。両者を比較してみる。

【冒頭シーン】
くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。歩いて二十分ほどのところにある川原である。春先に、鴫を見るために、行ったことはあったが、暑い季節にこうして弁当まで持って行くのは初めてである。散歩というよりハイキングといったほうがいいかもしれない。(神様)

くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。春先に、鴫を見るために、防護服をつけて行ったことはあったが、暑い季節にこうして弁当まで持って行くのは、「あのこと」以来、初めてである。散歩というよりハイキングといったほうがいいかもしれない。(神様2011)

【川原に着いたシーン】
遠くに聞こえはじめた水の音がやがて高くなり、わたしたちは川原に到着した。たくさんの人たちが泳いだり釣りをしたりしている。荷物を下ろし、タオルで汗をぬぐった。くまは舌を出して少しあえいでいる。そうやって立っていると、男性二人、子供一人の三人連れが、そばに寄ってきた。どれも海水着をつけている。男の片方はサングラスをかけ、もう片方はシュノーケルを首からぶら下げていた。(神様)

遠くに聞こえ始めた水の音がやがて高くなり、わたしたちは川原に到着した。誰もいないと思っていたが、二人の男が水辺にたたずんでいる。「あのこと」の前は、川辺ではいつもたくさんの人が泳いだり釣りをしたりしていたし、家族づれも多かった。今は、この地域には、子供は一人もいない。
荷物を下ろし、タオルで汗をぬぐった。くまは舌を出して少しあえいでいる。そうやって立っていると、男二人が、そばに寄ってきた。どちらも防護服をつけている。片方はサングラスをかけ、もう片方は長手袋をつけている。(神様2011)

【抱擁のシーン】
「抱擁を交わしていただけますか」
くまは言った。
「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」
わたしは承知した。
くまは一歩前に出ると、……(神様)

「抱擁を交わしていただけますか」
くまは言った。
「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」
わたしは承知した。くまはあまり風呂に入らないはずだから、たぶん体表の放射線量はいくらか高いだろう。けれど、この地域に住みつづけることを選んだのだから、そんなことを気にするつもりなど最初からない。
くまは一歩前に出ると、……(神様2011)

震災・原発事故という「あのこと」が起こったことによって、おなじ日常が大きく変わってしまう。2つの作品を並べることでそのことがよく分かる。

震災・原発事故の前と後では、日本は変わってしまった。そういうことが言われる。その通りだと思う。この社会は震災・原発事故以前と同じ考え方、やり方ではもたないだろう。だから震災・原発事故以後の現実をきちんと見据えていかねばならない。その現実から目をそらすのは後ろ向きの姿勢である。そういう視座は必要だろう。しかしそのように考えると、震災・原発事故後の現実を唯一絶対のものとして固定化してしまい、ある種の想像力を無くしてしまうかもしれない。

すでに震災・原発事故から10ヶ月以上が過ぎた。その間、さまざまな現実があったはずだ。その現実は「震災・原発事故後の現実」と言葉でひとくくりにすることもできるが、その内容は人の数だけさまざまだ。それぞれの人にとって、それらは唯一の現実であり逃げることはできない。時間をかけて向き合っていくことになるだろう。

しかし一方で、震災・原発事故(とくに原発事故)が起こっていなかったらこんな現実もあり得たのではないか、と豊かに想像することも必要なのではないか。あり得たはずの現実を想像する。そしてそれがなぜ失われてしまったのかを考える。そこでの人々の思いを想像する、自分に起こったとしたらどんな思いをするだろうか、と。その上で、私たちがこれから先、何を必要としているのかを考えるべきだ。

想像力がない人間に限って自己合理化がはやい、と言ったのは『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田君だった。僕もそう思う。立ち止まって、少し時間をかけて想像するべきなのだ。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『さいごの色街飛田』を読む

2012年01月20日 | 雑文
今週に入って3冊本を読み終えた。10日ほど前から読んでいた『さいごの色街飛田』(井上理津子著、筑摩書房)、正月休みから再読していた村上春樹の『1Q84』、そして川上弘美の『神様2011』だ。そして現在はマラソンに向けて、村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んでいる。

