とんびの視点

まとはづれなことばかり

過去しか見えない

2010年11月26日 | 雑文
前回に続き宇宙の話。宇宙というのは不思議なものだ。星空を見上げているだけでも自分の枠組みが緩んでいく気がする。まして宇宙に関する科学的な話しなどは全く整理がつかない。怒られていることはわかっているが、なぜ怒られているかわからぬまま頷いている子どものようなものだ。

ただ宇宙の説明について確信していることが1つある。それはどのような説明であれ、それは人間が理解できる形の説明でしかないだろう、ということだ。人間は自分が理解できる形でしか何も理解できない。これは当たり前の事実だが、案外見落とされている。(例えば、私たちが宇宙の始まりより以前を上手く想像できないのは、私たちが自分が生まれるより前の自分を想像できないのと同じことである。)

さて、だいぶ前のテレビ番組で天体望遠鏡か何かの特集を見た。たしかその望遠鏡では46億(だっけ?)前の宇宙の姿を見ることが出来る、などと言っていた。「私たちが今、見ている星は10億年前の姿です」というのは奇妙な言い方が、宇宙を巡る話題ではそういう言い方が許されるのだ。

私が今、目にしているのは今ではなく昔である。奇妙な言い方である。今、目にしているのはやはり今の姿だろう、私たちの日常の感覚では自然とそう思えてくる。奇妙な言い方になるのは理解できる。地球とある星には二十億光年の距離がある。二十億光年とは光の速さで二十億年かかる距離である。だから今、地球に届いている光は二十億年前に発されたものなので、目にしているのは今の星の光ではなく二十億年という昔の光である、と。

なるほどその通りである。でもね、という気がしなくもない。上の説明の仕方を日常に置き換えればその奇妙さがわかる。例えば、2日前に知り合いが宅急便でブドウを送ってくれたとする。2日経って僕の手元に届く。僕はそれを見て「おっ、2日前のブドウが届いた」と言うだろうか。まあ言わないだろう。

2日前に発送されたブドウが、今、手元に届いた。今目の前にあるのは2日前のブドウだろうか。今のブドウだろうか。きちんと考えてみると面白いに違いないが、それはさておく。宇宙の話しが奇妙に感じるのは、それを丁寧に説明しようとすると、日常感覚で使われている言葉使いとはズレた表現が論理的に出て来てしまう点にあるのだろう。感覚的には、私たちが今見上げている星空は今の星空だ、そういう言葉遣いになるはずである。

しかし日常感覚の言葉遣いをあえて「今目の前にあるのは2日前のブドウである」というような奇妙な言い方に揃えてみると、それはそれで面白い。私たちが目にするもの、耳にするもの、手に入れるもの、これらはすべて私たちから離れたところに位置する。つまり離れたところから私たちに届くのである。(あたかも星の光が届くように)。

もちろん二十億光年というような時間がかかることはない。ほとんどの場合は時間的な差異は感じられない。しかし厳密に言えば、わずかであれそこには時間的な差異が存在する。光が放たれる、言葉が発される、モノが投げられる、わずかではあるが時間が経過してからそれらは私たちの手元に届く。

そう考えれば、私たちが今捉えたものはすべて過去のものと言える。私たちの手元には過去のものしか届かない。過去を捉まえる〈今〉という場所が私ということになる。

この考えに乗っかって、自分が何かを発信する側に立つことを考えてみよう。私が手を振る、声をかける、モノを渡す、これらの行為はすべて未来への働きかけということになる。なぜなら、私たちがそれらの行為をしてから相手に届くまでにはわずかであるが、時間がかかるからである。未来に向かって発信する〈今〉という場所が私ということになる。

しかし受け取る相手から見れば、立場は逆転する。相手からすれば、私とは相手に向かって何かを発信した〈過去〉であるか、相手が何かを発信するための〈未来〉ということになる。

これらをまとめると、私という存在は、過去からの働きかけを受け入れたり、未来に向かって働きかけたりする意味で〈今〉という存在である。同時に他者にとっての私とは、他者に働きかける〈過去〉だったり、他者から働きかけを受ける〈未来〉ということになる。

