週末(10月24日、25日)、家族で那須に一泊のキャンプに行った。土曜日は薄曇り、日曜日は本格的な曇りで時おり雨がばらついた。秋晴れの中の紅葉を期待していたけど、曇り空の秋の日も悪くない。少なくとも都会の喧騒を離れて自然の中でゆったりとした時間を過ごすことが出来た。そう書きたいところだが、実際には違う。経験のある人ならわかると思うが、1泊のキャンプというのはかなりドタバタしたものだ。
休みの日なのに早起きをする。高速道路1000円化のおかげでちょっと渋滞気味の道路を走る。昼前にキャンプ場に着きテントとタープを立て、急ぎ昼ご飯の用意をする。ふーっと一息ついたと思ったら、子どもたちと遊ばねばならない。あっという間に夕方が近くなり、夕ご飯の準備。ご飯を食べたら風呂に入る。そして焚き火を囲んでしばし火を眺める。早めに寝てしまう。
朝起きると、堅い地面で体が少し痛くなっている。朝食の準備をし、みんなで食べる。ちょっと休んだと思ったら少しずつ撤収の準備が始まる。テーブルとイスのセットを畳んだり、食材を整理したり、焚き火の残りや、炭の残りを片づけたりする。驚くほど瑣末な片づけがある。昼頃を目指して、ゆっくりだが途切れることなく撤収は続く。タープだけを残して、簡単な昼ご飯を用意する。そしてみんなで食べる。
やっていることは、家事と子育てに追われている日常生活とそれほど違わない。ドタバタ感覚だ。もちろん気持ちよい風は吹いているし、風に揺れる葉っぱの音は耳に入るし、ちょっと目を上げれば色とりどりの木々と葉が目に入る。そんな中でのドタバタはそれなりに心地よい。でも落ち着いて自然をぼんやりと眺めるという感じではない。
すべての撤収が終わる。周りのキャンパー達が1組ずつ去っていき、キャンプ場が静かになってくる。いつものことだが、この辺りから自然と自分の波長が合ってくる。すべてが撤収されてがらんとなったテントサイトの真ん中にイスを置いて座る。木々が風に揺れるそのリズムと自分のリズムが同調し始める。私が木の葉を見ていると言うよりも、木の葉を眺めている私がそこにいるという感じになる。自分が積極的に自然を捕まえようとしない分、自然の方からさまざまなものが僕の中に入ってくる。
例えば、風が遠くからやってくる音が聞こえるようになる。風が木々を揺らすが揺れ方はそれぞれ違う。一本、一本が自分のリズムをもっていて、風に合わせて体を揺らしている。同じ種類の木なのに、まだまだ緑の葉を残している木もあれば、オレンジに色づいた木もある。すでに散りかかっている木もある。木にも一本、一本の個性のようなものがあるのだ。落ち着いて眺めていれば、そういうことは自然の方からやって来る。自分のペースを自然に持ち込むのではなく、自然のペースに自分を合わせる。帰る間際になってやっとそんな感覚になってくる。
帰り道に遠回りをして日塩もみじラインを走る。関東有数の紅葉スポットと言うだけあってなかなか見事だ。曇り空でもこれだけ鮮やかなのだから、晴れた日にはとても発色の良い紅葉が見られるのだろう。途中、面白いことが2つあった。1つは、もみじラインの途中にある散策コースを歩いている時だった。
静かな森の中の散策コースを家族で歩く。ひんやりとした空気があり、都会では決してみることの出来ないような立派なブナの木やミズナラが何本もある。倒れた木々は朽ちはじめ、表面には緑の苔が生えている。適度に手入れされているのだろう。低い草などはほとんどなく、森の中が遠くまで見通せる。適度な散策用のコースだ。
向かいから還暦頃の夫婦が2組歩いてくる。多少息を切らしながら「この先になにかあるのですか?」と尋ねてくる。一瞬、答えに詰まり、「いや、とくに何もないですよ。すぐそこでもどってきたものですから」と答える。僕らは適当に散策していただけだ。特にどこかを目指していたわけでもない。でも答えに詰まったのはそれだけではない。いろんなものが目の前にあるのに、なぜそんな質問をするのかわからなかった。おそらく、ひんやりとした空気も、立派なブナやミズナラや、朽ち木や、緑の苔や、そういうものが彼ら/彼女らの目には入らないのだろう。
自分のペースを自然に持ち込み、自然のペースに自分を合わせていない。森に来る。森にあるものすべてがそこにあるのに、それが目に入らない。森に来て、森にないものを求めている。森にないものを求めているから、森にあるものが目に入らない。そこにあるもので満たされることなく、そこにないものを求めることを「欲」という。「欲」を追い求める人生は疲れる。「何もないんだって。それじゃあ意味はない。疲れたから戻ろう」そう言って、彼ら/彼女らは来た道を疲れた足取りで戻っていった。