『さいごの色街飛田』は、大阪市の西成区にある色街「飛田」について書かれている本だ。僕は東京生まれの東京育ちなので、この本を読むまで「飛田」という地名は知らなかった。もともとは「飛田遊郭」、いわゆる赤線だった。それが1958年に売春防止法が施行されるのを機に、料亭街『飛田料理組合』となった。今も当時の雰囲気を伝える街である。特に『鯛よし百番』という料亭は、大正中期に遊郭として建てられた建物を使っていて、国の登録有形文化財となっている。

とはいえ料亭というのは表向きの看板。営業内容は遊郭時代と変わらない。(「鯛よし百番」は文字通り本当の料亭)。料亭での客と中居の自由恋愛という形をとることで、売春防止法(の管理売春かな?)に引っかからないようにしている。このあたりはソープランドの考え方と同じようだ。

この飛田、僕が名前すら知らなかったのは東京の人間だからという訳でもないようだ。もともとメディアで紹介されることがなかった。取材などには一切応じない。ましてカメラなど向けることはできない。興味本位で街に入って写真など撮ろうものなら、えらい勢いで怒られ、取り上げられるそうだ。

筆者も最初はまったく相手にされなかったが、時間をかけて関係を作り何とか本を作り上げた。その意味では、今まで一般に知られることの少なかった「飛田」を最初に紹介した本としての価値は高い。しかしこの手の話しに興味がない人にはあまりお勧めできない。僕としては読んでつまらなくはなかったが、かりにこの本の存在を知らないまま人生を過ごしても別に問題ない、という感じだ。

じゃあ何でこの本を手にしたのか。1つには新聞の書評などで何回か目にしたからだ。(異なる三方向から同じことを耳にしたら自分で確かめる、というのが僕の1つの方針だ)。もう1つは、世界の健全ではない部分(それらは世界の健全さを支えているが、健全な世界に住んでいる人たちはあまり意識しない)に魅かれるからだ。(そういえば、ちょっと前には『潜入ルポ ヤクザの修羅場』という本を読んだ。今ひとつ)。そしてもう1つは、僕が東京の竜泉という土地で育ったからだ。

竜泉というのは東京台東区にある。いわゆる下町だ。地区内には『樋口一葉記念館』がある。そして道を1本挟めば東側は山谷だし、南側は吉原だ。子どもの頃には友だちとしょっちゅう吉原公園に遊びに行ったものだ。夕方になるとネオンが輝き、道に水がまかれ、建物の入り口には塩が盛られる。当時、吉原のソープランド街は「トルコ」(「トルコ風呂」のこと)と呼ばれていた。子供心にトルコという国はこんな風にきらびやかなところなのだろうと思っていた。(頭の中に浮かぶ映像は、なぜか砂漠のネオン宮殿だ)。

そう勘違いする日本人がどのくらいいたか分からないが、トルコ人には自分の国の名前と性風俗店が同じ呼び名だということを快く思わない人が多かった。そして80年代にトルコからの留学生が外務省に名称変更を訴えたことをきっかけに公募のすえ「ソープランド」となった。公募というのがちょっと凄い。(ちなみにトルコというのは親日国だ。オスマン帝国を苦しめていたロシアを日露戦争で日本が破ったからだ。特に東郷平八郎は英雄扱いで、自分の子供を「トーゴー」と名付ける親がいたり、「トーゴー通り」があったりする。そう考えるとトルコ人が「トルコ風呂」を知ったときのショックは大きかっただろう)。

話しがだいぶ流れた。そんなわけで『さいごの色街飛田』という本を読んだ。本当は『神様2011』について書こうと思っていたのだが、すでにだいぶ時間も使ってしまった。『神様2011』については明日にしよう。

