とんびの視点

まとはづれなことばかり

そんなに急いでどこに行く

2014年08月27日 | 雑文
新しいジェイズ・バーの西側と南側には大きな窓があって、そこから山なみと、かつて海であった場所が見渡せた。海は何年か前にすっかり埋めたてられ、そのあとには墓石のような高層ビルがぎっしりと建ち並んでいた。僕はしばらく窓際に立って夜景を眺めてから、カウンターに戻った。
「昔なら海が見えたね」と僕は言った。
「そうだね」とジェイは言った。
「よくあそこで泳いだよ」
「うん」と言ってジェイはタバコをくわえ、重そうなライターで火をつけた。「気持ちはよくわかるよ。山を崩して家を建て、その土を海まで運んで埋めたて、そこにまた家を建てたんだ。そういうのを立派なことだと考えている連中がまだいるんだ」

村上春樹の『羊をめぐる冒険』の主人公とジェイのやり取りだ。今日の新聞の「品川~名古屋間認可申請 JR東海 リニア工事膨張 5兆5235億円に」という記事を見て思い出した。リニア新幹線。時速500キロで、東京・名古屋間を40分で結ぶ。名古屋が東京の通勤圏になるそうだ。「そういうのを立派なことだと考えている連中がまだいるんだ」。

もちろん価値観は人それぞれだ。そういうのを立派だと考える連中が間違っているとか、悪いとか言いたいわけではない。「そういうもの」が立派に見える文脈がどんなものかは想像つく。ただその文脈は僕の文脈とは違う。そんなに急いでどこに行こうとしているのだろう、そんな言葉が浮かんでくるのが僕の文脈だ。その意味では「好みの違い」があるだけかもしれない。

しかし、ビデオニュースドットコムで「リニア新幹線」の放送を見たら、単なる好みの問題とは言えない気がしてきた。鉄道という公共性の高い事業の進めかたとしてはかなり問題がありそうだ。いくつか問題点を書いておく。

1、走行区間の87%が地下トンネルを走り外はほとんど見えない。
短時間に移動することだけを考えれば、外が見えないことは問題ではないのかもしれない。しかしそれは食事とは必要な栄養を摂取することだと考えれば、味など問題ではないというのと同じだ。味を考えない食事を食事と言えるのだろうか。ほとんどの時間を高速でトンネルを走る鉄道を「夢のリニア」などと言えるのだろうか。

2、電磁波の影響を避けるために飛行機のタラップのようなものを渡って乗り込む。
電磁波が体にどんな影響を及ぼすのか知らないが、少なくとも「影響を避ける措置」が施されているのだから、電磁波が体に良いはずはない。とくに心配なのは、この国の「安全」に関する態度だ。「明白な影響があるとは言えない」という言葉をまた聞くことになるのだろうか。

3、昨年11月にはJR東海の当時の社長が「リニアは絶対にペイしない」と言っている。
東京~名古屋間が2027年、東京~大阪間が2045年の完成予定だ。現在、リニアの決定に関わっている人たちの多くは、その頃には現役を引退しているだろう。あるいは鬼籍に入っているかもしない。ペイしない事業を民間企業が行うというのはどういうことなのだろうか。結果が出るのは先のことなので関係ないということなのか。尻拭いは次の世代に押し付けるつもりなのか。原発と同じ構図だ。

4、周辺の水源地が涸れていく。
実際に実験線が走る笛吹市辺りでは、水が枯渇していく地域があるそうだ。トンネルを掘ることで、山中の水脈にぶつかるからだ。(今後、本格工事が進めば?)大井川の上流では1秒あたり2トンの水が外に出てしまうそうだ。

たしかにリニア新幹線はJR東海という民間企業が行う事業だ。しかし鉄道は公共性が高い。何か問題が起これば、国が関与せざるを得なくなる。つまり国民の税金が使われる可能性があるわけだ。その割には、このあたりの問題があまり国民に知らされることなく、また十分な議論をした気配もなく進み始めている。いずれ私たち自身の問題になるかもしれない、という観点から押さえておく必要がありそうだ。

僕はここ10年ほどフルマラソンを走っている。25回は走っただろうか。だいたい4時間を切るようなスピードで42.195キロを走る。移動という観点からすれば、自転車、バイク、車を使えばいくらでもタイムを縮めることができる。わざわざ4時間かけて42キロを移動する。それは自分の脚で移動するという行為そのものに手応えがあるからだ。

時速500キロで東京~名古屋間を40分で移動することを立派なことだと考える。それは移動時間そのものを無駄な時間だと思っているからだろう。だから短縮することに意味が見いだせるのだ。そんなに急いでどこに行くのだろう。

鉄道での移動は空間的なものだ。空間を急いで移動する。早く移動することを良いことだ。本当に早く移動することは良いことなのだろうか?移動に手間をかけることでそこに手応えが生まれることはないのだろうか。

私たちの人生もある種の移動である。それは生まれてから死ぬまでの時間的な移動だ。早く移動するのが良いことなら、私たちはなるべく急いで「死」へと到着したほうがよいことになる。外の見えない地下のトンネルを一直線に走って最短時間で目的地に着くように、無駄なことを一切せず、一直線に死に到着することが良いことになる。

空間的な移動の短縮が時間でしか図れないということは、時間と空間が一つであることを意味する。すなわち、空間の移動で「早いことが良いこと」という度量衡を採用すれば、時間的な移動にも「早いことが良いこと」という度量衡が入り込むことを意味する。つまり、私たちは無自覚なうちに、人生を急いでしまうかもしれないということだ。そういうのは立派なことなのだろうか。

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夏を乗り切った

2014年08月26日 | 雑文
なんとか夏を乗り切った。空気は湿っているが、今週に入り気温は下がっている。すこし安楽な心地である。先日などは、雨のぱらつく朝、雨の冷たさが心地よくて軽くジョギングをしてしまった。風は涼しく、雨は冷たい。ひんやりとした心地よさに体が喜んでいる。

今年の夏も何とか乗り切った。ここ数年、そんな風に実感するようになってきた。夏が嫌いなわけではない。太陽の強い日差しと木々が作る黒い日陰、そこに響く蝉の鳴き声、思い浮かべただけでも心が晴れる。毎年のように行く館山の空の青さと白い雲、空に負けない海の青さ。その水の冷たさ。波の音。そういったものがなければ、僕の人生は足りないものになるだろう。

それでも、ここ数年、お盆を過ぎたあたりから夏がきつくなってきた。もういいだろう。そろそろ終わってくれないか。そんな思いで週間天気予報の気温をチェックしたりする。目の前の夏を楽しめなくなっている。僕自身といまここにある目の前の世界に距離が生まれ始めているのかもしれない。

ちかごろ新聞を遠ざけながら読むことが増えてきた。遠視というか、老眼というか。たしか糸井重里が、新聞を遠ざけて読むようになったら人生の折り返し地点を迎えたことになる、とどこかで書いていた気がする。僕も人生を折り返したわけだ。

季節でいえば、春、夏と終わり、秋を迎えることになる。人生の秋か。収穫の時期だ。いったい何が手に入るのだろう。僕は、春にきちんと種を播き、夏にたっぷりと太陽を浴びただろうか。過去を振り返るとちょっと不安だ。雑草も抜かなかったし、水やりもいい加減だった。大した収穫は期待できないかもしれない。ささやかな収穫祭を夢見て秋を迎えよう。
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