荒川の土手ランニング。土手には花見の家族がたくさん。給水所や距離表示の看板など、明日の板橋cityマラソンの準備も進む。8キロほど走ったが体が重い。花粉対策にマスクをした。苦しいが、これもトレーニングになるだろう。
久しぶりのランニング。6キロほど走る。体が重い。捻挫した左足首に違和感。おまけに右膝の痛みも軽く再発。それでも走るのは心地よい。2週間ぶりの土手は春だった。
【東京新聞より】原発を維持するのに必要な負担。いずれ積み立てを終える必要がある費用は11兆3,889億円。その他に毎年必要な費用として4,000億円以上。いずれも電気料金や税金として国民が負担。政府は原発の個々の費用は説明するが、国民が全体でどれだけ負担するか一切公表していない
【東京新聞より】電通総研が昨年約七万人を対象にインターネット調査。日本人の5.2%がLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル=両性愛者、トランスジェンダー=性同一性障害も含む=の総称)という結果が出た。これは20人に1人の割合。
【東京新聞より】安倍政権は1952年にサンフランシスコ講話条約が発行した4月28日を「主権回復の日」として、式典開催を決めた。だが、この日は、沖縄にとっては本土から切り離され、米施政権下におかれた「屈辱の日」である。
シンプルだが長く続く問いだ。長距離レースのように blog.goo.ne.jp/sorakan/e/7a36…
接骨院に行く。捻挫は順調に回復しているが、週末の板橋cityマラソンは無理とのこと。ハーフなら良いがフルは危険。無理すれば完走できるだろうが、足首をかばってせっかく治ったヒザを再発させることになる可能性が大きい。軽めのランニングから徐々に距離を伸ばすことに。
『野生の科学』(中沢新一著、講談社)を読了。独特の語り口にどんな意図があるのか考えるため、すこしゆっくり目に読んでみた。難解な専門用語を喩に載せることで分野の境界を越え感覚にうったえかけるという書き方だ。言っていることはシンプル。「あっち」と「こっち」をどう繋ぐか。
僕の人生に新たな要素が付け加わったかもしれない。花粉症だ。木曜日の夜あたりから、鼻が詰まり、目がかゆくなりだした。軽い猫アレルギーが再発しはじめたのかと思ったが、金曜日からどんどんと悪化、土日は本当にひどいことになった。目の周りは腫れぼったくなる。鼻もただ詰まったというより、咽と接する部分が腫れてしまい、つばを飲み込むときに、呼吸そのものがしにくくなった。昨夜は夜中に眠っていて、呼吸が出来ずに跳ね起きるハメになった。花粉症とは無縁のまま人生を過ごせるかと思っていたのだが、分からないものである。
ランニングをはじめて花粉症が改善したという話しをよく聞く。僕の知り合いにも良くなったという人がいた。知り合いの耳鼻科医と話したところ、汗をかいたり代謝が良くなることで、体内に貯め込んでいるアレルゲンをたくさん排出することはありえる、と言っていた。僕もランニングをしてしょっちゅう汗をかいているので花粉症とは無縁でいけると勝手に思っていた。
そう考えると、足首を捻挫して走れない、ちょうどその時に花粉症が出てきた、というのは面白いことだ。自説の根拠にも出来そうだし、ランニングを再開すれば花粉症がなくなるはずだと希望ももてる。どちらもいい加減な話しだが、人生に起こるさまざまな出来事には、ある種の必然性や物語は必要だ。その意味では悪くない。
とはいえ、捻挫が治らないのはまずい。次の日曜日の板橋cityマラソンが危なくなってきた。去年はこの大会を知人の伴走として走った。その2ヶ月前の館山でヒザのケガを悪化させた。ほとんど練習も出来ず、参加を見送ろうと思ったが、何となく自分が逃げている気がしたので、初心者の知人の伴走として7時間かけて完走した。結果的に1年間ケガを引きずる原因のひとつになったと思う。
ランニングに関してなら、自分はもう逃げることはないと分かっているので、今回は不参加も視野に入れて慎重に検討しよう。何しろ今年の目標は、ヒザを悪化させずに1年間を過ごすことだ。短期的な視点で焦ることはない。水曜日の朝に軽くジョギングをし、金曜日に10キロほど走り、それで問題がなければ参加だ。今年の館山若潮マラソンと同じように、時計を見ずに体と対話をしながら走ればよい。参加できなくても、自分の按配でランニングをすればよい。そう考えると、ランニングのすべてが楽しくなってくる。
