とんびの視点

まとはづれなことばかり

1月30日(水)のつぶやき

2013年01月31日 | 雑文

今朝は6kmほどランニング。マラソンの疲労があるだろとう思っていたが、案外、楽に走れた。フォームを意識してレースを走ったせいで、よいフォームになっている。荒川の土手はまだ冬の景色。それでも太陽の力は少しずつ強くなっている。2ヶ月後にはその荒川でフルマラソン。


結局、今月の走行距離は207km。目標達成。



館山若潮マラソン2013

2013年01月28日 | 雑文
日曜日、館山の若潮マラソンを走った。タイムは3時間51分。不安だったヒザもほぼ問題なし。何とかランナーとして今後も続けていくことが出来そうだ。いずれ年老い、過去を思い出すための材料としてメモ程度に記録を残しておく。(このように書いて、26日(土)から時系列に書いたのだが、だらだらと六千字ちかく書いてしまったので、27日(日)の分を前半に移動した。大学生のころ、発表時に教授から「手短に」と言われたことがあった。相変わらず成長していないのだ)。

1月27日(日)
夜中に何度か目を覚まし、6時の目覚ましで布団から出る。昨夜は早くから布団に入っていたので、体の疲れはほとんどない。これほど疲れがなく走れるレースも久しぶりかもしれない。庭に出てみる。冷えてはいるが、昨日ほどの風はない。

朝食に赤飯をしっかり食べる。そして熱いシャワーを浴びる。子どもたちが早速、庭掃除を始める。物置から鎌やノコギリや剪定ばさみなどを持ち出して、いろいろやりはじめる。いろいろ質問されるし、危なっかしいので、ランニングウェアで冷たい風の中つき合うことになる。

9時前に車で会場に向かう。コースを35km地点からゴールに向かって車で走る。数時間後、僕はここを走っているはずだ。ヒザは大丈夫だろうか。会場に近づくにつれ、ランナーたちの姿が多くなる。左手には真っ白な富士山が大きく見える。天気は悪くない。風も少しずつ弱まっているようだ。

ジャスコの駐車場で車を降り、会場へ歩く。家族は戻り、庭掃除を続ける。会場には去年以上の人がいるようだ。参加人数が増えたのでスタートラインにはタイムごとに整列する、とスピーカーからのアナウンスが流れる。

荷物を預けるまでに時間があるので、販売ブースを冷やかす。何も買うつもりがなかったが、アディゼロの28㎝が1足だけあるので購入する。300円で荷物を預け、スタートラインに並ぶ。3時間30分~4時間のブロックだ。風を避けるため、人垣の内側に入る。

スタートまで10分。僕はこの時間が割りと好きだ。空を眺めたり、体をほぐしたりしながら、レース中に気をつけねばならないことを、自分に言い聞かせたりする。ヒザが痛み出したらフォームを修正する、というのが今回、1番の注意点だ。

ヒザが痛くなるのが原因で、上手く走れないのが結果。ついついそう考えてしまうが、実際は、ヒザの痛みは結果で、その原因はフォームの崩れだ。フォームのゆがみをヒザで吸収するから、そこが痛み出す。問題は長い距離を走っていて、ヒザが痛くなったときに、そのことを「言葉で思い出すことが出来るか」ということだ。30kmも走っていれば疲れてもくる。疲れたときには頭も働かないし、疲れるくらい走ればヒザも痛くなる、と思ってしまう。

体をほぐし、青空を見上げながら、言い聞かせる。とにかく楽しんで走ろう。時計を見るのではなく、自分の身体と対話をする時間にしよう。上手くすれば、ヒザを悪化させず4時間程度で走れる。

午前10時スタート。スタートラインを跨ぐのに2分ほどかかる。ゆるゆるとジョギングの感じで走る。いつもなら縫うように人を抜かし、1kmごとに時計をちらちらと見る。今回は違う。最初の5kmほどは静かな呼吸のまま、フォームを意識して走る。骨盤を上手く稼働させることだ。

