とんびの視点

まとはづれなことばかり

フランダースの光

2010年10月26日 | 雑文
先週の水曜日、Bunkamuraザ・ミュージアムに『フランダースの光 ベルギーの美しき村を描いて』という展覧会を見に行った。美術館に行くのは久しぶりで、久しぶりに行く美術館がいつもそうであるように、最初はなかなか絵が見えてこなかった。意識的に絵を解釈したり、ぼーっと眺めたりとしばらく繰り返しているうちに少しずつ絵が見えてきた。

今回、絵を見ながら考えさせられたのは「距離」ということだった。画家と対象の距離というものが絵にはしっかりと表れるものだなと実感した。(勝手な思う込みかもしれないけど)。まず絵によって見ている僕が風景の中に入り込みやすいものと、なかなか入れないものがある。これは画家が対象と一体になった状態で描いているか、対象を観察対象として描いているかの違いのように感じられた。

さらに画家と対象との物理的な距離と心理的な距離というものが絵に現れているように感じた。物理的な距離と心理的な距離というのは、写真を撮る時に被写体に近づくか望遠レンズを使うかの違いに似ているかもしれない。ある被写体がある。それとの物理的な距離は誰が測っても同じだ。被写体を大きく撮りたいと感じた時、カメラを持って被写体に近づくか、望遠レンズを使うことが出来る。

カメラを持って被写体に近づけば物理的な距離と心理的な距離は一致していると考えられる。(意図的に外すことも可能だろうが)。望遠レンズを使った場合、物理的な距離と心理的な距離にはズレが生じる。相手からは遠いが、こちらからは近いというあの妙な感覚だ。

絵画においても物理的な距離と心理的な距離が画面に現れているように見えた。そして絵画の面白さは、一枚の絵画の中に物理的な距離と心理的な距離の両方が混在しているように見えることだ。画家によってはその混在がうまく統合されているものもあれば、まとまっていないものもある。(風景を客観的な対象として描こうとしている絵画には物理的な距離と心理的な距離の混在はほとんどない)。

しかし考えてみれば、これは私たちの日常を眺める視線と同じである。私たちの目にはさまざまな物が映っているが、私たちはその中の何かに自覚的にあるいは無意識的に焦点を合わせて切り取っている。目に映っているすべてとの物理的な距離を測ることは可能だ。しかしそのなかの1つに焦点を合わせた時、それは心理的にとても近いものになる。自覚的であれ無自覚であれ何に対して焦点を合わせているかによって、私たちの世界の表情が大きく違ってくる。

女の子の足首がどうしても気になると言う男とかつて知り合いだった。別の男はあえて眼鏡を外して日常を過ごすことで世界がぼんやりして楽だと言っていた。心理的な距離によって世界の見え方は違ってくるものだ。そして心理的な距離というのは人それぞれの焦点の合わせ方の違いだ。物理的には同じ世界に住んでいながら心理的には違う世界を見ている。風景画が多種多様なのもそういうことなのだろう。
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親子マラソン

2010年10月18日 | 雑文
昨日は荒川土手で開催された『タートルマラソン』に参加した。親子マラソンに出るためだ。昨年に続き、2年連続での参加だ。昨年は長男と一緒に走ったが、今年は家族全員での参加になった。長男は相方と、僕は次男と走った。参加資格は小学生以上なのだが、次男はわが家の中では唯一、走る能力が高い人間なので参加させることにした。

親子マラソンのスタートは午後1時半。僕らは12時頃に会場に着くように家を出た。自転車で土手まで出て、土手の堤の上を4kmほど下流に向かった。土手の下ではハーフマラソンのランナー達がたくさん走っている。沿道では太鼓の演奏をしたり、ランニング同好会がそれぞれ旗を立てて応援をしている。大会の賑わいに誘われるようにして出てきた近所の人たちが芝生に座って眺めたり、大会を知らずに土手に来た人が戸惑ったりしていた。

そんな風景や音をちょっと強過ぎる秋の光が包み込んでいた。そこを走るランナーを見ているとすごくレースに参加したくなった。血が騒ぐ。いま目の前のレースを走っていないことが何か損をしているかのように感じられた。こういうとき、自分が本当に走ることを好きなのだと実感させられる。自分にとって最も苦手で大嫌いだったランニング。少しずつ走っているうちに、他人が走っているのを見て血が騒ぐほどになったのだ。

親子マラソンはたったの2kmだ。僕にとっては「走る」という言葉が当てはまらない程度の距離だ。だからスタート前に長男が緊張しているのを見て、へーっ、と思った。僕もフルマラソンを走り始めた頃にはスタート前には緊張したものだ。果たしたこのレースを走り切れるのだろうか。これから続く何時間かの苦しさを思うとエントリーしたことを後悔することもしばしばだった。