『楽しむ』ということなら、長男が小学校生活の最後を楽しんでいる。3月に入ってから毎日のように、30分以上も早く学校に行く。友だちと待ち合わせて、いろいろ遊んでいるらしい。卒業までにいくつ〈いたずら〉をするか決めているようだ。その上、学校から帰ってくるとすぐに遊びに行く。日によっては、ご飯も食べられないくらい疲れ果てて帰ってくる。そしてやたらと眠る。年明け、1ヵ月に1センチペースで背も伸びた。
無意識が中学生になるための準備をしているのだと思う。準備というのは中学の勉強を先取りすることではない。小学生のうちにやっておくことをすべてやることだ。それこそ中学生になるための準備だ。人にはその時、その時、しっかりと味わい尽くしておかねばならないことがある。何かやり残したことは、いずれ還ってくる。誰かが扉を叩く、「トントン、忘れ物ですよ」と。
先日、Podcastで為末大の話しを聞いていたら、同じようなことを言っていた。若いうちにやり残したことは、人生の後半に大きく響く、と。さらに「人への見せ方って、ある程度コントロールできるんですよ。でも、自分が感じちゃったことって変えられないんですよね」と言っていた。Exactly, that's right! という感じだ。周囲の人間をすべて騙すことが出来ても、自分を騙すことはできない。その時は騙せたように思っていても、いずれ「トントン、忘れ物ですよ」とやって来る。
小学生のうちに、小学生としてやっておくことを、力いっぱいやっておく。言葉にすれば、当たり前のことだ。でもこれが「自分の生きているうちに、自分がやっておかねばならないことを、やり残すことなくきちんとやっておく」と言い換えるとどうだろう。シンプルな考えは深くまで達する。深くまで見通すためには、自分が濁っていてはいけない。
私やあなたが生きている間に、やっておかねばならないことは何だろう。
シンプルだが長く続く問いだ。長距離レースのように。
次男、骨折後3週間。今日、病院から松葉杖を借りる。上手く歩けるようなら学校に行ってもよいと言われる。全然安心できない。遅々たる歩み。10分休みの間にトイレに行って戻ってくることは不可能だろう。数日は家の中で松葉杖のトレーニング。本人は「リハビリ、リハビリ」と言って、楽しんでいる。
『僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか』という本をぱらぱらめくっていたら、「シングルイシューのセミプロ化」という項に行き当たった。ここしばらく僕が考えていたことが書いてあった。筆者は荻上チキという人で、1981年生まれの若手の評論家だ。
僕がこの人を知ったきっかけは、DigというTBSのラジオ番組のPodcast版を聞いた事だ。この番組はけっこうディープに時事の話題を掘り下げている。大手新聞やNHKニュースなどでは分からない情報や切り口が手に入る。のこういう番組を聞くようになったのも、震災・原発事故があったからかもしれない。火曜日の神保さん、木曜日の青木さん、水曜日の荻上さんという順に気に入っている。
荻上さんの本に書いてあることは、このご時世、政治家や官僚にすべてをお任せして安心できるものではない。だからといってすべての政治的問題、社会的問題に精通することも出来ない。だったら1つのテーマでよいから深く掘り下げて、何か一言いえるくらいになっておこう、というものだ。
2年前に震災・原発事故があり、少しずつ原発について関心を持つようになってきた。しかし振り返ってみれば、調べ方は極めて効率の悪いものだった。深く理解し、系統的な知識として身に付けるというより、読んでいて理解し、漠然とした印象のみが残るというやり方だ。だから何度も同じ話しを読むことになった。
それでも月に一冊程度本を読んでいると少しずつ理解は深まってくる。原発について知れば知るほど、原発はダメだというシンプルな思いが強まると同時に、原発問題というのはさまざまな要素が絡み合っていることもわかってきた。資源エネルギー問題、(兵器に繋がる)核技術問題、日米関係、地方の経済問題、官僚システムの問題、政官業学マスコミの問題、東電の体質、私たちの生活スタイルの問題など、そう簡単に整理はつかない。
きちんとした整理にはまだ時間がかかるが、直観したのは、他の社会的な問題も同じ構造なのだろうということだ。沖縄の問題でもよい、水俣病でもよい、何らかの社会的な問題を掘り下げていけば、それらは原発問題と同じ構造で、社会すべてへと広がり関わっていくことになるだろう。1つ掘り下げ理解することで、この社会の仕組みが全般的に理解できる。
100台の車を展示場で眺めるのもよいが、それだけだと表面的な理解に留まる。1台でもよいから自分で分解してその仕組みを理解する。それは車の深い理解に繋がる。その上で100台の車を見れば、表面的な違いと、目に見えない共通の問題を同時に理解できる。社会を理解するのもそれと同じことだ。