風がほぼ収まったようだ。寒いどころか汗をかきはじめている。半袖ウィンドブレーカーを脱いで、左手に結びつける。ちょうど腕時計の上だ。これで時計は見えなくなった。それにしても参加者が増えているようだ。去年の1.5倍くらいの人口密度を感じる。

海沿いの平坦な道を4kmほど走り自衛隊の基地前を右折。数百m進み折り返す。自衛隊の応援がロッキーのテーマを流して旗を振っている。基地内に参加者がいるのだ。このあたりからゆるいアップダウンが9kmくらい続く。車で走っていれば気にならない程度の坂だが、自分の脚で走るとなると違う。最初は大丈夫でもいずれボディーブローのように効いてくる。(ボディーブローは喰らったことがないけど)。

8km地点辺りで相方と子どもたちがランナーの行列を見ている。僕を探しているのだろう。これだけの人数から人を探し出すのは大変だ。あっという間に目の前を通りすぎてしまう。おまけに目印の蛍光イエローのウィンドブレーカーは既に腕に巻いている。僕の方が列を外れ、子どもたちのところに行き、ハイタッチをして走りすぎる。

いつものように、10kmを過ぎた辺りから周りが「しーん」とし始める。ランナーも自分の世界に入りはじめるし、人家が減るというのもある。規則的な足音だけが響く。そして内房から外房に出る洲崎辺りはアップが少し厳しくなる。いつもならここで抜きに行く。しかし今回は自分を押しとどめる。まだまだ、力を使うのはまだ早い。ヒザだってどうなるか分からない。32kmを過ぎて余裕があればそこから力を使えばよい。

外房に出る。内房から外房に出たときには、いつも「別世界」を感じる。道が少し広くなること、日陰から日なたに出ること、海の表情が変わること、そんなこともあるが、やはり心のどこかで、コース上の一区切りとして考えているのだろう。22km地点まではフラットで直線のフラワーライン、最も走りやすい部分だ。

そうは言うものの、脱落者が出はじめるのもこの辺りからだ。15kmも過ぎると、足を引きずったり、立ち止まったりする人たちがちらほらと出てくる。おそらくペース配分の失敗だろう。しかしのこり25km以上残して崩れるのは辛い。想像もしたくない。

17km地点が近くなると、ヒザに違和感が出てくる。少し痛みがある。17kmというのは今回のレースに備えた練習ではほぼ最強距離だ。やはりこの辺りがヒザの限界かもしれない。それにアップダウンも多かったし。リタイアも想定しよう。などと合理的に考え出し、はっと気づく。いやいや、フォームを修正しよう。首を回し、肩の力を抜き、背中を柔らかくし、落ちぎみだった重心を上げる。そして骨盤を中心に脚全体が動くようにする。少しだけスピードが上がる。それと同時に、ヒザの痛みもなくなる。悪くない。

何とかヒザに負担がかからないフォームが固まったようだ。19km、20kmと1人、また1人とわずかながら人を抜いていくペースとなる。(もちろん抜かれることもある)。ハーフの地点が目前となる。タイムの表示がコース左側にあったはずだ。せっかくタイムを見ないでここまで来たのだ。目を下に落し、地面を見るようにして通り過ぎた。(いったい、どのくらいのペースで走っているのだろう)。

若潮マラソンはハーフを過ぎてからレースが始まる。ここまでに体力を使いきったり、呼吸が乱れていたりすれば、普通は後半もたない。(たまにすごく粗い呼吸で最後まで走りきる人もいるが)。22kmから32kmまではアップダウンが続く、海を離れた田畑や林の中のコースになる。とくに25kmを過ぎてからはきつい。前回は3時間半を目指したが、26km地点でヒザが痛み出しレースをあきらめた。