親子マラソンはタイムも取らないし順位もない。それぞれの親子が好きに走れば良い。唯一のルールはゴールする時に親子で手を繋ぐことだ。(レース前の挨拶で主催者が、「ゴールのときは仲良く手を繋いでください。仲が良いのはレースのときだけかもしれませんから」となかなか思い切った発言をしていた。)

可能なら家族4人で手を繋いでゴールしようと約束してスタートを切った。長男が小学4年生、次男が保育園の年長といえば、ふつうは長男の走力が圧倒的に上のはずである。しかし長男は子ども時代の私と同じで走ることが大の苦手。それに比べて次男はどこから遺伝子を引っ張ってきたのか走ることが大の得意。そんなわけで本番前の練習でも長男と互角に渡り合っていたのだ。

スタート直後の混雑は大人のレースも親子マラソンも変わらない。前に人が詰まっているのでゆっくりしか走れない。速く走ろうとすれば人混みを縫うことになりペースを乱してしまう。結局、次男は自分のペースで走れない。おまけに初めてのレースなので変に興奮して走りながら飛び跳ねたりしている。やめたほうがいいと何度もアドバイスするのだが、アドバイスに反応して飛び跳ねる始末だ。さすがに長男は落ち着いて走っている。少しずつ差が開く。

次男の走りが落ち着いたのは折り返し地点が見えてきたころだろうか。落ち着いたというより少しバテているようだ。息が上がりかけているし、走りに力がない。とりあえず歩かないでゴールまで引っ張ろうと思った。折り返してしばらく行くと、ペースの落ちてくる親子が少しずつ出てくる。母親だけが先を走り、子どもが泣きながら追いかけている親子もいた。(かなり長い距離そうしていた。子どもは母親を追いかけて一生懸命走っているが、子どもは走ることが嫌いにならないのだろうか?)

苦しいか、と何度も声をかける。だいじょうぶ、としっかりした声で答える。少しだけ苦しそうだが息も整ってきたし、走りも安定してきた。子どもながらに真剣な表情をしている。苦しい時に意識を集められるのが次男の強みだ。

ゴールまで300メートルくらいになる。少しだけスピードを上げられるか、と尋ねる。うん、と小さく頷く。「いち、に、いち、に」と声をかけピッチを上げさせる。周りの親子より少しスピードが速くなり、1組、また1組と抜いて行く。よし、いい感じだ。もう少し行ったら、もっとスピードを上げよう。一緒によーいドンで競争をしよう。そう言うと、うん、としっかり頷く。

残り100m。「よーし、よーいドンだ。いち、に、いち、に、いち、に……」少しずつスピードを上げさせる。次男はほとんど全速力だ。周りの親子をどんどん抜いて行く。短距離走のレースをしているような走りだ。ゴールの先では長男と相方が待っている。ゴール手前で慌てて次男の手をつかみ、手を繋いでゴール。タイムは14分57秒くらい。1度も歩かず、最後にスパートまでした。5歳の子どもにしては悪くない。

ゴールするとすぐに肩車をして、景品と飲み物を貰いに行く。たった2kmだったが、僕にとっても中身の濃い2kmだった。自分一人で2km走ってもこんなことにはならない。ランニングを始めた時、誰とも関わらず1人でできるのがとてもよいと思っていた。でも、こうして2人で走るのも悪くない。レース後の土手に漂う祭りの後の空気の中、自転車を漕いで家まで帰った。



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小欲知足

2010年10月10日 | 雑文
長男が通知表を持って帰ってきた。そう言えば長男の小学校は2期制だった。学校が週休二日制になって授業日数が確保できない。そのためには行事の日を減らすしかない。そんなわけで始業式と終業式の2日分を確保するために2期制になっている。

夏休みの直前に通知表を持ってこないというのも違和感があるし、10月8日に持ってきた通知表に親のコメントを入れて10月12日に返すのも違和感がある。通知表というのは長い休みの間、家に置いてあるものだという習い性のせいだろう。

金曜日に家に帰り、長男に成績表はどうだったと尋ねた。「ほとんど良いだったよ」とすごく嬉しそうな笑顔で答えた。「そうそれは良かったね」と僕も微笑む。正直、小学4年生の段階でそれほど成績にこだわるつもりはない。この段階でこだわるとすれば、勉強の時間を増やし、内容の先取りをすることになるからだ。

勉強の時間を増やすということは、それ以外の何かが出来なくなるということだ。学歴至上主義の保護者からすれば、子どもは無駄な時間を過ごしているように見えるかもしれない。でも子どもはその時期にしか出来ない、自分たちにとって意味のあることをやっているのだ。

