とんびの視点

まとはづれなことばかり

原因と結果、生活と政治

2016年07月29日 | 雑文
仕事場で週に1本書いている文章をちょっと手直しして、ブログにあげることにする。

みなさん、こんにちは。
さて、この一週間はどんな一週間でしたか?
きちんと計画を立て、それを意識して仕事を進めましたか?また、終わった仕事に関して、きちんと振り返り、良かった点を確認したり、改善点を見つけ出したりしましたか?

同じことを繰り返しているようでありながら、きちんと自分が成長していける、そんなサイクルを持っているのと、持っていないのでは、3年後にはきっと大きな違いが出てくるでしょう。

何も考えずに目の前のことをこなすことも、意識してよいサイクルで仕事をすることも、どちらも自分で選ぶことができます。

「この道しかない、じゃない」。


仕事に関すること

前回は、1つの出来事にたいして「複数の原因を探す」ことについて書きました。何らかの問題が起こったときには、その原因を明らかにして、原因にたいする策を立てる必要があります。

そのとき原因を1つとすれば、対策も1つになります。しかし現実には、あらゆる出来事は複数の原因から起こります。だとすれば、複数の原因を探し、それぞれに対して対策を考える必要があります。

さて、今回も「原因」という言葉に絡めて話します。「原因とは何かの結果であり、結果とは何かの原因である」という話です。期末の評価面談が行われているいまの時期には、頭の片隅に置いておくことよいかもしれません。

あらゆる出来事は「結果」であると同時に「原因」でもあります。

例えば、部署間で連携して行う仕事を考えてみましょう。

営業が顧客とやりとりをして話を決めてくる。要件の確定や、納期、金額などを決めてくる。営業にとっては、顧客からの相談が「原因」で、話を決めることが「結果」です。

ところが、営業の「結果」は、生産部にとっては「原因」となります。
営業が決めてきた話の内容に沿って、製品やサービスを作ることになるからです。つまり、営業が顧客と話をして決めた内容は、営業にとっては「結果」を生み出す行為ですが、同時にそれは生産部にとっての「原因」を作り出す行為でもあります。

営業は顧客とのやり取りで「どんな結果」を出すかを意識すると同時に、生産部にとって「どんな原因」を作り出そうとしているのか意識する必要があります。

この図式は、生産部にも当てはまります。生産部は営業が決めてきた話を「原因」にして製品などの「結果」を生みだす。しかしその「結果」は、顧客にとっては「原因」となる。依頼した製品やサービスが出来上がったところから仕事が始まるからです。

つまり生産部が作り出す製品やサービスは、自分たちには「結果」であるが、それは同時に顧客にとっての「原因」となる。そうであれば、自分たちは顧客にとっての「どんな原因」を作っているのか、意識する必要がある。

どうだろう。多くの人は、無自覚に「原因は原因」「結果は結果」と思っているのではないか。1つの出来事が「原因であると同時に結果である」とは見ていないのではないか。自分がやっていることが何かの結果でりながら、同時に原因を作り出していると感じてないのではないか。

原因を作り出せるということは、その後に続く結果に影響を及ぼさざるをえないということだ。そうなると、「とにかく間に合えばいいや」とか「やっつけで作ろう」とは思えなくなるだろう。なぜなら、それに続く結果が自分自身に戻ってくるかも知れないから。

「面談」のことを話題にしました。

「面談」はこれまでの「結果」に対する評価であると同時に、今後の「原因」を作ることでもある。結果に対する評価をきちんとすることは大切である。かりにそれが厳しい評価であっても。しかし、その評価は同時に「良い原因」としなければならない。「良い原因」とは、評価を受けたものがモチベートされるようなものだ。

自分がいま行っていることは「原因」を作り出していることだ、そう自覚すると、いつもとは違うものが見えてくるかもしれない。見えたものに対して、人は考えることも行動することもできます。


一般教養に関すること

今日は少し大きな話をします。「生活と政治」についてです。日本人はとにかく政治の話をしません。(僕も数年前まではそうでした。)話をしないだけでなく、考えることもしない。日々の生活の中でも、会社の中でも政治の話をしない。そしていつの間にか、公共の場で政治の話をすることが中立ではないと言われるような空気が広がりつつある。

それにはいろんな理由が考えられそうですが、個人的に、いま気になっているのは、「天皇陛下」の存在です。憲法では天皇が政治的な発言をすることを禁止しています。天皇は政治的なことを考えていても発言できない、つまり「言論の自由」がないということです。(ちなみに天皇には「職業選択の自由」もありません。)

