予想より早い梅雨入りと足の指のケガで週末にはランニングが出来なかった。最後の追い込みをし、何とか月間200kmを達成しようとしたのだが、結局5月は160kmくらいしか走れなかった。4月も100kmちょっと。ここまで練習量が少ないままで本番を迎えるのは何年ぶりだろうか。おまけに木曜日の夜から土曜日の夕方まで仕事でキャンプだ。テントと寝袋ではきっと疲れがたまることだろう。
梅雨の合間、今日は昼過ぎに強い北風が吹き、青空が顔を出した。足の状態を確認するために1時間ほど軽くジョギング。水を湛えた荒川がゆっくりと流れる。風が水面を波立たせる。空にはくっきりとした青い空と流れていく白い雲。ゴルフ場は半分近く水浸しになっている。緑の芝が透明な水の下に見える。時おり鳥が鳴きながら飛んで行く。風が草花のツンとした匂いを運んでくる。
そんな中、軽くジョギングをする。軽いジョギングだが、体は重い。やはり走り込み不足だ。足の指も少しばかり痛む。どうやら4時間切りは微妙になってきた。まあいい、与えられた条件でどこまでの結果が出せるかを楽しめばよい。あとは走ってから考えよう。
新しい家に引っ越してからしょっちゅう掃除をする。朝、仕事前に余裕があれば家中を箒で掃き、雑巾掛けをする。朝から夜まで仕事の時も夜中に軽く箒で階段を掃いたりする。トイレ掃除など週に4回はしている。もともと掃除は嫌いではなかったが、引っ越す前の公団は掃除をしてもきれいになっている感じがしなかった。ギリギリのところで渾沌を防ぐために掃除をしているようなものだった。
引っ越してまず気づいたのは、掃除機というのは暴力的かつ面倒な機械だということだ。我が家の掃除機が古くて安いこともあるが、とにかくうるさい。掃除機をかけていると周りの音が聞こえなくなる。音楽やラジオでも聴きながら家事をしたいと思うのだが、工場にいるようなうるささだ。それに階段の掃除が面倒だ。重い掃除機を左手で持ちながら、右手でゴミを吸っていく。掃除機が壁や階段にぶつからないように神経を使う。階段やロフト用に軽い掃除機を買おうかという話しが出るくらいだ。
掃除機を使えば掃除が楽になる。掃除機とは便利な機械で、効率的なものである。そう思っていたのだが、けっこう面倒くさいヤツに思えてきた。工場のようなうるささだし、階段で使うには不自由だ。おまけに電気も使う。うるさくて、融通が利かなくて、やたらと飯を食う。そんな人間がいたらだれだって嫌がるはずだ。
そこで箒と雑巾で掃除をしてみた。これがなかなか良い。もちろん掃除機よりは時間がかかる。でも音楽やラジオを聴きながらゆったりした気分で掃除ができる。やってみればわかるが、箒というのはあまり慌てて掃くとほこりが舞ってしまい部屋がきれいにならない。舞わないようにするためには、こちらがほこりに合わせねばならない。効率的にものごとを進めるために、手間をきちんとかけねばならないということだ。
それでも多少のほこりが残る。残ったほこりを雑巾で丁寧に拭いていく。これもやってみればわかるが、きちんと雑巾をかけているときは、雑巾を通して掌に伝わる床の感触が心地よい。あまりあわせすぎると表面を撫でるだけになり、ほこりも汚れもきちんと取れない。きれいになった床を素足で歩くと気持ちまですっきりする。
掃除機で掃除をしている時は、気持ちよさというのは感じなかった。掃除というのは効率的に済ませたい家事であり、無駄な時間をとられる作業であった。結局のところ、掃除機というものが掃除(部屋をきれいにすること)を効率的に行なうために作られたものだから、それを使っている僕も無意識のうちにその文脈に引きずり込まれていたのだ。
箒と雑巾の掃除も家をきれいにするためだが、プロセス無視の時間短縮などは出来ないようになっている。そう考えると、掃除機での掃除と箒と雑巾での掃除は別物と考えた方が良いのだろう。両方を「掃除」という一点で捉まえて、効率の観点から優劣をつけることできない。そこで手に入れるものはそれぞれ違うからだ。
面白いのは、箒と雑巾での掃除が、「仕事」という言葉の本来の(?)意味をよく表していることだ。「仕事」を読み下せば「事に仕える」となる。誰が仕えるのかといえば「私」である。つまり「私が事に仕える」のが仕事ということになる。とすれば「私」と「事」とどちらが主人だろう。当然、「事」である。「私」は事が求めることを聞き逃さないように耳を澄ます下僕のようなものである。
「仕事」というと私たちは「タスクコントロール」だとか「案件管理」だとか言う。明らかに仕事をコントロールの対象と見ている。主人は私で、仕事とは思い通りに出来る物だと思っているのだ。「仕事をする」というのを、私が好き勝手に対象を操作することと考えるか、私が耳を澄ませてその場で必要とされていることを聴き取り何かを成就することだと考えるかでは、大きな違いだ。どちらから「想定外」という言葉が出てくるかは推して知るべしだ。