館山若潮マラソンまであと9日。7月から計画的にランニングをした。すべてを計画通りに行なった。最後のトレーニングが日曜日のハーフスピード走だった。悪くはないが、微妙なタイムで走り終えた。そうしたら膝が痛くなった。2、3日は階段を上れないほどだった。(それにも関わらず昨日の夜は合気道の稽古に行ってしまった)。膝はだいぶ良くなった。おそらくレースまでには完治するだろう。一番の心配は、レース中に痛くなることだ。

なかなか体重が落ちない。コース図をプリントアウトしてにらめっこしている。今日は雪で走れなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

槍だけでゾウに挑むようにランニングをする

2012年01月16日 | 雑文
ナショナルジオグラフィック2004年7月号にタンザニアのバラバイグ族の話が載っていた。男たちがゾウやライオンなどを槍で倒す記事だ。もう10年近く前の雑誌なので現在でも彼らが同じような生活を続けているのか分からない。このグローバル化された世界では10年もたてばいろんなことが変わってしまう。

ゾウやライオンを槍だけで倒すには、それを支える世界像のようなものが必要だ。毎日、スーツを着てパソコンに向かいながら仕事をし、週末に槍を持ってリフレッシュのために荒野に出て行くといわけにはいかない。彼らの世界像は、便利な生活を追い求め気づかぬうちに原発を作り続けていた私たちの世界像とは決定的に違うのだろう。

いずれにせよ10年ほどには、タンザニアのバラバイグ族の男たちは槍だけでゾウやライオンなどの危険な動物を倒していた。それは「勇者=カディロカン」として認められるためだった。槍だけでゾウやライオンを倒せばカディロカンと認められ、牛を手に入れ、女性を選ぶ権利を手に入れ、生涯にわたる名声を手に入れられる。

楽ではない。命がけで狩りに全身全霊を傾ける。命を落すことも珍しくない。ときには狩りが1週間以上も続くこともある。1日に12時間歩き通す、獲物の痕跡を辿って。その間、食べ物はまったく口にしない。わずかに水を飲むことは許されているが、それでも1日に1度だけだ。男たちにとって狩りは忍耐と勇気を試すための儀式なのだ。

「私たちの苦しみが伝われば、神様は私たちを守り、狩りをすべき獲物を与えてくださる」、ある男はそう言った。

個人的にはこの手の考え方が嫌いではない。その一方で、こういうものが現在の日本社会の考え方と噛み合わないことも理解できる。たとえば、バラバイグ族の男はゾウを槍で倒せば勇者として認められるという。今の日本男子は「何」をすれば「何者」と認められるのだろうか。共同体として集合的に共有できるものがない。

もちろんバラバイグ族の男も狩りで成功すれば、牛、女性、名声などを手に入れられる。ある意味、それは世俗的だ。その意味では、ちょっと前までの物質的な欲求を中心に回ってきた日本も同じだ。しかしゾウを倒すためにあえて槍しか手にしないという姿勢は違う。それは非効率的だからだ。もし私たちがゾウを倒すとなれば、なるべく楽な方法を使うだろう。金銭的に余裕があれば、労力を惜しみ、血を見ることを嫌がって、アウトソースしてしまうかもしれない。

ましてや1週間ぶっとおしで1日12時間歩き、そのあいだ食べ物は口にしないし、水も1日に1度しか飲まないというのは狂気の沙汰だ。私たちなら明日の狩りに備えしっかり眠り、美味しい食事をし、水もたくさん飲むことだろう。なるべく苦しみが少ないようなやり方を選ぶだろう。

しかしバラバイグ族では違う。苦しまなければ神様は私たちを守らない。そう考えている。ここにあるのは、何かを手に入れるためにはそれなりの犠牲を払わなければならない、という考えだろう。危険を犯すことなしに、大切なものを手に入れることはできない。

原発の安全神話のように、私たちの社会では、犠牲を払わなくても欲しいものを手に入れることはできるし、そこには危険も存在しない。世界とはそのようなものだし、科学技術はそういう世界を可能にする力だと私たちは思い込んでいた。

