仕事で研修の講師のようなこともやる。講師をやればレポートを読むことになる。10人ほどの人間が書いたレポートを読んだ。お題は「時間について」。自分では知っているつもりでいながら、あらためて説明しようとするとちょっと詰まってしまう。そんなものをお題にしようと考えたのだ。べつに「言葉」でも「論理」でも「家族」でもよかったのだ。
自分から興味を持ったテーマでもなく、仕事の合間に書くレポートだ。テーマそのものについて掘り下げるというよりは、無自覚な思いを他人に理解できるように言語化することがゴールとなる。こういう文章を読むのは面白い。無自覚な思いがストレートに表現されていたり、無自覚な思いが言語に引きずられていくのが見えたりする。
読んでいて見えてきたのは、「時間は道具である」という思いが共有されていることだ。「時間をコントロールする」「時間を支配する」「時間を上手く使う」など、正確な言葉遣いは人それぞれだが、大半の人は「時間を道具」とみなす書き方をしていた。しかしレポートを読み込んでみると、これは結果的に表現された「言葉」であり、言語以前の時間の「感じ」とは微妙にズレているように思えた。
言語以前の時間の「感じ」を言語化するなら、「思い通りにならないが、上手くやっていかなければならない何か」という感じである。この「感じ」を言語にしていこうとすると「時間は道具である」という言葉になる。興味を引かれたのは、「思い通りにならないが、上手くやっていかなければならない何か」という「感じ」が「時間は道具である」という「言葉」になった際に働いた力である。
言い方をかえれば、ある「力」が働いたことによって、「思い通りにならないが、上手くやっていかなければならない何か」という「感じ」が「時間は道具である」という「言葉」になったと言える。その力とは。それは「対象を操作する」ことである。時間を「道具」とみなすことは、「時間」を何らかの目標達成のための「手段」とみなすことである。ここでは「時間」を「道具」とすることで「時間」それ自体が使われる「対象」となる。また「時間」という「道具」を通してさらにその先にある対象を操作することにもなる。
「対象を操作する」という考え方は、極めて近代的なものだ。主観から客観を切り離し、それを対象として操作する。そんな形でさまざまなことを行なってきた。例えば、開発という名のもとに自然を破壊してきた。(そのツケが、温暖化という形で回ってきたらしい)。利益のために社員を品物のように扱う。教育という名のもとに子どもを思い通りに操作する。顔をあげて見回せばいくらでも目に付く。
こういう世界であるからこそ、「思い通りにならないが、上手くやっていかなければならない何か」が「道具」という言葉になるのだ。お題が「言葉」や「お金」でも同じだろう。「言葉はコミュニケーションのための大切な道具である」。「お金はさまざまなものの価値を一元的にはかることができる道具である」と。
何かを見てそれを言語化しようとすると「道具的な言葉」になってしまう。そして今度は「道具的な言葉」をもって何かを見るから、すべてが道具的に繋がっている世界に見えてくる。目的を達成するために相互に利用したりされたりという世界である。しかし最初の感じはそれとは違うものであった。「思い通りにならないが、上手くやっていかなければならない何か」がという感覚だ。
ちょっと考えて見れば、あらゆる物事がそうである。子ども、親、近所付き合い、会社での人間関係、冬の寒さ、遅れてくる電車、滑りやすい坂道、みんなそうだ。思い通りにならないが、上手くやっていかなければならない何かだ。
これらすべてを自分が思い通りにできる「道具」と見るのではなく、パートナーとして見たらどうだろう。ダンスのパートナーでも良いし、狩りをする狩人と犬でも良い。何か1つのことを達成するために共に力を合わせる相手だ。そこでは「相手に合わせる」ことが何より必要になる。相手の思いや動きにお互いに気を配り、それに合わせて自分も動く。それによって、その時その場で最も良いパフォーマンスを行なう。
相手を「道具」とすることもなく、未来の目的のための「手段」ともしない。共に1つのことを成し遂げるための不可欠な存在とみる。「時間は道具である」「時間はパートナーである」。「言葉は道具である」「言葉はパートナーである」。「子どもは道具である」「子どもはパートナーである」。「パソコンは道具である」「パソコンはパートナーである」。
どちらの言葉の方がしっくり来るだろうか。「道具」という言葉がしっくり来るのであれば、無自覚のうちに道具的な世界に住んでいることになるし、「パートナー」という言葉がしっくり来るのであれば不可欠な相手と共に何かを成し遂げる世界に住んでいることになる。大きな違いだが、それは1つの世界でもある。1つだからひょいと移動することも簡単にできるのである。
