とんびの視点

まとはづれなことばかり

7月のランニングなど

2009年07月31日 | 雑文
7月も終わりだ。今月のランニングなどについて書いておこう。今月の走行距離は86km。月の初めはサロマ湖ウルトラマラソンの疲れとケガでほとんど走れなかったし、月の半ばも気温が異常に高く1度に走れる距離も短かったのである程度は仕方がない。それでも最低100kmは走りたいと思っていたので、少し走り足りない感じだ。

年間の目標走行距離は2400kmだ。1ヶ月平均200kmの計算になる。それくらい走っていれば、いつでもウルトラマラソンに挑戦できる状態に自分を維持しておける。今年のこれまでの走行距離の合計は1451km。ペースとしては悪くない。8月の目標はとりあえず100km。真夏はあまり長い距離が走れないので、短い距離をコツコツ積み上げていくしかない。

今日は涼しかったので、昼休みに久しぶりに荒川の土手まで足を延ばし70分ほどランニングをした。炎天下を走っていると、時間も短く、頭もぼーっとしてくるのでほとんど何も考えられないが、今日みたいに涼しく、70分も走れると、いろいろと考えることができる。

走りながらサロマ湖ウルトラマラソンのことを考える。速いものでもう1ヶ月以上が過ぎた。1ヶ月以上過ぎたが、過去の出来事になった気がしない。すごく近くにあるような感じだ。正確に言うなら、自分の中に完全に何かが刻み込まれてしまった感じだ。

フルマラソンはすでに10回以上完走している。初めて完走した時にはすごく感動した。その後のレースでも毎回、課題を設けているので、それなりに達成感のようなものは味わえたし、感動することもあった。でも、それらは僕の中を通り過ぎていく出来事だった。

言葉の問題に置き換えてみる。通り過ぎるという感覚は、「私はフルマラソンを走った」という言い方に表れている。「私」は「フルマラソン」を「走った」。「私」と「フルマラソン」が「走る」という言葉で結びつけられている。つまり「私」と「フルマラソン」は、別々のものである。「私」は「フルマラソン」がなくても「私」であり、「フルマラソン」は「私」がなくても「フルマラソン」である。だから「私」に「フルマラソン」がやって来て、「走る」という行為で繋がり、通り過ぎ、「私」だけが残るということになる。そしてフルマラソンは記憶され、過去の出来事になる。

サロマ湖は僕の中に留まりつづけている。だから「私はウルトラマラソンを走った」という言い方には少し違和感がある。実際、ほとんどそういう言葉は口にしていないと思う。大抵の場合は主語をわざと省いている。「私は(僕は)」という主語を立てるとどうしても、「私」とは別に「ウルトラマラソン」があるような響きになるからだ。実感を言葉にすれば「ウルトラマラソンを走ったのが私」ということになる。

だから土手を走りながらサロマ湖のことを考えても、過去を思い出すという感じにはならない。自分自身の今をのぞき込むような感じになる。今の自分をのぞき込むということは、頭の中で映像と言語により記憶の再現が行われるだけではなく、身体レベルでも同時に再現が行われていることである。土手を走っているという行為が、そのままサロマ湖の再現に感じられる。その時、自分の中に何かが刻み込まれてしまったのだな、と実感する。

話しは変わるが、遅々として上達しない合気道の技も同じである。技が身に付かないうちは、「私が技をやっている」という感じになる。ほとんどの技がそんな状態である。(というか「それ、どーやればいいんですか」という技が大半だ)。それでも基本的な技が少しずつ出来るようになってくると、「私が技をやっている」という感覚が減ってくる。頭の操作ではなく、身体レベルで体の調節が取れるようになってくる。文字通り、技が「身」に付くのである。

案外、「考える」という行為(そう「行為」なのである)もきちんと身に付けば、頭での操作ではなく身体レベルでの調節が取れるようになってくるのかもしれない。でも、身体レベルで調節が取れている考えというのはいったいどういうものなのだろう。知りたかったら、自分で試してみるしかないだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光速度不変の原理

2009年07月29日 | 雑文
『最新科学おもしろ雑学帖』という一般向けの科学本を読んでいたら「光速度不変の原理」ということが書いてあった。ちょっと引っかかるので書きながら考えてみることにした。

「光速度不変の原理」とは、アインシュタインが特殊相対性理論を構築するにあたって土台としたもので「光は光源の運動がどのようであっても一定の速さ(c)、すなわち真空中を秒速30万キロメートルで伝わる」というものだ。

少し具体的にする。高速道路の上を光が走っているとする。この時の光の速度は(c)である。隣のレーンを自動車が速度(v)で光と同じ方向に走っていたとする。自動車から見れば光を追いかけていることになる。当然、自動車から見た光の速度は(c-v)ということになるはずだ。しかし光速度不変の原理からすれば、自動車から見ても光の速度は(c)ということになる。

これは不思議な話しである。例えば、私たちが高速のサービスエリアにいて走っている車を眺めている。車の速度は時速100kmだ。この車を時速90kmで追いかけたとする。当然、速度の差は10kmということになる。当たり前の話しである。しかしこの先行する車を光に置き換えて考えるなら、時速90kmで追いかけたとしても先行する車との速度の差は100kmのままということになる。

奇妙な話しだが、それは単に僕に理系的な知識が欠如しているだけなのかもしれない。理系の人間にとっては自然な思考により導かれる当たり前の結果なのかもしれない。実際、複数の実験結果からこのことが事実であると確認されているそうである。

納得しがたいが、権威筋がそのように言うのだから正しいに違いない。こういうかたちで何かを疑いなく受け入れてしまう心的な行為に、私たちは「信じる」という言葉を当てている。そのような視点で物事を疑ってみる。私たちが「知っている」と見做していることの多くは、単に「信じ」ていることなのかもしれない。