だからこそ、犠牲を払うことなく、危険を犯すことなく、何かを手に入れられると思った。それは効率的という考え方とともに、さまざまな手抜きに繋がった。そんな網の目が社会を覆う中で、何かを手に入れるために苦しむということは難しくなった。そんなことをすれば、宮沢賢治の話しに出てくる「虔十」のようにばかに見えてしまうかもしれない。

苦しむことによって、それに見合った何かを手に入れたい。そういう思いを持つ人たちがある時期から増えたのだと思う。ランニングをする人が増えた理由の1つはそれだと思っている。ある時期からランニングをする人が増えた。5、6年前だろうか。もちろん東京マラソンなどの影響もあるだろう。しかし潜在的なランナーがいなければ、ああいう企画は出てこないし、出てきても流行らない。

ランニングというのは非常にわかりやすい。やろうと思えば1人で出来る。場所も時間も自由に決められる。技術的なことも多くない。(少なくとも初心者のうちは技術よりもとにかく走ることだ)。走った時間に比例してきちんと結果が出てくる。そう、苦しんだ分だけきちんと結果になる。とてもシンプルでわかりやすい。

そこで手に入れるものは、原発によって手に入れる便利な生活というよりも、ゾウを槍だけで倒して手に入れる「勇者」の称号に近いのかもしれない。もちろん牛も女も名声も手に入らない。手に入るのはいささかぱっとしないタイムの入った完走証と、芝生に腰を降ろしたときの充実した疲労感と、ほんとうに旨いビールぐらいだ。

さてさて、レースまであと2週間だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思議せず

2012年01月11日 | 雑文
7歳の次男が「ごぶさたってどういういみ?」と尋ねてきた。ご無沙汰か……。長いあいだ会っていない人と会うときや、ずっと連絡をしていない人に電話をかけたり、手紙を出すときに使う挨拶みたいなものだよ。そう答えそうになって、これは意味ではなく用例だなと思った。さて、どうやって意味を説明しようか。

紙に「ごぶさた」と書き、その横に漢字で「ご無沙汰」と並べる。そして「ご」「無」「沙汰」と3つ分ける。まずは「ご」の説明から。「あいさつ」と「ごあいさつ」という言葉を同じように紙に書く。そして「あいさつ」と「ごあいさつ」の違いをやり取りする。「あいさつ」でも「ごあいさつ」でも意味はそれほど変わらない。でも「ご」が付いている方が丁寧な言い方になる。「ご無沙汰」の「ご」も同じで、「無沙汰」を丁寧にするものだと説明する。

次に「無」である。これは「ない」という意味だ。つまり「無沙汰」というのは「沙汰」が「ない」という意味になる。じゃあ「沙汰」とは何だろう。そこで辞書を引いて見せる。いくつかの意味から「たより、しらせ」のを選び、沙汰というのは「たより」とか「しらせ」という意味だよ、だから「無沙汰」というのは、「たよりがない、しらせがない」という意味だ。それを丁寧に言ったのが「ご無沙汰」となる。だから、しばらく会っていない人などに、長いあいだ連絡をしなかったですね、久しぶりですね、という感じで「ご無沙汰しています」と言うのだ、と説明した。

言葉の意味を聞かれているのに、意味を説明せずに、用例で答えてしまうことはよくある。意味を説明することと、用例を示すことではどう違うのだろう。少なくとも「ご無沙汰」から分かるのは、意味の説明は分析的にその言葉にアプローチすることであり、用例を示すことは文脈からその言葉をつかむことである。どちらの理解の仕方にも長所、短所がある。バランスよく両方を使えるのが良い。

僕はもともと文脈依存的な理解をする方で、分析的な理解というのはまったくダメだった。(その傾向は長男にも受け継がれている)。分析的な理解を叩き込まれたのは学生時代だ。特に印象に残っていることがある。『華厳五教章』という漢文のテキストを読んでいたときのことだ。お師匠さんが、「今日読んだテキストの中で〈○○(何だったか忘れた)〉という言葉を漢字二文字で表すとすれば何だと思います?」と質問したことがあった。