このように考えると〈私〉というものは〈今〉〈過去〉〈未来〉を同時に生きている存在ということになる。(そして深く掘り下げていけば、時間の発生という問題にまでいけそうである)。それはさておき、この考え方に乗っかれば、「今私が見ているのは2日前のブドウである」という言葉遣いは何ら不思議でもなくなる。
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4%しか知りません

2010年11月24日 | 雑文
もうだいぶ前のことだが「ダークエナジー」についてテレビで放映しているのを見た。細かい記憶は薄れているのだが、「ダークエナジー」とは宇宙を構成しているものである。「もの」と言っても物質ではないと思う。ダークエナジーの他に「ダークマター(暗黒物質)」というものが存在するから。ちなみに、ダークエナジーやダークマターの「ダーク」が意味するのは、人間が確認できない仮説的な存在である、ということだ。

つまり、ダークエナジーもダークマターも人間が直接その存在を確認することは出来ないが、その存在を想定しないとこの宇宙の成り立ちをきちんと説明できないような「もの」のことである。ちなみにこの宇宙においてダークエナジーの存在は73%、ダークマターは23%、そして私たちが存在を確認できるもの(元素とか銀河?)はたった4%である。言い換えれば、自分たちの理解の仕方で宇宙を捕えようとした時に、私たちが実際に捕えられるのはわずか4%で、残りの96%は想像(推論と言った方が良いか?)の対象になる。

さてダークエナジーだが、近ごろの研究成果によれば、ダークエナジーには「引力」と正反対の力が働いているらしい。「引力」というのは空間的に離れた物体がお互いにひき合う力である。ダークエナジーはその反対だから、物体が互いに離れようとする力のことである。さらに大切なのは物体同士が離れれば離れるほどその力が強くなるということである。

物体が離れるほどお互いが離れようとする力が強くなるという発見のどこが重要かというと、宇宙の理解が大きく変わってしまう点である。宇宙はビッグバンに始まりその後、膨張を続けていることになっている。この膨張がその後も続くのか、止まるのか、或いは収縮に向かうのか、その辺り諸説あったような気がする。

しかしここにダークエナジーの力を持ち込むと宇宙の将来像に1つの結論が得られる。それは一千億年後に宇宙が崩壊する「ピックリップ」という現象が起こるということだ。宇宙が膨張を続けるということは、物体同士が離れていくということである。そして離れれば離れるほどその力が強くなるのであれば、どこかのポイントで加速度的に物体同士が離れ始め、いずれ崩壊することになる。その考えに則って計算すると一千億年後に「ビックリップ」という宇宙崩壊現象が起こるというのだ。

だいぶ曖昧な部分もあるが、そんな話しだった。この話しを聞いて考えたことが3つほどあった。まずは科学における発見や研究結果の「新しさ」と「正しさ」ということだ。私たちは科学の新しい科学の発見や研修結果を耳にすると、どうしてもそれが「正しい」ものであり、それ以前の発見や研究が間違っていた(あるいは不十分)と考えがちである。しかし最新の発見や研究結果は決して真実ではなく、その時点でもっとも妥当性をもった仮説であるに過ぎない。

こんなことは科学者にとっては当たり前のことだろうが、どうしても多くの人は「新しさ」と「正しさ」を結びつけてしまう傾向がある。それは「情報」についても同じである。新しい情報は正しいもので価値がある。だから私たちは常に新しい情報を人より速く手に入れなければならない。そんな考えが蔓延している。

しかしちょっと考えればわかるが、新しさが価値を持つ情報は必ず古い情報になる。新しいものは必ず古くなるからだ。つまり「新しさ」を求めるということは「古さ」を抱え込むことになるのだ。「真実」が時間を超えた不変のものを意味するなら、「新しさ」を真実の根拠には出来ないということになる。

2つ目に考えたこと。「離れるほどに互いが離れようとする力(仮に「離力」と名付ける)」は物体同士で考えると不思議なものだが、心の働きとして考えれば当たり前のことだ。物体同士が近づくほどに引き合う力が「引力」、離れるほどに遠のき合う力が「離力」だとする。これを人間の心に移しかえれば、仲良くなれば仲良くなるほど人は近づくが、憎しみが強くなればなるほど人の心は離れていく、ということになる。そう考えるとダークマターの力が発見されてことで、物理法則と心情法則(?)がひとつ一致したことになる。

