とんびの視点

まとはづれなことばかり

春分の日が過ぎた

2021年03月21日 | 猫のこと
春分の日を過ぎた。
太陽が出ている時間のほうが長くなったわけだ。
世の中がコロナで騒いでいても、太陽は変わることなく昇り、沈む。

自然の法則を変えることはできない。
だから人間は、自然に合わせて生きることになる。
だが、人間が行うことは変えることができる。
目的に照らし、きちんと思考して。

緊急事態宣言が解除に「なった」そうだ。
いやいや、宣言も解除も人間が行うのだから、解除に「なった」ではない。
解除「した」のだ。

何を目的として、何を思考したのだろうか?
この辺りが何が何だかわけがわからない。
病床使用率が下がったから、というのが最も合理的な理由だが、何か響かない。
実際、感染者数は東京では微増しているし、変異株の問題もある。

緊急事態宣言を続けても感染者数は増加するのは見えている。
だったら緊急事態宣言を解除した方がよい。
解除したから増加したという言い訳ができる。
ジャーナリストの神保さんが永田町周辺で取材して聞いた話だそうだ。

春分の日が過ぎたように、緊急事態宣言が解除される。
何というのか、特にそれに対して何かをする必要が感じられない、自然なことのように。
とはいえ、春分の日が過ぎ、日が長くなり、暖かくなり、桜が咲けば、人々は活動的になる。
ごくごく自然に当たり前のこととして。
同じように、緊急事態宣言が解除されると、人々は春の気分で活動するのだろう。
そして感染者が再び増える。オリンピックとかどうするつものなのだろう。

緊急事態宣言を解除しても、それほど感染者が増えない。
ワクチンが増産されて、早く多くの国民に摂取できて、効果が出てくる。
変異株もそれほど広がらず、毒性も対して強くない(出来れば弱毒化される)。
そしてゴールデンウィークにはGoToで経済も回復する。
海外の観客の代わりに日本の観客がスタジアムを埋めるオリンピック。
そして衆院選で議席を確保できる。
そんなことを期待しているのかも知れない。

少なくとも、最悪の事態を想定して、その事態に戦略的に取り組むことはしてなさそうだ。
起こって欲しいことをつねに期待して裏切られ、目の前のトラブルに取り組まざるをえない。

コロナ社会になり1年以上が過ぎた。コロナが日常化してしまった。
非常事態も毎日続けば日常となる。緊急事態宣言を出しても、解除しても、それは日常。
ずっと気にしてなんかいられないのだ。いろんな理由で。
そう言えば、原子力緊急事態宣言もまだ解除されていないはずだ。

私たちはコロナ以前から、緊急事態など気にしなくなっていたのだ。
「アンダーコントロール」と言って誘致し、「復興五輪」とか言っていたのだ。
だから、コロナもあまり気にしなくなるのかも知れない。

春分の日が過ぎた。心地よい春を人々は過ごすことだろう。
その時期に、緊急事態宣言が解除される。
いずれ夏至が来る。心地よい夏ならよいが、酷暑ともなれば熱中症で人が倒れる。
夏にコロナで人がばたばた倒れていないことを祈るばかりだ。


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漫心想違 「月夜の笛吹男」

2017年09月20日 | 猫のこと
「漫心想違」(いいかげんな心で、なんか間違ったことを想うこと)という言葉を思いついた。その言葉を思いながら、早朝、家の掃除をしていたら、こんな話が頭に浮かんだ。

月明かりのきれいな秋の夜。太一は布団の中で、遠くに笛の音を聞いた。あまり聞いたことのないオカリナのような音だ。なんだろうと、耳を澄ます。音は少しずつ近づいてくる。月夜にはそぐわない、朗らかな曲だ。子どもが踊り出したくなるような。笛の音に合わせて、馬の足音もする。心なしか、馬の足音も軽やかだ。こんな夜中にいったい誰が馬に乗って笛を吹いているのだろう。窓の外をのぞこうと、布団から出ようとする。

「だめじゃよ」。すっと障子を開けた廊下にお婆が立っている。月明かりが胸から下を照らす。夜中なのにお婆はきちんと着物を着ている。顔は、陰に覆われて見えない。「月夜の笛吹男の姿は見ちゃならない。そういう決まりじゃ。あんたのおとうも…」、そう言って、お婆は障子をそっと閉めた。