そういう天皇が日本国民の象徴である。だとすると、国民のメンタリティーの深いところに、天皇においてすら自由に政治的な発言ができないのだから、国民においては当然である、という無明力が伏流しているのではないか。そんな疑問が浮かんでいます。簡単には答えが出せない問いなので、このさき、ちょっと考えてみようと思っています。

天皇の話は置きます。「生活と政治」です。

端的に言って、そろそろ「政治」のことを考えたほうがよいです。みんな。なぜか。人が生きるということは、ある環境の中で生きるということです。それは人類が生まれてこのかた、変わらない事実です。ずっと、ずっとそうしてきた。

科学技術が発展するまで、人々の生活や生命は自然環境に大きく左右されました。だから、人々は自然をよく観察して、そこにあるパターンや法則を見出しました。自然のパターンや法則と協調しなければ生きていけないからです。

現代では科学技術が発展しているので、自然環境を意識することはあまりありません。(大規模災害の時などにはっと思い出し、危機感をもち、しばらくすると忘れる、その繰り返しです。)だからといって現代の人たちは環境を意識しなくてよいか。よくない。それは危険です。人は環境とのやり取りによってしか生きていけません。その環境とのやり取りが「生活」というわけです。

では、現在、私たちが意識すべき環境とは何か。それは法制度です。人間が作った法制度です。なぜなら、私たちの行うことの是非の多くは「合法・違法」という基準ではかられているからです。昨日まで違法であった行為が、法律を変えれば今日は合法になる。多くの人たちの考えや、行動に影響を与えるはずです。

その法制度を作るのが「政治」です。つまり政治を考えるということは、自分たちの環境がどのようなものか、どのような環境を自分たちは作りたいか考えるということです。それは結局、自分の生活を考えるということにほかなりません。

どうやら、日本人は大きな転換点を何度か見逃したようです。(これもここ数年で気づいたことなので、あまり偉そうなことは言えませんし、間違っているかも知れません。これからも勉強ですね。)

最初のポイントは、「冷戦崩壊」です。ここで世界の枠組みが大きく変わった。つまり環境の変化が起こった。これをうまく捕まえられなかったせいで、世界的な動きから遅れた。

次が、「バブル崩壊」です。(この時期には、阪神淡路大震災やオウムサリン事件などもありました。)ここで日本のありようが大きく変わった。このときも、バブルをもう一度、という気持ちで、新しい世界についていけなかった。

そして、5年前の「東日本大震災」です。地震と津波という天災を前にして、自然の力を思い知らされた。原発事故という人災により、科学技術や産業のあり方が問われた。このとき、一瞬ですが、日本社会が変わりそうな雰囲気があった。でも、忘れてしまった。何もなかったかのように、以前に戻ろうとしている。(原発がベースロード電源ですよ。何かというと変な英語で国民をごまかすのはやめて欲しい。ごまかされるのをやめねばならない。)

しかし、いずれのポイントもうまく活かせなかった。世界は変わり、大きく法制度も変わりつつある。そこでできた「環境」と、その中で生きる「人」がうまくかみ合っていない。だからしわ寄せがきている。少しずつ「生活」が犠牲になっている。これからも。

たとえば「貧困問題」。現在の貧困問題は、たんなる個人の努力不足で説明できない。そのような法制度、つまり貧困を生み出す環境が人為的に作られている。(これは、日本だけでなく先進国に共通する問題です。
堤未果さんの本を読むとその一端がよくわかります。)

産業界からの要請で、提出されていた法案に「残業代ゼロ法案」というのがあります。社員に残業をさせてもお金を払わなくてもよい、という法律です。人件費がカットできるので、利益が出て、株価が上がります。大手企業からすると喉から手が出るほど欲しい法案です。

さすがに反対が多かったのですが、昨年あたり(?)に、労働基準法改正で法案が通ったはずです。「年収1千万円以上の人には残業代が……」という話です。聞くところによれば、産業界としてはいずれ「400万円」までその基準を下げたいそうです。

自分には関係ないと思うかもしれません。しかし、いま残業代をもらっている人たちの残業代がなくなることは、そのぶん仕事の単価が下がることを意味します。いままで残業代を見込んで出していた見積もりが、残業代なしに変わります。

そうなると競合もその値付けに合わせないと仕事が取れなくなります。
そもそも残業代がない会社では、給料そのものが下がるかもしれません。そうしないと会社が持たないからです。

これから先、日本の人はそういう環境で「生活」することになるかもしれません。怖いですね。で、その環境を作っているのが法制度で、その法制度を作り出すのが「政治」です。

どうですか、「生活と政治」はうまく切り分けられますか?「政治は関係ない」と言えますか?べつに政治的な活動を勧めているわけではありません。自分が「生活」している環境をきちんと理解していないと、けっきょく自分の生活が苦しくなる、そういうシンプルな事実を書いているだけです。

