仕事場で週に1本書いている文章をちょっと手直しして、ブログにあげることにする。
みなさん、こんにちは。
さて、この一週間はどんな一週間でしたか?
きちんと計画を立て、それを意識して仕事を進めましたか?また、終わった仕事に関して、きちんと振り返り、良かった点を確認したり、改善点を見つけ出したりしましたか?
同じことを繰り返しているようでありながら、きちんと自分が成長していける、そんなサイクルを持っているのと、持っていないのでは、3年後にはきっと大きな違いが出てくるでしょう。
何も考えずに目の前のことをこなすことも、意識してよいサイクルで仕事をすることも、どちらも自分で選ぶことができます。
「この道しかない、じゃない」。
仕事に関すること
前回は、1つの出来事にたいして「複数の原因を探す」ことについて書きました。何らかの問題が起こったときには、その原因を明らかにして、原因にたいする策を立てる必要があります。
そのとき原因を1つとすれば、対策も1つになります。しかし現実には、あらゆる出来事は複数の原因から起こります。だとすれば、複数の原因を探し、それぞれに対して対策を考える必要があります。
さて、今回も「原因」という言葉に絡めて話します。「原因とは何かの結果であり、結果とは何かの原因である」という話です。期末の評価面談が行われているいまの時期には、頭の片隅に置いておくことよいかもしれません。
あらゆる出来事は「結果」であると同時に「原因」でもあります。
例えば、部署間で連携して行う仕事を考えてみましょう。
営業が顧客とやりとりをして話を決めてくる。要件の確定や、納期、金額などを決めてくる。営業にとっては、顧客からの相談が「原因」で、話を決めることが「結果」です。
ところが、営業の「結果」は、生産部にとっては「原因」となります。
営業が決めてきた話の内容に沿って、製品やサービスを作ることになるからです。つまり、営業が顧客と話をして決めた内容は、営業にとっては「結果」を生み出す行為ですが、同時にそれは生産部にとっての「原因」を作り出す行為でもあります。
営業は顧客とのやり取りで「どんな結果」を出すかを意識すると同時に、生産部にとって「どんな原因」を作り出そうとしているのか意識する必要があります。
この図式は、生産部にも当てはまります。生産部は営業が決めてきた話を「原因」にして製品などの「結果」を生みだす。しかしその「結果」は、顧客にとっては「原因」となる。依頼した製品やサービスが出来上がったところから仕事が始まるからです。
つまり生産部が作り出す製品やサービスは、自分たちには「結果」であるが、それは同時に顧客にとっての「原因」となる。そうであれば、自分たちは顧客にとっての「どんな原因」を作っているのか、意識する必要がある。
どうだろう。多くの人は、無自覚に「原因は原因」「結果は結果」と思っているのではないか。1つの出来事が「原因であると同時に結果である」とは見ていないのではないか。自分がやっていることが何かの結果でりながら、同時に原因を作り出していると感じてないのではないか。
原因を作り出せるということは、その後に続く結果に影響を及ぼさざるをえないということだ。そうなると、「とにかく間に合えばいいや」とか「やっつけで作ろう」とは思えなくなるだろう。なぜなら、それに続く結果が自分自身に戻ってくるかも知れないから。
「面談」のことを話題にしました。
「面談」はこれまでの「結果」に対する評価であると同時に、今後の「原因」を作ることでもある。結果に対する評価をきちんとすることは大切である。かりにそれが厳しい評価であっても。しかし、その評価は同時に「良い原因」としなければならない。「良い原因」とは、評価を受けたものがモチベートされるようなものだ。
自分がいま行っていることは「原因」を作り出していることだ、そう自覚すると、いつもとは違うものが見えてくるかもしれない。見えたものに対して、人は考えることも行動することもできます。
一般教養に関すること
今日は少し大きな話をします。「生活と政治」についてです。日本人はとにかく政治の話をしません。(僕も数年前まではそうでした。)話をしないだけでなく、考えることもしない。日々の生活の中でも、会社の中でも政治の話をしない。そしていつの間にか、公共の場で政治の話をすることが中立ではないと言われるような空気が広がりつつある。
それにはいろんな理由が考えられそうですが、個人的に、いま気になっているのは、「天皇陛下」の存在です。憲法では天皇が政治的な発言をすることを禁止しています。天皇は政治的なことを考えていても発言できない、つまり「言論の自由」がないということです。(ちなみに天皇には「職業選択の自由」もありません。)
そういう天皇が日本国民の象徴である。だとすると、国民のメンタリティーの深いところに、天皇においてすら自由に政治的な発言ができないのだから、国民においては当然である、という無明力が伏流しているのではないか。そんな疑問が浮かんでいます。簡単には答えが出せない問いなので、このさき、ちょっと考えてみようと思っています。
天皇の話は置きます。「生活と政治」です。
端的に言って、そろそろ「政治」のことを考えたほうがよいです。みんな。なぜか。人が生きるということは、ある環境の中で生きるということです。それは人類が生まれてこのかた、変わらない事実です。ずっと、ずっとそうしてきた。
科学技術が発展するまで、人々の生活や生命は自然環境に大きく左右されました。だから、人々は自然をよく観察して、そこにあるパターンや法則を見出しました。自然のパターンや法則と協調しなければ生きていけないからです。
現代では科学技術が発展しているので、自然環境を意識することはあまりありません。(大規模災害の時などにはっと思い出し、危機感をもち、しばらくすると忘れる、その繰り返しです。)だからといって現代の人たちは環境を意識しなくてよいか。よくない。それは危険です。人は環境とのやり取りによってしか生きていけません。その環境とのやり取りが「生活」というわけです。
では、現在、私たちが意識すべき環境とは何か。それは法制度です。人間が作った法制度です。なぜなら、私たちの行うことの是非の多くは「合法・違法」という基準ではかられているからです。昨日まで違法であった行為が、法律を変えれば今日は合法になる。多くの人たちの考えや、行動に影響を与えるはずです。
その法制度を作るのが「政治」です。つまり政治を考えるということは、自分たちの環境がどのようなものか、どのような環境を自分たちは作りたいか考えるということです。それは結局、自分の生活を考えるということにほかなりません。
どうやら、日本人は大きな転換点を何度か見逃したようです。(これもここ数年で気づいたことなので、あまり偉そうなことは言えませんし、間違っているかも知れません。これからも勉強ですね。)
最初のポイントは、「冷戦崩壊」です。ここで世界の枠組みが大きく変わった。つまり環境の変化が起こった。これをうまく捕まえられなかったせいで、世界的な動きから遅れた。
次が、「バブル崩壊」です。(この時期には、阪神淡路大震災やオウムサリン事件などもありました。)ここで日本のありようが大きく変わった。このときも、バブルをもう一度、という気持ちで、新しい世界についていけなかった。
そして、5年前の「東日本大震災」です。地震と津波という天災を前にして、自然の力を思い知らされた。原発事故という人災により、科学技術や産業のあり方が問われた。このとき、一瞬ですが、日本社会が変わりそうな雰囲気があった。でも、忘れてしまった。何もなかったかのように、以前に戻ろうとしている。(原発がベースロード電源ですよ。何かというと変な英語で国民をごまかすのはやめて欲しい。ごまかされるのをやめねばならない。)
しかし、いずれのポイントもうまく活かせなかった。世界は変わり、大きく法制度も変わりつつある。そこでできた「環境」と、その中で生きる「人」がうまくかみ合っていない。だからしわ寄せがきている。少しずつ「生活」が犠牲になっている。これからも。
たとえば「貧困問題」。現在の貧困問題は、たんなる個人の努力不足で説明できない。そのような法制度、つまり貧困を生み出す環境が人為的に作られている。(これは、日本だけでなく先進国に共通する問題です。
堤未果さんの本を読むとその一端がよくわかります。)
産業界からの要請で、提出されていた法案に「残業代ゼロ法案」というのがあります。社員に残業をさせてもお金を払わなくてもよい、という法律です。人件費がカットできるので、利益が出て、株価が上がります。大手企業からすると喉から手が出るほど欲しい法案です。
さすがに反対が多かったのですが、昨年あたり(?)に、労働基準法改正で法案が通ったはずです。「年収1千万円以上の人には残業代が……」という話です。聞くところによれば、産業界としてはいずれ「400万円」までその基準を下げたいそうです。
自分には関係ないと思うかもしれません。しかし、いま残業代をもらっている人たちの残業代がなくなることは、そのぶん仕事の単価が下がることを意味します。いままで残業代を見込んで出していた見積もりが、残業代なしに変わります。
そうなると競合もその値付けに合わせないと仕事が取れなくなります。
そもそも残業代がない会社では、給料そのものが下がるかもしれません。そうしないと会社が持たないからです。
これから先、日本の人はそういう環境で「生活」することになるかもしれません。怖いですね。で、その環境を作っているのが法制度で、その法制度を作り出すのが「政治」です。
どうですか、「生活と政治」はうまく切り分けられますか?「政治は関係ない」と言えますか?べつに政治的な活動を勧めているわけではありません。自分が「生活」している環境をきちんと理解していないと、けっきょく自分の生活が苦しくなる、そういうシンプルな事実を書いているだけです。
当然ですが、この考え方は、仕事にも当てはまります。自分が何をやっているか、だけでなく、自分が仕事をする環境についてきちんと把握していることが、仕事をスムーズに進めるためにも必要なのです。
みなさん、こんにちは。
さて、この一週間はどんな一週間でしたか?