長いアップダウン(基本的には上り)が続く。しかし走りは悪くない。基本的には人を抜きながら坂を上る。もっとスピードを上げたくなるが、32km以降を考えて自分を抑える。コース横には田植えを持つ土の田んぼや、ちょっとした菜の花の花壇があったりする。地元の人たちが自分の家の前でランナーを応援してくれる。

坂道で少しずつフォームが崩れているのだろう。時折、ヒザに違和感がある。それでもすぐに修正し、かえってペースが上がる。26km地点でレースと体がぴったりとした感じになる。走っていることが楽しくなってくる。前回、レースをあきらめた地点だ。これなら30km前後のコース最大のアップダウンも乗り切れるだろう。

難なくアップダウンをやり過ごし、再び海沿いのコースに戻る。毎年、もっとも苦しむのがここだ。ほぼ6km程度のゆるい上りが続く。どうしてもスピードダウンしてしまう。さて、今年は余力があるようだ。ゆるい上り坂が毎年のような上りに感じられない。スピードを落すことなく走っていられる。全身のバネを使って走れているし、息も上がっていない。少しずつだが、人を抜きながら走る。

1km、また1kmと距離が減っていく。37kmを過ぎた辺りで、僕の横を我が家の車が走っていく。宿を引き上げて、僕と合流するためにゴール地点に行くのだろう。家族は僕には気付かない。車はのろのろ走っているので、スピードを上げて追いかける。もう少し、というところで車は前に行く。そんなことを何度か繰り返し、結局、車は行ってしまう。

そのせいでスピードが少し上がり、いつの間にか上りも終わる。自衛隊の敷地を左折し、平坦な海岸沿いのコースに出る。残りはあと4kmほどだ。脚は生きている。スピードそのものは出せる。ただ、いささか疲れてきた。スタミナが心配だ。少しずつスピードを上げる。そして人を抜いていく。

ゴール近くになってスピードを上げるレースは久しぶりだ。そういえば昔はこんなレースばかりだった。とくにタイムを気にすることなく、無理をせず体にまかせて走った。タイムはパッとしなくても、後半になってもスピードが落ちず、結果的には周りのランナーを抜くことになった。でも、いつのころからかきつめのタイムに合わせて走るようになり、レース終盤で失速するということが多くなった。

自分がどのくらいのタイムで走っているのか分からない。タイムが分からないから、遅れを気にする必要もない。体の声を聞いて、残りの距離を意識しながら、その時もっともよいパフォーマンスをすればよいのだ。残り3km。まだスパートには早い。我慢する。道端で地元の人や、スタッフ、すでに走り終わったランナーが大きな声で応援してくれる。ありがたい。

残り2km。そろそろスピードを上げてもゴールまで持つ。少しずつスピードを上げる。地面を蹴る足の裏の衝撃が骨盤を通して背筋にまで伝わるのがわかる。全身のバネが残っている。ヒザの痛みも全くない。心肺機能も大丈夫だ。小さな子どもが「がんばってー」と言いながら手を伸ばす。その掌にタッチをしながら「ありがとう」と笑顔で応える。すごく元気が出る。あっという間に1kmが過ぎる。

残り1kmだ。コース脇の応援が増える。少しずつスピードを上げる。残り500m。あと少しだ。会場手前の橋を渡る。最後の撮影ポイントを無視してそのまま走る。コースを左折して会場に入る。ちょっと砂地がある。ゴール上の掲示板を見ると3時間53分。コース右側を思いきり走り、ゴールをくぐる。

どうやら満点の走りが出来たようだ。時計を見ず、体と対話をしながら、楽しく走る。ヒザが痛まなければ4時間を切れる。すべてが上手くいった。本心を言えば、今回のフルマラソンでヒザが悪化するようなら、ランニングとのつき合い方を変えねばならないかと思っていた。どうやら、しばらくは走り続けることが出来そうだ。