当然ですが、この考え方は、仕事にも当てはまります。自分が何をやっているか、だけでなく、自分が仕事をする環境についてきちんと把握していることが、仕事をスムーズに進めるためにも必要なのです。

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「言葉を考える」か「気持ちを忖度するか」、そして「立憲主義」

2016年07月15日 | 雑文
仕事場で関係者に定期的にこんな感じのメールを出している。
ちょっと手を入れてブログに載せることにした。

参院選が終わりました。開票が始まったと同時に、「2/3」とか「日本会議」という言葉がテレビにできました。本来なら選挙前に国民に周知していなければならないことを、この段階で出すのか、と思いました。日本のメディア状況はかなり劣化してますね。

また、安倍首相は「自民党は憲法改正を党是としてきた。当然、そういうことを念頭に投票してくれたことだと思う」と言ってました。やれやれ、という感じです。

まあ、いずれにせよ、私たちは「改憲発議ができる状況」を選んだことになる。状況が変わりました。変わった状況は当事者として受け止めざるを得ません。それは、仕事でも生活でも同じです。きちんと受け止めるために、まずは何が起こっているのか状況をきちんと知りましょう。


まずは、「考えること」と「忖度(そんたく)すること」について書きます。どちらも「相手のことを知ろうとする行為」という点では同じです。ただ、この2つは大きく違います。

個人的なことですが、僕は相手のことを考えるときに、相手が言った「言葉」を大事にします。反対の立場に立った時にそうしてほしいからです。

自分の思いや考えを「言葉」にして伝える。その言葉について、相手が
「なぜそのようなことを言うのだろう」
「そこにはどんな意味があるのだろう」
「どんな整合性があるのだろう」
「その言葉で正当性であることを、どのように脈絡づけているのか」
など思いを巡らしてくれると、相手が考えてくれていると感じます。

相手のことを考えるときにも、そのようにします。相手の言葉をきちんと聞いて、出来る限り覚えていて、
「なぜ、その言葉を使っているのだろう」
「その言葉づかいで、どのような整合性を保てているか」
「その言葉の背景には何があるのだろう」など、
いろいろ考え、次に合った時などに、内容の確認をしたり、意見を述べたりするようにします。

だから、簡単に言葉を変えられると、ちょっと困ります。せっかく考えたことが無駄になるからです。そうすると、相手の言葉をいい加減に聞くようになります。言葉を考えるのではなく、気持ちや心を「忖度(想像して推し量る)」するようになります。

「忖度」そのものは悪いことではありません。相手を想像しようとする努力は、理解に近づくための大事な行為です。しかし、想像はあくまで想像です。本当に理解できているかわかりません。自分に都合の良いように解釈している場合も多いです。

さて、組織的な文脈にこの「言葉を考える」と「気持ちを忖度する」を置きます。

組織が自分たちの目指す理念を言葉で明確に提示していたとします。例えば、ある学校で「勉強においては結果よりもプロセスを重視する」というものを掲げたとします。こういう言葉がしっかりしていると、テストに臨むときの姿勢が決まります。

プロセスを重視しているなら、たんに点数を取ればよい、ということにはなりません。テストにいたるまでに、どんな勉強をしたかがポイントになります。そのプロセスがきちんと踏まれていれば、点数が多少低くても評価されます。理解がなかなか進まなく「いい点数がとれそうにない」と感じたときでも、「もうやめた」と言わずに、「とにかくやるべき勉強をやればよいのだ」と行動の指針を確認することができます。

ちゃんとした「言葉」がそこにあれば、その「言葉」を考えることで、自分がふらふらしなくて済むのです。

ところが、そういう言葉がなかったとしたらどうでしょう。勉強をしろという空気は蔓延している。でも言葉としてははっきりしていない。「点数」が大事なようだし、「プロセス」が大事なようでもある。

点数をとっても「きちんと勉強していなかった」と言われ、きちんと勉強しても「点数が低い」と言われる。そうすると、言われている方はだんだんわからなくなってくる。居心地が悪い。

そこで、相手の言葉ではなく、「気持ちを忖度」するようになる。多くの場合、相手に怒られないように振る舞うことが最優先される。都合の悪いことは隠そうとするし、気にいられそうなことを言うようになる。

そうなると、組織内の人間に、正しい情報も伝わらないし、目標に向かって明確に進むこともない。その場が収まることを言い合い、同じところをぐるぐる回る。組織としては良い状態ではないですね。