きちんと計画を立て、それを意識して仕事を進めましたか?また、終わった仕事に関して、きちんと振り返り、良かった点を確認したり、改善点を見つけ出したりしましたか?
同じことを繰り返しているようでありながら、きちんと自分が成長していける、そんなサイクルを持っているのと、持っていないのでは、3年後にはきっと大きな違いが出てくるでしょう。
何も考えずに目の前のことをこなすことも、意識してよいサイクルで仕事をすることも、どちらも自分で選ぶことができます。
「この道しかない、じゃない」。
仕事に関すること
前回は、1つの出来事にたいして「複数の原因を探す」ことについて書きました。何らかの問題が起こったときには、その原因を明らかにして、原因にたいする策を立てる必要があります。
そのとき原因を1つとすれば、対策も1つになります。しかし現実には、あらゆる出来事は複数の原因から起こります。だとすれば、複数の原因を探し、それぞれに対して対策を考える必要があります。
さて、今回も「原因」という言葉に絡めて話します。「原因とは何かの結果であり、結果とは何かの原因である」という話です。期末の評価面談が行われているいまの時期には、頭の片隅に置いておくことよいかもしれません。
あらゆる出来事は「結果」であると同時に「原因」でもあります。
例えば、部署間で連携して行う仕事を考えてみましょう。
営業が顧客とやりとりをして話を決めてくる。要件の確定や、納期、金額などを決めてくる。営業にとっては、顧客からの相談が「原因」で、話を決めることが「結果」です。
ところが、営業の「結果」は、生産部にとっては「原因」となります。
営業が決めてきた話の内容に沿って、製品やサービスを作ることになるからです。つまり、営業が顧客と話をして決めた内容は、営業にとっては「結果」を生み出す行為ですが、同時にそれは生産部にとっての「原因」を作り出す行為でもあります。
営業は顧客とのやり取りで「どんな結果」を出すかを意識すると同時に、生産部にとって「どんな原因」を作り出そうとしているのか意識する必要があります。
この図式は、生産部にも当てはまります。生産部は営業が決めてきた話を「原因」にして製品などの「結果」を生みだす。しかしその「結果」は、顧客にとっては「原因」となる。依頼した製品やサービスが出来上がったところから仕事が始まるからです。
つまり生産部が作り出す製品やサービスは、自分たちには「結果」であるが、それは同時に顧客にとっての「原因」となる。そうであれば、自分たちは顧客にとっての「どんな原因」を作っているのか、意識する必要がある。
どうだろう。多くの人は、無自覚に「原因は原因」「結果は結果」と思っているのではないか。1つの出来事が「原因であると同時に結果である」とは見ていないのではないか。自分がやっていることが何かの結果でりながら、同時に原因を作り出していると感じてないのではないか。
原因を作り出せるということは、その後に続く結果に影響を及ぼさざるをえないということだ。そうなると、「とにかく間に合えばいいや」とか「やっつけで作ろう」とは思えなくなるだろう。なぜなら、それに続く結果が自分自身に戻ってくるかも知れないから。
「面談」のことを話題にしました。
「面談」はこれまでの「結果」に対する評価であると同時に、今後の「原因」を作ることでもある。結果に対する評価をきちんとすることは大切である。かりにそれが厳しい評価であっても。しかし、その評価は同時に「良い原因」としなければならない。「良い原因」とは、評価を受けたものがモチベートされるようなものだ。
自分がいま行っていることは「原因」を作り出していることだ、そう自覚すると、いつもとは違うものが見えてくるかもしれない。見えたものに対して、人は考えることも行動することもできます。
一般教養に関すること
今日は少し大きな話をします。「生活と政治」についてです。日本人はとにかく政治の話をしません。(僕も数年前まではそうでした。)話をしないだけでなく、考えることもしない。日々の生活の中でも、会社の中でも政治の話をしない。そしていつの間にか、公共の場で政治の話をすることが中立ではないと言われるような空気が広がりつつある。
それにはいろんな理由が考えられそうですが、個人的に、いま気になっているのは、「天皇陛下」の存在です。憲法では天皇が政治的な発言をすることを禁止しています。天皇は政治的なことを考えていても発言できない、つまり「言論の自由」がないということです。(ちなみに天皇には「職業選択の自由」もありません。)
そういう天皇が日本国民の象徴である。だとすると、国民のメンタリティーの深いところに、天皇においてすら自由に政治的な発言ができないのだから、国民においては当然である、という無明力が伏流しているのではないか。そんな疑問が浮かんでいます。簡単には答えが出せない問いなので、このさき、ちょっと考えてみようと思っています。
天皇の話は置きます。「生活と政治」です。
端的に言って、そろそろ「政治」のことを考えたほうがよいです。みんな。なぜか。人が生きるということは、ある環境の中で生きるということです。それは人類が生まれてこのかた、変わらない事実です。ずっと、ずっとそうしてきた。
科学技術が発展するまで、人々の生活や生命は自然環境に大きく左右されました。だから、人々は自然をよく観察して、そこにあるパターンや法則を見出しました。自然のパターンや法則と協調しなければ生きていけないからです。
現代では科学技術が発展しているので、自然環境を意識することはあまりありません。(大規模災害の時などにはっと思い出し、危機感をもち、しばらくすると忘れる、その繰り返しです。)だからといって現代の人たちは環境を意識しなくてよいか。よくない。それは危険です。人は環境とのやり取りによってしか生きていけません。その環境とのやり取りが「生活」というわけです。
では、現在、私たちが意識すべき環境とは何か。それは法制度です。人間が作った法制度です。なぜなら、私たちの行うことの是非の多くは「合法・違法」という基準ではかられているからです。昨日まで違法であった行為が、法律を変えれば今日は合法になる。多くの人たちの考えや、行動に影響を与えるはずです。
その法制度を作るのが「政治」です。つまり政治を考えるということは、自分たちの環境がどのようなものか、どのような環境を自分たちは作りたいか考えるということです。それは結局、自分の生活を考えるということにほかなりません。
どうやら、日本人は大きな転換点を何度か見逃したようです。(これもここ数年で気づいたことなので、あまり偉そうなことは言えませんし、間違っているかも知れません。これからも勉強ですね。)
最初のポイントは、「冷戦崩壊」です。ここで世界の枠組みが大きく変わった。つまり環境の変化が起こった。これをうまく捕まえられなかったせいで、世界的な動きから遅れた。
次が、「バブル崩壊」です。(この時期には、阪神淡路大震災やオウムサリン事件などもありました。)ここで日本のありようが大きく変わった。このときも、バブルをもう一度、という気持ちで、新しい世界についていけなかった。
そして、5年前の「東日本大震災」です。地震と津波という天災を前にして、自然の力を思い知らされた。原発事故という人災により、科学技術や産業のあり方が問われた。このとき、一瞬ですが、日本社会が変わりそうな雰囲気があった。でも、忘れてしまった。何もなかったかのように、以前に戻ろうとしている。(原発がベースロード電源ですよ。何かというと変な英語で国民をごまかすのはやめて欲しい。ごまかされるのをやめねばならない。)
しかし、いずれのポイントもうまく活かせなかった。世界は変わり、大きく法制度も変わりつつある。そこでできた「環境」と、その中で生きる「人」がうまくかみ合っていない。だからしわ寄せがきている。少しずつ「生活」が犠牲になっている。これからも。
たとえば「貧困問題」。現在の貧困問題は、たんなる個人の努力不足で説明できない。そのような法制度、つまり貧困を生み出す環境が人為的に作られている。(これは、日本だけでなく先進国に共通する問題です。
堤未果さんの本を読むとその一端がよくわかります。)
産業界からの要請で、提出されていた法案に「残業代ゼロ法案」というのがあります。社員に残業をさせてもお金を払わなくてもよい、という法律です。人件費がカットできるので、利益が出て、株価が上がります。大手企業からすると喉から手が出るほど欲しい法案です。
さすがに反対が多かったのですが、昨年あたり(?)に、労働基準法改正で法案が通ったはずです。「年収1千万円以上の人には残業代が……」という話です。聞くところによれば、産業界としてはいずれ「400万円」までその基準を下げたいそうです。
自分には関係ないと思うかもしれません。しかし、いま残業代をもらっている人たちの残業代がなくなることは、そのぶん仕事の単価が下がることを意味します。いままで残業代を見込んで出していた見積もりが、残業代なしに変わります。
そうなると競合もその値付けに合わせないと仕事が取れなくなります。
そもそも残業代がない会社では、給料そのものが下がるかもしれません。そうしないと会社が持たないからです。
これから先、日本の人はそういう環境で「生活」することになるかもしれません。怖いですね。で、その環境を作っているのが法制度で、その法制度を作り出すのが「政治」です。
どうですか、「生活と政治」はうまく切り分けられますか?「政治は関係ない」と言えますか?べつに政治的な活動を勧めているわけではありません。自分が「生活」している環境をきちんと理解していないと、けっきょく自分の生活が苦しくなる、そういうシンプルな事実を書いているだけです。
当然ですが、この考え方は、仕事にも当てはまります。自分が何をやっているか、だけでなく、自分が仕事をする環境についてきちんと把握していることが、仕事をスムーズに進めるためにも必要なのです。