とんびの視点

まとはづれなことばかり

森にあるもの、ないもの

2009年10月26日 | 雑文
週末(10月24日、25日)、家族で那須に一泊のキャンプに行った。土曜日は薄曇り、日曜日は本格的な曇りで時おり雨がばらついた。秋晴れの中の紅葉を期待していたけど、曇り空の秋の日も悪くない。少なくとも都会の喧騒を離れて自然の中でゆったりとした時間を過ごすことが出来た。そう書きたいところだが、実際には違う。経験のある人ならわかると思うが、1泊のキャンプというのはかなりドタバタしたものだ。

休みの日なのに早起きをする。高速道路1000円化のおかげでちょっと渋滞気味の道路を走る。昼前にキャンプ場に着きテントとタープを立て、急ぎ昼ご飯の用意をする。ふーっと一息ついたと思ったら、子どもたちと遊ばねばならない。あっという間に夕方が近くなり、夕ご飯の準備。ご飯を食べたら風呂に入る。そして焚き火を囲んでしばし火を眺める。早めに寝てしまう。

朝起きると、堅い地面で体が少し痛くなっている。朝食の準備をし、みんなで食べる。ちょっと休んだと思ったら少しずつ撤収の準備が始まる。テーブルとイスのセットを畳んだり、食材を整理したり、焚き火の残りや、炭の残りを片づけたりする。驚くほど瑣末な片づけがある。昼頃を目指して、ゆっくりだが途切れることなく撤収は続く。タープだけを残して、簡単な昼ご飯を用意する。そしてみんなで食べる。

やっていることは、家事と子育てに追われている日常生活とそれほど違わない。ドタバタ感覚だ。もちろん気持ちよい風は吹いているし、風に揺れる葉っぱの音は耳に入るし、ちょっと目を上げれば色とりどりの木々と葉が目に入る。そんな中でのドタバタはそれなりに心地よい。でも落ち着いて自然をぼんやりと眺めるという感じではない。

すべての撤収が終わる。周りのキャンパー達が1組ずつ去っていき、キャンプ場が静かになってくる。いつものことだが、この辺りから自然と自分の波長が合ってくる。すべてが撤収されてがらんとなったテントサイトの真ん中にイスを置いて座る。木々が風に揺れるそのリズムと自分のリズムが同調し始める。私が木の葉を見ていると言うよりも、木の葉を眺めている私がそこにいるという感じになる。自分が積極的に自然を捕まえようとしない分、自然の方からさまざまなものが僕の中に入ってくる。

例えば、風が遠くからやってくる音が聞こえるようになる。風が木々を揺らすが揺れ方はそれぞれ違う。一本、一本が自分のリズムをもっていて、風に合わせて体を揺らしている。同じ種類の木なのに、まだまだ緑の葉を残している木もあれば、オレンジに色づいた木もある。すでに散りかかっている木もある。木にも一本、一本の個性のようなものがあるのだ。落ち着いて眺めていれば、そういうことは自然の方からやって来る。自分のペースを自然に持ち込むのではなく、自然のペースに自分を合わせる。帰る間際になってやっとそんな感覚になってくる。

帰り道に遠回りをして日塩もみじラインを走る。関東有数の紅葉スポットと言うだけあってなかなか見事だ。曇り空でもこれだけ鮮やかなのだから、晴れた日にはとても発色の良い紅葉が見られるのだろう。途中、面白いことが2つあった。1つは、もみじラインの途中にある散策コースを歩いている時だった。

静かな森の中の散策コースを家族で歩く。ひんやりとした空気があり、都会では決してみることの出来ないような立派なブナの木やミズナラが何本もある。倒れた木々は朽ちはじめ、表面には緑の苔が生えている。適度に手入れされているのだろう。低い草などはほとんどなく、森の中が遠くまで見通せる。適度な散策用のコースだ。

向かいから還暦頃の夫婦が2組歩いてくる。多少息を切らしながら「この先になにかあるのですか?」と尋ねてくる。一瞬、答えに詰まり、「いや、とくに何もないですよ。すぐそこでもどってきたものですから」と答える。僕らは適当に散策していただけだ。特にどこかを目指していたわけでもない。でも答えに詰まったのはそれだけではない。いろんなものが目の前にあるのに、なぜそんな質問をするのかわからなかった。おそらく、ひんやりとした空気も、立派なブナやミズナラや、朽ち木や、緑の苔や、そういうものが彼ら/彼女らの目には入らないのだろう。