もう1つ。「100%源泉かけ流し」という温泉に入った。プレハブのような箱形の建物だが、わりと新しい感じだ。大きな駐車場。新しく平らなアスファルトには、真っ白な太い線で駐車スペースが描いてある。車はほとんど停まっていない。値段は大人600円、子ども300円。高くはない。受け付けの女性に「露天風呂はありますか?」と尋ねると、ちょっと慌てて「ええ、中で別々にわかれて」とちょっとかみ合わない答えが返ってくる。
たしかに「100%源泉かけ流し」であった。基本的にはコンクリートの打ちっ放しである。室内も露天風呂も浴槽はコンクリートの打ちっ放しである。室内の浴槽はわりと大きい。いや、あれくらいの浴槽はいくらでもあるだろうが、室内の広さの割には浴槽のスペースが大きいのだ。そして「100%源泉」の熱すぎるお湯がなみなみと溢れている。入れないくらい熱い。
洗い場には5つほど洗い席がある。それぞれの席には蛇口が1つだけついている。「100%源泉」が蛇口から出てくる。勢いは悪く、桶になかなかお湯が溜まらない。そして当然のように「熱い」。せめて水道の蛇口をつけてくれれば良いのに。子どもの体から石鹸の泡を流すのに一苦労である。
子どもたちは「シャワーは?シャワーは?」と尋ねていた。
露天風呂はちょうどよい湯温だ。だが浴槽が小さい。縦1.5メートル×横2メートルくらい。コンクリートの打ちっ放しである。小学校の頃、夏にプールに入る前に薬品の入った浴槽のようなところに腰まで浸からされた。その時の浴槽とすごく似ていて、なんだか奇妙な感じがした。おまけに室内の浴槽が熱すぎるから、6,7人の大人が小さな露天風呂に集まってくる。全員が入れるわけもなく、縁に座って脚だけはいっている人もいる。
狭い露天風呂にはたくさんの人。広々とした室内の浴槽には誰もいない。室内風呂と露天風呂を反対にすれば良かったのに。受け付けの女性がちょっと慌てて受け答えをしていたのが分かった気がした。それでも温泉は温泉。方言まじりで半分しか理解できない老人に相づちを打ちながら、子ども2人とゆっくりお湯につかっていたら、地面の堅さで痛んだ体も楽になった。だんだんと暗くなる紅葉の山道をゆっくりと走る。いつの間にか子どもたちは後部座席で眠ってしまった。そんな週末であった。
ブログを書く前に、後の思い出のためにちょっと週末のことを書いておこうと思ったら、こんなに長いものになってしまった。う~む。
休みの日なのに早起きをする。高速道路1000円化のおかげでちょっと渋滞気味の道路を走る。昼前にキャンプ場に着きテントとタープを立て、急ぎ昼ご飯の用意をする。ふーっと一息ついたと思ったら、子どもたちと遊ばねばならない。あっという間に夕方が近くなり、夕ご飯の準備。ご飯を食べたら風呂に入る。そして焚き火を囲んでしばし火を眺める。早めに寝てしまう。
朝起きると、堅い地面で体が少し痛くなっている。朝食の準備をし、みんなで食べる。ちょっと休んだと思ったら少しずつ撤収の準備が始まる。テーブルとイスのセットを畳んだり、食材を整理したり、焚き火の残りや、炭の残りを片づけたりする。驚くほど瑣末な片づけがある。昼頃を目指して、ゆっくりだが途切れることなく撤収は続く。タープだけを残して、簡単な昼ご飯を用意する。そしてみんなで食べる。
やっていることは、家事と子育てに追われている日常生活とそれほど違わない。ドタバタ感覚だ。もちろん気持ちよい風は吹いているし、風に揺れる葉っぱの音は耳に入るし、ちょっと目を上げれば色とりどりの木々と葉が目に入る。そんな中でのドタバタはそれなりに心地よい。でも落ち着いて自然をぼんやりと眺めるという感じではない。
すべての撤収が終わる。周りのキャンパー達が1組ずつ去っていき、キャンプ場が静かになってくる。いつものことだが、この辺りから自然と自分の波長が合ってくる。すべてが撤収されてがらんとなったテントサイトの真ん中にイスを置いて座る。木々が風に揺れるそのリズムと自分のリズムが同調し始める。私が木の葉を見ていると言うよりも、木の葉を眺めている私がそこにいるという感じになる。自分が積極的に自然を捕まえようとしない分、自然の方からさまざまなものが僕の中に入ってくる。