だからと言って、光速度不変の原理も単に信じているだけだよ、などと無粋なことが言いたいわけではない。光速度不変の原理の不思議さをちょっと転がしてみようというわけである。私が止まっていようと、追いかけていようと光の速度は変わらない。これが光速度不変の原理の奇妙さであった。これを言い換えれば、私と光の関係は常に変わらない、ということになる。

私がどのような状態であれ、私と「それ」との関係は変わらない。そのようなものが他にないだろうか。まず思い浮かぶのは「言葉」である。例えば、「父親」という言葉がある。私が少年時代に思っていた「父親」と、その後数十年を経て思う「父親」は確実に異なっている。しかし「父親」という言葉が「父親」を意味することは常に変わらない。私の変化、それに伴う父親に対する思いの変化はあっても、「父親」という言葉が意味するところは同じである。

このことは私と私以外においても同じことが当てはまる。私の思う父親と他の人が思う父親は異なっている。(反射的に頭に浮かぶ映像が確実に違う)。それにも関わらず、「父親」という言葉の意味するところは同じである。私と私以外の人という状態の違いに関係なく、「父親」という言葉は常に「父親」を意味する。このように考えれば、あらゆる「言葉」に同じことが言えるはずである。

あるいは、人の気持ちなどにも同じことが言えるのではないか。私が好意を寄せている人がいるとする。しかしその人は私のことなど何とも思っていない。私がその人にさまざまな形で働きかける。働きかけの1つ1つを取り上げてみれば、その人との距離は縮まっていると考えることも出来る。しかし実際は、その人の心がこちらに向く瞬間までは、いつまでも「遠い」ままだと感じられる。私が何をしても(つまり状態がどのようであれ)、その人との距離は常に同じということになる。

この手の話しをいくら積み上げても、光速度不変の原理の不思議さを解明することは出来ないだろう。ただ、不思議な話を聞くと、その内容の正しさを判定するよりも(大抵は専門的な知識が必要となるから不可能である)、その話しの型を抽出して、同じ型のものが他にないか考えてみるというのが、個人的には好きである。

光と私の関係が常に変わらない。この科学的な真理を同じ型の話にするならこう言うことも出来るだろう。「太陽は誰にでも降り注ぐ」と。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベルマーク

2009年07月26日 | 雑文
先日、私の奥方が「ベルマークの集計」なるものをやっていた。長男の小学校での役割分担でベルマーク担当になったようである。ベルマーク、懐かしい響きである。そう言えば30年以上も前、僕も小学生の時にベルマークを集めて学校に持っていったものだ。やたらと集めて大量に持ってくる生徒もいれば、まったく持ってこない生徒もいる。大量に持って来た生徒は自分の手柄を誇るように大声で騒ぎ立て、まったく持ってこない生徒は「なんでお前、もって来ないんだよー」と責められたりしていた。

考えてみれば、そんなことで責められるのも可哀相な話しだ。責めている方だって自分でベルマークを集めている生徒などほとんどいないだろう。大抵は母親が集めているはずだ。親の不出来を子どもが責められる。自己責任という言葉がなかった時代の話だ。いずれにせよ、ベルマークを集めるというのはそれなりの手間がかかるはずだ。そして子どもが学校に持っていくために保護者が集めているというがほとんどの場合ではないだろうか。

そんなわけで、学校で集められたベルマークの行方など気にしたこともなかった。赤い羽根募金とかあしなが募金とかのように何からの善的な方向に流れていくのだろうと漠然と思っていた。そのベルマークがわが家にやってきたわけである。端で見ていたがとにかく大変な作業である。やたらと時間がかかる。

ベルマークに点数がついていることはご存知であろう。僕も知っていた。集計といってもせいぜいそれらの点数を数える程度だろうと思っていた。ところが話しはそれほど簡単ではない。やたらと点数が細かくつけられているのだ。奥方の記憶では、最小単位は「もやし」で0.3点、最高は東芝の16点だった。少なくとも0.3点から16点までが0.1点刻みで混在している訳である。かなり細かい計算になる。

それだけではない。ベルマークの集計は協力会社ごとに行わなければならない。集計に当たっては会社名の入った袋が40種類くらい渡される。当然、まずベルマークを会社ごとに仕分けすることになる。次に会社ごとに点数を計算して、袋に入れ、合計点を書き込むということになる。こういう作業をやっているのを端で見ていると、不毛さを感じ始める。何か変だ、直観がそう警告を発する。

何のためにこんなことをやっているのだろうか?そういう根本的な疑問が浮かぶ。ちょっと調べてみた。ウィキペディアには「ベルマーク運動とは、学校といった教育施設、福祉施設での設備の助成を目的とした運動で、朝日新聞社創立80周年記念事業として1960年に始まった。ベルの形は『国内外のお友達に“愛の鐘”を鳴り響かせよう』との意味合いがある」とあった。

具体的には、商品の包装紙やパッケージにつけられたベルマークを切り取り、学校などの教育施設に集めて財団に送ることにより、点数に応じて設備購入の助成が受けられるようになっている。つまりどこかで誰かが設備購入の助成を受けるために私たちはベルマークを集めているわけだ。その中間作業として、わが家では奥方がベルマークの集計をしていたのだ。ほぼ1日半にわたって。仕分けには長男も借り出されていた。そして集められたポイントはほぼ2000点。1点1円換算だそうである。大人が1日半の時間を費やして2000円程度の貢献である。(といっても、我が奥方が2000円の貢献を生み出したわけではない。それ以前に保護者たちが集めている。これで受け取り側が点数の確認をしていたらお笑いである)

