とんびの視点

まとはづれなことばかり

箒と雑巾で掃除

2011年05月30日 | 雑文
予想より早い梅雨入りと足の指のケガで週末にはランニングが出来なかった。最後の追い込みをし、何とか月間200kmを達成しようとしたのだが、結局5月は160kmくらいしか走れなかった。4月も100kmちょっと。ここまで練習量が少ないままで本番を迎えるのは何年ぶりだろうか。おまけに木曜日の夜から土曜日の夕方まで仕事でキャンプだ。テントと寝袋ではきっと疲れがたまることだろう。

梅雨の合間、今日は昼過ぎに強い北風が吹き、青空が顔を出した。足の状態を確認するために1時間ほど軽くジョギング。水を湛えた荒川がゆっくりと流れる。風が水面を波立たせる。空にはくっきりとした青い空と流れていく白い雲。ゴルフ場は半分近く水浸しになっている。緑の芝が透明な水の下に見える。時おり鳥が鳴きながら飛んで行く。風が草花のツンとした匂いを運んでくる。

そんな中、軽くジョギングをする。軽いジョギングだが、体は重い。やはり走り込み不足だ。足の指も少しばかり痛む。どうやら4時間切りは微妙になってきた。まあいい、与えられた条件でどこまでの結果が出せるかを楽しめばよい。あとは走ってから考えよう。

新しい家に引っ越してからしょっちゅう掃除をする。朝、仕事前に余裕があれば家中を箒で掃き、雑巾掛けをする。朝から夜まで仕事の時も夜中に軽く箒で階段を掃いたりする。トイレ掃除など週に4回はしている。もともと掃除は嫌いではなかったが、引っ越す前の公団は掃除をしてもきれいになっている感じがしなかった。ギリギリのところで渾沌を防ぐために掃除をしているようなものだった。

引っ越してまず気づいたのは、掃除機というのは暴力的かつ面倒な機械だということだ。我が家の掃除機が古くて安いこともあるが、とにかくうるさい。掃除機をかけていると周りの音が聞こえなくなる。音楽やラジオでも聴きながら家事をしたいと思うのだが、工場にいるようなうるささだ。それに階段の掃除が面倒だ。重い掃除機を左手で持ちながら、右手でゴミを吸っていく。掃除機が壁や階段にぶつからないように神経を使う。階段やロフト用に軽い掃除機を買おうかという話しが出るくらいだ。

掃除機を使えば掃除が楽になる。掃除機とは便利な機械で、効率的なものである。そう思っていたのだが、けっこう面倒くさいヤツに思えてきた。工場のようなうるささだし、階段で使うには不自由だ。おまけに電気も使う。うるさくて、融通が利かなくて、やたらと飯を食う。そんな人間がいたらだれだって嫌がるはずだ。

そこで箒と雑巾で掃除をしてみた。これがなかなか良い。もちろん掃除機よりは時間がかかる。でも音楽やラジオを聴きながらゆったりした気分で掃除ができる。やってみればわかるが、箒というのはあまり慌てて掃くとほこりが舞ってしまい部屋がきれいにならない。舞わないようにするためには、こちらがほこりに合わせねばならない。効率的にものごとを進めるために、手間をきちんとかけねばならないということだ。

それでも多少のほこりが残る。残ったほこりを雑巾で丁寧に拭いていく。これもやってみればわかるが、きちんと雑巾をかけているときは、雑巾を通して掌に伝わる床の感触が心地よい。あまりあわせすぎると表面を撫でるだけになり、ほこりも汚れもきちんと取れない。きれいになった床を素足で歩くと気持ちまですっきりする。

掃除機で掃除をしている時は、気持ちよさというのは感じなかった。掃除というのは効率的に済ませたい家事であり、無駄な時間をとられる作業であった。結局のところ、掃除機というものが掃除(部屋をきれいにすること)を効率的に行なうために作られたものだから、それを使っている僕も無意識のうちにその文脈に引きずり込まれていたのだ。

箒と雑巾の掃除も家をきれいにするためだが、プロセス無視の時間短縮などは出来ないようになっている。そう考えると、掃除機での掃除と箒と雑巾での掃除は別物と考えた方が良いのだろう。両方を「掃除」という一点で捉まえて、効率の観点から優劣をつけることできない。そこで手に入れるものはそれぞれ違うからだ。

