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とんびの視点

まとはづれなことばかり

だいぶ前に『てんつく怒髪 3.11、それからの日々』を読んで……

2013年09月30日 | 雑文

だいぶ前に『てんつく怒髪 3.11、それからの日々』(落合恵子著、岩波書店)を読んだ。その時のメモが残っていたので、それを材料に少し書いてみる。ネイティブ・アメリカンの女性教育者である、ダイアン・モントーヤさんのこんな言葉だ。

『私たちには、祖父母や、そのまた祖父母の代から、ずっと言われてきたことがあります。何かを決めたり選ばなくてはならない時には、必ず「七世代先の子どものことを考えろ」と。いま、私たちにとってどんなに便利で、効率的で、どんなに都合がよくとも、「七世代先の子どもたち」が困るようなコトやモノを選んではならない』

七世代先とは驚いた。一世代が三十年だとすると二百十年だ。明治維新の頃の人間が現在を考えるよりも射程が長い。おそらくそれは人間の時間を基準にしたものではない。人間を基準にしたものなら、自分を含めて三世代か四世代がせいぜいだろう。自分との直接的な関わりが想像できる範囲、まあ「百年」というところだろう。その意味では「国家百年の計」というのは、すごく人間的な基準なのかもしれない。

七世代先、というような言葉がある種のリアリティーを持てたのは、ネイティブアメリカンがそのスパンに合わせねば自分たちは生きていけないと実感したからだろう。それは自然の時間というスパンだったのではないか。人間はずっと自然のサイクルに合わせて生活していたからだ。

人間が自然のサイクルに合わせてきたのだ。自然を人間に合わせようとしたのは近代産業革命以後のことだ。それを開発と称し、あたかもそれを人類の進歩のように語ってきたのが、ここ数百年の歴史だ。自然を開発して、強固な近代国家を作ることを考えると、「国家百年」というようなスパンになるのだろう。(そういえば、しっかりしたコンクリートは百年くらいもつ、と聞いたことがある)。

自然に合わせると七世代、国家に合わせると百年。では現在の私たちは、何に合わせ、どのくらいのスパンの時間を生きているのだろうか。私たちが合わせている何か。それは「グローバル資本主義」とか「金融資本主義」とかいうものだろう(たぶん)。ようするに「金儲け」を核にした時間だ。

経済学にも経済活動もよくわからないが、僕のような門外漢にもそんな感じがする。内田樹が、日経新聞を読んでいる人間は長くても四半期でしかものを考えられない、と書いていた。多少は誇張されているだろうが、そういうスパンは経済活動の主流にいればいるほどリアルなのだろう。実際、原発の再稼働を急ぐ東電などは、三期連続の赤字は避けたいというのがその理由だ。融資している銀行や株主のことを考えると、それが合理的な思考となるのだろう。

人間が自然を開発することが百年のスパンだとしたら、私たちは四半期のスパンに合わせて何を変えているのか。私たちの精神性や生活、というのが僕の感じていることだ。あらゆる物事を金銭的な観点から価値づける精神性。漠然とした不安、その裏返しの他罰的な感覚。昼夜を問わず活動するための均一的な時間感覚。短期的な投資とリターンの繰り返し。より狭く、より短い範囲を、単一な基準で固め、相互対話が起こらない。

そんな社会にすごく危うさを感じるので、柄にもなく少しは世事を追いかけている。原発問題などもそうだ。(僕のような人間が、なぜこんなに原発のことを学ばねばならないのか、今でもときどき不思議になる)。事故は別にしても、そもそも廃炉の技術も確立していないし、使用済み核燃料の処分方法や処分地も決まっていない。ひどいものだ。尻拭いは次世代にさせ、自分たちは美味しいとだけをとって、先におっ死んじまう魂胆だ。その上、事故後は、終息プランも技術もないのに、赤字を出さないために再稼働を目指す。

時代や状況によってリアリティーを支える基盤は異なる。いまの日本は、ネイティブアメリカンが七世代先と言ったのと、時代も状況も違うだろう。それでも経済市場主義の短期的なスパンは根本的に間違っていると思う。広い視野で長期的に、より多くの人間の幸福を考えられないからだ。