もちろん何事もお金に換算し、費用対効果的な見方をするのは間違っている。社会はもっとゆるやかな「思い」のようなもので繋がっている方が良い。だからこういういっけん無駄な作業も何らかの意味はあるのかもしれない。実際、奥方も基本的には「面倒だけど、まあ仕方ないわね」と言った感じだった。

彼女が一番文句を言っていたのは「湖池屋」のベルマークだ。湖池屋のベルマークは点数が細かく14種類もあったそうだ。その上、ベルマークが「べたべた」している。そりゃそうである。ポテトチップやらスナック菓子の包装紙からそのまま切り取ったベルマークである。油まみれの小片を1枚、1枚確認し、点数を足していく。1.2点とか2点とか1枚ずつ確認する。僕だったら、1.2円、2円と数えながら集計するだろう。「92円、何回数えてもあと8円足りない」とか言いながら。社会はべたべたなベルマークのようなもので繋がっているのかもしれない。(たしかに、湖池屋のポテトチップスはおいしい。)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

館山で海水浴

2009年07月22日 | 雑文
ブログの更新を怠っていた。久しぶりのブログの常として、今回は備忘のための雑記のようなものである。先週のウィークデー、基本的にはいつも通りの日々を過ごす。仕事をして、ランニングを何回かして、木曜日の夜には合気道の稽古に行く。変わったことといえば、合気道の基本的な鍛練を毎日10分程度でよいからやり始めたことだ。それと一緒に練習しているプロボクサーが15日(水)に見事にKO勝をした。ウィークデーはそんな感じだ。

週末からの3連休は家族で館山に海水浴に行った。大学時代の友人の家族も現地で合流した。このメンバーで館山に海水浴に行くのはこれで3年目である。18日(土)、19日(日)はあいにくの曇り空だった。海水も冷たく、風も強い。それでも子どもたちは嬉しそうにはしゃぎながら海で泳いでいた。長男と次男が波打ち際に立っている。去年も同じように2人で波打ち際に立っていた。変わらないな。でも、2人とも少しだけ体が大きくなっている。来年も波打ち際にはもっと大きくなった2人が立っているのだろう。海の広さに比べればいつでもちっぽけだけど。

海水浴にも増して子どもたちに人気があるのが磯遊びだ。引き潮で出来た溜まりに取り残されたハゼやカニやヤドカリをつかまえる。最初は子どもに付きあってという感じだが、だんだんと大人の方が真剣になってくる。最初はあまりハゼもカニもヤドカリも見えてこない。でもじーっと目を凝らしているとだんだんといろいろなものが見えてくる。岩の上をわずかに動いているヤドカリとか、砂の上にジーッとしているハゼとか、岩の隙間にいるカニとか、イソギンチャクとか、フジツボとか、訳のわからない生き物とか、2メートル四方の潮だまりというわずかなスペースに本当にいろんな生き物が生きている。

不思議である。見れば見るほど、彼らが生きているという実感が強くなる。(言い方を換えれば、簡単には殺せなくなる)。その一方で彼らの生き方はいったい何なのだろうかという疑問が浮かぶ。生まれた時から磯にいて、何らかの本能によって外界に反応する。必要な食べ物を手に入れて自己の生命を維持する。そしてあるポイントが来たら、今度は自分が捕食される側になり死んでいく。そんなことがこの小さな磯で巨大なスケールでずーっと繰り返されている。そういうことを思うと、一瞬、くらっ、と来る。

カニやハゼを追いかけている。子どもに指示を出したり、子どもに指示されたりしながら。生き物を捕まえることは、それに対する生殺与奪の権を手に入れることではない。命の不思議を実感し、それを大事に思えるようになることだ。そんなことを子どもには伝えていかなければならないのだろう。いろんなことを妄想しながら磯遊びをしている。気がついたら、背中が痛いくらいに日焼けしていた。曇り空なので甘く見ていたのだ。

20日(日)、風は強いものの、青空で日差しも強かった。やっと館山の海に来たと実感する。白いアスファルトに映るボディーボードを持った自分の濃い影を見ながら海辺まで歩く。青い空と青い海、それを分ける水平線。焼けるような熱い砂と風。初めは冷たく、慣れてくると心地よい海の水。大きな波がくるたびに奇声を上げる子どもたち。泳いだり、浜辺で寝ころんだり。夏休みの宿題の絵日記のような夏の海だ。

夕食は二晩つづけてのバーベキュー。家での食事ならサンマを1本焼けば、あとはご飯とみそ汁とちょっとあれば十分だ。バーベキューになると何故あんなに多くの食材を焼かねば気が済まないのだろう。おかげで2kg太って帰って来た。ランニングで絞り込まねば。

それと若潮マラソンのコースを私の奥さんに案内する。車で1時間くらいかけてぐるーっと1周する。去年と今年の1月に2度ほど走ったコースだ。当然のことだが、いろいろなことを思い出す。ちょっと面白かったのは、去年と今年という時期の違う記憶が1つの場所でごちゃっとした感じでよみがえることだ。記憶というのは時間的なものだが、もう一方で場所的なものなのだろう。これについては考えると面白そうなので、また改めて書くことにしよう。

海水浴にも行ったし、昨日から東京も涼しい。何となく夏が終わった気になっているが、まだまだこれからである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりに土手を走る

2009年07月13日 | 雑文
『エコシティ第29回つくばマラソン エントリー開始のご案内』というメールが届いた。晩秋の11月22日に茨城県のつくば市で開催される大会の案内だ。早速、ネットで申し込みを済ませる。サロマ湖マラソンでは何人かの人と「じゃあ、次は『つくば』で」と挨拶して別れた。ずいぶん先の話しだと思っていたが、案外あっという間のことかもしれない。

そんなわけで、今日は昼休みに荒川の土手を走った。13kmを1時間半かけてのランニングなのでペーストしてはかなりゆっくりである。何よりまだ体が完全に回復した気がしない。筋肉に弾力性が感じられない。一般的にはどうなのだろう?100kmを走ってきちんと体が回復するにはどのくらいかかるのだろうか?

