とんびの視点

まとはづれなことばかり

改憲について考える

2015年09月25日 | 雑文
9月25日(金)の東京新聞の1面に「来夏参院選で改憲公約に 首相条文には触れず」という記事があった。まあ、憲法改正は安倍氏の悲願らしいから、彼がそう言いだすことは何ら不思議ではない。問題は彼の個人的な悲願が国民の生活に大きな影響を及ぼすことだ。成城に豪邸を建てたい、というような悲願であれば、勝手にやってくれ、と言える。しかし憲法改正となれば、そうはいかない。私たち一人一人が当事者として思考し、判断し、行動しなければならない。

その意味では、先日、可決された安保法案の話はまだ続いている。法案に反対の声を上げ、行動した人たちは、そういう実感を持っているから、この先も思考し、判断し、行動を続けるだろう。問題となるのは、今回の安保法案につながる一連の出来事を、他人事の風景として眺めてしまったような人たちだ。その大きな原因は、NHKをはじめ、大手メディアの報道が極端に少なかったことにある。とはいえSEALsのメンバーも言うように、政治に無関心ではいられても、無関係ではいられない。他人事の風景として眺めているつもりが、いつの間にか自分が最悪の形でその状況に立たされるかもしれない。自分たちならまだよい、子どもたちの世代かもしれない。

安保法案と改憲が一連だからこそ、法案の内容や採決に至るプロセスなどの整理が必要だ。改憲の中身は法案の中身と同じ価値観のはずだし、改憲への進め方は今回の採決へのプロセスと似たようなやり方になるだろうから。安倍政権がこのさき、何を、どのように進めるかを知るために、今回、何を、どのように進めたか整理する事が必要だ。とはいえ、僕自身、日常があり政治の専門家でもない。できる範囲でやるしかない。

その手始めに、伊藤真氏の国会での参考人質疑を見直した。(https://www.youtube.com/watch?v=_Gh_peEF2bg)。これはとても良いものだ。ぜひお勧めしたい。

質疑の中で、改憲に触れていた。その中に「時代にあっていないから改憲すべきだ」という意見が軽く話題になった。この「時代に合っていないから変える」という言い方について考えてみる。というのは、ちかごろこの言葉をよく耳にする気がするし、この言い方が正しさの証明であるかのように勘違いしているケースがあるからだ。

「時代に合っていない」というのは「現状に合っていない」ということだ。そして「現状に合っていない」というのは、目の前に起こっている出来事と、その出来事を指し示す言葉がズレていることだ。言葉と出来事がズレのは珍しくない。たとえば「遅刻をしてはいけない」というルールは言葉だ。しかし世の中から「遅刻」はなくならない。「嘘をついてはいけない」というが、私たちはしばしば「嘘をつく」。「血圧は下は85、上は135以下がよい」というのも言葉だ、ところが実際には「下が95、上が150」ということもある。言葉と現状は基本的にズレる。憲法が現状とズレていること自体が問題なのではない。言葉を現状に合わせれば解決できる。そう思うことが問題なのだ。

問題はズレの修正の仕方である。現状を言葉に合わせる。あるいは、言葉を現状に合わせる。このふたつは単なる逆を述べているようだが、実際には違う。

現状を言葉に合わせるためには、現状と言葉のギャップをひとつず丁寧に洗い出さねばならない。そしてそのひとつひとつを変えていくためには、どのようなやり方が必要で、どのくらいの時間がかかるのか思考し、判断し、それを形にするための行動が必要となる。自らが当事者となり、時間の中で思考し、判断し、行動する。道元っぽく言えば、思考し、判断し、行動することで時が動き出し、そこに当事者としての自分が世界に立ち現れる。

しかし言葉を現状に合わせるとき、そこには思考も判断も行動も必要ない。現状を追認する言葉を手続き的に生み出せばよい。現状が変われば言葉も変える。それを繰り返せば良い。そこには現状を変えようとする主体的な個人が立ち現れることはない。現状を追認するだけだ。目の前のいま、目の前のいま、目の前のいま、受け入れ続ける。それが繰り返されるだけだ。そこには「現在」しかなく「過去」も「未来」もない。ゆえに時間も主体的な個人も動き出さない。

「かつて」と「これから」を「いま」がつなぐ。抽象的なことを言っているのではない。それは、先人たちと次の世代を、いまを生きる私たちがつなぐことだ。それは歴史を振り返るとであり、歴史を創り出すことでもある。言葉と現状がズレていることは問題ではない。当たり前の事実である。そして人がこの当たり前の事実を生きる時、現状と言葉のギャップを洗い出し、思考し、判断し、行動することになる。

日本国憲法がアメリカの押しつけだと、僕も思う。日本が主体的に憲法を制定できなかったことが、現在の問題を生み出しているとも思う。押しつけにより、日本の良い部分と悪い部分、両方に日本人が主体的に、正面から向かい合えなかったからだ。向かい合えば、そこには現状と言葉のギャップが山のようにあったはずだ。そのギャップを丁寧に整理し、思考し、判断し、行動すれば、私たちは日本という国や日本人を自虐でも尊大でもなく、等身大に評価できたはずだ。その上で、自らの国家が暴走しないような憲法を主体的に制定できたのだ。

もちろん大戦後の冷戦構造などを考えれば、そのようなことはほぼ不可能だったと思う。現実的に可能だったのは、経済的な豊かさを求めて一生懸命仕事することだろう。しかしそれはさまざまなギャップから目をそらすことでもあった。豊かさを追い求めること自体が目的になり、その豊かさでこの社会が何を達成すべきなのか誰もわからない。自分たちで時間を生み出していないから、冷戦崩壊後も同じゲームを続ける。そんな風に過ごしてきた。憲法が現状に合わなくなるのは仕方がない。