3つ目に考えたのは、宇宙に関して私たちが実際に理解している4%という数字は、案外、戒めの数字として妥当ではないかということだ。私たちは自分が見ているもの、知っているものから全体像を描こうとする傾向がある。それは私たちが物事を理解したいという強い欲求を持っていることから起こる。

しかし自分が見ている、あるいは知っているすべてから物事を理解しようとする姿勢は、自分はすべてを見てすべてを知っているという思い込みに繋がる。(これは冒頭に書いた「新しさ」と「正しさ」に部分的には繋がる)自分がすべてを見ていて、すべてを知っているという思いは、当然のことながら「正しさ」に結びつく。人間にとって1番危険なのは「自分が正しい」と思いこむことだ。「正しさ」を全面に押し出した言動には「ためらい」がない。「ためらい」がない言動は、問題解決に当たって常に相手を攻撃することになる。

私たちが宇宙について実際に理解しているのは4%である。この地球も私たちが日々、生活している処々も宇宙の一部である。そう考えれば、私たちはあらゆる物事や出来事の4%しか理解できないのかもしれない。私たちがすべてを見て、すべてを知っていると思っても、それは4%である。自分自身や相手やそこで起こっている出来事をきちんと理解し、それらを整えようとするならば、4%を手掛かりに残りの96%を想像しなければならない。

「考える」とは、4%を手掛かりに96%を想像することだと言えるかもしれない。そこから出てくる言動は不変の真実ではなく、その時点でもっとも妥当性を持ったものでしかないだろう。だからこそそこには「ためらい」があり、「正しさ」をもとに相手を攻撃するようなことは起こらないのだ。そして私たちが4%しか捉えられないということのみが不変の真実なのかもしれない。
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学芸会に行ってきました

2010年11月20日 | 雑文
非常に忙しい日々が続いている。5年に1度、あるいは10年に1度という忙しさだ。ランニングをする時間が取れない。このままだと1月末の館山若潮マラソンの目標を下方修正することになるだろう。楽しみながら4時間を切る、という辺りだろうか。

忙しくてランニングが出来ないことは仕方がない。それによりフルマラソンのタイムが落ちることも仕方がない。問題はランニングが出来ないことでブログの更新頻度が落ちることだ。

前にも書いたが、僕は走っている間に頭の整理をしている。別にテーマを決めて論理的に何かを考えながら走っているわけではない。1時間、2時間と走っていると、自分の中に溜まった汚れたものやジャンクなモノが汗と一緒に流れ出ていく。そして残ったものを言葉にしていくとブログになるというわけだ。

走っていないと、汚れたものやジャンクなもので自分が一杯になる。そんなものを見たり言葉にするのは楽しくない。そして書くことから離れて行き、いつの間にか書かない日々に、そして汚れてジャンクな自分に慣れていくことになる。昨夜は久しぶりに少しだけランニングした。だから今夜は少しだけ書くことがある。

先週末、小学4年の長男の学芸会を見に行った。『エルコスの祈り』という近未来の学校を舞台にした話しだ。近未来の学校では、学園長も教師も子どもを管理して成績を伸ばすことだけに精を出している。子どもたちもそんなあり方を当然だと思っている。そこにエルコスという人の心を持ったロボットがやってきて、子どもたちや教師や学園長に人間の心を取り戻させるという話しだ。

当然ながら4年生全員参加である。1つの話しの中に104人全員を登場させ、セリフを言わせねばならない。もちろん104人分も役はないので、1つの役を複数の生徒が順番でやることになる。主人公のエルコスが細身の背の高い女の子から小柄ながっしりした子に代わったりする。

ほとんどの生徒のセリフは1つか2つである。愚息のセリフは「生徒39番、一日中虫を観察していたい」、これだけである。他の生徒も同じようなものである。そして我が家はそれを見るために、僕と相方と次男の3人が体育館で舞台を見上げ、ビデオまで回している。周りも家族も同じようなものである。

生徒全員が舞台に上るから、かなりの数の家族が学芸会を見に来ることになる。みな1つか2つのセリフのためにビデオやカメラを用意してくる。そして少なくはない人たちが舞台ではなく液晶のモニターを眺めている。

僕が子供の頃には学芸会の舞台に全員が立つなどということはなかった。学年で10人くらい、クラスに3、4人くらいだった。その他の生徒は大道具係、小道具係、照明係、衣装係などしていた。それにもあぶれると単なる観客として当日、劇を観る程度だった。特に違和感もなかった。

