とんびの視点

まとはづれなことばかり

戦争法案に反対の理由 30日は国会前

2015年08月28日 | 雑文
今さらのようだが、今回の安保法案に反対する理由を簡単に書く。理由は3つ。
1、言葉が機能しない社会になる。2、立憲主義を壊す。3、集団的自衛権はいらない。

1、言葉が機能しない社会になる
言葉は「いま、ここ」にない物事を扱うとができる。日本とは離れた場所で起こっていることを、あたかも目の前で起こっているかのように話すこともできる。過去の出来事を再現することもできるし、未来の出来事を本物のように描くこともできる。それらは実際に自分の目で確認できない。だからこそ、現実と言葉を意図的にずらすことも可能になる。すなわち「嘘をつく」ことができる。

「嘘をつく」とどうなるか。言葉と現実のギャップを埋めようと物事がざわつきだす。それにより言葉と現実のギャップがさらに広がる。ギャップを埋めようと小手先の嘘をつくとさらに物事が暴れ、ギャップはより広がる。そして、言葉は現実に対して無力になる。「いま、ここ」以外のことを話しても誰も信じなくなる。その結果、私たちは「いま、ここ」の目の前に見えるものしか扱えなくなる。そのような社会では、他の場所にいる人たちのこと、過去に生きていた人たちのこと、未来の世代の人たちのことをきちんと考えられない。それはもはやまともな社会ではない。

いま行われている国会の論戦を見てみよ。言葉がまったくかみ合っていない。「問い」という言葉をきちんと受け止めようとしない。自分が言いたい言葉だけを「答え」と称して何度も繰り返す。意味不明なへ理屈を述べる。言っていることがころころ変わる。人と人をつなぐための言葉が人と人を分断する。そして自分のやりたいことを無理やり押し通す。

そんなやり方で物事を決めていくことを、子どもたちに手本として示せるだろうか。そんなやり方で物事が決まっていく社会を次の世代に残すわけにはいかない。だから今回の安保法案を私たちは見過ごすことはできない。そういうものを通してはいけないのだ。「ヤツらを通すな」「ノー・パッサラン」。ギャップを埋めるべく人々は声をあげている。

2、立憲主義を壊す
僕がいまさら言うまでもないことだが、今回の法案は立憲主義を破壊するものだ。憲法学者のほぼすべてが今回の法案に反対していることからもそれは明らかだ。そもそも安倍政権は憲法改正を掲げていた。それが不可能だとわかると憲法改正を規定した憲法96条だけをいじろうとした。それにも失敗した。

すると今度は解釈改憲に打って出た。内閣法制局はこれまでずっと現行憲法下では集団的自衛権は違憲だとしていた。その長官を集団的自衛権を行使容認の長官に交代させた。そして集団的自衛権を違憲ではないと言わせた。安倍首相は内閣法制局が違憲としないことを理由に、閣議決定で解釈改憲を強行した。去年の7月のことだ。

これは明らかに行政が立法権を奪う行為だ。内田樹氏によれば、行政権が立法権を奪った状態を「独裁」と言うそうだ。また憲法学者の石川健治氏によれば、この閣議決定は法学的にはクーデターだそうだ。おまけに安倍首相は、国会で審議する前にアメリカで法案の成立を約束した。

そして今国会において、10本もの改正法案を一括法案とし、新法の国際平和支援法案とセットで「安保法案」として提出。衆議院で強行採決を行った。審議の中身は惨憺たるものである。その無茶苦茶な国会審議をメディアはあまり報道しない。歴史的な転換点になる法案が、その中身も問題点も明らかにならず、十分な国民的な議論もないまま、密室で決めるかのように進んでいく。

立憲主義が音を立てずに壊れていく。崩れた音は時を経て、銃声や爆発音、怒号や悲鳴、泣き叫ぶ声として私たちの耳に届くだろう。こんなやり方で国の形を変えてはいけない。この国に生きるすべての人に関係がある。わかった顔してスルーしてはいけない。「屁理屈言うな」、「憲法守れ」。人々は声をあげている。

3、集団的自衛権はいらない
安全保障や外交に関して云々するにはそれなりの知識が必要だろう。僕が読んだ本はせいぜい20冊。おまけに読んでもすぐに忘れる。その意味では知識は穴だらけだ。しかし今回の集団的自衛権がトンチンカンなものであることはわかる。

例えば、今回の法案の内容はアーミテージ・ナイリポートの内容と一致している。アーミテージやナイはいわゆるジャパンハンドラーだ。ハンドラーとは、馬や犬の調教師のことだ。バカにされたものである。すでにアメリカは今後の何年かで大幅な軍事予算の削減を決めているし、来年度予算は日本で安保法案が通ることを前提として組まれている。この法案は日本の安全保障のためというより、アメリカの世界戦略を金銭的にも人的にもサポートするためである。