憲法と現状にはズレがある。だからといってそれ自体が改憲の理由にはならない。言葉を現状に合わせることは、思考も、判断も、行動も促さないし、主体的な個人も生み出さないからだ。思考も判断も行動もできない主体性のない人々が国民の大半を占めるような国は弱くて危ない。改憲を言うのはよい。現行憲法にも改憲条項はある。大切なのは、改憲を言うことで、言葉と現状にきちんとギャップを作り出し、国民の一人でも多くが、自分の頭で思考し、判断し、行動するような機会を提供することだ。

だからこそ僕は安倍首相が改憲を言うことには反対せざるを得ない。安保法案を通すために彼がとった手法は、国民が思考し、判断し、行動することを妨げるものだったからだ。国民の一人一人が自国のことを当事者として考える大事なチャンスを奪ったのだ。おそらく改憲でも同じようなことをしてくるだろう。それは立憲主義や民主主義をないがしろにするものだからだ。私たちは当事者として世界に立ち現れるチャンスを奪われてはいけない。この世界に、無関心でいることはできても、無関係ではいられないのだから。
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SEALDs的なものの新しさ

2015年09月04日 | 雑文
SEALDsには何か新しさを感じる。それは何なのかといろいろ考えていた。デザイン性がある、他人の借り物でない等身大の言葉で語る、コールがラップ調である。たしかにその点では新しさを感じる。しかしそれは表面的な捉え方だという気がしていた。きっと深いところに何か新しいものがあるのではないか、そんな気がしていた。

生活と政治は切り離された別のものではない。そう、感じているのではないか。私たちの世代(バブル期に大学生だった)にとって、政治は生活から切り離されていた。ふつうの生活を送っていれば、政治的なことを考える必要などなかった。ニュースステーションやサンデープロジェクトや、朝まで生テレビを見て、選挙の時に投票に行けば政治的な関心がある方だった。その状況で主体的に政治に関わるとなると、ある種の境界を越えなければならなかった。(その多くの場合は左翼的な方に向かったのだと思う。また、あの時期、社会全体に対する違和を感じたまじめな人たちは、カルト的なものに可能性を感じたのだと思う)。

しかしいま大学生や高校生の彼らにとって、今回の安保法案は彼ら自身が当事者になりかねない問題である。(もちろん本当は私たちも当事者なのだが)。だから、彼らは自分の生活の問題として政治的な出来事にかかわることになる。その意味では日常である。であれば、クールなデザイン、自分の言葉、ラップ調のコールなど、日常の感覚がそのまま行動に持ち込まれても不自然ではない。

ところが先日のTVタックルを見ていて、今回の動きには、僕の想像よりも大きなものを感じた。番組の終わりの方で、安保法案を阻止する目的を達成したら、あなた達はどうするのかというような質問があった。それに対してSEALDsは「自分たちは自由と民主主義的な社会を目指している。それは、いまだ完成形がない。これからずっと続けていかなければならないプロセス的なもので、未完のプロジェクトだ」というような答えをした。

彼らは失われそうな戦後民主主義を守ろうとしているわけではない。いまだに完成形のない自由と民主主義的な社会をこれから目指す未完のプロジェクトに取り組んでいるのだ。これは僕が捉えている状況と近い。今回の戦争法案について「平和な戦後民主主義失わせる。それを守るために反対しなければならない」そんな意見を耳にする。気持ちは理解できるが、僕はそのようには捉えていない。

今回の戦争法案が出てきたときにまず思ったのは、「日本社会は70年かけてこういう法案が出てくる社会を作ってきた」ということだった。安倍政権はクーデターで権力を把握したわけでない。制度に問題はあるにせよ、選挙という民主主義的なプロセスで選ばれたのだ。いや国民が選んだのだ。その意味では、法案に廃案にしても、もとの平和な民主主義的な社会にはもどらない。もとの社会とは戦争法案を提出する安倍政権を選ぶような社会だからだ。

白井聡氏の『永続敗戦論』や佐藤健志氏の『震災ゴジラ』を読んでわかってきたことがある。戦後民主主義を肯定すれば戦前の日本を否定することになる。戦前の日本を肯定すれば戦後民主主義の日本を否定することになる。どちらを選んでも日本人としてのアイデンティティの一貫性が保てない。そんな呪縛の構造の中で、どちらかの立場を選ばねばならないような呪縛に私たちは陥っているのだ。

安倍首相は米国に押しつけられた戦後民主主義を否定して戦前のような国を作りたいと思う。しかし自らが否定する戦後民主主義の社会は、自分を総理大臣にした社会でもある。安保法案に反対する人たちは、戦後民主義の平和な社会を安倍首相から守りたいと思う。しかしその社会は安倍氏を首相にした社会でもある。戦後レレジームからの脱却か、平和な戦後民主主義を守るか。そういう二者択一はそもそも不可能である。

それに対してSEALDsは、いまだ完成していない自由で民主主義的な社会を目指す未完のプロジェクトとして状況を捉えなおした。なんかいい感じだ。思えば、明治維新から戦争までほぼ70年、そして戦後が70年。時という観点から見れば、そろそろ両方の呪縛がとけてもよいころかもしれない。そういう時期にSEALDsのような存在が現れたと想定するといろいろ考えられそうだ。

考えるためには現場を見ておかねば。もうしばらく彼らの動きに合わせて行くつもりだ。
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