ネイティブアメリカンが七世代先と言ったのは、今の自分たちだけでなく、まだ見ぬ将来の子孫のことを考えろ、ということだ。この思考を空間的に置き換えれば、自分の知らない土地に生きる人のことを考えろ、ということになる。自分が会うことのない人のことを(如実に)考える。それにはものすごく想像力がいる。福島で暮らしてる人、あるいは避難している人(まだ五万人もいる)。その人たちと顔を会わせることはそれほどない。そういう空間的な距離を想像力で縮めて行く。廃炉まで数十年も掛かる。下手をすれば自分が死んだ後だ。その時間的な距離を想像力で縮める。

そういう想像力が大切なのだ。空間的、時間的な距離を縮めるのは、テクノロジーでも資本でもない。それらを扱う人間の想像力だ。想像力のない人間がテクノロジーや資本を手にすると、土足で人の家に上がり込んで自信満々で自分のやり方を押しつける。先日も書いたが、想像力がない人間ほど、自己合理化が速いのだ。




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中間にとどまる

2013年09月27日 | 雑文
10日ぶりにランニングをした。昼休みに荒川の土手を11㎞ほど。すっかり秋になっていた。空気が乾いて水分が減ったのか、草の緑は白っぽくなり、風に軽く揺れていた。10日間も走れなかったのは、忙しかったことと、脚を軽く怪我したことが理由だ。今月の目標は180㎞だったが、せいぜい130㎞だろう。30日には若潮マラソンのエントリー開始だ。来月はランニングの優先度を少し上げねばならないようだ。

だいぶ前の新聞で「ブラックバイト」の記事を読んだ。ブラック企業という言葉はよく見聞するようになったが、ブラックバイトというのは初見だった。でも考えてみれば、正社員とバイトの労働環境が無関係なはずがない。ブラック企業がバイトを雇えば、ブラックバイトが発生してもおかしくない。

ブラックバイトとは、低賃金なのに正社員なみのノルマがある、重労働を課される。サービス残業を強要される、休みづらいなどのアルバイト先だ。業種的には、学習塾、大手飲食店チェーン、洋服販売店などがある。

ブラックバイトが増えている背景として、二つが挙げられていた。一つは、景気後退にともない、教育や飲食、アパレル関係のサービス業では、近年、正社員が激減して、アルバイトなどの非正規労働者が増えた。それによりアルバイトが中核的な役割を担うようになった。もう一つは、激化する就職戦線に備え、バイトの職場をインターンや修行の場と考えている学生が増えたことだ。それにより、簡単には逃げられないという心理が働いてしまう。

ブラック企業にブラックバイト。おそらくこれから、社会のさまざまな部分でブラック化が進むだろう。でもそれは、社会全体がブラックになるということではない。一部のホワイトと大部分のブラックという両極化が進むということだ。両者に中間するグレーゾーンがどんどんなくなる。イエスかノーか、敵か味方か、単純な二分法で世界が切り分けられていく。両者を繋ぐため、中間にとどまることが必要になるだろう。

そういえば、「将来は年収が100万円と1億円の社員にわかれ、中間層が減っていく」と言った社長がいた。嫌な話だと思った。一億円の人が増えることはかまわない。ただ100万円というのはまずい。いまの日本社会でまともな生活をおくれるはずがない。(以前、そういう人たちに安い食材を提供するためにTPPがあるのだ、という意見を目にした。にわかに信じがたい話だが、嘘とも思えない)

年収1億円と100万円への二分化。1億円を手にする人はわずかで、大多数の人が100万円の方に振り分けられる。そして両者はおそらく断絶する。そんな社会がどのようなものか、想像するべきだろう。私たちが目指すべき理想的な姿だろうか。僕にはそう思えない。僕自身そんな社会は嫌だし、子どもにそんな社会を残したくもない。

だから、僕はユニクロでは服を買わないことにしている。僕が服を買うことで、そういう社会を容認することに間接的に加担することになるからだ。自分で自分の首を絞めることになる。

先日、学生にそういう話をしたら、キョトンとされた。話の繋がりが実感できないようだった。理屈ではそうかもしれないけど、現実にはそこまで関係ないのでは、と思っているようだった。反対だ。現実には加担しているが、主観的にはそう思っていないだけだ。

この手の現象は至る所に見いだせる。現実的には繋がっているのに、主観的には関係ないと思い込む。それによって、物事への適切な関わり方が出来なくなる。原発の問題そうだし、沖縄の基地問題もそうだ。現実的には繋がっているが、主観的には関係がない。そこにズレが生じる。このズレを繋ぐものが想像力だ。