べつに正解があるわけではない。どの言葉を選ぶかでその人の考えや個性が見えてくる。ゼミの参加者はいろいろな言葉を選んだ。その時、お師匠さんが選んだ言葉は「思議」というものだった。「思議?」、そんな言葉テキストにあったかな。見直すと、「不思議」という言葉があった。お師匠さんは「不思議」の中の「思議」を選んだのである。

これは目からウロコだった。僕にとっては「不思議」というのは1つのまとまった言葉であり、その意味はまさに「?」という感じだ。不思議を「不」と「思議」に分けようとは思わなかった。でも漢文的に考えれば可能だ。「思議せず」と読むことができる。そう考えると「不思議=?」という理解から一歩踏み出すことになる。「思議」ってどういう意味だろう。

文脈依存の人間からすると、「不思議」を「?」と受けとめることでその理解は終わる。しかし分析的にアプローチすると、「不思議」とは「思議をしない」ということになる。そして次に「思議」とはどういう意味かとなる。さらに「思議」も同じように問いを広げることができる。なぜ「思」議であって、「考」議でもなく、「想」議でもないのか、と。

文脈依存の理解においては「不思議=?」であり、そこが最終地点になる。ところが分析的に理解しようとすれば、「不思議」から「思議」を考え、それを「考議」や「想議」と比較することができる。つまり出発点になるわけだ。文脈依存にとってはどん詰まりの状況が、分析的な理解においては出発点になる。さまざまな選択肢や可能性がそこにはある。

しかし考えてみれば、日常においてこのようなことはしょっちゅうある。ある人にとってはどうしようもない状況が、別の人にとっては多様な選択肢と可能性をもった出来事に見える。そういう時、能力や経験の差として考えてしまうことが多いが、「文脈依存」か「分析的」かというような違いもあるのだと思う。

僕自身が文脈依存の人間なので分析的なものを高く評価しているが、分析的な傾向の人間にとっては文脈に依存することが状況打破に繋がることも多かろう。いずれにせよ、子どもたちに.バランスよく両方を身に付けられるようにしていこうと思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若潮マラソンまであと20日

2012年01月09日 | 雑文
館山若潮マラソンまであと20日。今日は奥さんと11kmほどかるいジョギングをした。荒川の土手に出て下流に向かって走る。二つ目の橋まで行き、そこで折り返す。そして同じコースを家まで戻る。昼過ぎ、冬のこの時期、太陽の力が一番ある時間だ。そして風はなく、川面には水の流れが作るゆるやかな起伏があるのみだ。

疲労の程度を確認するように走る。どこの筋肉が痛んでいるか、関節は大丈夫か、心肺機能は落ちていないか。もちろん全般的な疲労は残っている。なにせ昨日は3時間45分かけて36kmも走ったのだから。大会のちょうど三週間前。ランニングの本によると、3時間走か30km走をすると良いらしい。僕の場合、今回の目標タイムが3時間30分なので、精神的なスタミナをつけるために同じだけの時間を走っておくことにした。

昨日は、正午過ぎに家を出た。いつもと違うのは、ランニング用のリュックを背負っていることとだ。ランニング用のリュックには、予備の防寒具、そしてパンとカステラと饅頭を入れた。家から10km以上離れたところで空腹のために走れなくなり、寒さに震えるなんて、想像しただけでもぞっとする。このところ使わないようにしていたiPodも用意した。3時間半ともなると気分を紛らわすことが必要になるかもしれない。

家から土手まで2.5km弱走る。高速道路の電光表示板では風速10メートルを超えている。北風だ。とりあえず川下、つまり海の方に向かって南に走ることにする。行きは追い風、上手くすれば帰りには風が少しは弱まっているかもしれない。昼過ぎの暖かい日差しですぐに体が熱くなる。ウィンドブレーカーをリュックにしまう。長丁場だ、ゆっくりと走る。