自分のペースを自然に持ち込み、自然のペースに自分を合わせていない。森に来る。森にあるものすべてがそこにあるのに、それが目に入らない。森に来て、森にないものを求めている。森にないものを求めているから、森にあるものが目に入らない。そこにあるもので満たされることなく、そこにないものを求めることを「欲」という。「欲」を追い求める人生は疲れる。「何もないんだって。それじゃあ意味はない。疲れたから戻ろう」そう言って、彼ら/彼女らは来た道を疲れた足取りで戻っていった。

もう1つ。「100%源泉かけ流し」という温泉に入った。プレハブのような箱形の建物だが、わりと新しい感じだ。大きな駐車場。新しく平らなアスファルトには、真っ白な太い線で駐車スペースが描いてある。車はほとんど停まっていない。値段は大人600円、子ども300円。高くはない。受け付けの女性に「露天風呂はありますか?」と尋ねると、ちょっと慌てて「ええ、中で別々にわかれて」とちょっとかみ合わない答えが返ってくる。

たしかに「100%源泉かけ流し」であった。基本的にはコンクリートの打ちっ放しである。室内も露天風呂も浴槽はコンクリートの打ちっ放しである。室内の浴槽はわりと大きい。いや、あれくらいの浴槽はいくらでもあるだろうが、室内の広さの割には浴槽のスペースが大きいのだ。そして「100%源泉」の熱すぎるお湯がなみなみと溢れている。入れないくらい熱い。

洗い場には5つほど洗い席がある。それぞれの席には蛇口が1つだけついている。「100%源泉」が蛇口から出てくる。勢いは悪く、桶になかなかお湯が溜まらない。そして当然のように「熱い」。せめて水道の蛇口をつけてくれれば良いのに。子どもの体から石鹸の泡を流すのに一苦労である。
子どもたちは「シャワーは?シャワーは?」と尋ねていた。

露天風呂はちょうどよい湯温だ。だが浴槽が小さい。縦1.5メートル×横2メートルくらい。コンクリートの打ちっ放しである。小学校の頃、夏にプールに入る前に薬品の入った浴槽のようなところに腰まで浸からされた。その時の浴槽とすごく似ていて、なんだか奇妙な感じがした。おまけに室内の浴槽が熱すぎるから、6,7人の大人が小さな露天風呂に集まってくる。全員が入れるわけもなく、縁に座って脚だけはいっている人もいる。

狭い露天風呂にはたくさんの人。広々とした室内の浴槽には誰もいない。室内風呂と露天風呂を反対にすれば良かったのに。受け付けの女性がちょっと慌てて受け答えをしていたのが分かった気がした。それでも温泉は温泉。方言まじりで半分しか理解できない老人に相づちを打ちながら、子ども2人とゆっくりお湯につかっていたら、地面の堅さで痛んだ体も楽になった。だんだんと暗くなる紅葉の山道をゆっくりと走る。いつの間にか子どもたちは後部座席で眠ってしまった。そんな週末であった。

ブログを書く前に、後の思い出のためにちょっと週末のことを書いておこうと思ったら、こんなに長いものになってしまった。う~む。
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うれしくてとびはねる

2009年10月23日 | 雑文
今朝、4歳の次男に保育園のお支度をさせていたら、つかつかと僕のところにやって来た。「たいへんだぁ、たいへんだぁ。たいへんなじけんがおこったぁ。ちょっといっしょにきてくれ~」と元気な声で言う。膝を軽く曲げたり伸ばしたりしながら体を上下させる。広がった両手は体の上下に合わせてゆらゆらしている。たいへんだぁ、と言うわりには笑顔である。いつも見慣れているしぐさではあるが、あらためてほほ笑ましくなる。

そう言えば、子どもというのは言葉で何かを伝える時にけっこう体を動かしているものだと、ふと気づく。自分の思ってることを伝えようと一生懸命になると、知らぬ間に体が動いちゃうのだろう。聞いている方もついついそこに引っ張り込まれる。その意味では伝達力はある。でもこれを大人がやったら大変なことになる。「たいへんだぁ、たいへんだぁ、顧客情報が入ったUSBメモリを居酒屋でなくしてしまったぁ」。体を上下させ両腕をゆらゆらさせながら、上司に報告したらどうだろう。大変なのはお前そのものだよ、上司は思うことだろう。

というような話しを相方にしたら、「そうそう子どもってそうだよね。嬉しいとぴょんぴょん飛び跳ねたりするし」との返事。たしかにそうだ。子どもって何か嬉しいことがあるとぴょんぴょん飛び跳ねながら笑顔で「ねぇ、きいて。きいて」とやって来る。体の中に嬉しさがいっぱいで、いっぱいで、はち切れそうだから、自然と体が跳ねてしまうという感じだ。