それとは別に今日はとても暑かった。おそらく気温は30℃を超えていたはずだ。土手の良いところは都会にも関わらず視界が開け、広い空が見渡せることだ。しかし裏を返せば、直射日光を浴びつづけるということだ。当然、僕のような梅ランナーには夏の土手ランニングは厳しい。1時間半でも長い方だ。体に熱がたまらないようにゆっくり走るが、すぐに汗が噴き出してくる。水道を見つけては水分を補給し、頭から水をかぶる。

あまり楽ではない。楽ではないが何となく楽しい。ある程度のキツさを感じながらも走りつづける。そういえば、サロマ湖ではずっとそんな感じだった。暑い中、土手を走っていると、その時の感覚がよみがえってくる。頭ではなく身体の方がそういう感覚になってくる。荒川の土手を走っていながら、同時にサロマ湖を走っているような感じがする。ウルトラを走って、何かが体に残ったんだと実感した。これまでもフルマラソンで心に何かが残ったと感じたことはあった。しかし、身体に何かが残ったと実感したのはこれが初めてだ。この感覚をなくさないためには、きちんと走りつづけないといけないのだろう。

良いものは身体に残る、走りながらそんなことを考える。1年ちょっと前から合気道をやっているが、上手な人に技をかけられると、その感覚はきちんと身体に残る。自分の重心が崩され、相手の動きに引き込まれるように動かされ、投げられる。何が起こったのか頭では理解できないが、身体にはきっちりと刻み込まれる。今度はその感覚をもとに自分が技を稽古する。

賢い人と話しをするのも同じだ。当然のことだが、賢い人というのは自分の知識をひけらかしたりしないし、こちらの愚かさを暴き立てたりもしない。(少なくとも僕の知っている)賢い人は、こちらの「考える力」が向上するような対話をしてくれる。何かを教えてくれるのではなく、僕が知っていることと、僕が知っているつもりのことを仕分けしてくれる。そして知っていることは別の言葉で説明させ、知っているつもりのことにはきちんと問いを投げ掛けてくれる。何ひとつ新しいことを教えはしないが、こちらが対話に着いて行くだけで自分を超えることができる。考えにおいて相手に崩され、引き込まれているのだ。これも極めて身体的な感覚だ。

地面を見下ろすと、背の低い影法師が一緒に走ってくる。何やら考え事をしているようにも見える。顔を上げると柳の緑が風に揺れている、遠いなあと何となく想う。頭上では青空の中を前後にプロペラをつけた自衛隊の輸送ヘリコプターが音を立てて飛んでいる。夏の日差しにアスファルトが白く反射している。そして地面に映る桜の葉々の影ははっとするくらい濃い。

サロマ湖が終わって半月が過ぎた。そろそろ次の目標を立てよう。走ることに関しては、年間2400kmを維持しよう。フルマラソンでサブフォーをコンスタントに出せ、その気になればウルトラの準備にいつでも入れるようにするための距離だ。走ること以外にも、仕事、合気道、語学、その他いろいろ目標を立てねばならない。人に言えるものはオープンにし自分にプレッシャーをかけ、言えないものは黙ってコツコツとやるようにしよう。さてと、再び始まりである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

職場体験学習で話しをしました

2009年07月11日 | 雑文
サロマ湖マラソンから2週間がたとうとしている。速いものだ。今週になってランニングを再開した。1週間の走行距離はわずか20km。足首や膝の痛みはほとんどなくなったが、筋肉の状態は戻っていない。着地の瞬間、筋肉が衝撃を吸収する感覚がまったくない。どしん、どしん、と直に関節に重さがかかる。体が重い。(ランニングをせずに食べ過ぎたことで、実際に体重も増えているので仕方がない)。とは言え、走っていると楽しい。気温も湿度も高く、必ずしも走りやすい条件ではないが、汗と一緒に身体に溜まった汚れのようなものが流れ出るのを実感できるのは、この時期のランニングの楽しみの1つだ。

金曜日(10日)は友人の神社で中学生に話しをした。中学2年生の男子生徒6人が職場体験学習として1週間ほど神社に来ており、その最終日にちょっとした話しをすることになった。サロマ湖ウルトラマラソンを完走したので、中学生にも何か面白い話を聞かせることが出来るのではないか、という思いで僕に声をかけてくれたのだ。

期待には応えねばならない。職場体験ということで「仕事」、職場体験における文部省の大きな狙いは「生きる力」を育成すること、そして「ウルトラマラソン」。つまり「仕事」と「生きる力」と「ウルトラマラソン」という3つのお題で1つ物語らねばならないことになる。何を話そうかいろいろ考える。結局、「仕事」には「自分の力で食べていけるようになるためもの」と「自分自身を育てるもの」という「2つの仕事」があるという話しをすることにする。

そうは言っても中学生側からすれば、訳のわからない男がやってきて意味不明な話しをされることには変わりない。1人、出来れば2人くらいは話しに食いついてくれると良いのだが、と少し不安になる。

「誰一人、生まれたいと思って生まれてきた人はいない。気がついたら自分が生きていた。そして誰もがいずれ死んでいく。だったら、生きている間は楽しくやりましょう。でも楽しいというのは、面白おかしく、やりたいことだけやっているのとは違う。けっこう頑張らなければならないこともある」。結局、いきなり直球から入ることにする。

