だいぶ前に『てんつく怒髪 3.11、それからの日々』(落合恵子著、岩波書店)を読んだ。その時のメモが残っていたので、それを材料に少し書いてみる。ネイティブ・アメリカンの女性教育者である、ダイアン・モントーヤさんのこんな言葉だ。
『私たちには、祖父母や、そのまた祖父母の代から、ずっと言われてきたことがあります。何かを決めたり選ばなくてはならない時には、必ず「七世代先の子どものことを考えろ」と。いま、私たちにとってどんなに便利で、効率的で、どんなに都合がよくとも、「七世代先の子どもたち」が困るようなコトやモノを選んではならない』
七世代先とは驚いた。一世代が三十年だとすると二百十年だ。明治維新の頃の人間が現在を考えるよりも射程が長い。おそらくそれは人間の時間を基準にしたものではない。人間を基準にしたものなら、自分を含めて三世代か四世代がせいぜいだろう。自分との直接的な関わりが想像できる範囲、まあ「百年」というところだろう。その意味では「国家百年の計」というのは、すごく人間的な基準なのかもしれない。
七世代先、というような言葉がある種のリアリティーを持てたのは、ネイティブアメリカンがそのスパンに合わせねば自分たちは生きていけないと実感したからだろう。それは自然の時間というスパンだったのではないか。人間はずっと自然のサイクルに合わせて生活していたからだ。
人間が自然のサイクルに合わせてきたのだ。自然を人間に合わせようとしたのは近代産業革命以後のことだ。それを開発と称し、あたかもそれを人類の進歩のように語ってきたのが、ここ数百年の歴史だ。自然を開発して、強固な近代国家を作ることを考えると、「国家百年」というようなスパンになるのだろう。(そういえば、しっかりしたコンクリートは百年くらいもつ、と聞いたことがある)。
自然に合わせると七世代、国家に合わせると百年。では現在の私たちは、何に合わせ、どのくらいのスパンの時間を生きているのだろうか。私たちが合わせている何か。それは「グローバル資本主義」とか「金融資本主義」とかいうものだろう(たぶん)。ようするに「金儲け」を核にした時間だ。
経済学にも経済活動もよくわからないが、僕のような門外漢にもそんな感じがする。内田樹が、日経新聞を読んでいる人間は長くても四半期でしかものを考えられない、と書いていた。多少は誇張されているだろうが、そういうスパンは経済活動の主流にいればいるほどリアルなのだろう。実際、原発の再稼働を急ぐ東電などは、三期連続の赤字は避けたいというのがその理由だ。融資している銀行や株主のことを考えると、それが合理的な思考となるのだろう。
人間が自然を開発することが百年のスパンだとしたら、私たちは四半期のスパンに合わせて何を変えているのか。私たちの精神性や生活、というのが僕の感じていることだ。あらゆる物事を金銭的な観点から価値づける精神性。漠然とした不安、その裏返しの他罰的な感覚。昼夜を問わず活動するための均一的な時間感覚。短期的な投資とリターンの繰り返し。より狭く、より短い範囲を、単一な基準で固め、相互対話が起こらない。
そんな社会にすごく危うさを感じるので、柄にもなく少しは世事を追いかけている。原発問題などもそうだ。(僕のような人間が、なぜこんなに原発のことを学ばねばならないのか、今でもときどき不思議になる)。事故は別にしても、そもそも廃炉の技術も確立していないし、使用済み核燃料の処分方法や処分地も決まっていない。ひどいものだ。尻拭いは次世代にさせ、自分たちは美味しいとだけをとって、先におっ死んじまう魂胆だ。その上、事故後は、終息プランも技術もないのに、赤字を出さないために再稼働を目指す。
時代や状況によってリアリティーを支える基盤は異なる。いまの日本は、ネイティブアメリカンが七世代先と言ったのと、時代も状況も違うだろう。それでも経済市場主義の短期的なスパンは根本的に間違っていると思う。広い視野で長期的に、より多くの人間の幸福を考えられないからだ。
ネイティブアメリカンが七世代先と言ったのは、今の自分たちだけでなく、まだ見ぬ将来の子孫のことを考えろ、ということだ。この思考を空間的に置き換えれば、自分の知らない土地に生きる人のことを考えろ、ということになる。自分が会うことのない人のことを(如実に)考える。それにはものすごく想像力がいる。福島で暮らしてる人、あるいは避難している人(まだ五万人もいる)。その人たちと顔を会わせることはそれほどない。そういう空間的な距離を想像力で縮めて行く。廃炉まで数十年も掛かる。下手をすれば自分が死んだ後だ。その時間的な距離を想像力で縮める。
そういう想像力が大切なのだ。空間的、時間的な距離を縮めるのは、テクノロジーでも資本でもない。それらを扱う人間の想像力だ。想像力のない人間がテクノロジーや資本を手にすると、土足で人の家に上がり込んで自信満々で自分のやり方を押しつける。先日も書いたが、想像力がない人間ほど、自己合理化が速いのだ。