確かに生徒全員が舞台に立って観客の前でセリフを言うというのは良い経験かもしれない。しかし一方では「なぜ自分の子供が主人公ではないのか」というクレーマーの親の存在が影響しているのは確かだろう。

ただ僕が気になるのは「劇に全員が参加する」ということが「全員が舞台に立つ」ということに直結するメンタリティーが存在していそうなことである。別の言い方をすれば、「縁の下の力持ち」というような存在には価値が見いだされず、人前に立ってぺらぺらと喋れるような人間が重宝されている世相が反映されているのではないかということだ。

大道具として舞台のセットを作り上げるよりも、作り上げられたセットで人前に立てることが評価される。自分が何かをするのは誰かに評価されるためであり、人知れず善行を積むなどということは損である。そんな時代の雰囲気が小学校の学芸会にも行き渡っている。

「雄弁は銀、沈黙は金」という諺を聞かなくなった。テレビのヒーローものでは、最初っから主人公が自分は正義の見方だとみんなに触れ回っている。僕が子供の頃には正義の味方の正体が人に知れてしまうことは、正義の味方でいられなくなること、つまり最終回を意味していた。

誰もが舞台に立つという経験は必要だろう。でも「裏方には意味がなく、人は表舞台に立てるようでなければ価値がない」という価値観を子どもに感じさせるなら、教育としては失敗である。そんな薄っぺらなメンタリティーではやがて子どもたちが生きねばならない世界の厚さに通用しないからだ。

教育というのは、世界を分かりやすく薄っぺらな知識にして子どもに伝えることではない。ついつい世界を薄っぺらに感じてしまう私たちの心性に、世界の厚みと奥深さと豊かさを気づかせるものでなければならない。

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ザ・スクラップ

2010年11月08日 | 雑文
ああ11月になった。そう思っていたらあっという間に8日も過ぎた。気がつけば、西の遠くには富士山の頂に雪がかかり、ベランダから見下ろす桜並木は高いところから赤茶色に変わり始めている。桜の木が紅葉して、葉がすべて落ちると、街の風景は一変する。そんな様子を10年以上も見てきた。

それも今年で最後かもしれない。おそらく春過ぎには今住んでいる部屋を出て引っ越すことになる。(子どもたちが大きくなり過ぎたのだ)。ピンク色に膨れ上がった桜並木はもう一度見下ろすことが出来るだろう。でも、紅葉して散ってゆく桜並木はおそらくこれが最後だ。

10年以上も同じ風景を繰り返し眺める。厳密に言えば、桜並木が紅葉し葉が落ちる風景はそれぞれ一回限りのものだが、繰り返し眺めることで同じことのように感じられる。でも今年が最後かもしれない。そう思うと、少しだけ桜並木を眺める目も変わってくる。

ここのところ(といってもだいぶ長いスパンだが)、何冊か本を読んだ。村上春樹の『ザ・スクラップ』、上野正彦の『監察医の涙』、内田樹の『街場のメディア論』、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話しをしよう』(これは途中で図書館に返した)、そして高橋源一郎の『悪と戦う』だ。

『ザ・スクラップ』は僕としては珍しく、村上春樹の本でその存在を知らなかったものだ。さっそくネットで中古本を購入した。1987年2月1日に第1刷とあるから20年以上前に書かれたものだ。長編小説で言うと『ノルウェーの森』が1987年9月の発売だから、まだ一部の読者に支持されていた段階だ。

前書きには、『ザ・スクラップ』に収められた小文は『スポーツ・グラフィック・ナンバー』誌に4年間にわたって連載されたものである。月に1回か2回『ナンバー』経由で送られてきたアメリカの雑誌・新聞から面白そうな記事を見つけて、それをスクラップして日本語の原稿にまとめたものだ、とある。

実際、それほど面白いものではない。雑誌や新聞の面白い話題をただ紹介しているだけのものも多いし、話題に自分の知見を絡めているものでもそれほど練られていない。何よりも今から見れば文章がまだまだである。村上春樹独特の言葉遣いは随所に見られるが、ごつごつしていて滑らかではない。個人的には村上春樹の本の中ではかなりつまらないものだ。