仕方なく、太一は布団の中から窓を見上げた。十六夜の月が輝いている。笛の音が少しずつ、少しずつ近づいてくる。馬の足音もだんだん大きくなる。曲に合わせた軽やかな足取り。パッカ、パッカ、パッパカパ。
太一の心も弾んでくる。リズムに合わせて体がむずむずしてくる。パッカ、パッカ、パッパカカ。曲の音と足音がもうそばまで来ている。

月に雲がかかり、空が少し暗くなる。そっと布団を出て、太一は窓に近づく。相手に気付かれないように、そーっと外の様子をうかがう。
白い馬にまたがった大きな男が笛を吹いていた。不思議な形の大きな笛だ。よく見ると、笛は焼き物のようで、人が馬に乗った形をしている。馬に乗った男が、馬に乗った男の形の笛を吹いている。雲が流れてふたたび夜が明るくなる。男の姿がはっきりと見えた。真っ黒だ。
なぜ黒人がこんな真夜中に馬に乗って笛を吹いているのだ。あいつはいったい誰なんだ。太一は少し怖くなる。

「ジンバブエ人じゃよ」。びっくりして振り返る。障子の向こうからお婆が言う。「あれがジンバブエ人じゃ」。
「ジンバブエ人?」。太一は考える。そうか、人が馬に乗り笛を吹いている。まさに「人馬笛人だ」。
こうして太一はジンバブエ人を知ることになった。そして「おとう」と同じように…。
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1月のふり返り、新月に尿場が乱れる?

2017年02月01日 | 猫のこと
2月になった。早いもので今年も1ヶ月が終わった。少し振り返ってみる。まずは
ランニング(というかジョギングかな)。今月の走行距離は72㎞。100㎞を目指
していたが足りない。ひどいものだ。腰をやられる前、自分がランナーだと思っ
ていたときには、月に180㎞をメドに走っていた。少なくとも150㎞、多ければ
230㎞くらい走っていた。それがいまでは72㎞だ。ランナーとはいえない。ジョ
ガーである。

ジョガーになって残念なのは、荒川の土手を走る機会が減ることだ。わが家から
土手まで片道2㎞くらい。いまは平日の朝に3.5㎞、そして週末に5㎞か8kmのジョ
ギングをしている。週末しか土手まで行かないし、行ってもわずかな距離しか土
手を走らない。以前は、平日に5㎞、週末には10㎞、20㎞と走っていたので、1年
を通して、土手のいろんな表情を見ることが出来た。

今の時期なら、土手は一面の枯れ草色だ。乾いたうすい茶色が土手一面を覆う。
晴れて青空の下だと太陽の光で枯れ草色が白く光って見える。そして柳の枝が細
いムチのように風にゆれる。でも足下の芝をよく見ると、枯れた芝の中にも少し
ばかり緑の草も見える。さらに目を凝らせば、イヌノフグリの小さな青い花も咲
いていてる。

冬のあいだは強風の土手を走ることも多い。荒川を上流に走る往路は北に向かっ
てのコースだ。風速10メートルを越える北風に向かって30分も走っていると、体
が末端から冷たくなっていく。走力よりも体力が試されている感じだ。人もあま
りいない。やたらと青空で北風がゴーゴーと吹く枯れ草色の土手をひとり走る。
走っているときはつらいけど、走れなくなるとまた走りたくなる。遠くから見れ
ば、たいていのものはきれいに見える、とは村上春樹の小説の言葉だ。

もう一度、あんな感じで走りたい。そのためには今年は本気で腰痛を治そう。と
りあえずは、月間100㎞の目標を達成しよう。最低でも年間で1000㎞だ。その
先、上手くいけばまたフルマラソンを走ろう。(ウルトラマラソンは無理か
な)。フルマラソンと書くと、いろんな大会の情景が浮かぶ。海沿いのコースを
走ってる自分の姿という、実際には見ることが出来ないはずの情景が記憶として
よみがえってくるから不思議だ。そして苦しかった記憶がほとんどなくなってい
る。まあ、そんなものだ。いずれにせよ、腰の状態に合わせて、今年は計画的に
走っていく。

計画的。どうやら僕に必要なのはこれらしい。もともと努力が嫌いな怠け者であ
る。自分でノルマを課さないとゴロゴロしながら本を開き、同じ行を何度も目で
追いかけながら妄想にふけっている。そんな人間だ。腰痛を理由に走るノルマを
外した。PTA会長を引き受け(忙しそうだという)理由で、ブログを書くことも
止めていた。その結果、体重が3kgばかり増えた、文章を書くことが苦手な人間
ができ上がった。