僕が話しを始めるまでに、しばらく彼らの会話や態度などを見る時間があった。自分の中学2年生の頃を思い出した。支離滅裂である。思いは不安定でちょっとしたきっかけであっちに行ったり、こっちに行ったりする。正反対の事実をあたかも論理的に話しているかのように声高に主張する。言いたいことと実際の言葉が大きくかけ離れている。そんな状態の人間が言葉のやり取りをしている。これで本当に話しが通じているのかね、と心配になる。(でも考えてみれば、病院の待合室の老人同士の会話もけっこうかみ合っていないし、仕事上の合意事項だって時間とともにどんどんズレが出てくる。みんなそれほど違わないのだろう)。

そういう訳で、順序立てて話しをしながら彼らを巻き込むのは無理だと判断し「生き死に」という直球を投げ込んだ。面白いもので、すぐに何人かの顔つきが変わり始めた。そうなんだよな。支離滅裂だけど、それなりにみんな真剣なんだ。自分もそうだった。言葉には出来ていないかもしれないが、「生きる」とか「死ぬ」とか「社会」とか「友情」とか「なぜ勉強しなければならないか」とか、そういうことにどこかで引っかかっているはずだ。そういう漠然とした思いに「言葉」を与えるのも大人の仕事なんだ。

「仕事」には2つのものがある、と個人的な考えを披瀝する。1つは「自分の力で食べていけるように稼ぐもの」で、もう1つは「自分自身を育てるもの」だ。職場体験で想定されている仕事は当然、前者である。これについては僕にはあまり言うことがない。「人の道に外れていなければ何をしてもいいんだよ。人に道に外れてるというのは、自分が得をするために人に損をさせることだ。それさえしなければどんな仕事であってもいいと思う」。それだけだ。

もう1つの仕事の「自分自身を育てる」というのは、「自分の問いにきちんと答えていくことだ」と説明する。誰もが自分だけの「問い」というものをそれぞれ持っている。それときちん向かい合っていくことが「自分自身を育てる」ことだ。これはけっして楽なことではない。でも、それが出来ていれば、生きていることに手応えがあり、人生を楽しむことが出来る。「生きる力」だ。今の世の中で支配的な考え方は、より少ないコストで最大限の利益を手に入れることだ。つまりなるべく努力しないで、出来るだけ多くのものを手に入れることだ。でも、「自分自身を育てる」ときにはそういうやり方ではダメだ。きちんと手間をかけることが必要だ。

思いの外、話しに食いついている。身を乗り出すように聞いている生徒もいれば、目が輝き出している生徒もいる。おちゃらけた表情がすごく真剣になった生徒もいる。それを確認して、ちょっとだけ「ウルトラマラソン」の話をする。(個人的な話しをするのは難しい。下手をすれば、中学生相手に自慢話をして帰った変な男になってしまう。そういえば、イヤな教師というのはそういう人間だった。)

北海道のサロマ湖で行われる100kmのレースで、今年は3500人くらいが参加した。完走率は70%を切るくらい。朝の5時にスタートして、夕方の6時が制限時間。途中にも制限時間があって、それをクリアできない人間はバスに収容されてしまう。まずは、そういう一般的な話しをする。

それから11時間36分という自分のタイムを教える。想像が付くだろうが、11時間以上走っているのは楽なことではない。けっこうきついものである。にもかかわらず、すごく手応えがあっていいものだった。でも僕は走ることが好きだったわけではない。それどころか、君たちくらいの頃には走ることが何より苦手で、もっとも嫌いだった。そしてできる限り避けて通ろうとしていた。

でもある時、自分が何か大事なことをやり残してしまったことに気がついた。そして走り始めた。走り始めて、フルマラソンにチャレンジするようになり、そしてウルトラマラソンを走りきることが出来た。ウルトラマラソンは僕にとって「自分自身を育てる」ための「仕事」である。だから、楽ではないが、それと向き合えている時には、とても「楽しい」と感じられた。

僕の場合は、「食べるために稼ぐ仕事」と「自分自身を育てる仕事」が別々のものになっている。一番ラッキーなのは、この2つの仕事が1つに重なっていることだと思う。中学2年生というのはすごく可能性に満ちている。いろいろなチャレンジをする時間をみんなは持っている。2つの仕事が1つに重なるように、これから先いろんなことを試して、楽しく生きていけるようにがんばって欲しい。

そんな話しをした。話し終わると思いの外、良い顔をしていた。おそらく、1日もすれば僕の話は意識の表層からは消え去ってしまうだろう。自分の14歳を振り返ればそれくらいの想像はつく。でも、心のどこかにわずかな痕跡くらい残るかもしれない。迷った時に、その痕跡が少しでも力になってくれること。それが僕の望むことだ。がんばれ中学生たち。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サロマ湖ウルトラマラソン、その後

2009年07月05日 | 雑文
ゴールしたらわんわん泣き出してしまうのではないか。そう思っていたのだが、そんなこともなくしっかりとしていた。もちろん感情がまったく平坦だったというのではない。それなりの高揚感も達成感もあった。でも、ボランティアの高校生の女の子がタオルを手渡して、メダルを首に掛けてくれて「おめでとうございます」と言ってくれた時も、感情が高ぶることもなく冷静に「ありがとう」と言葉を返していた。

これはちょっと意外だった。拍子抜けといってもよいくらいだ。というのも僕はウルトラマラソンを完走すればものすごく感動するだろうと思っていたからだ。初めてフルマラソンを完走したのが5年ちょっと前のことである。タイムは4時間50分とひどいものだが(それでもこの時も1度も歩かなかった)、すごく感動した。ゴールした瞬間は感情がとても高ぶり、涙がこぼれた。自分の人生でこんなに感動したことはないんじゃないかというくらい感動した。