村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』で、五反田君は「想像力のない人間に限って、自己合理化がはやい」というようなことを言っていた。自己合理化が速いというのは、二分法的な処理が速いということだ。速いと言えば聞こえがよいが、短期的にしか物事と向き合えないことでもある。物事を二分方で処理せずに、中間にとどまる。それには想像力が必要になるし、時間もかかる。今の世の中に逆行しているが、そういうことが必要なのだろう。まずは僕自身がそうなるべく日々、精進だ。
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9月16日(月)のつぶやき

2013年09月17日 | 雑文

RT @tjimbo 話が違うぜ。|セシウム濃度測らず排水=福島第1「緊急措置」・東電 jiji.com/jc/zc?k=201309… fb.me/L4wTgm3X


東京新聞:秘密保護法案の危うさ あの国家秘密法と同じ!?:特報(TOKYO Web) tokyo-np.co.jp/article/tokuho…

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9月15日(日)のつぶやき

2013年09月16日 | 雑文

パートナー企業以外が「五輪」を商売目的で利用することに、JOCがビリピリしているそうだ。「がんばれ!ニッポン!」や「オリンピック」は商標なので、勝手に使うと商標違反になる。「2020 祝東京」や「やったぞ東京!」なども問題?。(東京新聞)。スポーツは好きだが、商業主義は嫌いだ。


火曜日から長男が期末テスト。二学期制なので、夏休みが明けてすぐに定期テストとなる。中間テストはあまり関与しなかったので、今回は土、日、月曜と付き合うことにする。昨日は七時間。今日もあと二時間。そして明日も七時間。一日詰まっていた感覚はあるが、具体的な達成感がない。不思議な感じだ。


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9月11日(水)のつぶやき

2013年09月12日 | 雑文

今朝は8㎞ほどランニング。だいぶ楽に走れた。靴を新しくしたせいか、涼しくなったせいか、週末からきちんと走ったせいか、たぶんすべてが少しずつ影響しているのだろう。今月の目標は180㎞。今日までに52㎞。日割り計算でマイナス14㎞。とりもろそう。


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9月9日(月)のつぶやき

2013年09月10日 | 雑文
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だらだら文

2013年09月09日 | 雑文
久しぶりに「だらだら」と文を書いてみる。だらだらした文はいつものことだ。しかしあれでも「きちんと」書こうとしているのだ。今回はまったくの「だらだら」。何を書くかも考えず、キーボードを打ちながら自動書記的に書く。

九月に入って一週間が過ぎた。真夏の暑さはなくなったが、まだまだ秋本番とは言えない。とくに暑がりで汗かきな僕にしてみれば、あと5℃くらい低くなって、やっと「秋」という感じだ。それにどうやら夏の疲れがたまっているようだ。今日なども昼に6㎞ほど軽く走っただけなのに、昼寝に引きずり込まれるくらい体が疲れてしまう。おかげで冴えない日曜日となってしまった。

さてさてランニングについて。夏のランニングは7月が155㎞、8月が95㎞だった。8月が予定より下回った。距離が少ない分、かなり走力が落ちている。昨日などはたった11㎞を走っただけで、息は上がるが、脚は上がらない、という最悪の状態になった。(おまけに合気道の稽古で膝が少し悪化している)。一応、秋にはきちんと走り込み、来年1月の若潮と3月の板橋cityを走るつもりだ。しかし板橋での3時間半切りという目標が妥当なものか。秋の過ごし方次第だろう。

8月の末に一泊で福島と気仙沼に行った。もともと福島に来ている若冲の「鳥獣花木図屏風」を見て、ついでに近くの海岸線を見に行くつもりだった。ところが気仙沼に打ち上げられた大型漁船の解体が決まったという話を聞いたので、ついでに気仙沼まで行くことにした。相方と交代で運転したとはいえ、2日で1200㎞はなかなかの強行軍だった。

若冲の絵はもちろん良かった。数年前の展覧会を逃して、下手をすれば生きている間には見れないかもしれないと思っていた。震災という不幸な出来事があったとはいえ、見ることが出来たのは幸いだった。でもそれとは別に気になったことがある。福島県立美術館の駐車場のことだ。駐車場に車を停めると、植え込みにテープが張られていることに気づいた。よって見ると「放射線量が高い場所があるので立ち入り禁止」というようなことが書かれていた。

頭では理解していたが、現場に来ると響き方が違う。おそらくいつも響いてしまう人は福島では生活できないし、福島で生活を続けるならいちいち響いていられないだろう。出て行った人も、残っている人も、「こういうことになってよかったね」と思っている人は誰もいないだろう。統計的、疫学的な観点から「影響があるとは言えない」「この程度なら大丈夫だ」という意見を述べることと、「こういうことになってよかったね」というのは全然別である。試されているのは私たちの想像力なのだ、といつも思う。

気仙沼には行ってよかった。ずっと東北のことは気になっていたが、行くタイミングを逸していた。ボランティアには乗り遅れ、興味本位で見に行くのは避けたいと思っていたらずるずると時間が過ぎてしまった。3月11日の夜にテレビで見ていたのが、燃えている気仙沼市だった。それと同じ形の地形がそこにはあった。

再度の津波を考えてか、津波被害があった場所のほとんどは、家の基礎のみ残して、あとは雑草が生い茂るばかりだ。海から七百メートルくらい離れた道ばたに小さな流木が落ちていたりする。復幸マルシェで天丼を食べ(すごくおいしかった)、海まで散歩した。自分の歩いている場所が津波の中だったことを想像しながら。打ち上げられた大型漁船は、だいぶサビなども出ていた。漁船の下には自動車がつぶれている。

大型漁船が解体されると聞いたとき、残しておくべきなのにと思ったが、行ってみて考えが少し変わった。そういうのは、現場から離れた人間の考えかもしれないと。地元の人間にとっては、大型漁船などなくても津波の記憶は残る。その痕跡は至る所に残っているからだ。そこで暮らす人たちには薄れることなど出来ないだろう。忘れてしまいそうなのは、現場からはなれた人たちなのだ。我が家の斜め向かいの奥さんは気仙沼出身だ。気仙沼に行ったと言ったら「関心をもってくれてありがとう」というようなことを言われた。今回は急ぎの旅行だった。また行かなくちゃ、と思った。

とまあ、だらだらと書いている。まだまだ書こうと思えば書けるが、そろそろ終わりにしよう。ここまで書いて、こんな文はそのまま捨ててしまえ、と思う。しかし捨ててしまうと何かすっきりしない。(過去にも何度かそういうことをやっている)。昨日、たまたま『徒然草』をめくっていたら「
なるほど」と思うことが書いてあった。

自分はいろんなことを書くが、それはすべて『源氏物語』や『枕の草子』に書いてある。でも、もう一度、言ってはならないというものではない。言いたいことを言わずにいるのは腹がふくれることだから、筆に任せて書くのだ、と。たんに個人的に保存せずに、ブログにアップする意味があるのか、という問いは残るが、そこまでやらないとスッキリしないという実感があるのも確かだ。



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9月6日(金)のつぶやき

2013年09月07日 | 雑文

今日は涼しかったので、2ヶ月ぶりに昼休みにランニング。キロ6分で11キロ。走り始めは、早朝に比べ楽だと感じたが、最後の3キロはバタバタ。息はあがるし、足腰にもきている。8月あまり走れなかったツケだ。走力を取り戻すにはキツい秋になりそうだ。


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9月4日(水)のつぶやき

2013年09月05日 | 雑文

先日、福島美術館に若冲を見に行った。駐車場の植え込みには立ち入り禁止のテープが張られ、「放射線量が高いところがあるので立ち入らないでください」の表示。そして汚染水も止まらない。オリンピック招致では「東京は全く影響を受けていない」と言っている。「東京には関係ない」と聞こえる。

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『乞胸( ごうむね) 江戸の辻芸人』(塩見鮮一郎著、河出書房新社)を読了。乞胸とは、江戸時代のエンターテイナー、大道芸人のこと。江戸時代になり職にあぶれた浪人が雑芸で身を立てたのが始まり。身分は町人だが、頭の車善七の管理下にある。下町育ちの僕も知ってる場所が多く出てきた。


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9月3日(火)のつぶやき

2013年09月04日 | 雑文

6時に起きて5キロほどラン。9月最初のランニングだ。南から湿った不快な風。空には積乱雲。それでも気温はそれほど高くない。秋になったということか。


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