とんびの視点

まとはづれなことばかり

10月29日(月)のつぶやき

2012年10月30日 | 雑文

【10月29日東京新聞】震災復興予算のうち五億円を、経産省がベトナムへの原発輸出に関する調査事業費として支出していた。インフラの海外輸出を進めることが、被災地の関係企業に経済効果をもたらすそうだ。風が吹けば桶屋が儲かる。


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10月26日(金)のつぶやき

2012年10月27日 | 雑文

今日は朝から、箒と雑巾でかるく掃除。そして6kmほどランニング。良い感じで体が動いている。次は頭の番だ。


iPadを持って、土手のベンチで仕事。のんき、かつ、しあわせである。


『もうダマされないための経済学講義』(若田部昌澄、光文社新書)を読む。やはり僕と経済は遠い。端的に言って本書は「経済学的な考え方が大事だ。それをインセンティブ、トレード・オフ、トレード、マネー」という4つのキーワードから解説しようというものである。


経済については門外漢だから、内容の是非については何も言えない。話しの筋は通っているし、わかりやすくもある。でもピンと来なかった。それを言葉にすると「経済学的な考え方が出来るようになると、何にダマされなくなるのか」が分からないということだ。


「ダマされない」というのは正しい見方や意見を持っているということだ。しかし、正しい経済学的な考え方で何を分かろうとしているのだろう。「経済」なのか「この世界」なのか。世界を経済的な考え方で説明しようというのなら、その試みは悪くはないが、それは1つの見方に過ぎない。


経済的な考え方で何が説明できるかではなく、経済的な考え方だと「何を説明できなくなるのか」を示すことが大事なのだろう。僕の理解力の無さが最大の原因だが、そのあたりがあまりよく分からなかった。


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10月24日(水)のつぶやき

2012年10月25日 | 雑文

今朝も子どもたちを学校に送り出すと同時にランニングに行く。8kmほど走る。家から荒川の土手まで片道2km以上あるので、実際に土手を走るのは3kmちょっとだ。これで今月は184km。目標の200kmに目処がつく。週末は走らずに、土手でお弁当でも食べよう。安上がりなご褒美だ。


今日の土手は10メートル以上の北風。この先の冬のランニングを思う。自転車の高校生たちと風に向かって走る。少し枯れた葉の柳の枝が風で乱舞する。走っているうちに段々と風と身体が馴染んでくる。折り返して南を向くと風がとまり、太陽が正面に来る。まぶしいく暑い。汗が噴き出す。


すっかりご無沙汰だが、昨日から二十四節気の『霜降』。朝夕にぐっと冷え込み霜がおりるころで、秋の最後の節気だ。(次は『立冬』)そして七十二候では『霜始めて振る』にあたる。(10月23日~27日ころ)。東京では霜はまだだ。今ごろ霜が始めて降りるのは日本だとどのあたりなのだろう。


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10月22日(月)のつぶやき

2012年10月23日 | 雑文

今日も昼休みにランニング。空腹のまま走る。体重を落せるんじゃないかと思って。ところが脂肪燃焼スイッチが入らない。ガス欠になる。力が入らない。あと5km、あと3km、ああお腹が空いた、そう思いながら走る。土手でオニギリを食べている人から奪いたくなる。家に帰り、大食いをして体重増。


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秋の金曜日の夜には

2012年10月22日 | 雑文
書きたいと思うことはうまく言葉にならず、簡単に言葉になるのはどうでもよい事ばかり。何とか書けそうなことを書く。時系列的には『グローバル化の遠近法』を読んだこと、久しぶりに首相官邸前の抗議行動に行ったこと、野田秀樹の『エッグ』を見たこと。そのくらいになるだろうか。『グローバル化の遠近法』はまだ言葉になっていないので、とりあえず置く。まずは抗議行動から。

この間の金曜日、久しぶりに首相官邸前抗議行動に行った。いつものように永田町駅で降りる。自民党本部の前を通り、国会図書館を横切り、国会議事堂前まで行く。自民党本部前では警察官がジロリと僕と相方を見る。いつものことだ。それでも全体的には警備の警察官の数は少なくなっている。

国会図書館からは人々がたくさん出てくる。ちょうど閉館時間なのだろうか。あたりはすでに暗くなっている。空は澄んだ星空で、虫の鳴き声がする。秋が深まり、風が吹くと肌寒いくらいだ。その風に乗って遠くからシュプレヒコールの声が聞こえる。シュプレヒコールとは言っても人々の声ではない、大音量のスピーカーから流れる声だ。

憲政記念館の前を右に曲がり、国会正面に向かう。信号には警察官が数名立っているが、ピリピリした雰囲気はもうない。以前のように「抗議行動参加者の方はこちらです」とわざとらしく声をかけることもしない。若い警察官同士が和んだ顔で話しをしている。彼らにとっても日常的な出来事になってしまったのだろう。

国会正面にはいつにも増して人がいない。正面向かって左側のスピーチエリアを中心に人が集まっているが、横断歩道を挟んだ右側にはそれほど人はいない。プラカードを持って立っている人がわずか、多くの人たちは石段に腰を降ろしている。僕と相方はしばらく右側のエリアに立ち、声を出すこともなく状況を見ている。

国会議事堂の左上には月が浮かんでいる。4日目くらいの弓なりの月だ。空には報道ヘリが2機ほど飛んでいる。議事堂正面の道路を歩き、国交省、財務省の前を通って首相官邸前に向かう。デモがなければ静かに秋の夜を感じられる散歩ができそうな道だ。

議事堂前とは違って、首相官邸前に続く道には多くの人がいた。霞が関の交差点辺りでもグループ単位で抗議活動をしている。このあたりなら車に乗った一般の人たちの目にもつく。(首相官邸前や議事堂前には案外、一般の人たちがいない。抗議行動を一般市民にアピールするには向いていない場所だ)。官邸前から続く列に並び、しばらく様子を見ている。

夏前に比べて人数は減ったが、それなりに活気はある。(活気という意味では僕がいちばん無いように見えるかもしれない)。凄い人数が集まったときもあったが、その時には不平不満をぶつけるために来ていたような人も多かった。警察官に絡んだり、発する声にいやな響きがあったりした。これらの人をひと括りの集団として考えるのは難しいし、そういう必要もないのだろうと思ったりした。

その意味では、このくらいの人数が集まりつづけているくらいでいいのだろうという気がする。正義を振りかざすのでもなく、怒りをぶつけるのでもなく、粛々と現状に対する違和を表明しつづける。でもそんな生易しいことで何が変わるのか、という人もいるかもしれない。

「デモで何が変わるのか」。これはデモを行なう人間によく向けられる問いである。(僕自身はあまりデモのことを口にしないので、訊かれることはほとんどない)。小熊英二の『社会を変えるには』の前書きにも書いてあった。確かに原発に関しては、デモをする人たちが口にするようにはなっていない。(沖縄の基地問題も同じだろう)。しかしそれはデモをしても何も変わらないということではない。

少なくとも、毎週金曜日の夜には官邸前と議事堂前で抗議行動が行なわれている。警備の警察官が和んだ表情で日常的に出来事として受けとめている。そんな社会を2年前に誰が想像できただろう。それは大きな変化である。さらに個人的には、抗議行動に参加することで毎回、自分が何を考えねばならないのか考えさせられる。これも僕にとっては大きな変化だ。(世の中の多くの出来事にたいして、現場に行かなくても、僕たちはわかったような評価が出来る)。

「デモに行って何が変わるのか」という問いは確かに成り立つし、そこから見ないと自己満足に陥ることもある。しかしこの問いの仕方こそ、客観主義を装った時代遅れのものとなるだろう。政治家のポスターなどに「日本を変えます」とあるのと同じだ。変わるのはいつも自分以外なのだ。

この社会には問題がある。その問題の原因は自分以外のどこかにある。だから自分以外を変えることで問題を解決しようとする。「日本を変えます」「デモで何が変わるのか」という言葉を支えているのはこういう考え方である。(もちろん多くの場合、このような思考法を気づかないうちに習得している)。

このような思考法と、それにより具現化された社会への違和感が湧出してきたのだと思う。そして多くの人たちが政治家などには任せておけないと思いはじめている。(べつにデモに参加している人たちだけではない)。しかし、政治家に変わって「自分たちが日本を変えようとする」というのとは、別のやり方をしていなければならない。なぜなら「問題は自分以外にある」という考え方こそ、自らの影に目を背けるもっともらしい理屈を生み出すからだ。

自分以外に問題があると思うなら、口を出すことなく黙っていればよい。問題はつねに自分の問題なのだ。だから自分が変わることで、問題を作り出す状況が少しだけ変わることになる。そこからしか始まらない。そんな時代になってきたのである。

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10月21日(日)のつぶやき

2012年10月22日 | 雑文

今日はランニングをさぼるつもりだった。夕方、ロフトの窓から西の空がオレンジになったら、突然、秋の土手の夕方が恋しくなりランニングに行った。日曜日の夕方独特のゆるい空気。家族連れ、犬を散歩する人、自転車で二人乗りのカップル。そんなすべてが夕暮色に染まる。


西の空はすこし霞んでいるが、富士山のシルエットがオレンジ色の背景に黒灰色に浮かぶ。隅田川の川面はキラキラとオレンジ色に反射している。毎年のように同じ秋の中を走る。そして毎年、同じ秋の日曜日の夕暮に心がちょっとだけ持っていかれる。そしていつの間にか、夕暮は夕闇になっている。


やっとヒザの調子が戻ってきた。まだ違和感はあるが、痛みというほどではない。今月末にはハーフを試してみよう。ランニングを中心にして、しばらく続いていた受け身に回りがちなスタイルを立て直そう。走っていると身体がポジティブになってくる。


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10月20日(土)のつぶやき

2012年10月21日 | 雑文

岩淵水門までランニング。やっと走れるようになってきた。うまく走れているときは、自分が走っていることを忘れている。ふと気づくと、橋1つ過ぎていたりする。今日の岩淵水門は花火大会の準備で人がたくさん。


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10月19日(金)のつぶやき

2012年10月20日 | 雑文

PC遠隔操作、警察庁長官が「真犯人でない方を逮捕した可能性は高い」と誤認逮捕を認めたらしい。「真犯人ではない方」という言い方が何とも言えない。


『原発と祈り』という本を読む。内田樹、名越康文、橋口いくよ、三氏の対談本だ。弔いや鎮魂、原発事故後を生きること、などについて思いのままに話をしている。ウルトラマンに出てくる怪獣は訳もなく街を破壊する。それは解離状態で、荒ぶる魂であり、鎮魂が必要だ、というのが面白かった。


久しぶりの抗議行動。国会議事堂前。心地よい秋の夜。澄んだ夜空に細い月がくっきり浮かぶ。シュプレヒコールがとぎれ、虫の鳴き声。


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10月17日(水)のつぶやき

2012年10月18日 | 雑文

今朝は8kmほど荒川土手をランニング。1km5分を切るくらいのスピード。このスピードにもヒザが少し耐えられるようになった。とはいえ息は上がったし、長い距離は無理だ。レースまであと100日程度。このままうまく走れ込めればよいのだが。


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10月15日(月)のつぶやき

2012年10月16日 | 雑文

転んですりむいた左肘が痛い。土曜日、子どもの小学校が学校公開。体躯の授業に保護者も参加。追いかけっこのようなものをやったときに滑って転んだ。人工芝に砂がまかれているような感じ。すごく滑る。子どもがよくヒザをすりむいて帰ってくる訳が分かった。


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