面白いのは、箒と雑巾での掃除が、「仕事」という言葉の本来の(?)意味をよく表していることだ。「仕事」を読み下せば「事に仕える」となる。誰が仕えるのかといえば「私」である。つまり「私が事に仕える」のが仕事ということになる。とすれば「私」と「事」とどちらが主人だろう。当然、「事」である。「私」は事が求めることを聞き逃さないように耳を澄ます下僕のようなものである。

「仕事」というと私たちは「タスクコントロール」だとか「案件管理」だとか言う。明らかに仕事をコントロールの対象と見ている。主人は私で、仕事とは思い通りに出来る物だと思っているのだ。「仕事をする」というのを、私が好き勝手に対象を操作することと考えるか、私が耳を澄ませてその場で必要とされていることを聴き取り何かを成就することだと考えるかでは、大きな違いだ。どちらから「想定外」という言葉が出てくるかは推して知るべしだ。

私たちの社会は長らく対象を思いのままにコントロールすることに心血を注ぎ込んできた。そしてそのゆがみが顕在化してきた。多分、見ない振りはもう出来ないだろう。もう少し「事」の声に耳を澄ましてみるのがよい。たとえば右手に箒、左手に雑巾でも持ちながら。

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結局、手書きで距離を管理

2011年05月28日 | 雑文
合気道の稽古で左足の指を引っかけられ捻挫をする。中指のつけ根が赤く腫れ上っている。大した怪我ではないが、歩くのも階段の上り下りをするのも多少かばいながらになる。来週の日曜日はフルマラソンなので、一応、接骨院に行く。「だいたい全治2週間くらいですね」と言われる。マラソンまでは10日しかない。計算が合わない。どうやら今回も厳しいことになりそうだ。(楽しいことは結構あるが、楽なフルマラソンはないのだ)

ランニングといえば、いつの間にかナイキ+を使って距離を計測することを止めてしまった。新しいセンサーを使ったのだがやはり走っている途中で距離が上手く測れなくなる。ナイキ+とはそういう縁なのね、と納得して、再び手帳を使って手書きで距離をカウントすることにする。

12km、5km、20kmと日々書き込み、そして走行距離を足していく。計算をしながら、この調子だと月間に200kmは無理だなとか、来週は1日多く走ろうとか、少しは盛り返してきたとか、そんなことを考える。ナイキ+で走行距離を管理するより多少の手間はかかるが、べつに面倒な作業ではない。

自分の数字を書き、想像することで、走ることに関する自分の姿が内側から立ち上がってくるような感覚がある。その手応えが心地よい。ナイキ+を使っていると自分の情報を外側から与えられることになる。自分が何も意識しなくても機械が管理してくれる。便利ではあるがちょっと手応えがない。じゃあ手書きが良くてナイキ+がダメかというとそういうことでもない。

手書きで自分のランニングを組み立てることと、ナイキ+でランニング情報を管理することを別物なのだ。どちらも自分のランニングの目標を設定し、そのための走行距離を管理する点では同じだ。しかし手書きだと手間がかかるが、ナイキ+なら簡単に出来る、というふうに捉えると何かを見落とすことになる。

同じことを達成するにはより手間をかけない方が良い、というのは効率重視の考え方だ。手書きでランニングを管理しているというと、「そんなの面倒じゃん。ナイキ+なら楽にできるのに」と言われることがある。確かにその方が効率的だ。ただそれは手書きであろうとナイキ+であろうと、どちらもランニングの距離を管理するだけ、両方とも同じこと、と思っている時に成り立つ話しだ。

手書きであろうとナイキ+であろうと、集計された数字は同じはずだ。しかしそこに至るプロセスは全く違う。プロセスが違うということは、体験そのものが違い、そこから得るものが違う。それは私たち誰もが「死」という結果を迎えるが、そのプロセス、体験、得るものはそれぞれ違うのと同じである。

私も死ぬし、あなたも死ぬ、その意味ではどちらも同じ「死」を迎える。手書きであろうとナイキ+であろうと距離を管理できるのと同じだ。しかし、私の人生における体験とあなたの人生における体験はまったく違うものかもしれない。それと同じように、手書きとナイキ+では、距離を管理することに違いがある。

