7月も終わりだ。今月のランニングなどについて書いておこう。今月の走行距離は86km。月の初めはサロマ湖ウルトラマラソンの疲れとケガでほとんど走れなかったし、月の半ばも気温が異常に高く1度に走れる距離も短かったのである程度は仕方がない。それでも最低100kmは走りたいと思っていたので、少し走り足りない感じだ。
年間の目標走行距離は2400kmだ。1ヶ月平均200kmの計算になる。それくらい走っていれば、いつでもウルトラマラソンに挑戦できる状態に自分を維持しておける。今年のこれまでの走行距離の合計は1451km。ペースとしては悪くない。8月の目標はとりあえず100km。真夏はあまり長い距離が走れないので、短い距離をコツコツ積み上げていくしかない。
今日は涼しかったので、昼休みに久しぶりに荒川の土手まで足を延ばし70分ほどランニングをした。炎天下を走っていると、時間も短く、頭もぼーっとしてくるのでほとんど何も考えられないが、今日みたいに涼しく、70分も走れると、いろいろと考えることができる。
走りながらサロマ湖ウルトラマラソンのことを考える。速いものでもう1ヶ月以上が過ぎた。1ヶ月以上過ぎたが、過去の出来事になった気がしない。すごく近くにあるような感じだ。正確に言うなら、自分の中に完全に何かが刻み込まれてしまった感じだ。
フルマラソンはすでに10回以上完走している。初めて完走した時にはすごく感動した。その後のレースでも毎回、課題を設けているので、それなりに達成感のようなものは味わえたし、感動することもあった。でも、それらは僕の中を通り過ぎていく出来事だった。
言葉の問題に置き換えてみる。通り過ぎるという感覚は、「私はフルマラソンを走った」という言い方に表れている。「私」は「フルマラソン」を「走った」。「私」と「フルマラソン」が「走る」という言葉で結びつけられている。つまり「私」と「フルマラソン」は、別々のものである。「私」は「フルマラソン」がなくても「私」であり、「フルマラソン」は「私」がなくても「フルマラソン」である。だから「私」に「フルマラソン」がやって来て、「走る」という行為で繋がり、通り過ぎ、「私」だけが残るということになる。そしてフルマラソンは記憶され、過去の出来事になる。
サロマ湖は僕の中に留まりつづけている。だから「私はウルトラマラソンを走った」という言い方には少し違和感がある。実際、ほとんどそういう言葉は口にしていないと思う。大抵の場合は主語をわざと省いている。「私は(僕は)」という主語を立てるとどうしても、「私」とは別に「ウルトラマラソン」があるような響きになるからだ。実感を言葉にすれば「ウルトラマラソンを走ったのが私」ということになる。
だから土手を走りながらサロマ湖のことを考えても、過去を思い出すという感じにはならない。自分自身の今をのぞき込むような感じになる。今の自分をのぞき込むということは、頭の中で映像と言語により記憶の再現が行われるだけではなく、身体レベルでも同時に再現が行われていることである。土手を走っているという行為が、そのままサロマ湖の再現に感じられる。その時、自分の中に何かが刻み込まれてしまったのだな、と実感する。
話しは変わるが、遅々として上達しない合気道の技も同じである。技が身に付かないうちは、「私が技をやっている」という感じになる。ほとんどの技がそんな状態である。(というか「それ、どーやればいいんですか」という技が大半だ)。それでも基本的な技が少しずつ出来るようになってくると、「私が技をやっている」という感覚が減ってくる。頭の操作ではなく、身体レベルで体の調節が取れるようになってくる。文字通り、技が「身」に付くのである。
案外、「考える」という行為(そう「行為」なのである)もきちんと身に付けば、頭での操作ではなく身体レベルでの調節が取れるようになってくるのかもしれない。でも、身体レベルで調節が取れている考えというのはいったいどういうものなのだろう。知りたかったら、自分で試してみるしかないだろう。
年間の目標走行距離は2400kmだ。1ヶ月平均200kmの計算になる。それくらい走っていれば、いつでもウルトラマラソンに挑戦できる状態に自分を維持しておける。今年のこれまでの走行距離の合計は1451km。ペースとしては悪くない。8月の目標はとりあえず100km。真夏はあまり長い距離が走れないので、短い距離をコツコツ積み上げていくしかない。
今日は涼しかったので、昼休みに久しぶりに荒川の土手まで足を延ばし70分ほどランニングをした。炎天下を走っていると、時間も短く、頭もぼーっとしてくるのでほとんど何も考えられないが、今日みたいに涼しく、70分も走れると、いろいろと考えることができる。
走りながらサロマ湖ウルトラマラソンのことを考える。速いものでもう1ヶ月以上が過ぎた。1ヶ月以上過ぎたが、過去の出来事になった気がしない。すごく近くにあるような感じだ。正確に言うなら、自分の中に完全に何かが刻み込まれてしまった感じだ。
フルマラソンはすでに10回以上完走している。初めて完走した時にはすごく感動した。その後のレースでも毎回、課題を設けているので、それなりに達成感のようなものは味わえたし、感動することもあった。でも、それらは僕の中を通り過ぎていく出来事だった。
言葉の問題に置き換えてみる。通り過ぎるという感覚は、「私はフルマラソンを走った」という言い方に表れている。「私」は「フルマラソン」を「走った」。「私」と「フルマラソン」が「走る」という言葉で結びつけられている。つまり「私」と「フルマラソン」は、別々のものである。「私」は「フルマラソン」がなくても「私」であり、「フルマラソン」は「私」がなくても「フルマラソン」である。だから「私」に「フルマラソン」がやって来て、「走る」という行為で繋がり、通り過ぎ、「私」だけが残るということになる。そしてフルマラソンは記憶され、過去の出来事になる。
サロマ湖は僕の中に留まりつづけている。だから「私はウルトラマラソンを走った」という言い方には少し違和感がある。実際、ほとんどそういう言葉は口にしていないと思う。大抵の場合は主語をわざと省いている。「私は(僕は)」という主語を立てるとどうしても、「私」とは別に「ウルトラマラソン」があるような響きになるからだ。実感を言葉にすれば「ウルトラマラソンを走ったのが私」ということになる。
だから土手を走りながらサロマ湖のことを考えても、過去を思い出すという感じにはならない。自分自身の今をのぞき込むような感じになる。今の自分をのぞき込むということは、頭の中で映像と言語により記憶の再現が行われるだけではなく、身体レベルでも同時に再現が行われていることである。土手を走っているという行為が、そのままサロマ湖の再現に感じられる。その時、自分の中に何かが刻み込まれてしまったのだな、と実感する。
話しは変わるが、遅々として上達しない合気道の技も同じである。技が身に付かないうちは、「私が技をやっている」という感じになる。ほとんどの技がそんな状態である。(というか「それ、どーやればいいんですか」という技が大半だ)。それでも基本的な技が少しずつ出来るようになってくると、「私が技をやっている」という感覚が減ってくる。頭の操作ではなく、身体レベルで体の調節が取れるようになってくる。文字通り、技が「身」に付くのである。
案外、「考える」という行為(そう「行為」なのである)もきちんと身に付けば、頭での操作ではなく身体レベルでの調節が取れるようになってくるのかもしれない。でも、身体レベルで調節が取れている考えというのはいったいどういうものなのだろう。知りたかったら、自分で試してみるしかないだろう。