昨年末の衆議院選挙で争点となったのは「経済」だ。低い投票率により相対的に得票数が高かっただけで自民党が圧勝した。その勢いで「憲法改正」や「原発推進」まで行なおうとしている。経済が右肩上がりで、利益分配が政治家の仕事の時代であればそれも可能かもしれない。
しかし現在は、利益よりも負担の分配が政治家の仕事である。1つの争点で勝利した政治家(とそれをコントロールする官僚)にすべてをお任せすることは出来ない。その意味で、私たちは何か1つは社会的な問題に精通しなければならない時代が来たのかもしれない。(余談だが先日読んだ『政府はこうして国民を騙す』(長谷川幸洋著、講談社)はとても面白いと同時に、何かを深く掘り下げることの必要性を感じた。)
そういう意味では、震災後の復興計画のあり方や、原発問題などはとてもよい機会である。数十年後に振り返れば、2011年3月11日は歴史的な転換点として思い出されるだろう。あの出来事をきっかけに良い方に転換したことになるのか、それとも悪い方に転換したことになるのか。それはまだわからない。いや、どちらにするか、それが現在の私たちに問われていることである。3月11日はそういう日である。
金の亡者のように東電から補償金を取ろうとする人の姿は醜いものかもしれない。また、避難した地域で毎日パチンコをしている姿を見習いたいとは思わない。しかし、それを簡単に非難する気にはなれない。東電から補償金を貰うことばかりを考えている自分、住み慣れた場所から離れて毎日パチンコをしている自分、どちらを想像してもそうなりたいとは思えないからだ。
東電から補償金を取ろうとしている人も、パチンコしかすることがない人も、原発事故以前に「原発事故があれば補償金を奪い取れますが、それを望みますか」「毎日、避難住宅からパチンコに通えますがそうしますか」と尋ねられたら、おそらく断ると思う。
「被災者」というのは、被災したという意味で人々をひと括りにする言葉だ。それは人間としての何らかの共通した性格や特性を表すものではない。(日本人の被災者はきちんとしていることが無理な幻想を抱かせているのかもしれない)。きちんとした人もいれば、ろくでもない人もいる。人のことを考える人もいれば、自分の得ばかりの人もいる。当たり前のことだが、いろんな人がいる。ただ、ほとんどの人は、原発事故前には自力で自分の生活をそれなりに成り立たせていたはずだ。補償金で生活するために、パチンコを毎日やるために、原発事故でその生活が失われることを求めた人はいないだろう。
事故後の個々人の行動に焦点を当てて云々することも必要かもしれない。しかしそれよりも、これらの人たちが事故を自分の世界の外で起こった出来事として処理できなかったことに、私たちは注意を払おう。事故を自分の出来事として受容するためには、自分が変容せざるを得なかったのだ。その強いられた変容が、補償金を奪い取ることや、毎日のパチンコ通いという行為かもしれない。(そのありようは、この世界で生き抜くために精神を病んでいく人たちと似ている)。
2年前に起こった出来事によって、多くの人たちがそのような変容を強いられているに違いない。受容するためには自らの命を絶たねばならないという人もいる。今日の東京新聞の1面トップは「原発関連死789人」という見出しだ。福島第一原発事故に伴う避難やストレスによる体調悪化で死亡したケースを、東京新聞が独自に定義してカウントした人数だ。誰一人、そのような事態を望んでいた人はいないだろう。
1ヵ月くらい前には、福島県の18歳以下の3人が甲状腺ガンの手術を行なったという記事があった。ガンの疑いがあるのはこの他にも7人いる。検査を受けたのは3万8000人くらいだ。ヨーロッパでは50万~100万人に1人という病気だから、明らかに異常な人数だ。(チェルノブイリの先例に照らせば、今後、甲状腺ガンを含め、さまざまな病状が出るだろう)。これらの人々も起こった出来事を受容することで変容を迫られたわけだ。
時がたつほどに、被災者は個別化されていく。それぞれ少しずつ異なった人生を生きているからだ。そうなると事故そのものではなく、一人ひとりの生活や行為に焦点が当てられるだろう。正論を述べる視点から、それぞれを非難することは簡単だろう。しかしそういう非難を行なうことよりも、強いられた変容を引き起こした事態を思い起こすことが大切だろう。いや、忘れないことだな。
2年前はまだ古い公団の12階に住んでいた。あの日のことはよく覚えている。家で仕事をしていた。部屋がゆっくりと揺れはじめた。少しずつ揺れが強くなり、テレビやタンスが倒れた。本棚からは本が落ちた。食器棚から落ちた皿やコップが割れた。扉の開いた冷蔵庫は女性の声で「扉が開いています。扉が開いています」と繰り返していた。逃げ道を確保するために玄関を開けた。そこに差し込む太陽の光が妙に輝いていた。
子どもたちの安否を確認し、夜までかかって土足で部屋を片づけた。夜には近くの国道122号線が車で渋滞していた。歩道も歩いて帰宅をする人たちで溢れた。ずっとテレビを見ていた。少しずつ被害の様子が判明してきた。どうやら大きな津波が起きたようだ。何度も同じ情報が流れ、時折、新たなことがわかる。夜には真っ暗な気仙沼の街が燃える映像を見て、その暗闇と炎の中にいる人たちのことを思った。翌日の朝になると、荒浜地区で数百体の遺体がある模様、とヘリコプターからのリポート。言葉は理解できるが、どこで受けとめてよいのかわからない。時間とともに増え続ける死者数。そして一連の原発事故。
何かが変わってしまった。そう実感した。この出来事の以前と以後では、世界は確実に違うものになってしまったんだ、と。しかし時が経つにつれ、世間では震災・原発事故は過去の出来事になっていった。あれは2011年3月11日以後に起こり、すでに終わってしまった出来事、というわけだ。そして今は復興という掛け声とともに、現場を無視した公共事業などが行なわれようとしている。東京でも事故後の節電がウソのように、かつてと同じ明るい夜が戻っている。(あのネオンの寂しい渋谷の道玄坂はけっこう気に入っていたのだが)。
どうしてなのだろう。不思議に思い、そして気づいた。変わったのは世界ではなく自分なのだ、と。世界は常に生滅流転を繰り返し、変化している。たしかに3.11の出来事は大きな変化だった。しかしそれを受けとめる自分が変わらなければ、出来事はそこで終わり、すぐに自分とは関係のない過去の出来事になっていく。
ある出来事に出会った時に、自分が変わらずにその出来事を処理できるか、自分が変わらねばその出来事を受容できないか、その違いが問題なのだ。自分が変わることなく震災・原発事故を処理できた人にとっては、それは自分の外側に起こった過去の出来事となる。僕にとっては、震災・原発事故を受容するには、自分が変容することが必要だった。自分が変わってしまったのだから、震災・原発事故はいつも現在形で僕の中に存在することになる。
人が変わるというのは、いつでもそういうことだ。世界で起こる出来事を受容するために、自分が変わらねばならないときに、人は変わるのだ。だからこそ、些細な言葉に傷ついて髪を切ったり、フルマラソンを完走することで世界が拓けたりするのだ。どんな小さな出来事でも人は変われるし、どんな大きな出来事でも人は変わらない。
日比谷公園から見て海の方には、有楽町や銀座の街が広がる。そこには春の休日を楽しむ人たちがたくさんいる。海とは反対の方に、首相官邸や国会議事堂がある。そちらに向かって人々がデモ行進をする。突然の強風が、黄砂と冷たさを連れてきて、少し辛い。おまけに左足は捻挫している。
道すがら、ほとんど人はいない。デモ行進をする人に次いで多いのは、警備の警察官だ。歩きながら、有楽町や銀座にいる人たちのことを考える。そしてカミュの言葉を思い出す。「貧者の世界に沈潜するものには、目と鼻の先にある医者のアパルトマンのことを、《あっち》というふうに言わなければならない」。よい言葉だ。
目の前の有楽町や銀座が《あっち》に感じられる。そもそもデモ行進とは、《こっち》と《あっち》という境界をつなぐ行為であるはずだ。(少なくとも僕にとってはそうだ。自分の正しい主義主張で、異なる主張を糾弾するためのものではない)。でも《あっち》は遠く、《あっち》は《こっち》の存在にも気づいていなさそうだ。
人はほとんどいない。デモの横を車が走る。共感を示す人もいれば、無関心な人もいる。信号でスムーズに曲がれないと怒っている人もいる。デモとは反対方向にマスクをした1人の男が赤ん坊を抱いて歩いてくる。デモに向かって「左翼は北朝鮮に帰れ」と何回も叫ぶ。有楽町や銀座とは違う《あっち》がここにいる。
出来事を受容しようとするほどに、その現在性が厚みを増していく。そしてその分、自己の変容が迫られることになる。世界は生滅流転を繰り返している。世界というなら、私たちもその世界の一部である。世界の一部である私たちの生滅流転とは、私たち自身の変容にほかならない。頑なに変容を拒むことは、存在の法則に背くことになる。そのツケはいずれ誰かが払わねばならない。子どもたちや孫たちの世代に押し付けず、自分たちで払って死んでいこう。