土手では谷川真理のマラソン大会をやっていた。ゼッケンを付けたランナーたちが僕とは反対に川上に向かって走っていた。遅い方の人たちなのだろう。歩いている人と苦しそうに走っている人が半分ぐらいずつだ。みんな強い北風を正面から受けてきつそうにしている。冬に土手を走っているときほど風を不思議だと思うことはない。

荒川の土手のある地点。北風風速10メートル。そこで2人の人間がランニングをする。条件は同じだが、北に走るのと南に走るのとではまったく違う。南に走れば無風で(走るスピードで追い風は相殺される)太陽は暖かい、北に走れば凄い向かい風で(風に自分のスピードが加わる)体の中心に届く冷たさだ。とても同じ体験を共有しているとは言えない。辛そうに走っているランナーを見ながら、2時間後か3時間後の自分を想像してしまう。

北区から足立区、足立区から墨田区、墨田区から江戸川区。いくつもの橋をくぐり、いくつもの橋を渡る電車を目にする。いくつものグランドで少年たちが野球の試合をし、サッカーの試合をしている。下るにしたがって川幅が少しずつ広くなっていく。河口までの距離表示が1kmずつ減っていく。「河口まで6km」「河口まで4km」「河口まで2km」。そして「河口まで1km」まで来たところで、走り始めて1時間45分になる。折り返しだ。

河口のほうには海の気配がする。反対岸の海の方には葛西臨海公園の観覧車が見える。川岸も干潟のような感じだ。足を止めて軽くストレッチをする。水道で水を飲む。そしてリュックからパンを出して食べる。立ち止まると北風が思いのほか強い、あっという間に体が冷え始める。(帰りには風が弱くなるという期待は見事に外れた)。リュックからウィンドブレーカーとネックウォーマーを出して北風に備える。

走り出してすぐに1時間45分では走り切れないとわかる。ウィンドブレーカーを通して冷たさが体にしみ込んでくる。寒さそのもので体力を奪われていきそうだ。おまけに脚が少しずつ疲れ始めている。今度はすれ違うランナー達がみんな楽そうに見える。冬の午後の日差しの中を無風状態で心地よく走っている。

このまま2時間近く北風に向かって走るのか、そう考えるとうんざりしてくる。気を紛らわすためにiPodを使う。ふだんは自分の足音が聞こえなくなるのでiPodは使わない。ランニングをしている人の中には体そのものが強い人がけっこういる。あのフォームでよく走れるな、と感心することがしょっちゅうある。もともと身体そのものが強くないので、僕は自分の身体と対話をしながらかなり身長に走ることにしている。足音も対話の1つだ。足音のちょっとした違いでフォームの状態が分かる。だからいつもはiPodを使わない。

Podcastでダウンロードした『辺境ラジオ』を聞きながら走った。内田樹と名越康文と司会の3人の座談会のようなものだ。時事ネタのようなものについて3人でいろいろ話している。それを聞きながらずっと走った。これが思ったより面白く、走りながら何度か吹き出した。いつの間にか風をあまり感じなくなっていた。

疲労は確実に蓄積し、脚もパンパンになってきた。客観視すればかなり「きつい」状態だが、その「きつさ」を当たり前と受け入れてしまったようだ。心は平穏である。(あるいはたんに心が「まひ」してきたのかもしれない)。とにかく時間の感覚は飛んでいる。右足と左足を交互に進めるだけだ。

太陽が西に傾き始め、気温そのものが下がり始める。土手は帰り支度の時間だ。野球少年たちが自転車で通りすぎる。親子連れの家族がカゴいっぱいにレジャー用品を入れて笑顔で自転車を走らす。河口からの距離が「5km」「8km」「10km」と増えていく。走りながらカステラを食べる。江戸川区から墨田区、そして足立区へ。数時間前に逆に走ったことが過去の出来事のように感じられる。そして北区まで戻った。

あと少し。疲れているはずだが、ペースが上がる。土手の終わりの地点で饅頭を食べる。家まであと2.5kmだ。いつもの慣れた道だ。Podcastに耳を傾ける。名越さんが「機嫌よくしましょう。まず機嫌を良くするのは自分の責任だというところから始めませんか」と言っているのが不思議と響く。たぶん、走ってすごく疲れているけど、どこか機嫌がよくなっているのだろう。