例えば、風が遠くからやってくる音が聞こえるようになる。風が木々を揺らすが揺れ方はそれぞれ違う。一本、一本が自分のリズムをもっていて、風に合わせて体を揺らしている。同じ種類の木なのに、まだまだ緑の葉を残している木もあれば、オレンジに色づいた木もある。すでに散りかかっている木もある。木にも一本、一本の個性のようなものがあるのだ。落ち着いて眺めていれば、そういうことは自然の方からやって来る。自分のペースを自然に持ち込むのではなく、自然のペースに自分を合わせる。帰る間際になってやっとそんな感覚になってくる。
帰り道に遠回りをして日塩もみじラインを走る。関東有数の紅葉スポットと言うだけあってなかなか見事だ。曇り空でもこれだけ鮮やかなのだから、晴れた日にはとても発色の良い紅葉が見られるのだろう。途中、面白いことが2つあった。1つは、もみじラインの途中にある散策コースを歩いている時だった。
静かな森の中の散策コースを家族で歩く。ひんやりとした空気があり、都会では決してみることの出来ないような立派なブナの木やミズナラが何本もある。倒れた木々は朽ちはじめ、表面には緑の苔が生えている。適度に手入れされているのだろう。低い草などはほとんどなく、森の中が遠くまで見通せる。適度な散策用のコースだ。
向かいから還暦頃の夫婦が2組歩いてくる。多少息を切らしながら「この先になにかあるのですか?」と尋ねてくる。一瞬、答えに詰まり、「いや、とくに何もないですよ。すぐそこでもどってきたものですから」と答える。僕らは適当に散策していただけだ。特にどこかを目指していたわけでもない。でも答えに詰まったのはそれだけではない。いろんなものが目の前にあるのに、なぜそんな質問をするのかわからなかった。おそらく、ひんやりとした空気も、立派なブナやミズナラや、朽ち木や、緑の苔や、そういうものが彼ら/彼女らの目には入らないのだろう。
自分のペースを自然に持ち込み、自然のペースに自分を合わせていない。森に来る。森にあるものすべてがそこにあるのに、それが目に入らない。森に来て、森にないものを求めている。森にないものを求めているから、森にあるものが目に入らない。そこにあるもので満たされることなく、そこにないものを求めることを「欲」という。「欲」を追い求める人生は疲れる。「何もないんだって。それじゃあ意味はない。疲れたから戻ろう」そう言って、彼ら/彼女らは来た道を疲れた足取りで戻っていった。
もう1つ。「100%源泉かけ流し」という温泉に入った。プレハブのような箱形の建物だが、わりと新しい感じだ。大きな駐車場。新しく平らなアスファルトには、真っ白な太い線で駐車スペースが描いてある。車はほとんど停まっていない。値段は大人600円、子ども300円。高くはない。受け付けの女性に「露天風呂はありますか?」と尋ねると、ちょっと慌てて「ええ、中で別々にわかれて」とちょっとかみ合わない答えが返ってくる。
たしかに「100%源泉かけ流し」であった。基本的にはコンクリートの打ちっ放しである。室内も露天風呂も浴槽はコンクリートの打ちっ放しである。室内の浴槽はわりと大きい。いや、あれくらいの浴槽はいくらでもあるだろうが、室内の広さの割には浴槽のスペースが大きいのだ。そして「100%源泉」の熱すぎるお湯がなみなみと溢れている。入れないくらい熱い。
洗い場には5つほど洗い席がある。それぞれの席には蛇口が1つだけついている。「100%源泉」が蛇口から出てくる。勢いは悪く、桶になかなかお湯が溜まらない。そして当然のように「熱い」。せめて水道の蛇口をつけてくれれば良いのに。子どもの体から石鹸の泡を流すのに一苦労である。
子どもたちは「シャワーは?シャワーは?」と尋ねていた。
露天風呂はちょうどよい湯温だ。だが浴槽が小さい。縦1.5メートル×横2メートルくらい。コンクリートの打ちっ放しである。小学校の頃、夏にプールに入る前に薬品の入った浴槽のようなところに腰まで浸からされた。その時の浴槽とすごく似ていて、なんだか奇妙な感じがした。おまけに室内の浴槽が熱すぎるから、6,7人の大人が小さな露天風呂に集まってくる。全員が入れるわけもなく、縁に座って脚だけはいっている人もいる。
狭い露天風呂にはたくさんの人。広々とした室内の浴槽には誰もいない。室内風呂と露天風呂を反対にすれば良かったのに。受け付けの女性がちょっと慌てて受け答えをしていたのが分かった気がした。それでも温泉は温泉。方言まじりで半分しか理解できない老人に相づちを打ちながら、子ども2人とゆっくりお湯につかっていたら、地面の堅さで痛んだ体も楽になった。だんだんと暗くなる紅葉の山道をゆっくりと走る。いつの間にか子どもたちは後部座席で眠ってしまった。そんな週末であった。
ブログを書く前に、後の思い出のためにちょっと週末のことを書いておこうと思ったら、こんなに長いものになってしまった。う~む。