子どもはどのくらいから飛び跳ねなくなるのだろう。なぜ大人は飛び跳ねないのだろう。ふと、そんなことを思うが、本当に嬉しい時には大人も飛び跳ねるのだということを思い出す。サッカーのUEFAチャンピオンズリーグで優勝したチームのメンバーなどはいつも飛び跳ねている。大人には飛び跳ねるほど嬉しいことがあまりないのかもしれない。自分がしっかりしたからいろんなことに振り回されなくなったのか、子どものような何にでも驚ける感性をなくしてしまったからなのか、それは分からない。

反対側から見れば、大人にとって飛び跳ねるほど嬉しいことはとても貴重な体験だということになる。親鸞という人はそのことによく気づいていたのだろう。阿弥陀仏を信じ、南無阿弥陀仏と称え、浄土に往生できると確信し、いまここの生を正面から受け入れられる。それを信心決定というのだが、信心決定した時には「歓喜踊躍」すると親鸞は言ったのだ。「歓喜踊躍」とは、嬉しくて、嬉しくて、踊り飛び跳ねることだ。

小さな子どもたちはいつでも嬉しくて飛び跳ねている。少年になる。青年になる。少しずつ嬉しさで飛び跳ねることも少なくなる。大人になる。嬉しくて飛び跳ねることもなくなる。僕が飛び跳ねるほど嬉しいと思ったのはいつのことだろうか。過去を振り返る。そう、6月の終わりにサロマ湖ウルトラマラソンを完走した時はすごく嬉しかった。でも飛び跳ねることはしなかった。脚が痛くて痛くてとてもじゃないが飛び跳ねることはできなかった。
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2009年秋の思い出

2009年10月19日 | 雑文
ちょっと気を抜くと、ブログを更新しないままに1週間くらい過ぎてしまう。どこかで似たような感覚を味わったものだ。そう思い、過去を振り返る。毎日やることに決めた勉強をちょっとサボっていたら、あっという間に日がたってしまった高校生の頃を思い出した。

「思い出す」と言えば、先日読んだ『シドニー!①コアラ純情篇』(村上春樹著)の中に、「思い出す」ことについて書いてあった。この本は村上春樹がシドニーオリンピックの時にオーストラリアに行き、日々書きためた文章を集めたものである。その中に、シドニーからブリスベンまで片道1000kmを車で往復したことが書いてある。サッカーの日本vsブラジル戦を見に行くためだ。飛行機でも良かったのだが、オーストラリアの広大さを実感するために、わざわざ車で移動をしたのだ。

帰り道、あまりに退屈なので途中のガソリンスタンドでトム・ジョーンズのカセットテープを買って、やけくそで聞いていたそうだ。そして次の文に続く。「しかしいつか先になって、ブリスベン=シドニー間のロング・ドライブを思い出すとしたら、きっとこのトム・ジョーンズの音楽つきで思い出すことになるだろう。思い出すのが今から楽しみだ。」

「思い出すのが今から楽しみだ」というのがよい。ランニングをしたり、子どもと遊んだり、キャンプに行ったり、さまざまなことをしていて、時おりふと思う。結局のところ、自分がやっているのは「思い出」を作ることなのかもしれない、と。自分が思い出すのか、他の誰かが思い出すのか、それはわからない。でも、つねに過ぎ去っていく現在が、過ぎ去ることによって終わりになってしまわないのは、「思い出」として再現されるからだろう。こうやってブログを書いていること自体も、ブログに書かれた内容も、いずれ「思い出す」ためのものかもしれない。

先週はどたばたしていた。週の半ばには「高血圧」という言葉が僕の人生に急接近をし始め、血圧計を買うことになった。その後、日々、何度も血圧を測っているが基本的には正常である。高血圧という言葉は距離をとり始めたが、血圧計は手元に残った。ちょっとしたおもちゃである。(いまは機械の癖を見極めて、血圧の数値をある程度コントロールできないか試している)

16日の金曜日には、知り合いのボクサーの試合があった。時々、ミットを持って練習につき合っている。相方と子ども2人を連れて後楽園ホールまで観戦に行く。試合は4ラウンドKO勝ちである。一緒に練習したことが役立ったようだ。これは僕にとってというよりも、子どもたちにとって「思い出」になるだろう。自分が子どもの時に、プロボクサーのお兄さんがいて、その試合を家族で見に行き、応援をする。帰り道、秋風の吹く夜の後楽園ドームの周りで追いかけっこをする。そして勝利を喜びながら家路を辿る。

18日の日曜日は、荒川の河川敷で開催された「タートルマラソン」なるものに参加した。レースそのものは、ハーフ、10kmなどさまざまだが、僕は小学3年の長男と「親子ペア」のレースに参加した。昼の1時半スタートで2kmを一緒に走る。ゴールする時には親子で手をつないでいなければならない。僕にとっての2kmはアップのようなものだ。でも長男にとっては違う。レースはレースである。スタート前には「ドキドキする」「緊張する」と繰り返していた。

スタートしてすぐ、隣で苦しそうな表情をしながら長男は必死に走っている。息も荒くなっているし、体もバラバラだ。(このレースに備えての練習はほとんどやっていない)。お世辞にも立派な走りとは言えない。楽な表情でもっと速く走っている子どもたちもたくさんいる。他人と比較すればダメなところはいくらでも指摘できる。でもそんなことには意味がない。大切なのは、自分がちょっと苦しまなくてはできないことから逃げずにチャレンジしているかだ。少なくとも僕が小学3年のときには2kmは走れなかったし、走ることから逃げていたと思う。その意味では立派なものだ。

苦しみながら1kmで折り返す。距離が進むにしたがってだんだんと体もまとまってくる。苦しそうだが呼吸も安定している。少しずつ周りの子たちを抜き始めたりする。「大丈夫か?」と何度も声を掛ける。その度に「うん」と声も出さずに頷く。「行けるか」最後の100mくらいでそう尋ねる。頷いてスパートをかけ始める。息を切らしながら、汗をかきながら、必死でスピードを上げ、最後には手をつないでゴール。「きつかった」と聞いたら「ぜんぜん」との答え。本当は苦しいはずなのに弱音を吐かない。少しずつ成長しているのだ。

いつか秋の土手で長男と2kmのレースを走ったことを思い出すのだろう。そして長男もいつか父親と2kmのレースを走ったことを思い出すのだろう。僕の思い出には長男の走っている姿が、長男の思い出には僕の走っている姿がはっきりと映っていることだろう。そして相方や次男の思い出には、僕と長男の姿があるはずだ。2009年のわが家の秋の1つの思い出である。
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責任範囲

2009年10月12日 | 雑文
昨日の土曜日は午前中に11kmほどランニング。午後には家族で区立の中央図書館に行く。1年くらい前(?)に新しく作られた図書館で、古いレンガ造りの建物を部分的に残しながらコンクリート打ちっ放しとミックスしながら新しく建て直したものだ。本を保存する場所というよりも、人と本が心地よく出合える空間になっている。

建物の前には芝生が広がり、家族連れや子どもたちがゴムボールで野球をしたり、サッカーをしている。芝生やベンチに腰かけて、借り出したばかりの本を読んでいる人たちもいる。秋の午後の金色の日差しの中、僕も長男と芝生に腰かけ借り出したばかりの本を読んだ。(ちなみに長男は『はだしのゲン(漫画)』を、僕は『パパラギ』を読んだ)。

次男と相方は芝生の向こうにある遊具で遊んでいた。しばらく本を読み、顔を上げると遠くの方で相方と次男が笑顔で遊んでいる。声は届かないが、笑い声がはっきりと見える。目を落としては本を読み、顔を上げては相方と次男を目で追う。日が少しずつ傾き始める。明るい黄金色から、少しブラウンがかった金色に、空気が変わる。秋の夕方の冷たい風が吹きはじめる。長い踏み切りを渡り、家族で家路につく。

今日は20kmほどランニングする。(2日で31kmだからそれほど悪くない)。タイムは2時間を切るくらい。20kmで2時間というのは半年前なら楽なランニングだった。でも今日はなかなか厳しかった。いまのペースではフルマラソン4時間を切ることもおぼつかない。まあ、走り込むことだ。

ここしばらく『家族の痕跡』(斉藤環著、筑摩書房)をだらだらと読んでいたが、その中にアダルト・チルドレンについてちょっと気になる記述があった。こういうものだ。

『私がAC(アダルト・チルドレン)においてもっとも大きな特徴であると考えているのは、ある精神科医の示唆によるが、「自分が引き受けるべき責任の範囲を理解できない」という点である。その結果彼らは、「すべてを自己責任として引き受ける」という態度を取ろうとする』

アダルト・チルドレンとは機能不全家族のもとで育ち、虐待などのさまざまなトラウマ的体験を受けつづけた結果、自己の正当な欲求を正当に表出できなくなってしまった人のことである。もともとはアルコール依存症の親に育てられ成人に達した人々のことを指していた。

自らの正当な欲求を表出できない彼/彼女らが、すべてを自己責任として引き受ける態度を取ろうとする。もちろんその結果、何らかの問題が生じるのであろう。問題を生じ、自らも生きづらさを感じ、周りの人間にも迷惑をかけることになるのかもしれない。では問題を生じないために、自分が引き受ける責任の範囲を明確にし、最小限の責任しか取らないことが、一概に正しいといえるのだろうか。