1月になって変わったもう1つは、ブログを定期的に書こうと決めたことだ。震
災前までやっていた、1週間に2本、年間100本を再び目指してみようと思う。内
容はどうでもよい。まずは数を書くことを優先する。書いているうちにいろんな
テーマも出てくるだろうし、書き方も少しは良くなっていくだろう。1月の半ば
にそう決め、これで今年は6本目になる。残りはあと94本だ。

ランニングもブログも僕にとっては似ている。どちらも単なるアマチュアでしか
ない。その意味では誰かの期待に応える必要もないし、クオリティーが多少低く
ても問題ない。どちらもやり続けることで、ある程度の手応えが感じられれば良
い。個人的なことだ。そのためには、時間を確保すること。四の五のいわずに体
で取り組むこと。意味不明な負けん気を発揮すること。そのくらいだ。

とにかく、ランニングやブログに自分の時間をきちんと提供することだ。(何か
を成就するために、自分が必要なものを提供するという感覚はけっこう気に入っ
ている。何かを達成するために、相手から奪い、コントロールするという方法
は、正直うんざりする)。こちらが差し出すから、返礼が起こる。そこで何かが
成就される。そういう運動が続く。

ランニングに時間を提供することで、心身がリフレッシュされる。言葉を書きつ
づることで、頭脳が(わずかだが)クリアになる。さいわいにも提供する時間が
あるならば、提供すればよい。(なまけるな、ということです)。

1月をふり返るはずが話はどんどん流れていく。まあいい。1月は前半にPTA活動
のピークがあった。それはすでに書いた。ネタ的に書くことを探せば、数日前の
新月のあたりでネコがやらかしたことが思い当たる。

わが家には4匹のネコがいる。全身が茶色で縞柄のカミュ、白ベースに黒いブチ
の巨大なマルセル、黒ベースに眉間からお腹にかけて白が広がるプルースト(マ
ルセルと兄弟)、そして茶トラでお腹が白いナツ。白黒兄弟はトイレに問題がある。

白いマルセルは純粋な尿バカでトイレの意識が弱い。丸いものを見るとトイレだ
と思う。たとえばお風呂の丸い洗面器、洗たく機、中華鍋、丸いものを見るとト
イレだと思うのか、必ず尿をする。名前がマルセルなので「マル、マル、おま
る。まーるいところにおしっこだ」という歌を作ってやった。(家族には不吉だ
からやめてくれと言われた)。いまはいろいろな対策でほぼトラブルは封じている。

黒いプルーストはとても賢いネコ故にトラブルを起こしているようだ。家の外に
野良猫などが来ると、なわばりを意識して玄関のはじっこなど境界に尿をするの
だ。マルセルにくらべれば頻度も少ないのであまり被害はない。

いずれにせよ、こういうトイレトラブルをわが家では「尿場が乱れる」と呼んで
いる。(そう呼んでいるのは、あるいは僕だけかもしれない)。カミュとナツ
(茶族と言われている)はほとんどトラブルはない。第一世代のヤブとツチも茶
トラで尿場が乱れることはなかった。ネコを飼うなら茶族に限る。白黒はダメ
ね。そんな共通認識がわが家でも出来つつある。

いろいろ対策をしているので、日常的な被害はなくなった。それでもときどき尿
場が乱れる。なんとなく周期的な感じがする。周期的と言えば、月齢、潮の満ち
引きである。まだはっきりしていないが、満月や新月に尿場が乱れる傾向があり
そうだ。先日もマルセルがトイレにあるネコトイレの前の床の上を尿場にしてい
たし、プルーストは猛ダッシュで長男のベッドに駆け上がり速攻で尿場にした。

満月や新月には精神が高揚し凶悪犯罪が起こりやすいと聞く。(僕自身、満月に
はムダなものを買ったり、喧嘩っ早くなる)。オオカミ男とドラキュラの伝説も
そんな人間観察から出てきたのだろう。大潮の満ち引きを起こす力は、人体の水
分にも影響しているはずだ。精神的にも影響がないはずはない。ネコも(体の水
分がどれくらいか知らないけど)影響を受けているのだろう。人間の凶悪犯罪に
くらべれば、ネコの尿場乱れはたいしたことはないのかもしれない。いや、飼い
主にとってはかなり大変なことである。2月の満月や新月の尿場に注目だ。
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真夜中のトイレ掃除

2016年11月07日 | 猫のこと
わが家には、いま、4匹の猫がいる。カミュ、マルセル、プルースト、ナツの4匹。いずれもオスだ。わが家の第2世代の猫たちだ。第1世代の猫は20年くらい前に、荒川の土手で僕が拾ってきた。背中は茶トラでお腹が白い兄弟。名前をヤブとツチと言った。

3年半ほど前にツチが死に、入れ替わるようにカミュが拾われてきた。正確に言えば、うちの相方が近くの空き地から抵抗する小猫を捕まえてきた、という感じだ。全身、濃い茶色の縞模様でとても器量が良い。ただ、非常に臆病で、すぐに人に噛みつく。噛みつくので名前は「カミュ」にした。よく年老いたヤブに噛みついていた。

その翌年、ヤブが死にカミュが残される。数ヶ月をおいて、長男が荒川の土手から猫を拾ってきた。かばんに3匹詰めてきたが、家の近くで1匹が逃げた。白黒模様の2匹の猫がやってきた。名前は「マルセル」と「プルースト」。

カミュは噛みつくから名付けただけだが、『異邦人』のカミュを連想する。そしてある種のかっこよさもある。ここはそれに倣って、と本棚を見ながら家族で名前を考えた。(ミッシェルとフーコーという案もあった)。

20年前に僕、そして相方、さらに長男が猫を拾った。「あと、猫を拾っていないのは僕だけだね」とは次男の言葉。やめてくれ、猫を3匹買うのでも大変なのだ。これ以上は無理だ。そう次男にも言い聞かせていた。それにも関わらず、翌年、わが家の玄関の前で小猫の鳴き声がする。やめておけばよいのに、次男と相方が出て行く。

背中が茶トラでお腹の白い小猫だ。とても人懐っこい。そして足の裏にケガをしている。仕方がないので獣医に連れて行く。手当てをして、「2、3日は云々」と言われる。2、3日飼ってしまえば、もう手放すこともできない。4匹目の猫となったわけだ。人懐っこいので名前は「ナツ」とした。

とまあ、いまわが家には猫が4匹いるわけだ。猫についてはいろいろ書けそうだし、いずれ写真もお披露目しよう。今回は、第1世代とのギャップについてひとつだけ書く。

いま考えれば、ヤブとツチは素晴らしい猫だった。エサは安いドライフードですんだし、ほとんど病気もしない。そして人間のトイレで用を足せたので猫砂もいらないし、臭いもない。とくに引っ越してトイレが自動洗浄になってからは、猫が用を足せば重さで自然に水も流れる。手間がかからなかった。そして猫なんてちょっとしつければみんなそんなものだと思っていた。

『ノルウェーの森』に人生をビスケット缶にたとえるシーンがあった。主人公のワタナベ君が沈んでいるときに、緑が、人生はビスケット缶だと思えばよい。缶の中には好きなビスケットも嫌いなビスケットもあるから、嫌いなビスケットばかりが出てきたとしても、あとには好きなビスケットが残っている、というような話をする。

猫のトイレを思うたびに、僕はこのビスケット缶の話のことを思い出す。好きなビスケットはヤブとツチで食べ尽くしたようだ。嫌いなビスケットがマルセルという姿をとってやってきたのだ。

先日の夜中のことだ。上手く寝つけず、それでもやっと眠気がきたころトイレに行った。1時半のことだ。ドアを開けると壁に何かが流れたような跡がついている。天井近くから床まで、そして床には水たまりのようなものが‥‥。そして臭い。

マルセルだ。マルセルが壁に取り付けた物入れに乗って、そこから壁に向かって尿をしたのだ。(わが家では「マル尿」と言われている。これまでにも、洗たく機の中、玄関、中華鍋、そして座っている僕の横っ腹など、数えきれないほどの「マル尿」をしている)。

眠気が吹っ飛んだ。一瞬、見なかったことにしたいと思った。でも、そんなことをすれば、明日の朝には事態はよりひどいことになっている。1時間、壁と床を掃除した。さすがに、腹立たしくなってきた。なんの因果で、真夜中に壁から床に流れる猫の尿を掃除せにゃならんのだ。

掃除しながらビスケット缶のことを考える。まだマルセルを飼って2年だ。どのくらい、嫌いなビスケットは残っているのだろうか。
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