そんな風にして、3時間45分かけて36km走った。とりあえず若潮マラソンに向けた練習で大きなものはこれが最後だ。あとは疲れを抜くこと、腰の痛みをなくすこと(これが1番の不安だ)、そして体重を落すことだ。あと20日である。(ちなみに今日のジョギングで両膝が少し痛んでいることが判明した)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いよいよ大詰めです

2012年01月06日 | 雑文
年が明け、すでに6日が過ぎた。去年おこった震災・原発事故に、今年は日本社会が正面から向かい合うことになる。そんな雰囲気で新年を迎えるのかと思ったら、平田容疑者が話題をさらってしまった。本来ならば自分たちの問題として主体的に取り組むはずだったのに、事件を眺める観客のような雰囲気になってしまった。

年が変わったのを機に、出来事に心理的な区切りをつける。それにより前に進めることもあるだろう。震災・原発事故は去年のことだ。去年とは過去に属す。ゆえに震災・原発事故は過去の出来事だ。だから区切りをつけて前向きに行こう。「収束宣言」もそんなつもりで出したのだろう。しかし今回の出来事はそう簡単にはいかない。過去の出来事ではあるが、終わった出来事ではないからだ。

最終的な処理まで40年以上かかるという。40を少し超える数字を聞くと、すぐに42.195という数字が思い浮かぶ。フルマラソンだ。そう考えると、原発事故の処理の大変さが思いやられる。まだスタートを切った程度に過ぎない。がやがやと浮ついた心で走り出した程度だ。ペースもつかんでいなければ、目標タイムで完走できる見込みも着いていない。できることといったら、自分の身体と対話をしながら集中力を高めることくらいだ。(それに本当に苦しいのは30kmからだ)。そんなことを意識する年頭になるのかと思ったら、話題は平田容疑者である。(神様も粋なことをなさる。)

震災・原発事故でもっとも影響を受けたのはブログを書くことかもしれない。去年は書いている途中でやめてしまうことがしょっちゅうあった。何かを書いている。ふと震災・原発事故に繋がる。すると広く深く考え出す。そして簡単に書けなくなる。あるいは、書いていてふと震災・原発事故のことを思い出す。そして自分の書いていることの下らなさに嫌気がさして書けなくなる。そんなことが何度もあった。

二十歳の頃、自分の発言に厳格なルールを用いた時期があった。自分の発言を「口にしてはいけないこと」「あたりさわりなないこと」「本当のこと」の大きく3つに分ける。そして「本当のこと」だけを発言するようにしようと決めた。そんな風にして半年くらい過ごした。ほとんど口を開く必要がなくなった。何かを口にすると大抵、物議をかもした。当然である。私たちが日常やりとりしている言葉のほとんどは「あたりさわりのないこと」だ。トラブルなく「あたりさわりのないこと」をやりとりできるのは、人の中で生きていくには大切なことである。

そんな思いはまったくない。でも、心理状態はちょっと似ている感じがする。意味のあることを書かねばならない、そんに風にどこかで感じている。おそらく、震災・原発事故をへて、今までと同じではダメだと思ったからだろう。今までと違うものを書かねばならない。きちんとした意味のあるものを書かねばならない。もちろん、意味のあるものなど書けるはずはない。もともと好き勝手に書いているだけだ。頭の中にある漠然とした想いや映像を言葉にしていくときの手応えが心地よくて書いているだけだ。言語化のトレーニングとして書いているだけだ。

そんなわけで、年が新たになったことを一つの区切りとしよう。また年間本数のノルマ制である。1週間に2本のペース、年間100本を目指そう。内容は二の次だ。(ちなみにランニングの目標は年間2000km。その他、木剣振りを年間5万回)。そんな訳で、去年書こうと思って止めた「いよいよ大詰めです」について書く。