そしてその後すぐに思った。フルマラソンでこれだけ感動できるのだ。だったら、ウルトラマラソンを完走したら、この世のものとは思えないような感動を味わえるのではないか、と。でもそんなことはなかった。(ゴール後すぐに荷物を受け取り、家族に電話をした時には、ちょっと声に詰まったけど)。確かに達成感はある。でも心を大きく揺さぶられるような激しい感動はない。

どちらかというと安堵感の方が強い気がした。なぜだろう。あまりにも多くの人にウルトラマラソンを走ると知らせたからかもしれない。本来、何かやる時には黙ってやるようにしていた。べつに不言実行をモットーとしているわけではない。黙ってやっていれば失敗しても恥ずかしい思いをしなくてすむ。そのほうが楽だ。でもウルトラマラソンではそういうやり方をやめようと思った。自分にプレッシャーをかけるべく、あえて「走る」と公言するようにしていた。その方が結果的に完走の可能性を高めることができるからだ。

完走できなかったら恥ずかしくて人と顔を会わすことが出来ない。そう思うとすごい恐怖を感じた。東京に帰れなくなるんじゃないかと思った。もちろん僕が完走できなくても、誰も僕を責めはしないだろう。(幸い、僕の周りにはそんな人はいない)。それでも、そこで行われる会話を想像するととてもいやな気分になった。

「どうでしたウルトラマラソン?」知り合いが尋ねる。
「いやぁ、80kmの関門で引っかかってリタイアでした」嬉しくもないのに、無理に笑顔で応える。
「それは大変でしたね。それでも80km走ったんだから大したものですよ。私なんて10kmだって走れないんだから。それに比べればすごいですよ」。誰も責めはしないだろう。にもかかわらず、僕は答える。
「6月の初めに体調を崩しましてね。それでうまく練習が出来なかったんですよ。それに霧の出ている寒い日で、筋肉が硬直しましてね。癖になっている太股の裏側の肉離れが再発しそうになってしまい、どうしても思い通りに走れなかったんですよ」。訊かれていないのに、自分が走れなかった理由、それも正当に思えるような理由を話す。でも自分の中ではそんな理由にまったく納得できない。走れなかったという事実を悔やんでいるだけである。

そんな会話を何度も想像した。だからゴールのあと「ああ、これで帰れる」と思った。安堵感である。そのことに思い当たった時、これならウルトラマラソンを走ると人に言うんじゃなかったな。1人でコツコツ練習していれば良かった。そうすれば完走したときすごく感動できたかもしれないと思った。残念なことをしたな、と。

でも時間とともに少しずつ受け止め方が変わってきた。自分はウルトラマラソン完走という出来事をまだ受けとめきれていないのかもしれない。感動というのは必ずしも心が激しく揺さぶられるようなものではないのかもしれない。「激しい感動」というのとは別に「深い感動」というのがあるのかもしれない。そんなふうに思った。

レース翌日は自分が空洞になったような感じだった。初夏の北海道の心地よい現実の風景がちょっと遠くに感じられる。魂がすこし薄くなったようで、引き潮の海岸線のようにリアリティーが彼方に行ってしまった。自分がウルトラマラソンを完走したという実感すらなくなった。本当に走ったんだっけ、もしかしたらあれは夢でこれから本番があるのかもしれない。そんな時、本当に走ったことを証明してくれるのは痛んでいる身体だ。下半身全体の筋肉痛、両膝や足首の痛み。まともに歩けない。それにも関わらず歩こうともがいている時に、自分が完走したということを事実として受けとめられる。その度に「ああ、やったんだ」と浸み込むような静かな暖かい感動を味わった。

そうやってレースを振り返る度に、少しずつ感動が深まってくる。まだまだ消化するのには時間がかかりそうだ。こうしてこの文章を書きながらも時計を見ては、あと1時間半もすればあのレース前の朝食から一週間が経つんだ、と思う。そしてちょっと鳥肌が立つ。これからレースが始まるような気がしてくる。何かが重なり、心が少し動かされる。そんな穏やかな感動がしばらく続くのだろうと思う。

すごく豊かなものをサロマ湖マラソンはプレゼントしてくれた。日を追うごとに苦しかったことが消えていく。レース後の物足りなさや、レース翌日の空洞はもうない。時間が経つほどに、自分が感動で満たされていく。悪いことは何ひとつなかった。すべてが楽しかった。そしてしばらくの間、こういう時が続くのだろう。走って本当に良かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サロマ湖100kmウルトラマラソン

2009年07月02日 | 雑文
午前2時45分、ナイキのルナレーサーを履いて宿の玄関を出る。東の空がわずかだが明るくなっている。北の夜明けは早い。送迎バスが程なくやって来る。同宿している10人ばかりのランナーを乗せて出発だ。途中、別の宿で20人ばかりピックアップし、1時間ばかりコースを逆走するようにスタート会場を目指す。ゆらゆら帝国を聞きながら細胞の1つ1つを目覚めさせるつもりだったが、いつの間にかうつらうつらしてしまう。結局、2時間ほどしか眠っていない。体の方のコンディションはあまり良くなさそうだ。でも逃げ出したい気持ちはまったくない。とりあえずは心の方に頑張ってもらおう。