しゃがみ込んでシューズのチップを外そうとするが、脚が痙攣しそうになる。やれやれ、と苦笑いする。苦しくはなかったが、それなりに疲労が溜まっているようだ。42kmも走ったのだから、当然かもしれない。もう一度、気持ちを集中して、慎重にしゃがみ込む。そしてシューズからチップを外す。立ち上がろうとするが筋肉痛がひどい。そんな筋肉痛も懐かしい。

去年のこのレースでヒザを悪化させてから1年。何とか再び戻ってこれたようだ。去年のようにレース後に豚汁を食べる。七味をたっぷりかけ、2杯ほど食べる。相方と子どもたちも一緒だ。風はまったくない。穏やかな晴天だ。来年もまたきっと、このコースを走り、豚汁を食べることだろう。今から楽しみだ。


1月26日(土)
前夜は仕事上の新年会。まったく準備が出来てない。相方、子どもたちと一緒に、午前中は一泊分の仕度をする。昼に出発。首都高からアクアラインに抜ける。海ほたるを過ぎ、海に出ると強風が吹いている。車が風で流される。海面には白い波が立っている。やれやれ、明日もこんな強風なのだろうか。

富楽里PAでトイレ休憩。ついでに買い物。長男は友だちに「サメの歯のキーホルダー」を買う。高速を降り、道楽園で再び買い物。みりん干し、イカの塩辛、お土産などを買う。午後3時からのゼッケン引き換えまでに時間があるので、園芸品などを扱っている大型店に向かう。風が強く、鳥たちも思うように飛べていない。

大型店ではスコップを買う。2週間前、都内で大雪が降り雪かきに難儀した。後日、スコップを買いに行ったが売りきれだったので、館山で買おうと思っていたのだ。長男はこの手の店が大好きだ。鎌や斧や大きな剪定ばさみなどを見ては「かっちょいい~」を連呼していた。大きめのドライバー程度の雑草抜きを買い与えたら、喜んでいた。

南総文化ホールで参加ハガキとゼッケン・チップの交換。「頑張って下さい」とスタッフに声を掛けられる。相方はヒザが治らず、交換したチップをその場で参加賞のタオルと交換する。ホール内にランニング用品の販売ブースがいくつか出ている。予想以上の寒さなので、ロングスパッツと薄手の半袖ウィンドブレーカーを買う。(いままでこういうブースは利用したことがなかったが、けっこう安い値段で買える)。

アディゼロが並んでいたので、ついでに買おうと思ったら、サイズが27.5㎝までしか用意していなとのことだった。僕はランニングをするまでは26.5㎝くらいだったが、走るにつれてどんどん大きくなり、今では28㎝か28.5㎝の靴を履いている。ランニングで大きくなった足だが、そのサイズがマラソン大会のブースで手に入らなくなったわけだ。

ホールを出ると日は西に傾き、少しずつ冷え込んでくる。風が収まる気配はない。翌日の朝食と家族の昼食を買うためにジャスコに行く。子どもたちがお腹が空いた、回転寿司が食べたい、と言いはじめる。以前はジャスコにあったのだが、今はない。道を戻りスシローに行く。回転寿司も中で人が握っていればまだよいが、タッチパネルで注文するあのシステムはどうもいただけない。エサを貰う家畜になったような気がする。

それでもお腹いっぱい食べて、宿へと向かう。宿といっても知り合いのセカンドハウスだ。夏には海水浴、冬にはマラソンと毎年、使わせてもらっている。海からも100メートル、マラソンコースとも接している処にある民家だ。到着するとすでに真っ暗だ。強風で庭の木は揺れ、雨戸もバタバタ音を立てている。

暗闇の中、懐中電灯を手に夏みかんの樹を見にいく。毎年、マラソンに合わせて収穫している。去年は100個以上なっていた。今年はひどいと聞いていたが、わずかに5個しかない。柚子も小さいのがたった4つだ。懐中電灯でいくら照らしても数は増えない。風で体が冷えるので、家に戻ることにする。空には立派なオリオン座が輝いていた。




1月27日(日)のつぶやき

2013年01月28日 | 雑文

館山、外も明るくなる。風が吹き、雨戸をゆらす。これから朝食。赤飯をたっぷり食べる。


若潮マラソン。これから荷物を預け、10時からスタート。楽しもう。


マラソン、ゴール。レース中、一度も時計を見ない。体にあわせて走った。おかげで、苦しくないレースだった。タイムは3時間51分。膝も何とか耐えてくれた。



大寒、マラソン、除染

2013年01月21日 | 雑文

とにかく忙しい。本来なら週末のマラソンに備えて、ゆっくりと体を休めておきたいのだがそうも行かない。去年なら忙しいのを理由にブログを書かなかった。今年は違う。忙しくてもきちんと書くつもりだ。(「きちんと」は余計かもしれないし、どこまで続くか怪しい)。

気がつけば昨日から「大寒」だ。二十四節気では最後にあたる。大寒が終われば次は2月4日の「立春」。暦の上では冬の最後というわけだ。七十二候では25日までは大寒の初候「蕗の薹華さく(ふきのとうはなさく)」にあたる。蕗の薹と言えば春の季語だ。大寒の初候に春を思わせる言葉が入っているあたりがよい。

館山若潮マラソンまで一週間を切った。今月はここまで159km走った。あとはレースで42km走れば、月間目標の200kmを達成できる。そういうわけでレースまではヒザや腰の痛みをケアし、睡眠をたっぷりとって体を休めることにする。あとは当日の体調と天気次第だ。今のところ晴れときどき曇りの予報で気温は低め、あとは風が吹くかどうかだ。

このところ東京新聞では「除染」絡みのニュースが多い。現場の作業員が給与面で騙されていたり、放射線量の管理が杜撰だったりだ。「放射能」ということを抜きすれば、そこで起こっているのは、とくに珍しいことではない。末端の弱者を食い物にして自分の利益を追求するという、想像力の欠如した人間が闊歩しているだけだ。いつの時代にも行なわれていた。

ありがちな話しだからといって、それを認めてしまうわけには行かない。(現状を受け入れること、それを追認することは別のことだ)。一つには想像力が豊かな人たちが(自分以外の人間の痛みを感じられる人たちだ)多い社会の方がよいと僕が思っているからだし、もう一つは、想像力豊かな慎重さが放射能の扱いには必須だからだ。ちょっとくらいゴミの分別をいいかげんにしても構わない、というような感覚の人間は放射能と関わることはできない。

19日の新聞には、「除染を適当にやれ」と言われた作業員の苦悩の声があった。現場の責任者が、「除染のために集めた枯れ葉を川に流せ」と指示したのだ。また年末が近づくと、「工期に間に合わないので、丁寧にやるな」と言われた人もいる。現場の班長も上位の下請け会社から指示されていたそうだ。作業員は「役立ちたいと誇りを持って仕事をしていた。手抜きを指示され、やる気がなくなっていった」と語った。

「福島の復興なくして、日本の復興はない」そうだ。福島でこんなやり方が横行しているとすれば、日本の復興もきっと張りぼてだろう。張りぼての復興はすぐに危機を迎える。危機を理由にまた拙速な対策をする。また張りぼてを作る。そんなサイクル(輪廻だよ)に陥らないように、どこかで踏みとどまらねばならない。原発事故というのは、その重大さゆえ、立ち止まり考え直すための大義名分になりえたのに、ある種の人たちは過去の出来事として忘れ去ろうとしている。

「除染」については、正直、よく分からないところがある。例えば、除染に莫大なお金を使うよりも、被災者の補償に資金を回した方がよいのではないか、ということ。チェルノブイリでは除染はそれほど有効ではなかった、ということ。一説には、除染そのものが巨大な利権になっているらしい。「利権」という言葉がうさんくさければ「ビジネス」と言ってもよい。ビジネスであれば、何よりも利益の追求が第一だ。被災者の心情や除染の有効性も金もうけという天秤で量られることになる。

しかし、除染の効果がなかったときどうするのだろう、と気になっていた。さすがにビジネスとしても問題があるのではないか。すると、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言 脱原発論』に答えらしきものが載っていた。(本の出版からも、雑誌掲載ともタイムラグがあるので状況が変わっている可能性もある)

政府は「平成25年8月末(発表時から2年後?)に被曝線量を半減する」と決定したらしい。(これが目標に当たるのだろう)。当時、地面を汚染している放射性物質のほとんどはセシウム134とセシウム137。この2種から出ている線量の比率は、7対3、134が7割、137が3割だ。そしてセシウム134は半減期が2年、セシウム137は半減期が30年。

つまり、除染をしなくてもセシウム134は2年で半分になる。放射性物質全体だと6割程度まで減少する。1割程度の未達であれば、「努力したが及ばなかった」と言える。国民は気にかけないだろうと思っているのだろう。2030年の原発比率をどうするか国民に意見を聞いておきながら、30年代末と言い換え、それすらもなし崩しにしてしまうような人たちなのだ。(結果的にそういう人たちを政権与党に選んだ国民)。除染の1割程度、何とでもなると思っているのだろう。

繰り返すが、「福島の復興なくして、日本の復興はない」というときの、福島の復興というのはこういうことなのだろうか。やれやれ、である。そういう形で頭を使うことは可能だ。でもそれは想像力とはまったく違うものだ。原発について考えることを止められないのは、一つにはまだそれが終わっていないからだ。もう一つには原発というフィルターを通して社会を見ていくと、いままで曖昧にされていたものがはっきりと見えてくるからである。

1月18日(金)のつぶやき

2013年01月19日 | 雑文

先日、東京新聞で、南相馬市では原発事故の非難に伴う市民の関連死は昨年末までに376人、という記事を読んだ。なるほど原発事故で直接的に死んだ人はいなかった。しかしその影響はじわじわと出ている。そういえば「ただちに影響はない」という言ってたなぁ。


昼休みに17キロほど荒川の土手でランニング。冷たい北風がずっと強く吹き続ける。厳しい、厳しい。走りながら、思わず「よっしゃ」と気合い。そばを歩いていた老人が驚く。人がいる事に気づけないくらいやられていたのだ。



雪かき

2013年01月18日 | 雑文
僕の仕事場であるロフトから見える向かいの屋根には、まだ雪が残っており、太陽の光を浴びて白く輝いている。集合住宅から戸建てに引っ越していろいろ変わったが、「雪かき」というのもその一つだ。自宅前に積もった雪をすべて取り除くだけでなく、凍ってしまった部分には風呂の残り湯をかけて溶かしたりする。単純な性格なので、結果が目に見えるわかりやすい作業は嫌いではない。ついつい向かいや、隣の家の前の雪もどけたりした。(どうやら子どもたちにも単純な性格は遺伝しているようだ)。

雪の降った翌日、火曜日の朝、いつものように駅に向かって歩いた。会社勤めの人間、保育園に親子、高校生たち、みんな凍った雪を避けるように、おっかなびっくり歩いていく。きちんと雪かきをしてあるところもあるし、雪がそのまま残って凍っているところもある。雪かきをしてあるのは個人営業の商店とか個人宅の前、雪が残っているのは駐車場や集合住宅や公共スペースの前などが多かった。

僕はゴアテックスのハイカットのハイキングシューズを履き、滑らないように、凍っていない雪の上や、みぞれ状になっているところを選んで歩いた。駅への途中、歩道の段差を降りて、狭い車道を渡り、反対側の歩道の段差を上る場所がある。歩道部分はURの敷地に接していて、誰も除雪をしていない。見事に雪が残り、凍りはじめている。(おまけにそこは、ほとんど日が当たらない)。