この学校の事例は、簡単に会社にも置き換えができるはずです。

明確な「言葉」がなく、「忖度」によって悲惨な結果にいたった例は多いのです。

例えば、ナチスのホロコースト。あのユダヤ人の大虐殺ですね。実は、あの決定は、ヒトラーどころかナチスの高官のいない場で決まったそうです。「ヒトラー総統ならこう考えるはずだ」と、忖度が起こったのです。

また、第二次世界大戦における日本もそうです。敗戦後の極東軍事裁判の過程で、取り調べられた政府や軍の指導者がすべて「個人的には反対だったが、周りの空気がそれを許さなかった」と言ったそうです。これも「言葉」の確認をせず、場の空気を「忖度」したことによります。

先日読んだ本では、オウム真理教の暴走にも忖度が働いていた、とありました。「尊師ならこう考えるはずだ」と部下が考え、それによりいろいろなことが勝手に動いていいた部分があるようです。

想像するという意味では「忖度」は悪いものではありません。ただ、組織が一つの方向に誤解なく進んでいくためには、明確な「言葉」が必要です。「言葉」があれば、「言葉」について言葉で考えることができるし、「言葉」を指針として、自らの行動の適否を判断することもできます。

組織を機能させるためには、「言葉を考える」部分が大切です。ある程度、それがしっかりしていないと、「顔色をうかがう」ばかりになります。




では、次の話題になります。

今回の参院選の結果、安倍政権は憲法改正に向かうと思います。今後、国会での発議がされ、その内容が決められますが、最終的には、国民投票があるので、私たちが判断することになります。

ある物事を判断するためには、それを判断するための基準がを知らねばなりません。自分の好き嫌いや、個人的な感覚で決めることもできますが、それは必ずしも適正であるとは言えません。

では、憲法改正について判断するために何を知っていなければならないのか。なによりも避けて通れないのは「憲法とはそもそも何であるのか」という点です。

憲法は法律の一番上のもの、という理解をしている人もいるようですが、ちょっと違います。刑法にしろ、民法にしろ、商法にしろ、おおくは国民が守るべき内容が書かれています。(自衛隊法とは警察法とかは違うでしょう。)

しかし憲法は違います。国家が守るべきことが書かれています。さまざまな権力を国に委託する代わりに、国にこれだけのことを守れ、
という国民からの命令書というか契約書が「憲法」なのです。(少なくとも、近代憲法とはそういうものです。)そしてそのような憲法に基づいて、国家を運営していくことを「立憲主義」と言います。(これに民主主義がセットになって「立憲民主主義」となります)。

まずは、憲法とは国家が暴走しないために国民から出された命令書だ、という点が大切です。これが改憲案などを判断するときの根本の基準になるからです。

たとえば、今回の自民党の憲法草案の「前文」は5つの文からなります。

1、日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。

2、我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。

3、日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。

4、我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

5、日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

ポイントは、3と4です。どちらの文も主語が「日本国民は」となります。つまり、日本国民の義務が憲法の前文に書かれているのです。(そして国家が守るべきことは書かれていない)

書かれている内容は悪くありません。
「国と郷土を守る」「和を尊ぶ」「家族や社会が助け合う」「美しい国土と自然環境を守る」などなど。この内容だけを見れば「悪くない。反対する方がおかしい」と言いたくなります。僕もそう思います。

でも、ちょっと待ってください。憲法とは、国民が国家に対して出す命令書のはずです。そこに国民が守るべきことが書かれているのは、建て付けとして変です。

国民が国に対して、自分たちを縛ってくれ、という要求をしていることになります。百歩譲って国民がそう考えているなら、それもありです。(僕は嫌ですが)しかしそれを提示しているのは、政権与党、本来憲法で縛られる側です。何か変な感じがしませんか?

「国と郷土を守る」とか「家族や社会が助け合う」ということは正しいし、どこかにそういうルールがあってもよい。でも、それは「憲法」に書かれるべきものではない。そう言えるためには、憲法について考えるための基準が必要です。それは「立憲主義」を理解していることです。

もっとも怖いのは、そんな基準など知らなくても、「いい感じのことが書いてあるから、自分的にはオーケーだ」とふらふらっと投票してしまうことです。いまのメディア状況ではそういう人がけっこう出そうな気がします。

何の因果か、憲法改正ということが人生の中で起こることになりました。きちんと調べ、考え、基準に照らして判断することもできます。何も知ろうとせずに感覚で自分的に判断することもできます。どちらを選ぶこともできます。どちらを選んでも、その結果は引き受けることになります。

仕事でも生活でもみんな同じです。自分で調べ、考え、判断して引き受けるか、感覚で自分的に判断して引き受けるか、そのどちらかしかありません。

では。
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