ちなみに長男は、公園で手ごろな大きさの石を拾って、それをさらに大きな石で割って「砥石」を作っている。その間、友だちの何人かは日能研やサピックスで勉強をしている。ある程度、学力に差が出るのは仕方がない。

とは言え、良い成績が取れているならそれに越したことはない。ほとんどが「良い」という通知表を手に取ってみた。3段階評価である。「大変良い」「良い」「もう少し」。なるほど、たしかに半分以上が「良い」である。言い換えれば、半分以上は「大変良いではない」ということになる。

通知表から顔を上げて長男を見る。にこにこして僕を見ている。「うん、たしかにほとんど良いだ。良かったね」と声をかける。「小欲知足」という言葉が浮かんだ。同じ成績表でも「大変良い」がなかったと不満に思うことも出来し、「良い」がほとんどだったと喜ぶことも出来る。どちらが幸せか、どちらが満たさせているかは明らかである。

もちろん、そんなことをしていると将来しっぺ返しを食らうことになるぞ、と思う人たちも多いだろう。あるいはそうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。先取りの詰め込みの時間よりも、満たされた表情をしている時間の方が(少なくとも小学生くらいの段階では)必要だと僕は思う。

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書くことに意義(異議?)あり

2010年10月04日 | 雑文
とにかく忙しい。ブログを書く時間が取れない。少しずつブログを書こうという意識も薄れていく。このまま行くとブログを書かないでも問題なく日々が過ごせるようになりそうだ。そう思ってちょっと怖くなり、何を書くかも考えずキーボードを叩き始めた。

もちろんブログなど書かなくても生きていくことはできる。この「もちろん○○などなくても生きていける」という物言いを時おり耳にする。「もちろん自家用車などなくても生きていける」「もちろん本など読まなくても生きていける」「もちろんランニングなどしなくても生きていける」、などなど。

このとき「生きる」という言葉が指しているのは「命がある」という状態だ。とりあえず「生きている」というのは大事なことだ。だからと言って、ただ生きていれば良いということではない。生命の維持がそこそこ保証されたら、人は「生きる意味」を求めるようになる。「生きる意味」というのはある意味、単なる生存にからすれば「過剰」でもある。しかしその「過剰」をストーリ化することで人は人生に意味を見いだしている。

僕にとってブログを書くというのは、自らのストーリーを作る上での必要な過剰だ。言葉に向かい合う時間、言葉と戯れる時間、そういうものがストーリーの大きな部分を占めている。結末は見えないけど。

10月に入った。9月のランニングはひどいものだった。残暑のせいで前半はほぼ全滅。後半に入ってやっと少しずつ走れるようになった。結局、月の後半に75kmくらい走った。ペーストしては悪くない。久しぶりに下半身が筋肉痛の日々を送っている。今日現在で、目標まであと900km。早くも暗雲が垂れ込めている。

先週末には、次男の運動会。保育園生活最後の運動会だ。わが家は長男と次男の2人の子供しかいないので、保育園の運動会に保護者として参加するのはこれが最後になる。そう思うとちょっと感慨深いものがある。小学校にも運動会はあるが基本は見るだけだ。保育園だと親子競技(今回は二人三脚)をしたり、閉会前に「にんげんていいな」を一緒に踊ったりする。競技中に手を繋いだり、抱っこをしたりする。そういうのもこれが最後になるのだ。あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれをとらえることはできない。僕たちはそんなふうにして生きている。@村上春樹

最後の運動会というので、普段は面倒くさがって手に取らないビデオカメラで録画をする。すぐに気が狂いそうになる。運動会がまったく見えない。フレームの中の次男だけしか見えない。生のフィールドが見えない。何かが終わっても拍手もできない。すぐに嫌になり、適当にビデオを回しながら目では実際のフィールドを見ていた。(ただ地面だけが映っている画像があった)。

秋の涼しい夜にベランダに出る。池袋のサンシャインや新宿の高層ビル街の夜景が見える。ビルの高さを示す赤い光がそれぞれの間隔で点滅している。風が吹く。周りは静かだ。池袋や新宿の街を想像する。光が氾濫して、人々が騒いでいる。何だか遠い世界の出来事のようだ。

でも僕も二十歳前後にはそこにいた。遠くに見える高層ビルの光を眺めながらそんな自分を思い出していると、いまでもそこに昔の自分や知り合い達がいるような気がしてくる。戻ることができない過去が、遠くの街の光の中にあるような不思議な感じになる。そんな時、風が吹いたりすると、その頃の記憶が雪崩を打つように甦る。そしてその頃の思いで胸も一杯になる。

過ぎ去って捉える事ができない出来事が残っていて、僕の心を動かすことを不思議だと思い、しばし点滅する赤い光を眺めていたりする。
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