例えば、内田樹氏はブログなどで、世の中には自分の仕事(つまり誰かの仕事と名指しできるもの)と、誰のものでもない仕事がある。誰のものでもない仕事は、私の仕事ではないから、私がやらなくても別に問題ではない。ただ誰かがやらない限りその仕事は決して終わることはない。そしてそういった仕事が積み残されると、いろんなところに滞りが出てくる。内田樹がこれまでに会った仕事が出来る人間は、例外なく誰のものでもない仕事を自分の仕事として引き受けられる人間だった。というようなことを書いている。

つまり、自分の責任範囲を限定するよりも、自分の責任範囲を押し広げることのできる人間の方が肯定されているのだ。個人的には僕も似たような考えである。しかし言い方は少し違うかもしれない。責任範囲というのは本来的には無限定である。状況、あるいはその時の自分の力量によって責任の範囲は限定されるだけである。

(この件はあまり深く詰めていないが理としては以下のようになる。空間的な責任の範囲に関しては、自分の日常生活を支えているモノが関わる範囲。具体的には中国産の冷凍ギョウザを食べているなら中国もその空間に入る。時間的な責任の範囲については、自分が将来像を想定できる時間がその範囲となる。例えば、今日の食べ物を確保するのが精いっぱいであれば、明日に対する責任は範囲外。子どもがいるのであれば、子どもの命がつづくまでがその範囲。ここで言う「責任」とはそれを解決しなければならないということではなく、その範囲まで念頭に置き行動しなければならないということである。)

責任の範囲が無限定というものは、仏教的な考えにも存在する。例えば「四弘(しぐ)誓願」というのがそれである。四弘誓願とはあらゆる菩薩が仏になるために等しく発する誓願のことである。私たち普通の人(これを「凡夫」と呼ぶ)が、自らも悟りを開いて「仏」になりたいなと思う。ところが「凡夫」はすぐに「仏」に成れるわけではない。その間には修行がある。「仏」に成りたいと思い修行している人、それが「菩薩」である。その菩薩が等しく発する誓願が「四弘誓願」というわけである。具体的には次のものになる。

「衆生無辺誓願度」(地上にいるあらゆる生き物をすべて救うという誓願)
「煩悩無量誓願断」(ありとあらゆる煩悩をすべて絶つという誓願)
「法門無尽誓願智」(無尽の法門をすべて学ぼうという誓願)
「仏道無上誓願成」(仏道には切りがないがかならず成就させようという誓願)

まあ、なんというのか「すべてやっちまおう」という感じである。この世界のあらゆる問題はすべて自分で何とかしてしまおうという心意気である。実際、菩薩というのはあらゆる生き物を悟りへと導き、一番最後に自分が悟りを得ようという性格の存在である。責任の範囲は無限定である。

誰もが責任の範囲を無限定に生きることは出来ない。ただ誰もが責任の範囲を最小限にしている世界も住み心地の悪いものに違いない。大切なのは按配である。大局的に見るならば、自らの責任を放棄する形で範囲を狭小化している人間が一方にいるせいで、バランスをとるべく責任の範囲を限定できない人がもう一方で出てきてしまうのかもしれない。バランスをとれずに崩れて病んでしまう個も出てくるだろう。病んだ責任の範囲を彼/彼女に限定することは当然不可能である。

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布団の中で『シドニー!』を読む

2009年10月11日 | 雑文
台風明けの金曜日、朝から体調がひどく悪かった。前夜、家で少し飲み過ぎたせいで体が重いのかと思ったが、そんな訳でもなかったようだ。時間が経つごとに気分が悪くなっていく。体温調節がうまく機能しなくなり、平衡感覚も狂ってくる。つまり汗をかいたり寒がったりしながら、時おりひどい嘔吐感に悩まされるということだ。それにひどい頭痛がセットになってくることもある。1、2年に1度、こういうことがある。

こうなるとひたすら寝ているしかない。時間が経てば自然に回復する。まあ、ここのしばらくの疲れもたまっていたのだろう。布団に入り、うつらうつらしては目を覚ます。目を覚ますと、窓から切り取られた青空を見上げる。台風が去った後の澄んだ秋の空だ。風が次から次へと白い雲を運んでくる。窓に切り取られた小さな青空のフレームの中を白い雲が次から次へと過ぎ去っていく。

青空をぼーっと眺めている自分と、その時に活動している世界のギャップを感じる。いま自分がこうして青空を眺めている間にも、人々はさまざまな活動をしているのだ。そんな人々の世界と自分の距離がとてつもなく遠い感じがする。もうこのまま、そっちの世界には戻っていけないのではないかという気持ちになる。(ほんの一瞬だけ不安を感じ、すぐにそれも悪くないなと思う)。

病気で臥せっていれば誰でもそうだろうが、いつもとは少し違った目で自分を見つめ直すことになる。大抵の場合「こんなところでこんなことをしていてよいのだろうか」という言葉になる。「こんなところでこんなこと」というのは「布団に臥せって、青空を見つめている」ことであり「この世界で、このように暮らしていること」でもある。

いまよりももっと若くセンシティブだった頃には「この世界で、このように暮らしていること」という意味合いが強かった。病気で臥せっていない時にも常にそんな違和感を持っていた。でもいまは違う。「布団に臥せって、青空を見つめて」いてよいのか、というのがほとんどだ。だから、体調を崩し布団に臥せって「こんなところでこんなことをしていてよいのだろうか」という感覚を思い出した時には、ちょっと楽しくもあった。かつて感じた、自分が存在していることの違和感を思い出せたからだ。

午後に入り体調が少し戻ってきたので、布団の中で『シドニー!』の「コアラ純情篇」と「ワラビー熱血篇」の2冊を読む。村上春樹がシドニーオリンピック(2000年9月)を実際に見に行って書いた日誌のようなものだ。オリンピックを挟んだ前後を含めて23日分の文章が載っている。(その他に別の時期の文章も少し)。

この時は、毎日、完成稿を30枚(400字詰め原稿用紙)その日のうちに書くことを決めていたらしい。じっくり練られた小説の文章とは違うが、とても読みやすいし、ところどころには「さすがだなあ」と感心させられる文があった。何よりも、シドニーにいる間、毎日のようにジョギングをしているのには脱帽した。(大抵、60分~70分走っている)

きちんと走って、きちんと文章を書く。これって僕が自分に課していることじゃないか。布団で臥せって青空を眺めているのとは大きな違いだ。走りたいな。何でも良いから文章が書きたいな。そう思いながら、布団の中で2冊読み切って、眠る。

明けて土曜日。午前中は2人の息子の勉強を見る。午後は家族で買い物。買い物ついでに大森の野鳥公園に行こうと思うが、どうしても駐車場に行き着くことが出来なかった。5時閉園で4時ちょっと前に着いたので、駐車場を探してぐるぐるしているうちにタイムオーバー。平和島公園に行き、1時間半ほどフリスビーをやる。体調はすっかり戻っていた。フリスビーを追いかけて子どもたちと走り回った。

そしていまこの文章を書いている。ランニングは出来なかったが、子どもと走って、文章も書けた。明日と明後日はしっかりランニングをしよう。


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夕食時の家族の会話

2009年10月05日 | 雑文
毎日新聞で『12の春よ来い 親子の中学受験日記』という連載が始まった。今回の記事では横浜市在住の橋本さん一家(仮名)を紹介。42歳の鉄鋼メーカー勤務の父親、41歳の専業主婦の母親、そして私立小学校5年の長男の3人家族。

長男が幼稚園の時、父親が息子の受験を突然宣言する。職場に配属された優秀な新人を目の当たりにしたのがきっかけである。彼らは私立中学を受験し、中高一貫で高いレベルの教育を受け、そして難関大学を出ている。子どもの頃から上のステップを目指すことが必要だと父親は痛感する。母親は戸惑いながらもその流れに乗る。

長男も受験の流れに乗れているようである。志望校は開成中学。放課後は週3回、進学塾の「サピックス」に通う。週末は塾の宿題をこなすだけで終わる。小4の2学期からそんな生活を続けている。暗くなるまでボールを蹴る、虫を捕まえて遊ぶ、そんな本来の子どもの生活がないことを不安に感じながらも、受験からは降りられないと決意する母親を描写して、記事は終わる。

で、夕食の時、「なんか大変だよねぇ。どうも上のステップを目指さなくちゃいけないみたいだよ」と家族に話しを始める。「きっと中学、高校、大学と上のステップに行って、就職してからすごい仕事をすることになるんだよ」。

「すごい仕事って何なの?」相方が尋ねる。「いや、きっと世の中にはすごい仕事があるんだよ。きっとそういうのを目指して小学校の時から頑張らなきゃいけないと考えているんだよ」。そう答えて小学校3年の長男に「どうだい?週末は塾の宿題だけ。遊びはまったくなし。それで勉強するというのは。ちょっとやってみるかい?」と話しを振る。

「いやぁ、無理だよ。オレもっと遊ばないと」。当然だろう。その日も土手まで自転車で行ってランニングをし(合計13.5km)、雲梯(うんてい)をやり、猫じゃらしで戦い、3時間近く全力で遊んだのだから。

「なんで中学校の受験をするかというとね、私立の中学校では1年生の内に2年生の勉強をするんだ。2年生では3年生、3年生では高校1年生、高校1年では2年、2年では3年。こういう風に、常に先のことをやっているんだよ」。長男はそのメリットが分からないながらも、へーっという顔で話しを聞いている。