午前4時、会場に到着。ランニング用のウェアに着替え、荷物を預けて、ストレッチをする。辺りが霧で真っ白になってくる。少しずつ、ランナー達がスタートラインに集まってくる。1年ぶりの再会を喜んだり、仲間同士で話しをしたり、スタート前のざわつきはフルマラソンの大会と同じだ。そんな中、1人で霧の空を見上げる。電圧が一気に落ちたように、自分の周りが静かになる。よろしく頼むよ、そういう言葉が自然と浮かぶ。誰かを頼りたい気持ちはまったくないけど。

スタート1分前。少しだけ緊張感が漂う。心の中でカウントダウンする。10、9、……3、2、1。そしてスタート。午前5時だ。ランナー達から拍手が起こる。僕はいつもより心を込めて拍手をする。そして自分の体に無言で語りかける、頑張ってくれよ、頼れるのはお前しかいないのだから、と。

ゆっくりと走り出す。とにかく最初の10kmはゆっくり走ろうと決める。多くの人たちが僕を追い抜いていく。スタート会場の周りの街中をぐるりと3、4km走ってから畑や森林の道をしばらく走る。自分を空っぽにして。走っていることにも気づかないくらいに空っぽにして。10km通過、午前6時5分だ(10kmのラップタイムは65分)。タイムとしては悪くない。相変わらず周りは霧で真っ白だ。霧の中からカッコーの鳴き声が聞こえてくる。

同じようなペースで竜宮台で折り返して20km地点を過ぎる。本当なら左右にオホーツク海とサロマ湖が見えるはずだが、霧でどちらも見えない。これじゃあ摩周湖マラソンだよ、とくだらないことを考え始める。空っぽの頭の中に妄想が起こり始める。20km通過が午前7時8分(10kmで63分)。タイムは悪くないが体が重い、とくに脚が重い。感覚的にはフルマラソンがぎりぎり走れるくらいだ。それなのにあと80kmも残っている。それでも心の方はやる気に満ちている。冷静にフォームのことだけを考えて走る。身体の1ヶ所に疲れが出ないように、負荷を全身に分散する。

給水所ではボランティアの高校生とハイタッチをしながら「ありがとう」としっかりと声を出す。ハイタッチをするごとに身体に力が満ちてくるのがわかる。牧場でのんびりと草を食んでいる牛を見ると何だか嬉しくなってくる。霧の中にぼんやりと見える大木のシルエットが心を落ち着かせてくれる。自分の体以外にも頼れるものはいくらでもあったことに気がつく。30km地点を8時14分に通過(10kmで65分)。

体の重さが抜ける。足が自然と前に出る。40km地点の通過は9時15分(10kmで61分)。そして40kmを過ぎて初めてサロマ湖の湖畔に出る。でも霧でサロマ湖はまったく見えない。これじゃあ摩周湖マラソンだよ、と同じ妄想が浮かび、1人ほくそ笑んでいる。(これじゃあ摩周湖マラソンだよ、という言葉はこのあと何度も頭に浮かび、隣のランナーに話しかけたくなった)。42.195kmの通過が9時29分。フルマラソンがほぼ4時間半だ。ウルトラのペースとしては悪くない。ここからがウルトラのスタートなんだよな、と後のランナーがつぶやく、地獄のように苦しいんだよな、と。

この辺りから少しずつアップダウンが始まる。タイムが落ちるのは織り込み済みだ。50kmの通過が10時23分(10kmで68分)、結果的には最も理想的な状況になっている。50km過ぎからは厳しい上りが始まる。おまけに雨がばらつき始める。首の回りに日本手ぬぐいを巻き、手袋をする。寒さとの戦いだ。給水所で1、2分ストレッチをしただけで体が冷えて、筋肉がこわばるのがわかる。ちょっとでも歩いたら致命的だろう。最初の難所だ、秘密兵器のiPodを取り出し、ゆらゆら帝国の曲を聴きながら20分ほど走る。iPodは出来れば使いたくなかった。マラソン中の音を大事にしたかったからだ。でも音楽の力で少し復活する。(僕はいろいろなものに助けられている。)

そして55kmのレストステーションに到着する。レストステーションにはそれぞれのランナーが着替え、替えのシューズ、エアサロンパスなどをあらかじめ届けてある。そして思い思いのケアをして後半に向けて再スタートをする。ほとんど休まずに行く人もいれば、すべてを着替える人、アイシングをする人(何と下半身がつかれるバスタブが用意してある)、そして更衣室でバスタオルをかけて仮眠する人までいる。僕は、帽子とシャツと靴下を替え、しっかりとストレッチをし、エアサロンパスを脚にまんべんなく吹きかける(ちょっと寒い)。そして小さめのおにぎりを5つ頬張る。10分ほど時間をかけケアをして力強く再スタート。しばらくは上りが続くが、雨は止んでいる。悪くない。よし、あと45kmだと思う。でもそれはフルマラソン以上の距離だと気づく。45kmって長いのか短いのか、頭のネジが外れ始めている。

60kmの通過が11時47分、7時間近く走りつづけていることになる。10kmのラップは1時間23分だが、休憩を考えれば悪くない。60km過ぎの給水所で同宿の聾唖の男性と一緒になる。この人はすでにサロマ湖を5回完走している。苦しそうな表情をして指を4本差し出す。あと40kmもあるという意味だ。僕が携帯しているエアサロンパスを差し出すと、自分でも持っていると見せてくれる。どちらが言い出すというのでもなく、しばらく一緒に走る。走っている最中だし、聾唖の相手なので話は出来ないが、お互いに相手の状態を気づかっているのが表情でわかる。話が出来る相手よりもよっぽどコミュニケーションがとれる。不思議なものだ。20分ほど一緒に走ったが、上り坂で相手が先に行ってくれという表情をするので、お互いに頑張ろうと表情で伝えて先を急ぐ。

