とんびの視点

まとはづれなことばかり

不審者情報

2016年03月30日 | 雑文
先日、こんな不審者情報メールが届いた。登録型の区のメール配信サービスだ。

午後9時30分ころ、路上で生徒が帰宅途中、男に声をかけられました。
■声かけ等の内容
・最近引越して道が分からない
・駅どっちですか
(不審者の特徴については、20歳代、170cm 位)
子供の善意につけこもうとする巧妙な声かけが発生しています。各家庭での注意喚起をお願いします。
平成28年3月

このメールについて考えていたところ、2年間行方不明だった中学生の女の子が保護されたというニュースがあった。知らない男性に監禁されていたそうだ。不審者情報がとどいたときには、メールに対してすこし批判的な観点から考えていた。事件が報道されたあとも、基本的な考え方は同じなのだが、すこし丁寧に考えないといけないとおもった。

まず、このメールの内容に書かれている「できごと」の部分だけを取り出してみる。

若い男がいた。最近引っ越してきたばかりで、駅に行こうと思ったが道がわからない。そこで通りがかりの小学生に道をたずねた。

これだけである。ここから事実としての問題を指摘できる人はどのくらいいるのだろうか。あまりいないのではないか。もちろんこの先に「誘拐」とか「暴行」などを想像すれば可能である。若い男は何らかの悪意を持っているに違いない、と。しかし事実としては、そのようなことは書かれていない。

そのような想像を可能にしているのは、メールそのものが「不審者情報」として届いていることだ。そして「子供の善意につけこもうとする巧妙な声かけが発生しています。各家庭での注意喚起をお願いします」という文が付け加えられていることだ。

僕が小学生のころであれば、「こういうときは道を教えてあげましょう」というのが当たり前の反応だったと思う。おそらく、いまでも道徳の授業でこういう話を取り上げたら、「道を教えてあげましょう」と言わざるをえないような気がする。状況的には、困った人がいたらどうするか、という話になってしまうからだ。

もちろん、実際にこの若い男が悪意を持っていたのか、ただの道に迷っただけなのかは分からない。問題は、そのわからなさが、「不審者」という肩書きに十分なリアリティーを与える社会になっていることだ。いや、社会ではない。一人ひとりのメンタリティーがそうなっているのだ。

知らない人は不審者である。たしかにそう言えるかも知れない。そして不審者の中には2年間も女の子を監禁するような人間がいる。しかしほとんどの人は問題を起こそうとは思っていないはずだ。

声をかけたのがいけないのだ。そう考えるのも理解できる。声をかけるから不審者だと思われるのだ、と。だとすれば、何か困ったときにも人に声をかけてはいけない。自分ひとりで何とかしなくてはならない。子どもたちにもそう教えなくてはならなくなる。

知らない人が声をかけてきたら、それは危険な人だと思いなさい。そしてあなたが困ったときも人に声をかけると危険な人だと思われます。子どもたちがそんなメッセージを内面化し、成長を遂げたらどんな社会になるのだろうか。すごく緊張をしながらも、無関心を装っているような、そんな空気が蔓延した社会になりそうだ。

半年以上も前だろうか。PTAの運営委員会で、子どもの安全の話をしていたときだ。ちょっとファンキーな男が小学生の帽子を指にひっかけ、くるくる指せながら口笛を吹いて学校に入ってきた。交通指導の人たちがすぐに近くに行ったので何事もなかった。よかった。そんな話があった。

おそらく、その場にいた人にとっては、不審な人間が学校に入ってきたように感じただろう。そして、結果的に何もなくてよかったというのも正しい。ただ、気になった。その人は何をしに来たのかだ。尋ねたところ、帽子が落ちていたので届けに来た、との答えだった。つまり、ちょっと気のいい親切な人がいたという話だ。

その場にいた人が不安を感じたのは事実である。しかし、気のいい男が親切にも帽子を届けにきてくれたのも事実である。見知らぬ人が悪意で声をかけてくることもあるし、見知らぬ人が親切で声をかけてくることもある。この社会にはどちらもある。すべて悪意と決めつけるのも危ないし、すべて親切だと決めつけるのも危ない。決めつけることで、ものごとをよく見なくなるからだ。よく見なければ見誤るし、見誤れば対処を間違う。それは危険だ。

統計的に見れば、犯罪は減っているはずだ。それに殺人などの多くは家族や知りあいなどの近しい間柄で起こる。その一方で、体感治安はどんどん悪化し、人々は不安を感じている。今回のような事件があると、犯罪は減っているからあまり心配しないでもよい、と簡単には言えない。

多くの人たちが自分でも気づかないで、この状況にストレスを感じているかもしれない。だとすると、そのひずみがどこかに出てくるはずだ。そういうことは、大人がちゃんと考えなければならない。大人が決めつけて楽をすれば、そのひずみは子どもたちに出てしまうかも知れないからだ。
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3月11日に見た夢

2016年03月17日 | 雑文
夢を見た。

郊外の住宅地のようなところ。護岸をコンクリートで固められた小さな川が流れている。川の両側はアスファルトの車が一台走れる程度の道路だ。川は道路の2、3メートル下にある。道路に沿って、二階建ての住宅が並んでいる。人気がない。風はないが、薄曇りで寒い。静かだ。

川に架かる橋の横に、小型の象くらいの金色の竜が座っている。猫が背筋を伸ばして座るように。竜の足元には子どもの靴が一足置いてある。濡れた靴だ。竜が届けに来たようだ。

僕らは何かを探していた。長いこと見つからなくなっていた何かだ。子どもの靴を見て、探していたものが子どもだったことに気がつく。僕らはいなくなった子どもを探していたのだ。

靴を見て、子どもが二度と帰ってこないことを知る。それと同時に、子どもがどこに行ってしまったかも知る。私たちがかつてやってきたところに、子どもは先に帰って行ってしまったのだ。竜はそのことを僕らに教えるために、靴を届けに来たのだ。

子どもがもう帰ってこないと知ったことに哀しみを感じ、子どもがどこに行ったのかわかったことに少し安堵する。哀しみと安堵を抱えたまま、この先を過ごすのだとわかる。

子どもを連れて行ってしまったのも竜だし、子どもの靴を届けてくれたのも竜だった。僕らはそんな竜のいる世界にいるのだと実感する。

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