「こういうやり方が上手く行く人もいるけど、ときどきひどいことが起こるんだ。それはね、歳をとった時に、まだ生きているにも関わらず、その先のことをやろうとして、死んだようになってしまうということなんだ」。途中までまじめに聞いていた長男の目がだんだんいたずらっぽくなる。「本当なのは半分だけよ」と相方が僕の話を阻止しようとする。でもめげない。

「これとは反対のこともしばしば起こる。例えば、小学校3年生なのに2年生の勉強をしている。高校生なのに中学生の勉強をしている。こういう人は、大抵、大人になって仕事をするようになってからは、昨日の仕事を今日やるようになる。さらに恐ろしいのは、歳をとって本当は自分が死んでしまっているにも関わらず、そのことに気づかずにまだ生きていると思い込んでしまうことなんだ。こういう人たちがお化けになって出てくるわけだ」。

長男は楽しそうに目を輝かせ、相方はあきれ返った表情でこっちを見ている。わが家で1番の切れ者の4歳の次男がご飯を食べながら厳しい声で「それってけっきょくどういうはなし?」と尋ねる。いつもながら鋭い質問である。ではまとめましょう。

「つまりね、ある時にあることをやらなくちゃいけない。そういうことは人それぞれに決まっているということなんだよ。遊ぶ時には思い切り遊ばなくちゃいけないし、勉強するときには勉強をする、合気道をやるときには一生懸命に合気道をやる。お仕事をする時にはきちんとお仕事をする。遊ばなくちゃいけない時に勉強をしたり、お仕事をする時にいい加減にやったりしてはいけないんだ。やらなくちゃいけない時にやらなくちゃいけないことをきちんとやる。そうしないと、いろんなことが上手くいかなくなっちゃって、後で大変なことになるんだ。そういうお話しなんだよ。わかったかな?」。

長男も次男もきちんと話しを聞いている。何かが伝わったようだ。おまけに、「それは正しい」と、相方から珍しくお褒めの言葉をいただく。わが家の夕食の時の家族の会話である。

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日本語学校の思い出(2)

2009年10月02日 | 雑文
10月に入る。今年もあと3ヶ月。9月のランニングは157km。目標の200kmには43km足りない。フルマラソンほぼ1回分だ。今月はきっちりと200km以上を達成して、まずは11月22日の筑波マラソンのスタートラインに気持ちよく立てるようにしよう。

さて、前回の続きである。僕はフィリピン人の女の子たちのクラスを受け持ったことがある。このクラスはある種、特殊クラスだった。まず、他のクラスとの流動性がなくメンバーが固定されていた。普通は数カ月毎にテストを行ない、それぞれの日本語力に適したクラスに移動する。(正確に言うと、そういうルートが存在する、ということになる。実際にはほとんど移動はなかった。)

フィリピン人の女の子たちのクラスだけはそういったルートが存在しなかった。彼女たちは毎日、同じ時間になると小型のマイクロバスでやってくる。そして時間になればマイクロバスが迎えに来て彼女たちを一斉に連れて帰る。だから基本的には誰も遅刻をしないし、早退もしない。

早退はしないのだが、学校規定の授業終了時間より30分ほど早く帰っていく。本来ならば午後の1時頃に午前部の授業がすべて終わるのだが、何故か12時半になるとマイクロバスがやって来る。クラスを受け持つようになった時に、学校の経営側からは「まぁ、そういう約束になってますから」と説明された。「約束?約束ってどういう約束なんですか?」とても興味があったが聞けなかった。

「ジャパゆきさん」という言葉が流行語になったのが1983年のことである。1970年代から急速に増えた日本に出稼ぎに来た東南アジアの女性たちのことだ。多くの女性が水商売や風俗店で働いたり、働かされたりした。僕が日本語学校で教えていたのが90年代の初めだ。彼女たちはマイクロバスで日本語学校に集団で通う「ジャパゆきさん」だった。

何より驚いたのは、ある朝、彼女たちの髪形が一斉に変わっていたことである。10人以上の女の子たちがみんなパーマをかけているのだ。自発的な行動ではないだろう。おそらくマイクロバスに乗ってみんなで美容院に行ったのだろう。似合っている人もいれば、似合っていない人もいる。でも本人たちはそのことをほとんど気にしていないようだった。それも仕事のうちなのだ。

当然のことだが彼女たちには日本語学校での勉強は必要ない。日本語学校で勉強することが彼女たちの仕事ではない。彼女たちの仕事は日本に合法的に滞在するために、日本語学校に出席することだ。「山田さんは山本さんに尋ねずに、テーブルの上に置いてある花瓶を捨ててしまいました。」というような日本語を彼女たちは必要としていない。彼女たちが必要としているのはもっと実践的な日本語なのだ。