56kmあたりから霧が晴れてきた。そしてサロマ湖がその大きな姿を見せ始める。遠くに鶴雅リゾート(旧東急リゾート)が見える。鶴雅リゾートではお汁粉とそうめんを振る舞っている。ここで食べるお汁粉は本当においしいらしい。よし鶴雅を目指すぞと思うが、鶴雅リゾートは74km地点だ。実際には18km先だ。18kmと言えば、このペースで行けば2時間15分くらいは走らねばならない。近いような遠いような、距離の間隔もおかしくなってくる。

60kmを過ぎてからは10kmを1時間15分のペースに設定する。そんなわけで、70kmの通過タイムは午後1時1分(10kmで74分)。70kmを過ぎて71kmを過ぎると、ついに自己最長距離に入る。(今までの最長は自宅から葉山までの71km)。さすがに心が少し動かされた。少なくとも、サロマ湖を走ったことは無駄じゃなかったという気がした。喜びを噛みしめながら、74kmの鶴雅リゾートに到着。ここではお汁粉を4杯とそうめんを4杯食べた。お腹いっぱいである。(驚くなかれ。レース後体重を量ったら、走る前よりも1kg増えていた)。満腹のお腹をゆするようにして走る。

あと6kmで80kmである。走る前に何とかクリアしたいと思っていた最低の目標だ。両方の足首が痛くなり始め、体もかなりきつくなっているが、フォームを意識すると体が自然と前に出てくれる。80km手前の給水所で補給をする。ここからワッカ原生園を18kmほど走って、再びこの給水所を通りゴールへ向かうことになる。つまりこの給水所はゴールからわずか2kmの地点にある。それなのにわざわざ9km先まで行って戻ってこなければならないのだ。そして給水所の先は厳しい上り坂だ。坂を上って200メートルくらい行くと80km地点だ。

80kmの通過が午後2時15分(10kmで75分)。そしてレース開始から9時間15分がたった。80kmで10時間の制限に対して理想的なタイムだ。ワッカ原生園は2つ目の難所だ。小刻みな上り下りがずっと続く。少し行くと女性が2人ランナーを応援している。よく見ると1人は知り合いのSさんだった。(彼女は400mトラックの100kmマラソンの世界記録保持者で、サロマ湖でも何度か優勝している)。とりあえずすごく元気そうなふりをして声をかける。あーっ、元気そうじゃないですか、頑張って、と応えてくれる。そう言われていい気になってちょっとペースを上げてしまう。案の定、反動の疲れがひどい。そして太陽も少しずつ顔を出している。きついなあ、もっと体を鍛えなくちゃいけないな、と意味不明なことを考えながら走っていると、すぐ横の草むらからキタキツネが、あなたたちは何をしているのですか、という顔でこっちを見ている。一緒に走るか、と意味不明なことを口走って元気になる。

花がきれいに咲いているワッカ原生園を延々と進む。この道をまた戻るのかと思うとうんざりするとわかっているので、そういう想像をしないように努力しながら走る。55km以降基本的にイーブンペースである。マラソンでもそうだがイーブンペースで走れるということは、他の多ランナーに対して相対的に速くなっていく。つまり次から次へと人を抜いていくことになる。何人もの人を抜きながらワッカ原生園の折り返し地点につく。折り返してしばらく行くと90kmだ。午後3時28分に通過(10kmで73分)。ゴールの13時間の制限まであと2時間半もある。

完走できると実感したのはこの時だ。それと同時にタイムを意識し始めた。このまま最後の10kmを73分で走れば、11時間41分で完走できる。ウルトラは他人と競争するものではないが、村上春樹の11時間42分というタイムが僕のウルトラマラソンの最高の目標だった。脚全体が筋肉痛で参っている。足首にもひどい痛みがある。下手に急いでケガをしたらタイムは一気に悪くなる。でも、上手く走れば最高の結果が出せる。迷いながら走る。走りながら迷う。

1年以上も準備をしてきたのだから最後は少しゆっくり楽しもう。あまり急いで終わらせることもないさ、そう心に決める。決めたはずなのだがどういうわけか体はすごいスピードで走り始める。大丈夫だよ、行けるよ、体がそういう信号を送っている。それじゃあつき合いましょうということでペースを上げる。1kmごとの表示が短く感じる。ワッカ原生園入り口(帰りは出口)の坂を下る。他のランナーの3倍くらいのスピードで下る。ゴールまであと2kmの給水所に戻る。走りながらコップを手に取り、走りながら水を飲み、ゴミ箱にコップを投げ捨てる。

あと2km、やれるとこまでやろう。そう思ってペースを維持する。幹線道路の歩道を走る。人々の応援が増える。手を上げながら、大きな声で「ありがとう」と言う。残りがあと1kmになる。突然、涙が溢れてくる。この1年間のことが一気に押し寄せてくる。あと1kmで終わってしまうんだ。まだ続けていたいな、と思う。でも、まだレースは終わっていない。感動はゴールをしてからだ。最後までしっかり走らなければならない。

しっかりとした顔をして、腕を振り、ストライドを大きく、誰よりも速く走る。ゴール手前ではみんなが大きな声で応援をしてくれる。ゴールはすぐ目の前だ。ゴール上の時計は11時間36分になろうとしている。両手を広げてゴールをくぐる。そしてコースを振り返り、帽子を取り、いつもよりも深く頭を下げながら、ありがとうございました、と大きな声で言う。

ゴール時間は午後4時36分8秒。タイムは11時間36分8秒。長く苦しいレースだった。苦しいレースだったが1度も走ることがイヤだとは思わなかった。最後まで1歩も歩かずにすべて走った。一瞬も逃げなかった。たぶん少し強くなれたと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする