とんびの視点

まとはづれなことばかり

日本で違和感を持ったこと

2018年09月25日 | 雑文
先日、たまたま知りあったドイツ人の研究者と話しをした。
日本で違和感を持ったことは何かあるかと聞いてみた。
テレビでの事件報道に違和感があると彼女は言った。
違和感は2つあるそうだ。

1つは、容疑者段階で実名報道をすることだ。
名前だけでない。容疑者の家族とか生い立ちとか、そう言ったものも多く伝えられる。
無自覚にせよ、それらの情報は犯罪と結びつくようになっていることもある。
容疑者は裁判で有罪判決を受けるまでは、たんなる容疑者である。
日本では容疑者が捕まった段階で、ほぼ犯人として報道される。
そのことに違和感を持つ人たちが世界にはいることを、私たちは知っておいた方がよい。
自らの自然な姿は自然に受け入れられるはずだと思っていると、思わぬ痛い目を見ることもあるからだ。

もう1つは、犯罪現場の詳細なレポートだ。
レポーターが事件現場まで行き、どこでどんな風に犯罪が行われたのか、どのくらいの血が流れたのか。
そういう報道に違和感を持ったそうだ。
たしかに日本の報道では、事件を再現させるような報道が多い。
それによって視聴者は何が起こったのかを知ることになる。

こういう報道を繰り返し見ていることで、視聴者は事件を理解するためのフレームを無自覚に手に入れてしまうかも知れない。
どんな(悪い)人間が、どんな悪いことを行ったのか、それを理解することが事件を理解することだ、と。

ふと思った。あらゆる事件報道が、その事件が発生した社会的な背景のみに焦点を当て、解説したらどうなるだろう、と。
人々は、事件が起こるたびに、その社会的な背景を考えるようになるかも知れない。
そして、事件を再発させないために、社会を改善することに意識を向けるようになるかも知れない。

犯した罪は本人が償わねばならない。それは仕方のないことだ。
そしてその手続は、司法と行政がやってくれる。
だとすれば、市井の人々がやるべきは、社会的な背景を考えることだろう。
社会的な背景とは、私たちの生活している社会そのもののことなのだ。
私たちの社会は、なぜそんな犯罪を生み出してしまうのか、と。
結局のところ、それは社会を構成している自分について考えることにもなる。

学習塾のシャープペンシル

2018年09月14日 | 雑文
子ども中学校の門の近くで、ときどき学習塾のスタッフがシャープペンシルを配っている。コンビニで100円で買えるようなシャープだ。デザインもひどいし、安っぽい感じだが、作りはしっかりしていて、実用に十分に耐えるものだ。そのシャープには塾の名前が印刷されている。ある種の広告だ。

中学生ならシャープペンシルを使うから、シャープを配ろうと思いついたのだろう。筆箱に入れて愛用するとは思わない。それでも机の上に置いてあれば、ときどきは使うかも知れない。場合によっては、塾の名前に気が留まるかも知れない。この前の試験、よくなかったな、塾でも行こうか。そんな風に思うかもしれない。

あるいは、中学生はそんな塾の名前の入ったシャープはダサいと言って、家に帰ったと同時に台所のテーブルに放り出してしまうかも知れない。狡猾な塾のスタッフはそれを狙っているのかも知れない。子どもがシャープをテーブルに放置する。母親か父親がそれを見つける。シャープには塾の名前。子どもの成績が心配になる。前回の定期テストもミスが多かった。担任は、もう少し頑張れば、もっと成績が伸びるはずだと言う。でもどうすればよいかわからない。ちょっと塾に相談してみようか。そんなことを狙っているのかも知れない。

しかし現実はちょっと違うようだ。わが家のテーブルの上に塾の名前が入っているシャープが4本も5本もある。次男にどうして何本もあるのかと尋ねる。塾の人が配っていた。みんなシャープをもらうと芯だけ抜いて、植え込みとかに捨ててしまう。何かいやな感じがするので、自分が引き取ってきたのだという。

新品のシャープをそんな風に捨ててしまうのはもったいない。捨てるくらいなら、もらわなければよい。いや、芯だけ抜いているのだから、ただ捨てているのではない。与えられた状況で、最大限の利益を引き出しているのかも知れない。自分に必要なものを選び出し、それだけを手に入れる。シャープそのものを断ってしまえば、芯を手に入れることは出来ない。このチャンスで最大限の利益を手にするには、シャープをもらい、必要な芯だけを抜き出し、無駄な本体は捨てる。それも瞬時に行う。素早い判断で、利益を確保する。なんだか、出来るビジネスマンのようだ。

でもねぇ。何かシャープが可哀想なんだよな。シャープペンシルとして生まれてきた。高貴な血筋でもなく、見目麗しくもない。機能もシンプルで1つのことしか出来ないが、愚直にそれだけはやり続けられる。宮沢賢治の物語に出てきそうなタイプだ。そんなシャープが、体に他人の名前を印刷をされて送り出される。文字を書くという本来の機能を1度も発揮することなく、捨てられる。芯だけ抜かれて。人間なら、戦争中の無意味な自爆攻撃を強要された兵隊みたいなものだ。印のついた飛行機に乗せられ、爆撃による攻撃という本来の機能を発揮することなく、命だけ抜かれる。シャープがシャープとして、人が人として存在できない世界は、やはりよろしくない。

いずれにせよ、わが家には塾の名前の入ったシャープが何本もある。案外しっかり作ってあるので簡単には壊れそうもない。芯を入れれば何年も使える。おまけに、芯を抜かれたシャープには芯を入れなくてはいけない。それにシャープは1度に何本も使わない。なんだか一生分のシャープが手に入ったようだ。(個人的に気に入っているシャープがあるのに。)これ以上は引き取ってくるなと言いたいが、無下に捨てられるのを放っておけとも言えない。義を見てせざるは勇なきなり、とだいぶ前に野田聖子さんが言ってたっけ。せめてボールペンにしてください。塾に電話してみようか。いろいろ考える。

こんなことをぐずぐず考えてる自分は、もらったシャープから芯を抜き取りさっと捨てる中学生よりも、判断力が劣っているのか。そういえば、出来るビジネスマンというのは自分とは対局の存在だった。彼らが効率良く「芯」を抜き取っているそばで、「捨て去られた何か」を僕が引き取って行こうとしているのかも知れない。ちなみにわが家では、子どもを塾には通わせていないし、今後も通わせることはない。