自分から興味を持ったテーマでもなく、仕事の合間に書くレポートだ。テーマそのものについて掘り下げるというよりは、無自覚な思いを他人に理解できるように言語化することがゴールとなる。こういう文章を読むのは面白い。無自覚な思いがストレートに表現されていたり、無自覚な思いが言語に引きずられていくのが見えたりする。
読んでいて見えてきたのは、「時間は道具である」という思いが共有されていることだ。「時間をコントロールする」「時間を支配する」「時間を上手く使う」など、正確な言葉遣いは人それぞれだが、大半の人は「時間を道具」とみなす書き方をしていた。しかしレポートを読み込んでみると、これは結果的に表現された「言葉」であり、言語以前の時間の「感じ」とは微妙にズレているように思えた。
言語以前の時間の「感じ」を言語化するなら、「思い通りにならないが、上手くやっていかなければならない何か」という感じである。この「感じ」を言語にしていこうとすると「時間は道具である」という言葉になる。興味を引かれたのは、「思い通りにならないが、上手くやっていかなければならない何か」という「感じ」が「時間は道具である」という「言葉」になった際に働いた力である。
言い方をかえれば、ある「力」が働いたことによって、「思い通りにならないが、上手くやっていかなければならない何か」という「感じ」が「時間は道具である」という「言葉」になったと言える。その力とは。それは「対象を操作する」ことである。時間を「道具」とみなすことは、「時間」を何らかの目標達成のための「手段」とみなすことである。ここでは「時間」を「道具」とすることで「時間」それ自体が使われる「対象」となる。また「時間」という「道具」を通してさらにその先にある対象を操作することにもなる。
「対象を操作する」という考え方は、極めて近代的なものだ。主観から客観を切り離し、それを対象として操作する。そんな形でさまざまなことを行なってきた。例えば、開発という名のもとに自然を破壊してきた。(そのツケが、温暖化という形で回ってきたらしい)。利益のために社員を品物のように扱う。教育という名のもとに子どもを思い通りに操作する。顔をあげて見回せばいくらでも目に付く。
こういう世界であるからこそ、「思い通りにならないが、上手くやっていかなければならない何か」が「道具」という言葉になるのだ。お題が「言葉」や「お金」でも同じだろう。「言葉はコミュニケーションのための大切な道具である」。「お金はさまざまなものの価値を一元的にはかることができる道具である」と。
何かを見てそれを言語化しようとすると「道具的な言葉」になってしまう。そして今度は「道具的な言葉」をもって何かを見るから、すべてが道具的に繋がっている世界に見えてくる。目的を達成するために相互に利用したりされたりという世界である。しかし最初の感じはそれとは違うものであった。「思い通りにならないが、上手くやっていかなければならない何か」がという感覚だ。
ちょっと考えて見れば、あらゆる物事がそうである。子ども、親、近所付き合い、会社での人間関係、冬の寒さ、遅れてくる電車、滑りやすい坂道、みんなそうだ。思い通りにならないが、上手くやっていかなければならない何かだ。
これらすべてを自分が思い通りにできる「道具」と見るのではなく、パートナーとして見たらどうだろう。ダンスのパートナーでも良いし、狩りをする狩人と犬でも良い。何か1つのことを達成するために共に力を合わせる相手だ。そこでは「相手に合わせる」ことが何より必要になる。相手の思いや動きにお互いに気を配り、それに合わせて自分も動く。それによって、その時その場で最も良いパフォーマンスを行なう。
相手を「道具」とすることもなく、未来の目的のための「手段」ともしない。共に1つのことを成し遂げるための不可欠な存在とみる。「時間は道具である」「時間はパートナーである」。「言葉は道具である」「言葉はパートナーである」。「子どもは道具である」「子どもはパートナーである」。「パソコンは道具である」「パソコンはパートナーである」。
どちらの言葉の方がしっくり来るだろうか。「道具」という言葉がしっくり来るのであれば、無自覚のうちに道具的な世界に住んでいることになるし、「パートナー」という言葉がしっくり来るのであれば不可欠な相手と共に何かを成し遂げる世界に住んでいることになる。大きな違いだが、それは1つの世界でもある。1つだからひょいと移動することも簡単にできるのである。