法案が通れば、いずれ自衛隊員が戦地に派遣され殺され、殺すことに巻き込まれるだろう。
そうなれば日本国内でもテロが起きるかもしれない。それは日本の安全には繋がらない。何より、アメリカの戦争に巻き込まれて日本人の死者が出ることで、日本人のアメリカに対する印象が悪くなる。反米感情が高まるだろう。長期的に考えれば、それは日本にもアメリカにもブラスにはならない。

中国が攻めてきたらどうするのだ。大丈夫、中国が攻めてきたら個別的自衛権で対処できる。日米安保があるので、あえて集団的自衛権を法案として担保する必要はない。尖閣諸島の問題は海上保安庁のマターだ。相手が軍隊を出していないのに、こちらが自衛隊を出し攻撃でもしようものなら、日本が侵略行為をしたことになる。

そもそも自衛隊は軍隊ではない。軍法会議もないので、かりに戦地で民間人を殺してしまった場合、裁判を受けなければならないことになる。ジュネーブ条約も適用されないので、捕虜としての扱いも受けない。そんな重荷を個々の自衛隊員に負わせようというのか。あるいは、そういう事態が起これば、それこそ軍隊を作れると期待しているのか。

政府の高官や軍需産業やアメリカとつながる人間にはメリットがあるのかもしれない。しかし多くの市井の日本人にはメリットはない。中国の危険を説き人々の不安感を煽る。その不安感を払拭するためには集団的自衛権が必要だと思わせる。マッチポンプだ。長期的には中国との関係に悪影響を及ぼすだろう。

自衛隊員が外国で殺されたり、殺したりする。海外にいる日本人も危険にさらされる。国内でテロが起こる可能性が確実に高くなる。反米感情が高まる(かもしれない)。隣国との関係も悪くなる(かもしれない)。防衛費のためにより多くの税金が使われる。立憲主義も民主主義も平和主義もぼろぼろになる。言葉が機能しない社会になる。賛成などできない。

そもそも安全保障とは、敵を減らし味方を増やすことで自国の安全を確保することだ。その上で、必要な国防を考えるのが筋だ。たしかにそれは日本にとって必要なことだ。だがこの状況であわてて集団的自衛権を法制化する必要はない。集団的自衛権を行使したいのであれば、国民的な議論を深めて、きちんと憲法改正をするべきだ。その手続きを経ないのであれば、日本には立憲主義も民主主義もないことになる。そんな国を次の世代に残すわけにはいかない。「集団的自衛権はいらない」「安倍はやめろ」。人々は声をあげている。

30日は国会前で。


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表参道デモ 30日は国会前へ

2015年08月25日 | 雑文
8月23日の日曜日、午後4時近く、僕は相方と南北線に乗っている。表参道で行われる安保法案反対のデモに参加するためだ。乳母車の若い夫婦、疲れたように目をつぶり席に腰掛ける老女、ヘッドフォンをしてスマホを覗き込んでいる若者、浴衣を着た若い女の子、いろんな人たちが同じ電車に乗りあわせている。この中の1人でも一緒にデモに行く人がいるのだろうか。そもそもこれからデモがあることを知っている人がどれくらいいるのだろうか。そんなことを思う。

乃木坂駅で地上に出る。集合時間の4時半ちよっと前だ。少し涼しい風に、時折、細かい雨が混じる。雨にならなければ良いのだが、そう思いながら集合場所の青山公園に入る。思ったより狭い公園にはけっこうな人が集まっているが、それでも少ないような気がする。すこし心配になる。すでに人々は並び始めていて、2つほどグループが出来上がっているので、3つ目のグループに並ぶ。SEALDsのスタッフがプラカードを渡したり、人々を整列させたり忙しく動き回っている。

法案のこと、デモのことなどを考えながら、列に並んで出発を待つ。今まで原発や特定秘密保護法で何度かデモに参加した。自分なりに勉強した結果、なんらかの意思表示をしなければならないと思ったからだ。だが、何度かデモに参加しながらどうしてもしっくりいかないところがあった。一番大きな理由は、デモ参加者の一部が発する声の響きだった。東電や政府を批判する理路やその怒りは理解できるが、ときおり発される声に混じる憎悪のような響きに僕自身がやられてしまうのだ。いつしか抗議の現場には足を運びながら、デモの隊列に入ることをためらうようになっていた。