これは『嘘のような本当の話』シリーズに入る。前にも書いたが、僕はこれまで問題のある子どもと付き合うことが多かった。表向きの依頼は勉強を見て欲しいというものだが、本当の理由は子どもを持て余した親が誰かにサポートを求めているというものだ。その時の僕の仕事は「通訳」である。親の気持ちを聞き取り、それを子どもに伝える。子どもの考えを言葉にして、それを親に伝える。簡単なようだが、そうでもない。話せば理解し合える親子がコミュニケーションを断絶しているのでないからだ。

言葉のやり取りはしている。もちろん日本語である。単語1つ1つは難解なものではない。でも総体としてその意味が伝わらない。伝わらないから感情的になりもっと意味不明になる。そんな子どもの言葉を読み解き、親に伝える。そして親の言葉を子どもに収まるように伝える。間違って伝えると怒りの矛先はこちらに向かう。かなりのエネルギーを必要とした。(おかげで、人の話を聞く力がだいぶ着いた)。

初めてその子に会った時のことを思い出す。会った瞬間、「どうしてこんなことになっているんだ」と絶叫した。そして洗面所に入っていき、蛇口をひねり勢い良く水を出し続けた。「どうしてなんだ」「どうしてなんだ」と排水溝を見つめながらつぶやいている。そして3分ほどたった。蛇口を締める。そして僕と目を合わせず、「もう大丈夫です」と平坦な声で言い、机に向かう。

一連の出来事を見てから、お母さんは「よろしくお願いします」と言って部屋を出ていく。他に言いようがないのだろう。しばらくお互いに黙ったままである。さて、どうしよう。とりあえず「こんにちは、ノグチです」と挨自己紹介をする。返事はない。黙ったまま時間が過ぎる。少年はノートを開き何か書く。「これ、わかりますか?」とノートを僕に見せる。「1+1=1」とある。

自慢じゃないが、こういうのは得意である。だてに仏教哲学をかじってはいない。「不一不二(一でもないし二でもない)」「一中十(一の中に十が入っている)」「一即多(一は多である)」など摩訶不思議な言葉はよく目にする。「うん、わかる。たとえば、一滴の水を掌に落す。そこにもう一滴落す。一滴にしかならない。そういうことでしょ」と答える。その瞬間、その少年は笑顔になる。とりあえず通訳として合格したわけだ。

ある日のこと、勉強の最中に、「ウンコ」と言って突然席を立った。僕に声をかけた感じではない。決然とした表情で世界に向かって自分はトイレに行くと宣言しているようだ。誰の賛成も反対もいらない、そんな感じだ。「うん」と返事をするまもなく、ドアを開け廊下の先のトイレに入っていった。

仕方がないので、その子がそれまでやっていた問題を確認していた。ノートには不器用な数字が並んでいた。7㍉罫の2行分を使って濃い数字が書かれている。何故か4Bとか濃い鉛筆をいつも使う。筆圧が強いので尖った芯の先がすぐ折れる。ぱきっ、と音がして芯が飛ぶ。そのまま先の折れた鉛筆で書き続ける。芯が折れたことなど気にしていない。そんな風にして書かれたノートを眺めている。彼自身の生きづらさを象徴的に表したようなノートだ。

「うっひゃっひゃっひゃっひゃ」、トイレから大きな声が聞こえる。「うっひゃっひゃっひゃっひゃ」、すごく嬉しそうな声だ。「いよいよ大詰めです」「いよいよ大詰めです、うっひゃっひゃっひゃっひゃ」。「いよいよ大詰めです。ははっ、ははっ、ははっ、はぁーっ。」。一瞬、何が起こったのかと思う。でも、すぐに想像がつく。なるほど大詰めなのか。そしてそんなに嬉しいのか。

トイレが開く。水の流れる音がする。そして部屋に入ってくる。どんな顔をして戻ってくるのかと思ったら、すごく真面目な表情である。笑顔のかけらもない。席に着くと「さて、やりますか」と、何もなかったかのようにノートに濃い鉛筆で大きな数字を書き始めた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする