とんびの視点

まとはづれなことばかり

5月24日(金)のつぶやき

2013年05月25日 | 雑文
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

物語的事実、歴史的事実、実在性

2013年05月24日 | 雑文
『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(安田浩一著、講談社)と『フランシス子へ』(吉本隆明著、講談社)を先日、読んだ。『ネットと愛国』は、近ごろヘイストスピーチなどで話題を集めている「在特会(在日特権を許さない市民の会)」について書かれた本。『フランシス子へ』は、戦後思想界の巨人・吉本隆明が最晩年に最愛の猫フランシス子の死に絡めていろいろ語った本だ。内容的にはまったく関係ない本だが、ある一点で繋がったので、考えたことなどを簡単に書いておく。(読み返したら、かなり余裕のない自分向けの文章になっていることがわかった)。

他人にはどれほど奇妙に思える考えでも、本人の主観からすればその考えは合理的である、というのが僕の基本的な考え方だ。だから考えや意見の違いとは、合理的な考えと非合理な考えのあいだのズレではない。ある主観にとっての合理性と、別の主観にとっての合理性の違いの問題である。

『ネットと愛国』で取り上げられている「在特会」的な合理性と、僕の合理性とはかなりの違いがありそうだ。例えば、彼らがいう「在日の特権」には、「特別永住資格」「朝鮮学校補助金交付」「生活保護優遇」「通名制度」という四つがあるらしい。意見するほど詳しくないので、内容には言及しないが、個人的にはそれらが問題になるほどの「特権」とは感じられなかった。(具体的な事例のいくつかに関しては、「不正」とか「行政の問題」などの言葉が当たるかもしれない)。

僕が気になるのは、上記のような事象が、ある種の人たちにとって重い問題になるのは何故なのか、ということだ。裏を返せば、現在の日本社会には、上記のような事象を在日特権としてとらえることで、自分と世界との間に合理性を見いだせる人が潜在的にかなりいるのではないか、ということだ。

言い方を変えよう。なんであれこの日本社会で生活することに不満や不安を持っていたとする。はっきりした理由はわからないが、なぜかはまり込んでいる。訳がわからない。苦しい。不安だ。なんでなんだろう。どうしてだろう。自分の原因とは思えない。どこかに自分が知らない真の原因があるのではないか。誰でも、時には、それに近い気持ちになることはあるだろう。

ランニングをすることで忘れてしまう人もいるだろう。友人と飲みに行き、愚痴をこぼすことで解消できる人もいるだろう。気づかない振りをして仕事をしているうちに、先送りできる人もいるだろう。あるいは、宗教に解決を求める人もいるかもしれない。または「在日特権」という言葉で主観的に事実をつかむ人もいるかもしれない。

「事実」という言葉が出てきた。そこで『フランシス子へ』と繋がる。吉本隆明が同書の中でこんなことを言っていた。

『何についても「歴史的事実」と「物語的事実」と、それから「実在性」っいうのがあるわけで、いちばん面倒な「実在性」ってことに素直に突進しちゃうと、ご覧のとおり、これは参ったなあって目に遭ってる。』

私たちはそれぞれの「物語的事実」を生きている。厳密にいえば、誰一人として同じ「物語的事実」を生きている人はいないだろう。物語は個人的な経験や欲望や無意識によって奇妙に組み立てられていて、本人にとっても本当はそれがどんな物語であるのかわからないくらいだ。ただ、日常のあらゆる出来事はその物語の中で意味付けられる。また同時にその出来事が物語を強化していく。「物語的事実」が堅固であることが、自分の世界の関係が明確であることに繋がる。

厄介なのは、「事実」には「物語的事実」だけでなく、「歴史的事実」も存在することだ。「物語的事実」が自分(自分たち)と世界との関係を橋渡しするものであるとすれば、「歴史的事実」は世界で何が起こったか(起こっているか)を明示するものだ。「物語的事実」と「歴史的事実」を同じものと扱い、唯一の真実と主張したとき、どんな内容であれ、それは他者と摩擦を起こすことになる。

(とはいえ、「歴史的事実」も複数の記述が可能であり、単一のものとはならない。このことが歴史認識の問題を引き起こす。単一のものは吉本隆明が言う「実在性」ということになるが、これはおそらく非言語における存在という厄介ことになろう)。

「在特会」の考えが、僕の考えと違うことには何ら問題はない。それは一つの主観的な合理性と、別の主観的な合理性の違いという当たり前のことだからだ。ただ、その合理性を担保する内容にはいささか驚きを感じている。自分と世界を合理的につなげてくれる何か、その内容がその時代の特徴を表すからだ。

「ヘイストスピーチ」が問題とされている限り、まだそれは彼らにとっての「物語的事実」であり、日本人にとっての「歴史的事実」ではない。しかし言動の過激さを取っ払えば、その「物語的事実」に共感する人たちは以前よりも増えているだろう。みなが「物語的事実」を共有し、「物語的事実」が「歴史的事実」と一つになれば、それが唯一の真実となる。その「真実」は、あの「安全神話」といわれた時の「神話」と同じだ。(本当の神話とは別である)。そうならないためのキーワードを吉本隆明から借りれば「実在性」ということになるのだろう。そこに切り込まねばならないのだろうが、その技量はまだまだないようだ。


今日は昼休みに8㎞ほどランニングをした。ジョギングペースでゆっくりと走った。なぜかといえば、水曜日の朝、暑さを予感させる日差しのなかハイペースで走ったら、軽い熱中症になってしまったからだ。初夏を思わせる昼下がりの土手、ゆっくり走ってもかなりの暑さだ。木々の葉は、太陽の光が当たっているところは明るく黄緑に輝き、影になっているところは濃緑に沈み込む。光と影のコントラスト。僕と一緒に走る僕の影もだんだん黒くなっていく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月22日(水)のつぶやき

2013年05月23日 | 雑文

朝から8.5㎞ランニング。気温もだんだん高くなり、走っていると汗が流れる。体の表面の脂や体の中の汚れたものが流れ出ていく感じが良い。とはいえ、今月はあまり走れていない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月20日(月)のつぶやき

2013年05月21日 | 雑文

今日の東京新聞一面トップは『原電、専門家に個別抗議』。敦賀原発2号機の真下に活断層があると認定した専門家に、個別に厳重抗議の文書を送りつけたそうだ。「我々(原電)の意見をほとんど無視した」というのが理由だ。これを一面トップで読んだ僕と読まない人とでは、世界が少し違ってくるだろう。


同じ価値基準や同じ判断基準をもった人たちに、同じ情報を、同じ時期に与えれば、同じ考えが出てくる。しかし実際は、すべてが大きく、あるいは少しずつ違っている。違う考えは、結果ではない。前提である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月13日(月)のつぶやき

2013年05月14日 | 雑文
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『親殺し』を読んで

2013年05月13日 | 雑文
少し前に『親殺し』(芹沢俊介著、NTT出版)を読んだ。いくつか考えさせられたり、勉強になることがあった。たとえばこんな言葉があった。

『「いい子」は自分の意欲、意向、願望を殺すことで、親の意向を生きるためのエネルギーを作り出しています。ですから、殺すべき自分が十分に残っている間は「いい子」を生きることができます。』

「殺すべき自分が十分に残っている間は」という言葉が当った。「いい子」を「いい生徒」「いい社員」「いい国民」と言い換えるれば、いろいろ考えられそうだ。親の、教師の、会社や上司の、国家の言うことに異を唱えず従う、あるいは、彼らの求めているものを先取りし応える。そんな人間が「いい○○」と言われるのだろう。それは他者からの評価であり、承認でもある。

人は他者の承認がなくては生きていけない。自分の存在を、他者に認め、受け入れてもらうため、私を犠牲にして相手に応えようとする。しかし噛み合ず、うまく行かないこともある。こんな言葉もあった。

『それでも人が足りないから来いと電話が来る。俺が必要だからじゃなくて、人が足りないから。誰が行くかよ』

「必要なのは自分じゃなく人なのか…」、誰もがそんな思いを持ったことがあるだろう。あまり心地よいものではない。でもそれが一時的なことであればまだよい。歯を食いしばりその状況を通り過ぎれば、自分を必要としてくれる人たちがいる。そうであれば、一時的な心地悪さも自分を成長させる糧となろう。しかし歯を食いしばる状況がずっと続くなら……。

『親殺し』の中には、エミール・デュルケームの自殺についての考察を述べているところがある。デュルケームは自殺を社会学的要因別に四つにわけた。「自己本位的自殺」「集団本意的自殺」「宿命的自殺」「アノミー的自殺」である。アノミー状態とは内面の秩序が立て直し不能なほどに崩壊している状態をいうが、この状態に追い込まれると、人は自殺するか、他を害するか、どちらかの衝動に捉えられるそうだ。

自分を殺して他者に承認を求める。しかし人が求めるのは「自分」ではなく「人」。この場合の「
人」は「物」のような扱いだ。「人」として生を受けながら「物」として必要とされる。自分の存在は何なのか。内面の秩序が崩れ始める。

「誰が行くかよ」という言葉は、秋葉原で大量殺傷事件を起こした人間が事件の少し前に書いたものだ。べつに事件を起こした人間を弁護しようというのではない。ただ私たちは、彼のようなものについて理解する必要がありそうだ。事件は起こさなくても、同じように感じている人たちが、この日本社会で増え続けているからだ。

先日、『ネットと愛国 在特会の「闇」を求めて』を読んだ。読みながら、日本社会について考えたことも、今日書いたことと重なる部分がある。改めて考え、書きたい。


今日は昼休みに8㎞ランニング。昨夜の合気道の稽古で全身が筋肉痛になっていたので、筋肉をほぐすようにリラックスしてゆっくりと走る。最初はこわばっていた体も時間とともに柔らかくなり、最後にはそこそこのスピードで走ることができた。今月はこれで62㎞。目標には少し距離が足りないが、走れる体にだいぶ戻ってきた。気温も上がり、汗もかきやすい。3㎏ほど増えた体重をどこまで落とせるかだ。

そうそう、先週の金曜日に『マリオ・ジャコメッリ』展を見に行った。写真に関しては素人だがとてもよかった。写真というと対象をそのまま写し取るという思い込みがあるが、ジャコメッリの写真を見ていると、対象を白と黒におさめ込むためにさまざまなものを消している、そんなふうに感じた。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月11日(土)のつぶやき

2013年05月12日 | 雑文

8キロほどランニング。一昨日の合気道で左の大臀筋を痛めた。かばいながら走ったのでフォームが崩れる。全身に無駄な力が入り、スピードも落ちる。土手には小さな虫が多く、目や鼻や口に何度も入りそうになった。


『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(安田浩一著、講談社)を読了。

1 件 リツイートされました

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月8日(水)のつぶやき

2013年05月09日 | 雑文

今日は朝から8.5kmほどランニング。フォームを意識しながら、北風の土手を走る。家に帰り掃除。ほうきでちりを集め、雑巾掛けをする。自分がきれいになったような心地よさだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月1日(水)のつぶやき

2013年05月02日 | 雑文

5月がスタート。今朝も8kmランニング。思いのほか楽に走れた。今月の目標は180km。4月は目標通り150km。少しずつランナーに戻りつつある。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする