とんびの視点

まとはづれなことばかり

2023年06月18日(日)

2023年06月18日 | 雑文
昨日、今日と朝の4時に目覚める。
梅雨に入ったのに晴れ。
きっと心地よい日の出が見れるのだろう、眠さ半分の頭にそんな言葉が浮かび、眠れなくなる。
そして、土手に向けてゆっくりと走り出す。
体が完全には目覚めていないようで、ぎくしゃくとした動きだ。
電車が動く前の時間、その上、日曜日。
街を歩く人もほとんどいない。
隅田川沿いに近づくにつれ、散歩やランニングの人たちがちらほら。
朝日が静かな川面に映る。鳥たちが鳴きながら空を横切る。
土手を走り、しばしベンチに座り、ぼーっとする。
わずかな風に不規則に揺れる一本一本の草が見えてくる。
鳥のさえずり、ウシガエルの鳴き声、遠くの首都高のアスファルトを走るタイヤの音、そういう音が聞こえてくる。
太陽の力が増し、熱が皮膚に入り込んでくるのを感じる。
草の匂いが鼻から体全体に広がっていく。
ぼーっと、自分を空っぽにすることで、いろんなもので自分が満たされていく。
満ちたところで、さて、と立ち上がり、家に向かって再び走り始める。






2023年03月07日(火)

2023年03月07日 | 15分の書く時間
今日は次男の高校の卒業式だ。
中学の卒業式と高校の入学式はコロナで中止だったので、なんというか、次男のああいう姿を見るのも久しぶりだ。
次男の高校は私服なので、卒業式は羽織袴だった。
部活のみんなと決めたようで、レンタルしたようだ。

入場行進を見ていると、本当にいろんな人間がいるのだと思った。
300人以上の一人一人がそれぞれの顔を持ち、それぞれ生きている。
とりあえず、子どもたちが高校卒業まで生きてきたことにちょっと感動した。
そしてこれからも良いことがありますようにと祈りたくなった。

高校は公立校なのだが、なんというのか、形式は私が子どものころの昭和のそれと変わらなかった。
一人一人は一生懸命やっているのだろうが、ちょっと時代錯誤で、能や歌舞伎といった伝統芸能を思わせた。
在校生は「卒業生の皆さんは、つねにあこがれであり、私たちを支えてくれた」とか、
卒業生は「問の横の池の氷もいつの間にかとけ、春の気配が‥‥、とか。
校長の挨拶も、来賓の祝辞も、誰もが先例の型に合わせているようで、自分の言葉を話しているようには感じられない。

誰か責めたいわけではない。
ただ、卒業式をもう少しクリエイティブな時空にしてもよいのではないかと思った。
言葉がその場をもっと豊かな場所に出来るのではないか。

(ここまで13分)

私がここに書いた言葉も、卒業式をぜんぜん豊かにしていない。
次男の卒業式に行き、次男や他の子どもたちが生きて卒業する姿を見て、うれしくて、ちょっと感動して、ちょっと涙が浮かんだ。
そんなことをがあったのだ。

2023年03月06日(月)

2023年03月06日 | 15分の書く時間
さてさて、今日も15分で書いてみる。
13分でアラームを鳴らし、ちょっと見直して終わり。
本当はじっくり考えて、自分の深いところにあるものを、丁寧に言葉にするような書き方がよいのかもしれない。
でもそれだと、手が止まって、きっと一言も書けないだろうという気がする。
自分の中ですでに言葉になっているものを、引っ張り出すような書き方をする。

週末、髪を切りに知り合いの店に行った。
髪を切ってピンパーマをかけた。
次男の高校の卒業式が火曜日なので、長くなった髪をきれいにしようと思ったのだが、
パーマをかけて短くしたら、毘沙門天?のような頭になってしまった。
小奇麗というよりも、ちょっと攻めた感じになっている。

お店の女性は、長男の保育園時代の同級生のお母さんで、わが家みんながお世話になっている。
当然のことだが、彼女はマスクをしている。
私には、マスクは外しても構わないから、と言ってくれた。

コロナで何が変わったか、という話をした。
おそらく、マスクを外して仕事をすることは2度とないだろ、と言っていた。
コロナが収束してももとには戻らないもの、コロナで変わってしまったことを考える。
マスクはその1つだろう。飲食店の店員、ヘアサロンの店員などは2度とマスクを外せないと思う。

私たちはマスクを外せない、メンタリティーになってしまったからなのか?
あるいは、メンタリティーは変わらず、コロナという状況に応じて、マスクが外せないという形が現れただけなのか?
潜在的なものが潜在しているだけと、潜在的なものが顕在化することには、違いがあるのだろうか?
顕在化することによって、そのようなメンタリティーが強化され、よりその方向性が強まることがあるのだろうか?

ここまで。



2023年03月05日(日)

2023年03月05日 | 15分の書く時間
2月末で、近所の八百屋さんが店を閉じた。
いまの店主で4代目、あと1年で創業百年だったそうだ。
「コロナの影響が大きくてね。最初は巣ごもり需要とかで良かったんだけど。
うちはお店のお客さんも多くて、そっちがダメになっちゃって」と少し寂しげだ。

この八百屋さん。古くからある商店街のちょうど真ん中くらいにある。
が、もう商店街にはほとんど店はない。唯一、といえるお店がこの八百屋さんだった。
(数年前、近くの和菓子屋さんも店を閉じた)
近所の人たちが買い物に来て、ちょっとした話をしたり、人間的なやり取りがある昭和のころのお店だ。

いまの家に引っ越してきた12年くらい前から、毎週土曜日にお店に行き、野菜とか、果物とかを買っていた。
最初はほしいものを買っていたが、そのうち店主が勧めるものを買うようになった。
わが家の柑橘類好きを熟知し、買い物に行くと「この八朔、2ネットで五百円でいいよ」と手渡してくれる。
店先のカゴのトマトを手に取ると、今朝市場から入ったのがあるからそっちにしなよ、と裏から持ってきてくれる。
毎年冬には、ミカンを箱で何度も買う。最後には携帯の番号まで教えてくれて、ミカンがほしければいつでも連絡して、と言われた。

いつのまにか、八百屋さんに買い物に行くことが、自分の日常になっていた。
自分の日常、自分の一部分。

卒業式とか、引っ越しとか、何かが終わり、自分がもうその世界には戻れないと感じることが、人生にはときどきある。
でもそれは、自分が卒業するとか、自分が引っ越しするとか、あくまで自分のことだった。
今回は、八百屋さんが店を閉めるという自分のことでもないのに、何かが終わり、もうその会には戻れないと感じたのだ。

自分の境界が少し広くなったのだろうか。

父のこと(1)

2022年08月14日 | 雑文
父のことを書こうと思い、1時間ばかりいろいろやったのだが、うまく書けなかった。
今日は、最低限のことだけ書いておく。
父は28年前に亡くなった。54歳で。2年間ほど中皮腫を患った末に。
そして、私も父と同じ年になった。とりあえず健康だが先のことはわからない。(父も病気が見つかったときには、治らないことははっきりしていた。)
亡くなったときに、父のことをあまり見ていなかったことに気付いた。いつも目の前にいたのに。
それから、時々、父のことを考えるようになった。自分が子どもをもってからはとくに。ああ、父はこんな風に自分を見ていたのかもしれない、と。
父は8歳の時に両親を亡くしている。5歳で父、8歳で母を。その後、埼玉の奥の方で親戚中をたらい回しにされ、中学卒業とともに東京の下町に出てくる。自分の意思ではない。遠い親戚の椅子職人に預けられるようにして。帰る場所もなく、鞄1つで。どんな気持ちだったのだろう。
その後、母と出会い、結婚。職人として独立し、何とか生活を確立する。自宅を借金で建て、子どもを2人育て、借金を返済し終わり、やっと一段落、というところで病気になり2年後に亡くなる。
どんな人生だったのだろう。父の両親は学校の教師だったと聞く。結核で亡くなっていなければ、父が椅子職人になることはなかっただろう。もちろん、私もこの世界には存在していない。
両親が結核で亡くなったことが、父が椅子職人になったこと、そして私が存在していることに、つながっている。不思議で、暴力的なものだ世界とは。(でも、父は優しい人だった)
父からは過去の話をあまり聞いていない。記憶も断片的になっている。書くことで、少しずつ思い出してくることがあるかもしれない。あるいは、父の過去を勝手に作ってしまうことになるかもしれない。
たぶん、私は父と話をしたいのだと思う。話を聞きたいのだと思う。聞けないから、父のことを書いてみようと思っている。この瞬間にも、父の笑顔が私の中にはある。