前回の話しと同じだ。僕はまたしても日本語を必要としない人たちに日本語を教えねばならないことになった。こういう時に出来ることと言えば、「自分の出来ることをきちんとやる」ということくらいだ。「自分に出来ることは何だろう」とつねに問いながら。

当時の日本社会での彼女たちは、基本的には「商品」として存在していた。ダンサーとして、ホステスとして、あるいは店が終わった後の娼婦として。(彼女たちが具体的にどんな仕事をしているのかを聞いたことはない。ただ、少なくはない「ジャパゆきさん」は自らが望まない「売春」を行なっていた)。

そういう意味では、日本語学校という空間では彼女たちは「商品」ではなかった。一人ひとり個性を持った若い女の子達だった。底抜けに明るい人もいれば、おどおどしている子もいる。都会的で洗練されている人もいれば、田舎っぽい女の子もいる。みんな20歳前後の女性たちである。日本語学校でアルバイトを終えて大学に行けば、同じくらいの年齢の日本人の女の子たちがたくさんいる。当時の日本の女子大学生たちは、テニスサークルとかスキーとかクリスマスのゴージャスなプレゼントとか、そんな言葉と結びつけられて語られていた。

フィリピンに生まれたか、日本に生まれたか、大きな違いである。私たちは日常的にさまざまに選択を行なっているが、自分が生まれる場所、時代を選ぶことは出来ない。選べないことに大して不平不満を言っても仕方がない。とりあえず状況を受け入れて、その中で選べる時にベストの選択をするしかない。フィリピン人の彼女たちは状況を受け入れていた(と思う)。授業に対しての不平不満を1度も言ったことがない。

もちろん、誰もが真剣に授業を聞いていたというわけではない。授業が分からなくなってぼーっとしている人もいれば、おしゃべりを始める女の子もいる。「先生、いい男ねぇ~」とちゃかす女の子もいれば、小声で歌っているような人もいる。そんな中に1人、僕の方にしっかりと視線を向けている女の子がいた。

クラスで1番きれいな女性だ。非常に整った顔立ちをしていて、スタイルも素晴らしい。何より、とても賢そうな深く澄んだ目をしている。彼女は脚を組んで(不思議と姿勢がよく見える)、手を机の上において、よく僕の方を見ていた。異性として見る眼ではない。深く澄んだ目でしっかりとこっちをみているのだ。公平に何かを判断するような目だ。視線がぶつかる度に、僕はどきっとしたものだ。自分が何か間違いを指摘されているような気がした。

彼女は一生懸命に日本語を学んでいたわけではないが、教えたことはほぼ完璧に理解していたし、質問にもほとんど答えることが出来た。あれだけの美しさで、学力もあり、賢さも備えもっている。日本に生まれていたら、きっといろんな可能性があっただろう。でも現実にはマイクロバスで日本語学校に来て、不満も言わずに授業を聞いている。

そんな彼女の口から1度だけシリアスな質問をされた。いつものように姿勢よく脚を組み、腕を組んで、深く澄んだ目で僕を正面から見てこう言った。

「先生は、私たちのような仕事をしている人間は嫌いか?」

まっすぐにこっちを見ている。ドキッとした。「いや、そんなことはない。僕は嫌いじゃない」、自分を落ち着つかせてそう答えた。答えを聞いて彼女は安心したような表情をした、とか、答えを聞いて彼女はにこっと微笑んだ、というようなことを書けるといいのだが、正直、そのあとどうなったか覚えていない。おそらく、すぐに日常の会話に戻ったのだと思う。(そういうことを語り合っても仕方がないことをわかるくらい彼女は賢かった)。

おそらくその時、男である人間として僕は試されていたのだ。いま振り返ると、その時の僕の答えはそれほどのものではない。その時、きちんと本心を伝えられなかったからだ。言葉として答えは持っていた。でも、その言葉を口にしたら陳腐になってしまうだろうとわかっていた。だから僕はせいぜい嘘をつかないように言葉を選んだのだ。その時、僕が本当に言いたかった言葉は、こういうものだ。

『1度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。僕は・君たちが・好きだ』

『』の中は、村上春樹の処女作『風の歌を聴け』からの引用だ。「僕は・君たちが・好きだ」という部分は小説の中で唯一、太字で書かれているものだ。

嘘をつかないことは簡単だが、本当のことをきちんと言うのはとても難しい。本当のことを言うためには、単に言葉を知っているだけではダメだからだ。その言葉に命を吹き込めるような力量を持っていなければならない。20歳そこそこの当時の僕にはそんな力量はなかったのだろう。

いまはどうだろう?いまの僕は言えるだろうか。「僕は・君たちが・好きだ」と。


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