6月末から国会前のSEALDsの抗議行動に参加するようになった。最初は抗議の現場に立ち会う程度のつもりだったが、彼らの発する主張や声のストレートさが気分良く、毎週のように参加するようになった。疲れた体で足を運んでも、帰る時には元気になっていた。今回のデモもきっと良い感じで行えるのではないかと、そんな予感があった。

デモの出発の5時が少しずつ近づいていくる。少しずつ気持ちがざわついてくる。軽い高揚感だ。何かに似ていると思った。そうだ、マラソンのスタート前だ。スタート10分くらい前にコースに並ぶ。軽くストレッチをしたり、屈伸をしたり、呼吸を整えたりする。これからの42㎞のきつさとゴールの達成感を想像する。

出発を前に、みんなでコールを合わせる。うん、けっこう合っている。音楽が流れ出す。そしてデモが始まる。僕らのグループは先頭だった。音楽に合わせて公園を出る。スタートラインを跨いで走り出したような感じだ。自分の足を確認するためゆっくりと走り出すように、音楽に合わせて軽くコールをする。始まりだ。

青山公園から246までは住宅地と路面店の中を歩く。公園横のグランドでバスケットボールかサッカーをしている子どもが不思議そうにデモを眺める。デモの参加者が車道の一車線を歩き、歩道をスタッフがついていく。音楽と声に誘われるように、住民や店の人たちが道端に出てくる。スタッフがパンフレットを渡している。デモの趣旨を説明しているのだろう。快く受け取って好意的に手を振ってくれる人もいる。店から出てきて手を振ってくれる人もいる。

もちろん、中にはうるさいと思っている人もいるだろう。車の流れが滞って迷惑だと思っている人もいるだろう。あるいは反対の意見を持つ人が腹立たしく思っているかもしれない。でもそういう迷惑や反対意見を排除せず、許容することが社会の成熟につながる。武蔵美の女子がスピーチをし、高校生の男子がスピーチをする。プロの大人がテクニカルな突っ込みを入れればやり込めることができるかもしれない。でも、彼らの等身大の言葉は市井の人たちの胸に届く。

スピーチを聞きながら歩く。コールをしながら歩く。大きな声の人もいれば、小さな声の人もいる。メガホンを使う人もいれば、ただ歩いている人もいる。みんなが思い思いにしているのが良い。音楽のリズムがゆるやかにみんなをつなげる。それでも246に入ると、みんなの声が一段と大きくなる。

歩道を歩く人たちが多くなる。彼らの多くは、青山界隈に遊びに来た人や、外国からの観光客だ。彼らの耳にまず入るのは大きなラップ調の音楽だろう。何かのパレードのようだ。音楽にのって声が聞こえてくる。なんだか大掛かりなチンドン屋のようだ。やっと言葉が聞き取れる。「I say 憲法 You say 守れ」「憲法」「守れ」「憲法」「守れ」。「戦争したがる総理はいらない」「戦争したがる総理はいらない」「誰も殺すな」「誰も殺すな」。

何が起こっているのか困惑している人がいる。まったく耳に入らないかのように通り過ぎる人がいる。それでも趣旨をわかった人たちの多くが暖かい表情を見せてくれる。横の歩道だけでない。反対側の歩道の人たちも足を止めてこちらを見ている。信号待ちの車やバイクに乗った人たちもこちらを見ている。安保法案は歴史的な転換点になるものだ。法案が通ってもすぐには何も変わらないかもしれない。その意味が明らかになるのは時間が経ってからだ。その時になって気づいても遅い。なんとなくやり過ごしてはいけない。ひとりでも多くの人が、自分の頭で考えきちんと選択しなければならない。

福島で被災した少年がスピーチをする。道端の黒人集団が音楽のリズムに合わせながら笑顔で近づいてくる。そして陽気にハイタッチする。デモの道中、そうじて外国人たちの反応はよい。趣旨をどこまで理解しているのかわからない。いずれにせよ、こんな街中でデモを行っていること自体を好意的に捉えているようだ。そしてコールが続く。「集団的自衛権はいらない」「集団的自衛権はいらない」。「奴らを通すな」「奴らを通すな」。「ノー・パッサラン」「ノー・パッサラン」。「I say 国民」「You say なめんな」「国民」「なめんな」「国民」「なめんな」。

そして246を右折して表参道に入る。少し日が暮れはじめ、街の灯りが輝き始める。雨も降らず、あまり暑くもない。心地よい日曜日の夕方、休日を楽しむために多くの人たちが表参道に来ている。そんな街の中をラップに合わせてコールしながら歩く。人々が足を止めてデモを見つめる。ちょっと驚いたような表情だ。それはそうだ。デモを見るために表参道に来たわけではない。

手を振ってくれる人。ハイタッチをする人。列に加わる人。スマホをかざして写真や動画を撮る人。歩道を一緒に歩き始める人。歩道橋には鈴なりの人だ。そんな中、僕らはみんなでコールする。「言うこと聞かせる番だ、国民が」「言うこと聞かせる番だ、国民が」。「安倍は、やめろ」「安倍は、やめろ」。「安倍はやめろ」「安倍はやめろ」。「民主主義ってなんだ」「これだ」。「民主主義ってなんだ」「これだ」。「み・ん・しゅ・しゅぎ・って、な・ん・だ」「こ・れ・だ!!」。「み・ん・しゅ・しゅぎ・って、な・ん・だ」「こ・れ・だ!!」。

そう、民主主義とはこれだ。「これ」とはプラカードを掲げ、コールをしながら、歩いている私たちのことではない。心地よい夏の日曜日の夕暮れ、デモなど予想せず表参道にいるたくさんの人、好意的な人もいれば、迷惑な人もいる。そんな中、この社会がよくない方に行かぬよう願う人たちが声を上げている。そういう出来事が起こっていること自体が民主主義なのだ。

表参道を左に曲がり、宮下公園の方へ歩く。デモもそろそろ終わりだ。「戦争法案ぜったい廃案」「戦争法案ぜったい廃案」。「廃案」「廃案」。「廃案」「廃案」。「廃案」「廃案」‥‥。1時間半以上も歩いただろう。それでも疲れはない。それどころかある種の心地よさが残る。

私たちはいま、歴史的な転換点にいる。ひとりでも多くの人が自分のこと、そして次の世代の人たちのことを考えて、その出来事に関わらるべきなのだ。反対しても法案は通ってしまうかもしれない。「そんなこと知るか」、SEALDsの奥田君の言葉に僕も同感だ。でもまだ時間はある、「やれることはすべてやっておく」。それだけだ。

さあ、30日には国会前に行こう。


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安倍首相の談話、心静かに振り返るのは何?

2015年08月17日 | 雑文
安倍首相の談話、まだ読み込んでいないが、冒頭の部分からもその意図がうかがえそうな気がする。「戦後七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます」とある。

「戦後七十年を迎えるにあたり」の部分は、この談話のモチーフを述べている部分だ。すなわち戦争が終わり七十年がたったまさにこの時期だからこそ談話を出す意味があるよね、ということだ。

では、続きの部分をちっょと分解してみる。まずこの文の主述を抑えよう。主語は「私たちは」である。つまり、私たち日本人が主語である。述語は「学ばなければならない」である。「学ぶ」というのは他動詞なので目的語を取る。目的語は「未来への知恵」である。

私たちは未来への知恵を学ばなければならない、というのがこの文の骨格だ。(英語なら第3文型である)。では「未来への知恵」はどこから学ぶのかというと、「その歴史の教訓の中から」である。

「その歴史の教訓」はどのようにして手に入れるのか。それは「心静かに振り返る」ことによってだ。いったい何を「心静かに何を振り返る」のか。それは「先の大戦への道のり」「戦後の歩み」そして「二十世紀という時代」という三つだ。

戦後七十年を機に、私たちは歴史の教訓から未来への知恵を学ばなければならない。そのためには私たちは心静かに「先の大戦への道のり」「戦後の歩み」「二十世紀という時代」を振り返らねばならない。

なんか違和感。戦後七十年というからには、そのコアには「戦争」がある。戦争を時系列に振り返るのであれば、「戦前」「戦中」「戦後」となるはずだ。なのに「戦中」がない。なぜだろう。「戦中」には歴史の教訓も、学ぶべき未来への知恵もないというのか。あるいは「心静かに」振り返ることができないのか。

もちろん「二十世紀という時代」と書いてあるので、戦中を丸ごと無視したわけではない。しかし戦後七十年を機に歴史を振り返るのであれば、「先の大戦への道のり」「戦後の歩み」「二十世紀という時代」というよりも、「戦前」「戦中」「戦後」としたほうがすっきりしているし、わかりやすい。おそらく文章教室などであれば、添削されるだろう。

この原稿を書いたのは安倍首相本人ではなく、おそらく官僚であろう。官僚ともあろうものがそんな初歩的な技術を知らないわけはない。あえてこのように書いているのだ。そこには当然、意図があるはずだ。そのあたりに注意しながら談話全体を読み込んでみるのもよい。わかりにくさも含めて、けっこう作り込まれた文章になっている。

作り込まれた文章を読み込むのは、他者理解のための知的トレーニングにもなる。賛成するにしろ、反対するにしろ、まずは他者の理路を理解するように努めよう。もちろん、言葉は理路が通っていればよいというわけではない。行動や実態と整合性がなければ、言葉は信用されない。

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