それぞれの人生に優劣をつけられないように、手書きとナイキ+にも優劣はつけられない。どちらかというとそれは(他者との関わりの中で調整せざるを得ない)好みの問題である。僕は手書きでちまちまと距離を書き込みながら、いろいろと計算や想像をしながら、自分のランニングを組み立てていくのが結構好きなのだ。ナイキ+が使えなくなってそのことに気がついた。そんなところだ。

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フルマラソン、住宅ローン、儀礼

2011年05月20日 | 雑文
はやいもので引っ越しをしてから3週間になる。相変わらず忙しい日々が続いているが、さすがに日常は取り戻した感じだ。というわけで、いま一番気になっているのが6月5日の東京喜多マラソンだ。この大会はとても小規模だ。主催は東京の北区ラジオ体操連盟、つまり区レベルのいかにも手作りといった大会だ。

この大会は以前に(2回ほど?)走ったことがある。最初の時は、まだ走力も安定せずタイムよりも完走(全く歩かないでという意味)することが目標だった頃だ。歩きはしなかったが、35キロ過ぎで両足が同時に肉離れを起し、しばしコース上に座り込んでしまった。でもそれよりも大変だったのは暑さだ。むっとする草いきれの中、荒川の土手を4時間以上も走らなければならない。脚というより全身の体力消耗が激しかった。今回のレースでも最大の敵は暑さになるだろう。

なぜこの時期の大会にエントリーしたのかというと、今年の一月末の館山若潮マラソンで反省したからだ。この大会は一年ぶりのフルマラソンだった。去年の一月末に館山で走り、そしてちょうど一年後にまた館山だ。去年のタイムが3時間32分だったので、今年は3時間30分を狙っていたのだが、結果的には3時間40分を超えてしまった。間隔が一年空いてしまうと練習も含めて調整が非常に難しいと実感し、年間を通しての走力維持のために夏前に一度フルマラソンにチャレンジしておくことにした。

個人的な目標だが、フルマラソンに参加するなら4時間を切らねばならないと思っている。4時間を切れないならわざわざお金を出して大会に参加する必要はない。なぜなら4時間を切るというは能力の問題ではなく、ある程度の練習量を確保するという自己管理の問題だからだ。僕の場合は月間で200キロ走っていればまず4時間は切れる。月間200キロ走るための時間は楽には確保できないが、頑張ってやりくりすれば何とか確保できる。

そう、僕にとってフルマラソンの大会に参加するということは、大会当日に42.195キロ走るということではない。目標に向かって時間をかけ決められた手順を踏むという一連のプロセスである。さらに今回の大会は、来年の館山若潮マラソンに向けた準備でもある。つまり今回の大会は1つのプロセスであると同時に、より大きなプロセスの一部なのだ。ランニングに関する限り僕はけっこうきちんとしているのだ。だから他人にとやかく言われることがないし、自分で長期的な計画を立てることが出来る。(まあ、人のランニングにとやかく言う人はそういないと思うけど……)

きちんとしていないと、他人に計画を立てられることになる。例えば住宅ローンだ。多くの人たちと同じように、僕には現金で家を買うほどの財力はない。当然、住宅ローンを組むことになる。ローンを組むのに交渉の余地はない(感じがした)。ルールを極めるのはすべてあちら側で、こっちはそのルールを守れるかどうか査定されるだけだ。

契約の過程でいろいろ説明してくれるが、正直、疑義を挟み込む余地はない。不明な点があってもイエスというために質問をするような感じだ。基本的には言われることに頷くだけだ。そうすると契約が成立する。契約でちょっと面白かったのは、何枚も何枚も自筆で名前を書き、ハンコを捺すことだ。すごく手間がかかる。効率的に行なおうと思えば、すべてを説明したあとで1箇所に署名と押印するように出来るはずだ。

何度も名前を書きハンコを捺していると少しずつ不思議な気分になってくる。自分が行なっていることの重みが少しずつ実感されるのだ。ああ、自分のある部分が何十年にわたって決められていく。もうそれ以前には戻れないのだ。そういう実感だ。ある種の通過儀礼のようだ。

儀礼というのは形骸化しやすいという欠点もあるが、きちんとしたプロセスを踏むことで、ある状態を別の状態にきちんと変える働きをする。だから何枚も何枚も名前を書き、ハンコを捺すという行為は効率化すべきではないのだろう。それはある意味で必要なプロセスなのだ。(少なくともローンを組んで家を買うというのはそれに値するだろう)

効率化という観点からすれば、プロセスはなるべく省略された方がよい。最善なのはノープロセスだ。努力することなく富を手に入れるという考えと同型の思考である。しかし効率化というのは極めて限定された場面でしか通用しないのではないか。なぜなら始まりと終わりを設定し、そのプロセスを最小限にすることが効率化だとするならば、生まれたらなるべく早く死ぬことこそ人が効率的に生きることになるからだ。

局面局面では効率を重視しても、人生全体で見渡せばプロセスが重要となる。時に応じて必要な手間をかけ、儀礼を行なうように一歩一歩前に進んでいく。そこにはフルマラソンもあり、住宅ローンもある。そういうことを繰り返すことで、始まりと終わりを別の状態にすることができる。人生全体が儀礼のようなものかもしれない。だとすれば私たちはいったいどこからどこに通過しようとしているのだろう。それはきちんと儀礼を執り行うことでわかるのだろう。

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団地に残された家族

2011年05月09日 | 雑文
ゴールデンウィークが終わりいつも通りの日々が戻る。普通ならそう書くところだが、個人的には引っ越しがやっと終わり、少しずつ日常を取り戻す日々が始まろうとしている。会社は1日で作れるが、組織を作るには時間がかかる。同じように、引っ越しは1日で終わるが、新たな日常を作るにはそれなりの時間がかかりそうだ。

ゴールデンウィーク前半は段ボールや荷物の整理でてんやわんやだった。朝起きてから夜寝るまで段ボール中から荷物を出して右往左往していると、いつの間にか夜になっている。ゆっくりと新居を味わう時間もない。階段の上り下りのときに栂の無垢材の風合いや壁の漆喰の白が目に着いたときなど、うん良い家だな、と思うのだが、それが自分の家だとは思えない。さあそろそろ帰ろうか、という声がどこからか聞こえてきそうな気がする。

それとは別な奇妙な感覚も味わった。一日中片づけをし、疲れた体で家族で夕食を取る。新しい家で始まる新しい生活に子どもたちがワクワクしているのが感じられる。夕食はいつもよりも家族の団欒の暖かな雰囲気だ。新たな生活をちょっとだけ実感する。でもそれと同時に、自分たちが虚構ではないのかという気持ちになる。

本物の僕と家族は今もまだあの団地の12階の部屋で生活をしているのではないか。僕らの1番大事な部分はあそこに残っているのでないか。そんな気がする。まだ団地で生活をしている彼らのことを思う。そこにはこじんまりとしたささやかな生活がある。妙な気持ちだが、そんな彼らの生活が壊れないことをどこかで願ってしまう。

そんな奇妙な気持ちの揺れを感じながらゴールデンウィークの前半を過ごした。後半に入ると、少しずつ日常が戻り始めた。ゴールデンウィーク後半で合計70kmほどランニングをした。4回ほど土手まで行った。そのうち2回は子どもたちが自転車、相方がランニング、家族全員だ。たくさんの草が生えていた。タンポポは白い綿毛を飛ばしていたし、名も知らない草花がたくさん咲いていた。春ではなく初夏のような陽気だ。ランニングをして土手まで行き、土手で子どもたちとボール遊びをし、またランニングで帰ってくる。そんなことを2日ほどやる。

そして残りの2日は20kmを超えるランニングだ。1月末の若潮マラソン以後、月に100kmちょっとのペースで走っていたのでかなり脚力が落ちていた。20km程度のランニングで(それもゆっくりしたペースなのに)脚が筋肉痛になっている。次は6月5日の喜多マラソン。そこまでに何とか走力を戻さねばならない。

そして今日、こうしてブログを久しぶりに書いている。何だか物事がやっと一巡した感じだ。仕事場にしているロフトに座ってパソコンに向かうことにも違和感がなくなってきたし、窓から見える景色にも慣れてきた。(ここからは決して桜並木も富士山も見えることはないだろう)。引っ越し直後に団地に残してきた彼らも時間的に少し遠いところに行きつつある。

仕切り直し。新たなスタートなのだろう。とは言え、やることはこれまでと大して変わらない。きちんと仕事をし、ちゃんと子どもを育て、甘えることなくランニングを続け、言葉を丁寧に追いかけていくこと、それくらいである。あっ、そうそう。それときちんとローンを返すこと。
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