歩道から車道に降りる部分は、道がくぼんでいた。不思議なことに、その部分だけは太陽が当たっているので、くぼみは溶けかけのかき氷みたいになっている。僕の靴でもそのまま踏み込んだら、靴の中まで濡れてしまうだろう。くぼみの向こうの車道には雪がないので、気をつけてくぼみを飛び越える。

すると向かいの歩道から、子どもを胸に抱いた若い母親がやって来る。残雪の上の歩きやすい場所を慎重に選びながら、小股で、神経質そうに歩いている。子どもは母親の服にすっぽり入っている。半年から1歳くらいの感じだ。左手で身体、右手で頭をかばうようにしている。(転んだときに頭を打たないよう守っているようだ)。心配になり、思わず足を止めてしまう。

母親は歩道から車道に降りる。そして短い横断歩道を渡り、くぼみの前に立つ。くぼみの幅は50センチ程度だ。大股で歩けば、あるいはちょっとジャンプすれば、簡単にわたれる。しかし向かいの歩道にはたっぷりと雪が残っている。凍ってつるつるしている場所もある。くぼみは溶けかけのかき氷だ。ちょっと足を出しかけては止まる。迷っている。

なんか手助けをしようかと思うが、やれることといったら、僕がくぼみに脚を突っ込んで赤ん坊を運ぶくらいだ。残念ながら僕より先にそれをやるべき人がいる。そう思っていたら、母親は覚悟を決めてくぼみに足を踏み込んだ。しっかりした足取りだった。雪の上を神経質に歩くときよりも堂々としていた。おそらく靴の中にも冷たい水が入ってきただろう。それでも歩道に渡り終わったとき、母親の顔には安堵の表情が浮かんでいた。

そこから駅まで、雪かきについて考えながら歩いた。雪が降り、道路に積もる。誰も雪をどけない。氷のようになる。何日も何日も残る。それはどんな社会だろう。まともに歩けない、ケガをする。いろいろ不自由なはずだ。自分の家の前とはいえ、家の持ち主に除雪の義務があるわけではない。そこは公共の道路だ。

世の中には自分の仕事でもなく、他人の仕事でもなく、でも、誰かがそれをやらなければみんなが困ってしまうような種類の仕事がある。「雪かき」というのはそういうものだ。あるいはこの世の中の大事な仕事というのは、そういうものかもしれない。つねに「私」と「あなた」の中間につねに存在している「私のもの」でも「あなたのもの」でもない仕事。

でも見方によっては、「そういう仕事」はどちらにとっても邪魔な障害物かもしれない。それがなくならない限り、障害物は私とあなたを不自由にし、余裕をなくさせ、断絶させるものになる。でも、その仕事がなされれば、私とあなたを断絶させる障害物はなくなる。どちらのものでもない仕事をすることで、お互いが繋がることになる。「雪かき」により、見知らぬ人が自分の家の前を楽に歩くように。

東京ではめったにない大雪だった。大雪により「雪かき」という仕事ができた。それは一つの面倒事かもしれない。でも、ばらばらなものをつなぐ機会が与えられたとも言える。この社会には問題が山積している。めったにない大雪が毎日続いているような状態だ。日々暮らしていくには、不自由で、危うい状態かもしれない。私の仕事でもなく、あなたの仕事でもない、でも誰かがやらねばみんなが困ってしまう仕事が山積している。スコップを手にして、自分の前の雪を少しずつどかしていこう。暖かい春の太陽がやって来るまで。

1月16日(水)のつぶやき

2013年01月17日 | 雑文

先日、ラジオで「30歳成人式」という言葉を耳にした。29歳までの子どもが増える。究極の少子化対策?などと妄想。


今朝は寝不足と寒さでランニングをサボる。睡眠不足で体調を崩してはいけない。道には氷が残って危ない。などなど、サボりたいときほどそれらしい理由をつけるものだ。