でも、と思った。この世の中にはつまらない話も多いし、それほど練られた言葉遣いばかりがやり取りされているわけでもない。誰もが知っていそうな話しや、大して作り込まれていない言葉が日常のほとんどである。そんな話しや言葉をどうせ読むなら、村上春樹の言葉というのは悪くはないのではないか、と。(もちろん個人的な好みとしてだが)。

というわけで受け売り的な話しを1つ。生物学者の福岡伸一がPodcastで微分について言っていたことがとても面白かった。微分は17世紀初めに出来た。この時期にはガリレオが現れ初めて空に向けて天体望遠鏡を向けた。顕微鏡がレーエンフックに発明されてミクロの世界に目が向けられたのも17世紀である。さらにこの時期に画家のフェルメールが現れる。これらの人たちがやろうとしていたのは同じことである。ガリレオもレーエンフックもフェルメールも世界を微分したいと思っていたのだ。

世界は絶え間なく動いているので捉えることはできない。その世界を一瞬だけ止めてみる。その一瞬に、そこに至るまでの動きと、そこから起こる動きが内包されている。その一瞬を記述するということが微分なのだそうだ。当時の人たちは切実にそういうことを求めていたのだそうだ。確かにフェルメールの絵ってそう言う感じがする。
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有明の月、真夜中の月溜まり

2010年11月03日 | 雑文
相方は新聞を読むのが遅い。遅いといってもゆっくりとしか文字が読めないわけではない。読む日付が遅れているのだ。1週間前とか2週間前の新聞を平気で読んでいる。かつてアメリカが打倒フセインを掲げてイラクに侵攻した時のことだ。戦闘もほぼ終わりという時期に、相方は新聞を見ながら「ついにアメリカがイラクに攻撃を始めた」と言っていた。

おそらく日付順に読んでいるのだろう。それにしても今日の新聞を先に読んでから、過去の分に目を通すことは出来ないのだろうか。あるいは世俗の数日のズレなど大きな輩から見れば大した違いはないのだろうか。そんなことをぼんやり思っていたら、自分も同じようなものだと気づいた。何日も前に書こうと思ったことを順番通りに書かねば次が書けないのだ。

10日ほど前、相方の従姉妹家族と我が家の9名で那須にキャンプに行った。月が記憶に残るキャンプだった。

土曜日の早朝、目を覚ます。窓の外はまだ暗い。いや、よく見ると空は少しだけ明るい青みを帯びている。秋の乾いた透明な空気そのものが青く輝いているようだ。

起き上がりベランダに出る。空気はひんやりして、街は静かだ。西の空に目を向けると真ん丸な月が沈もうとしている。ビルの上に大きな満月が浮かんでいる。真っ白な月に一滴だけ赤いインクを垂らしたような、あるいは真っ白な月に赤の薄いフィルターをかけたような月だ。こんな月は見たことなかったな。何十年も身近にあるものに新しさを見つけ、嬉しくなる。世界と私が少し豊かになる。

月がビルに隠れ始める。夕日が西の空に沈むように。「夕月」という言葉が頭に浮かび、それは夕方の月のことだと思い直す。こういう月は「有明の月」とか「残月」とか「朝行く月」とか言うのだろう。

その日の夜のキャンプ場。空を見上げると月が白銀色に輝いていた。明け方に見た月の半分くらいの大きさだ。そのぶん白い光が凝縮されている。白い光を反射する鏡のようだ。子供たちを呼んで月を眺めさせる。

人々が寝静まった真夜中。目が覚めてテントの外に出る。都会には無い静けさだ。風もまったく吹いていない。テントや車や砂利の道路やそういったすべてに月の白い粉がかけられ、止まってしまったようだ。しばらく佇んでキャンプ場を歩く。白い砂利道を歩く自分の足音だけが聞こえる。立ち止まると静寂が戻る。

雑木林に目を向ける。木々の間を抜けて月の光が差し込む。月の光がまっすぐ地面に向かう。まるで木漏れ日のようだ。日だまりのように、ところどころ地面が白くなっている。雑木林の陰を抜けて、月明かりの溜まりに歩いて行く。つま先が、腕が、全身が白くなり、月明かりにすっぽりと包まれる。何だか遠いところに来てしまった気がする。空を見上げる。木々の葉にぽっかりと穴が空き、そこには月が輝いていた。
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