私たちの社会は長らく対象を思いのままにコントロールすることに心血を注ぎ込んできた。そしてそのゆがみが顕在化してきた。多分、見ない振りはもう出来ないだろう。もう少し「事」の声に耳を澄ましてみるのがよい。たとえば右手に箒、左手に雑巾でも持ちながら。
梅雨の合間、今日は昼過ぎに強い北風が吹き、青空が顔を出した。足の状態を確認するために1時間ほど軽くジョギング。水を湛えた荒川がゆっくりと流れる。風が水面を波立たせる。空にはくっきりとした青い空と流れていく白い雲。ゴルフ場は半分近く水浸しになっている。緑の芝が透明な水の下に見える。時おり鳥が鳴きながら飛んで行く。風が草花のツンとした匂いを運んでくる。
そんな中、軽くジョギングをする。軽いジョギングだが、体は重い。やはり走り込み不足だ。足の指も少しばかり痛む。どうやら4時間切りは微妙になってきた。まあいい、与えられた条件でどこまでの結果が出せるかを楽しめばよい。あとは走ってから考えよう。
新しい家に引っ越してからしょっちゅう掃除をする。朝、仕事前に余裕があれば家中を箒で掃き、雑巾掛けをする。朝から夜まで仕事の時も夜中に軽く箒で階段を掃いたりする。トイレ掃除など週に4回はしている。もともと掃除は嫌いではなかったが、引っ越す前の公団は掃除をしてもきれいになっている感じがしなかった。ギリギリのところで渾沌を防ぐために掃除をしているようなものだった。
引っ越してまず気づいたのは、掃除機というのは暴力的かつ面倒な機械だということだ。我が家の掃除機が古くて安いこともあるが、とにかくうるさい。掃除機をかけていると周りの音が聞こえなくなる。音楽やラジオでも聴きながら家事をしたいと思うのだが、工場にいるようなうるささだ。それに階段の掃除が面倒だ。重い掃除機を左手で持ちながら、右手でゴミを吸っていく。掃除機が壁や階段にぶつからないように神経を使う。階段やロフト用に軽い掃除機を買おうかという話しが出るくらいだ。
掃除機を使えば掃除が楽になる。掃除機とは便利な機械で、効率的なものである。そう思っていたのだが、けっこう面倒くさいヤツに思えてきた。工場のようなうるささだし、階段で使うには不自由だ。おまけに電気も使う。うるさくて、融通が利かなくて、やたらと飯を食う。そんな人間がいたらだれだって嫌がるはずだ。
そこで箒と雑巾で掃除をしてみた。これがなかなか良い。もちろん掃除機よりは時間がかかる。でも音楽やラジオを聴きながらゆったりした気分で掃除ができる。やってみればわかるが、箒というのはあまり慌てて掃くとほこりが舞ってしまい部屋がきれいにならない。舞わないようにするためには、こちらがほこりに合わせねばならない。効率的にものごとを進めるために、手間をきちんとかけねばならないということだ。
それでも多少のほこりが残る。残ったほこりを雑巾で丁寧に拭いていく。これもやってみればわかるが、きちんと雑巾をかけているときは、雑巾を通して掌に伝わる床の感触が心地よい。あまりあわせすぎると表面を撫でるだけになり、ほこりも汚れもきちんと取れない。きれいになった床を素足で歩くと気持ちまですっきりする。
掃除機で掃除をしている時は、気持ちよさというのは感じなかった。掃除というのは効率的に済ませたい家事であり、無駄な時間をとられる作業であった。結局のところ、掃除機というものが掃除(部屋をきれいにすること)を効率的に行なうために作られたものだから、それを使っている僕も無意識のうちにその文脈に引きずり込まれていたのだ。
箒と雑巾の掃除も家をきれいにするためだが、プロセス無視の時間短縮などは出来ないようになっている。そう考えると、掃除機での掃除と箒と雑巾での掃除は別物と考えた方が良いのだろう。両方を「掃除」という一点で捉まえて、効率の観点から優劣をつけることできない。そこで手に入れるものはそれぞれ違うからだ。
面白いのは、箒と雑巾での掃除が、「仕事」という言葉の本来の(?)意味をよく表していることだ。「仕事」を読み下せば「事に仕える」となる。誰が仕えるのかといえば「私」である。つまり「私が事に仕える」のが仕事ということになる。とすれば「私」と「事」とどちらが主人だろう。当然、「事」である。「私」は事が求めることを聞き逃さないように耳を澄ます下僕のようなものである。
「仕事」というと私たちは「タスクコントロール」だとか「案件管理」だとか言う。明らかに仕事をコントロールの対象と見ている。主人は私で、仕事とは思い通りに出来る物だと思っているのだ。「仕事をする」というのを、私が好き勝手に対象を操作することと考えるか、私が耳を澄ませてその場で必要とされていることを聴き取り何かを成就することだと考えるかでは、大きな違いだ。どちらから「想定外」という言葉が出てくるかは推して知るべしだ。
私たちの社会は長らく対象を思いのままにコントロールすることに心血を注ぎ込んできた。そしてそのゆがみが顕在化してきた。多分、見ない振りはもう出来ないだろう。もう少し「事」の声に耳を澄ましてみるのがよい。たとえば右手に箒、左手に雑巾でも持ちながら。